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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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お前は何もできない

 第2話「お前は何もできない」


 朝六時。


 滋賀県大津市。


 まだ薄暗いアパートのキッチンで、葛城梨花は朝食の準備をしていた。


 味噌汁を温める。


 卵焼きを焼く。


 夫の弁当を詰める。


 看護師として働く日は早い。


 京都市内の内科中心の個人病院。


 高齢の患者が多く、診察開始前から待合室はいっぱいになる。


 だからこそ朝は慌ただしい。


 それでも梨花は、結婚してから毎朝欠かさず弁当を作っていた。


 *


 寝室から大輝が出てくる。


 大手精密機械メーカー総務部勤務。


 給与計算や勤怠管理を担当している。


 真面目。


 几帳面。


 数字に強い。


 会社ではそう評価されていた。


「おはよう」


 梨花が言う。


「ん」


 大輝は椅子に座る。


 味噌汁を飲み、卵焼きを口に運ぶ。


 そして。


「形崩れてるな」


 梨花の手が止まる。


「え?」


「卵焼き」


「ごめん、ちょっと急いでて」


「毎朝作ってるんやろ?」


 大輝はため息をつく。


「ほんま段取り悪いな」


 梨花は黙る。


「仕事でもそんな感じなん?」


「仕事はちゃんとしてるよ」


「ほんまに?」


 大輝は笑った。


 冗談のような笑い方だった。


「看護師って命預かる仕事やろ。梨花みたいなんがミスしたら怖いな」


 梨花の胸が痛む。


「そういう言い方やめて」


「冗談やん」


「でも……」


「ほんま空気読めへんな」


 大輝は呆れたように言った。


「だから会話続かんねん」


 *


 梨花は何も言えなくなった。


 怒鳴られたわけではない。


 けれど傷つく。


 しかも後から、


『冗談やん』


 と言われる。


 だから自分が悪い気がしてくる。


 *


 病院へ向かう電車の中。


 梨花は窓の外を見ていた。


 本当に自分が悪いのだろうか。


 そんな考えが頭を離れない。


 *


 しかし病院に着くと違った。


「葛城さん、おはよう」


「おはようございます」


「昨日の患者さん喜んでたで」


「本当ですか?」


「説明が丁寧やったって」


 院長が笑う。


 看護師長も言う。


「葛城さんは気配り上手やからな」


 患者たちも梨花を頼りにしていた。


「梨花さんいてくれると安心や」


 そう言われるたびに嬉しい。


 だが最近は素直に喜べなくなっていた。


 家に帰れば、


『段取りが悪い』


『空気が読めない』


『抜けている』


 と言われるからだった。


 *


 昼休み。


 スマホが震える。


 大輝からだった。


 《箸入ってへん》


 梨花は青ざめる。


 《ごめん!本当にごめん》


 すぐ送る。


 返信。


 《普通入れるやろ》


 さらに。


 《こういうとこやねん》


 梨花は何度も謝る。


 たかが箸。


 でも大輝にとっては違った。


 それは梨花の失敗を証明する材料になる。


 *


 夕方。


 仕事を終えた梨花に電話が入る。


 妹の麻里子だった。


 長岡京市の観光案内所勤務。


 外国人観光客にも人気の案内所で、いつも明るく働いている。


「お姉ちゃん、お疲れ」


「うん」


「元気ないな」


「そんなことない」


「大輝さん?」


 梨花は黙る。


「また何か言われた?」


「箸忘れた」


「それだけ?」


「それだけやけど……」


「それだけちゃうやろ」


 麻里子はため息をついた。


「お姉ちゃん最近ずっと謝ってるやん」


 梨花は返せない。


「箸なんかコンビニで買ったら終わりやろ」


「でも私が悪いし」


「またそれや」


 麻里子の声が低くなる。


「お姉ちゃん、それ危ないで」


 *


 週末。


 二人は大輝の実家を訪れる。


