冷えた食卓
第1話「冷えた食卓」
滋賀県大津市。
琵琶湖から吹く風が、少しだけ春の匂いを含み始めていた。
葛城梨花は、二十三歳。
結婚して、ちょうど一年になる。
*
夫の大輝と出会ったのは、マッチングアプリだった。
最初のメッセージは、なんてことのないものだった。
《はじめまして。写真の雰囲気、優しそうですね》
梨花は、その一文を見て少し笑った。
当時の梨花は、職場と家の往復ばかりの日々に少し疲れていた。
友達は少しずつ結婚し始めていて、休日に一人で過ごす時間も増えていた。
焦っていたわけではない。
けれど、誰かと話したかった。
誰かに「今日どうだった?」と聞いてほしかった。
そんな時に出会ったのが、大輝だった。
*
初めて会ったのは、大津駅近くのカフェだった。
大輝は、写真より少し背が高く見えた。
黒いジャケットに白いシャツ。
緊張している梨花に、彼は笑って言った。
「よかった。ちゃんと来てくれて」
「それ、こっちのセリフです」
「いや、俺、ドタキャンされるんちゃうかと思って」
「そんなことしませんよ」
その時の大輝は、穏やかだった。
よく笑い、よく相づちを打ち、梨花の話を遮らなかった。
仕事の話。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
大津の街のこと。
琵琶湖の夕焼けが好きだという梨花に、大輝は言った。
「ええな。今度、一緒に見に行こ」
梨花は、その言葉が嬉しかった。
*
交際期間は一年。
最初の半年は、梨花にとって本当に幸せだった。
大輝はこまめに連絡をくれた。
《仕事終わった?》
《寒いし、気をつけて帰りや》
《今度の休み、どっか行こか》
梨花は、スマホに通知が来るたびに胸が温かくなった。
休日には、二人で琵琶湖沿いを歩いた。
膳所のカフェにも行った。
石山寺にも行った。
京都まで電車で出かけた日もあった。
大輝は、梨花の歩幅に合わせてくれた。
梨花が少し疲れた顔をすると、すぐに言った。
「休もか」
そんな優しさを、梨花は信じた。
この人なら大丈夫。
この人となら、穏やかな家庭を作れる。
そう思った。
*
結婚の話が出たのは、交際から十か月ほど経った頃だった。
琵琶湖の見える公園のベンチ。
夕方の水面が、金色に揺れていた。
大輝は少し照れたように言った。
「梨花とおったら、落ち着くねん」
「私も」
「ずっと一緒におりたい」
その言葉に、梨花は胸がいっぱいになった。
大輝は指輪を出したわけではなかった。
派手な演出もなかった。
けれど、梨花にはそれで十分だった。
大げさじゃない。
でも、温かい。
そんな結婚が自分たちらしいと思った。
*
両親は、最初少し驚いた。
「まだ若いんちゃうか」
父はそう言った。
母も心配そうだった。
「梨花、本当に大丈夫?」
「うん。大輝は優しい人やし」
その時、妹の麻里子だけは、じっと梨花を見ていた。
「お姉ちゃんが幸せなら、ええけど」
「なにその言い方」
「いや、別に。ただ、ちゃんと自分の気持ちは大事にしぃや」
梨花は笑った。
「大丈夫やって」
その言葉を、梨花自身も信じていた。
*
結婚して、最初の数か月は穏やかだった。
二人で借りた大津市内の小さなアパート。
駅から少し歩くが、窓から空がよく見えた。
梨花は、キッチンに立つ時間が好きだった。
大輝の帰りを待ちながら、味噌汁を作る。
冷蔵庫の中身を見て、献立を考える。
たまに失敗して、二人で笑う。
「ちょっと味濃かったかな」
「いや、これはこれでご飯進むやつや」
「それフォローになってる?」
「なってるなってる」
その頃の食卓には、まだ笑い声があった。
*
けれど、少しずつ変わっていった。
最初は、本当に小さなことだった。
「梨花って、要領悪いよな」
大輝が笑いながら言った。
梨花も、最初は笑った。
「そうかな」
「そうやろ。見てたら分かるわ」
冗談だと思った。
夫婦の軽口だと思った。
けれど、その言葉は少しずつ鋭くなっていった。
「なんでこんなこともできへんの」
「普通に考えたら分かるやろ」
「ほんま、仕事でもそんなんなん?」
梨花は、言い返せなかった。
言い返すと、大輝の機嫌が悪くなる。
黙ると、その場は収まる。
だから梨花は、黙ることを覚えた。
*
結婚一年目の夜。
梨花は夕食を並べていた。
焼き魚。
味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
冷蔵庫に残っていた豆腐。
大輝はスマホを見ながら食卓についた。
「ご飯、できたよ」
「ん」
返事は短かった。
梨花は向かいに座った。
「今日、仕事どうやった?」
「普通」
「そっか」
会話はそこで止まった。
箸の音だけが、部屋に響く。
梨花は味噌汁を一口飲んだ。
少し薄かったかもしれない。
そう思った瞬間、大輝が言った。
「味、薄ない?」
「あ、ごめん。足す?」
「いや、もうええけど」