 滋賀県内の住宅街。


 父・葛城俊也。


 自動車製造工場管理部の部長。


 生産ラインを支える部品管理責任者。


 母・葛城祥子。


 同じ工場の塗装課課長。


 現場を束ねるベテラン。


 そして高校二年生の妹・正恵。


 しっかりした家庭だった。


 *


「梨花さん、いらっしゃい」


 祥子が笑顔で迎える。


「お邪魔します」


 俊也も穏やかにうなずいた。


「仕事慣れたか?」


「はい」


「看護師さんは大変やな」


「ありがとうございます」


 梨花は少し安心する。


 義父母は悪い人ではない。


 正恵も明るい。


「お兄ちゃん、ちゃんと家事してる?」


 正恵が笑う。


 すると大輝が言う。


「いやいや、俺が見とかんと危ないんやって」


「またまた」


 祥子が笑う。


「梨花さん、しっかりしてそうやん」


「いや、抜けてるんやって」


 大輝も笑う。


 周囲も笑う。


 だが梨花だけは笑えなかった。


 家でも何度も言われる言葉だったから。


 *


 一方その頃。


 京都。


 老舗旅館。


 梨花の実家。


 父・篠田光博は料理長。


 季節の京料理を作り続ける職人だった。


 母・篠田七海は女将。


 旅館を切り盛りし、多くの宿泊客に慕われている。


 麻里子も時々手伝いに来る。


「お姉ちゃん最近どうなんやろ」


 麻里子が言う。


 七海は少し考える。


「なんか無理してる顔してるな」


 光博も包丁を止めた。


「今度ゆっくり話聞かなあかんな」


 *


 その夜。


 大津へ戻る。


 夕食後。


 大輝が聞く。


「実家には何話したん?」


「普通の話」


「俺のこと言うてへんやろな」


 梨花は固まる。


「言ってないよ」


「ほんまに?」


「うん」


 大輝はじっと見た。


「梨花ってすぐ親とか妹に頼るやん」


「そんなことない」


「あるやろ」


 低い声だった。


「自分で考えられへんから」


 梨花は息を呑む。


「私は……」


「何?」


「ちゃんと考えてる」


 大輝は鼻で笑った。


「どこが?」


 沈黙。


 そして。


 決定的な言葉が落ちる。


「お前は何もできない」


 *


 梨花は立ち尽くした。


 何もできない。


 病院で感謝されることも。


 患者の支えになることも。


 両親が誇りに思ってくれることも。


 全部否定された気がした。


 *


 深夜。


 梨花は一人リビングにいた。


 スマホが震える。


 麻里子だった。


 《お姉ちゃん大丈夫?》


 梨花は長い時間画面を見つめる。


 そして初めて送った。


 《大輝に、お前は何もできないって言われた》


 数秒後。


 電話が鳴った。


「お姉ちゃん」


 麻里子の声だった。


「お姉ちゃんは何もできない人ちゃう」


 梨花の涙があふれる。


「病院で頑張ってるやん」


「……」


「お父さんとお母さんがどれだけ誇りに思ってると思う?」


 梨花は泣いた。


「でもな」


 麻里子は続けた。


「今日からメモして」


「え?」


「言われたこと全部」


「そんな大げさな……」


「大げさちゃう」


 麻里子の声は真剣だった。


「人の心を壊す言葉は暴力や」


 *


 梨花はノートを開く。


 日付。


 時間。


 そして書く。


 ――お前は何もできない。


 その文字を見ながら、梨花は初めて思った。


 これは本当に普通の夫婦喧嘩なのだろうか、と。


 *


 次回予告


 第3話「遅すぎる帰宅」


 給与締め前で忙しい。


 そう言って帰宅時間が遅くなる大輝。


 だが、梨花は違和感を覚え始める。


 スマホを見て笑う顔。


 風呂場まで持ち込むスマホ。


 増えていく残業。


 一方、麻里子は姉のノートを見て決意する。


「これは記録して終わりやない」


 次回、


 第3話「遅すぎる帰宅」


 疑いはまだ小さい。


 だが嘘は、すでに始まっている。

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