大輝はため息をついた。
「ほんま、こういうとこやで」
梨花の手が止まった。
「こういうとこって?」
「いや、別に」
「言ってくれたら直すし」
大輝はスマホを置き、梨花を見た。
「言わな分からんの?」
その目に、梨花は息をのんだ。
怒鳴られたわけではない。
けれど、胸が縮むような冷たさがあった。
「ごめん」
梨花は小さく言った。
大輝は鼻で笑った。
「すぐ謝るよな。中身ないのに」
梨花は、それ以上何も言えなかった。
*
食事が終わると、大輝は皿をそのままにしてソファへ移った。
スマホを触りながら、誰かとメッセージをしている。
梨花は食器を洗った。
水の音が、やけに大きく聞こえた。
リビングから、大輝の笑い声が聞こえた。
家では、ほとんど笑わなくなったのに。
スマホの向こうには、笑える相手がいる。
梨花は、そんなことを考えてしまい、慌てて首を振った。
まだ、何も分からない。
疑うなんてよくない。
夫婦なんだから。
信じなきゃ。
そう自分に言い聞かせた。
*
夜。
梨花は布団に入った。
隣には大輝がいる。
でも、遠かった。
同じ部屋にいるのに、手を伸ばしても届かないような距離があった。
スマホの明かりが、大輝の顔を青白く照らしている。
梨花はそっと言った。
「大輝」
「何」
「最近、疲れてる?」
「別に」
「なんか、前より話さんくなったなって」
大輝は画面から目を離さずに言った。
「そういう面倒くさいこと言うから、話す気なくなるねん」
梨花の胸に、冷たいものが落ちた。
「ごめん」
「またそれ」
大輝は小さく舌打ちした。
「ほんま、しんどいわ」
その言葉で、梨花は黙った。
*
翌朝。
大輝が出勤した後、梨花はテーブルの前に座っていた。
昨日の言葉が、頭から離れない。
しんどい。
そう言われた。
自分が悪いのだろうか。
自分が面倒くさいのだろうか。
もっと上手に話せばよかったのだろうか。
もっと明るくしていればよかったのだろうか。
梨花は、スマホを手に取った。
妹の麻里子に連絡しようとして、やめた。
心配させたくなかった。
結婚して一年で、もう弱音を吐くなんて。
両親に「やっぱり早かった」と思われたくなかった。
梨花はスマホを伏せた。
*
その時、画面が震えた。
麻里子からだった。
《お姉ちゃん、今日ひま?》
梨花は少し驚いた。
《どうしたん?》
すぐに返信が来た。
《なんとなく。声聞きたくなった》
梨花は、文字を見つめた。
たったそれだけなのに、涙がにじんだ。
妹は、昔からそうだった。
梨花が無理をしている時ほど、何でもない顔で近づいてくる。
梨花は少し迷ってから、電話をかけた。
*
「もしもし」
麻里子の声は明るかった。
「お姉ちゃん、元気?」
「うん。元気やで」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「声、元気ちゃうけど」
梨花は言葉に詰まった。
「……ちょっと寝不足なだけ」
「大輝さんと何かあった?」
「何もないよ」
「お姉ちゃん」
麻里子の声が、少しだけ低くなった。
「何もない人の声ちゃう」
梨花は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「ほんまに大丈夫やから」
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫ちゃうねん」
その言葉に、梨花は黙った。
麻里子は少し間を置いて言った。
「今日、仕事終わったら会いに行く」
「え、いいよ。遠いし」
「行く」
「麻里子」
「お姉ちゃん、嫌なら嫌って言って。でも、私は行く」
強引な言い方なのに、梨花はなぜか安心した。
「……分かった」
*
電話を切ったあと、梨花は窓の外を見た。
大津の空は、少し曇っていた。
遠くに琵琶湖の気配がある。
水面は見えない。
けれど、そこにあることだけは分かる。
梨花は思った。
自分の心も、今はそんな感じだ。
何が起きているのか、はっきりとは見えない。
でも、何かが沈んでいる。
静かに。
深く。
音も立てずに。
*
夜。
麻里子がやって来た。
玄関を開けた瞬間、梨花の顔を見て、麻里子は眉を寄せた。
「お姉ちゃん、痩せた?」
「そんなことないよ」
「ある」
麻里子は靴を脱ぎ、部屋に入った。
テーブルの上には、梨花が用意したお茶があった。
麻里子は座るなり、まっすぐ聞いた。
「大輝さん、何か言うてる?」
梨花は視線をそらした。
「別に、普通やで」
「普通って何?」
「夫婦やし、ちょっとした言い合いくらいあるやん」
「怒鳴られてる?」
「怒鳴るってほどじゃ……」
「人格否定されてる?」
梨花の肩が小さく揺れた。
麻里子はそれを見逃さなかった。
「言われてるんやな」
「……私が悪いところもあるし」
「出た」
麻里子は低く言った。
「お姉ちゃんの悪い癖」
「え?」
「相手に傷つけられてるのに、まず自分が悪いって思うところ」
梨花は何も言えなかった。
麻里子は続けた。
「夫婦喧嘩と、相手を見下すことは違うで」
その言葉が、梨花の胸に刺さった。
*
その時、玄関の鍵が開く音がした。
大輝が帰ってきた。
麻里子は表情を整えた。
梨花は反射的に立ち上がる。
「おかえり」
大輝は靴を脱ぎながら、リビングを見た。
「あれ、麻里子ちゃん来てたん」
「こんばんは」
麻里子は笑顔を作った。
大輝も外向きの笑顔を浮かべた。
「久しぶりやな。ゆっくりしていき」
「ありがとうございます」
その声は優しかった。
梨花に向けるものとは違う声だった。
麻里子は、その差に気づいた。
*
大輝は洗面所へ向かった。
その背中を見送りながら、麻里子は小声で言った。
「お姉ちゃん」
「何?」
「今の笑い方、外用やな」
梨花は答えられなかった。
麻里子は、もう一度だけ静かに言った。
「ちゃんと見とくから」
*
その夜の食卓は、三人だった。
大輝は麻里子の前ではよく話した。
仕事のこと。
最近行った店のこと。
梨花の料理を褒める言葉まで口にした。
「梨花、料理うまなったやろ」
梨花は一瞬、固まった。
「……そうかな」
「そうそう。最初はほんま危なっかしかったけどな」
大輝は笑った。
麻里子も笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「危なっかしいって、どんな感じですか?」
「いや、ほんま抜けてるねん。梨花って」
大輝は軽い調子で続ける。
「俺がおらんかったら、生活回らへんのちゃうかって時あるわ」
梨花は箸を止めた。
麻里子の表情が、ほんの少し変わった。
けれど、怒らなかった。
今はまだ。
見極める時だと分かっていた。
*
食事が終わった後、麻里子は帰る準備をした。
玄関先で、大輝はにこやかに言った。
「また来てな」
「はい」
麻里子は頭を下げた。
梨花も外まで見送る。
アパートの階段下。
夜風が冷たかった。
麻里子は、梨花を見た。
「お姉ちゃん」
「うん」
「あれ、普通ちゃうで」
梨花は小さく息をのんだ。
「まだ、分からへん」
「分からんふりしてるだけや」
「麻里子……」
「責めてるんちゃう」
麻里子の声が少し柔らかくなった。
「でも、ちゃんと覚えといて。お姉ちゃんは一人ちゃう」
梨花はうなずいた。
涙が出そうになったが、こらえた。
*
麻里子が帰った後、梨花は部屋に戻った。
大輝はソファでスマホを見ていた。
「麻里子ちゃん、何か言うてた?」
「別に」
「ふうん」
大輝は画面から目を離さずに言った。
「あんまり余計なこと言うなよ」
梨花の心臓が跳ねた。
「余計なことって?」
「夫婦のことを外にベラベラ話すなってこと」
「話してないよ」
「ほんまか?」
大輝はようやく顔を上げた。
その目は、さっき麻里子に見せていたものとはまるで違っていた。
「梨花って、すぐ被害者ぶるからな」
梨花は固まった。
「そんなつもりない」
「あるやろ」
大輝は立ち上がった。
「俺を悪者にしたいんか」
「違う」
「じゃあ黙っとけよ」
その声は低かった。
怒鳴り声よりも、ずっと怖かった。
梨花は何も言えなかった。
*
夜が深くなった。
大輝は寝室に行った。
梨花は一人、リビングに残った。
テーブルの上には、冷めたお茶が残っていた。
麻里子が座っていた場所。
大輝が笑っていた場所。
梨花が黙っていた場所。
同じ食卓なのに、そこには三つの違う景色があった。
梨花は両手を握りしめた。
夫婦のことを外に言うな。
被害者ぶるな。
黙っとけ。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
*
梨花はスマホを手に取った。
麻里子からメッセージが来ていた。
《帰った。今日はありがとう》
続けて、もう一通。
《お姉ちゃん、何かあったら夜中でも電話して》
梨花は画面を見つめた。
返信しようとして、指が止まる。
大丈夫。
そう打とうとして、消した。
大丈夫ではない。
でも、まだ認めるのが怖かった。
梨花は、長い時間をかけて、短く返した。
《ありがとう》
それだけだった。
*
窓の外。
大津の夜は静かだった。
琵琶湖は見えない。
けれど、その沈黙だけが、部屋の奥まで流れ込んでくるようだった。
梨花は思った。
結婚して一年。
幸せになるはずだった場所で、自分は息をひそめている。
まだ、何かが決定的に壊れたわけではない。
けれど。
もう、何かは確実に壊れ始めていた。
*
次回予告
第2話「お前は何もできない」
梨花の日常に、少しずつ増えていく大輝の言葉。
冗談のように始まった否定は、やがて梨花の自信そのものを削っていく。
麻里子は姉の異変に気づき、静かに距離を詰める。
だが大輝は、外では優しい夫を演じ続けていた。
次回、第2話。
「お前は何もできない」
傷は、怒鳴り声だけでできるものではない。




