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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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問い詰めた夜

 第8話「問い詰めた夜」


 大輝の様子は、明らかにおかしかった。


 帰宅は相変わらず遅い。


 だが、以前のように余裕ぶった顔ではなかった。


 スマホを握る手に力が入っている。


 通知が来るたび、顔色が変わる。


 風呂場へスマホを持ち込む時間も長くなった。


 梨花は、その変化を見逃さなかった。


 *


 立花一絵から告げられた、妊娠の可能性。


 大輝は、それを梨花には話していない。


 もちろん、一絵にも真実を話していない。


 自分に妻がいること。


 梨花という女性と結婚して一年になること。


 一絵はまだ知らない。


 大輝を独身だと信じている。


 そして大輝は、その嘘の上にさらに大きな嘘を重ねようとしていた。


 *


 その夜。


 大輝はまた遅く帰ってきた。


 時計は二十三時を回っていた。


 梨花はリビングで待っていた。


 ただし、以前のように何も知らずに待っていたわけではない。


 テーブルの端。


 小さく伏せたスマホ。


 録画は、すでに始まっていた。


 映像は完璧でなくていい。


 声が残ればいい。


 表情が少しでも残ればいい。


 そして録画データは、設定した共有先に送られるよう準備していた。


 探偵事務所。


 麻里子。


 両親。


 梨花はもう、一人で夜を受け止めるつもりはなかった。


 *


「ただいま」


 大輝が玄関から入ってくる。


 酒の匂いはない。


 けれど、明らかに疲れていた。


 梨花は静かに言った。


「おかえり」


「飯は?」


「今日はいらないって言ってたから」


「何かないん?」


「冷蔵庫に作り置きはあるよ」


 大輝は舌打ちした。


「気が利かんな」


 梨花は息を吸った。


 そして、いつもより少しだけまっすぐ大輝を見た。


「大輝」


「何」


「毎日残業って言って帰りが遅いけど、あまり続くと体壊すんじゃない?」


 大輝の眉が動いた。


「は?」


「心配してるだけ」


「何にも知らないくせに、あれこれ言うな」


 予想通りの反応だった。


 梨花は、それでも引かなかった。


「私は妻であるし、看護師なんよ。心配するのは当たり前でしょ?」


 その言葉に、大輝の顔が歪んだ。


 *


「出た」


 大輝は笑った。


 冷たい笑いだった。


「お前のそういうウザいところ、どうにかならんのか」


 梨花は唇を結んだ。


「ウザい?」


「そうやろ。いちいち妻やから、看護師やからって」


 大輝は一歩近づいた。


「お前は看護師とか言ってるけどな、適当に注射して、適当に話聞いて、適当に薬出しとけば終わるくせに、偉そうな口聞くんじゃねぇ」


 その瞬間、梨花の中で何かが静かに切れた。


 自分が傷つけられるだけなら、まだ黙っていたかもしれない。


 けれど、患者と向き合ってきた日々まで踏みにじられた。


 仕事への誇りまで、侮辱された。


 *


「私の仕事が適当だと言うの?」


 梨花の声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「じゃあ大輝が、私の仕事の何を知ってるって言うのよ」


「口答えすんな」


「口答えじゃない。聞いてるの」


「黙れ」


「答えてよ。私がどんな患者さんと向き合って、どんな思いで働いてるか、何を知ってるの?」


 大輝の顔が赤くなる。


 怒りに任せて、右手が上がった。


 梨花は動かなかった。


 逃げなかった。


 ただ、その目を見た。


 *


 手は、梨花の頬のすぐ横で止まった。


 実際に振り下ろされる寸前だった。


 空気が凍った。


 梨花は静かに言った。


「そうやって、気に食わないことがあれば、暴力振るうんだ」


 大輝は荒い息をした。


「お前が悪いんやろ」


「今のも私のせい?」


「当たり前や」


「私が看護師として心配したから?」


「しつこいからや」


「私の仕事を侮辱したのは?」


「事実やろ」


 梨花の目から涙が落ちた。


 でも、泣き崩れなかった。


 *


「分かった」


 梨花は言った。


 大輝が眉をひそめる。


「何が分かったん」


「大輝がその気なら、あなたを地獄の底まで叩き落としてやるから」


 大輝は一瞬固まった。


 そして、鼻で笑った。


「お前に何ができるん?」


 その言葉は、以前と同じだった。


 お前は何もできない。


 大輝はまだ、梨花をそう見ていた。


 何も知らない。


 何も気づいていない。


 梨花がすでに証拠を集めていることも。


 探偵が動いていることも。


 家族がすべてを知っていることも。


 今この瞬間が、録画されていることも。


 *


「何もできないと思ってるんやね」


 梨花は静かに言った。


「事実やろ」


「そう」


 梨花はスマホに視線を落とした。


 大輝はまだ気づいていない。


 録画は続いている。


 大輝の声。


 侮辱。


 威圧。


 暴力に及ぼうとした動き。


 すべてが残っていた。


 *


 その時、梨花のスマホが小さく震えた。


 麻里子からだった。


 《録れてる。こっちにも届いた》


 続けて。


 《お姉ちゃん、今は離れて。無理に続けたらあかん》


 梨花は画面を見た。


 それだけで、少し呼吸が戻った。


 自分は一人ではない。


 ちゃんと見ている人がいる。


 *


「何見てんねん」


 大輝が言った。


「別に」


「また麻里子か?」


「……」


「ほんま、妹に頼らな何もできへんな」


 梨花は顔を上げた。


「麻里子は私の家族やよ」


「俺の悪口吹き込んでるだけやろ」


「違う」


「違わへん。お前ら姉妹そろって面倒くさいわ」


 梨花はそれ以上言わなかった。


 もう十分だった。


 大輝の言葉は、十分すぎるほど残った。


 *


 その夜。


 大輝は不機嫌なまま寝室へ入った。


 梨花はリビングで一人、スマホを確認した。


 録画データは保存されていた。


 探偵事務所にも送信済み。


 麻里子にも。


 光博と七海にも。


 しばらくして、麻里子から電話がかかってきた。


 梨花は小声で出た。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


「うん」


「手、上げようとしてたやん」


「うん」


「今すぐ実家来て」


「でも……」


「でもやない。今日は危ない」


 梨花は寝室の方を見た。


 大輝はもう寝ているようだった。


「分かった」


 *


 梨花は最低限の荷物だけをまとめた。


 通帳。


 保険証。


 看護師免許証のコピー。


 仕事用の書類。


 スマホの充電器。


 少しの着替え。


 そして、証拠を保存したスマホ。


 大輝を起こさないように、静かに玄関へ向かう。


 ドアを開ける前、梨花は一度だけ部屋を振り返った。


 結婚して一年。


 幸せになるはずだった部屋。


 そこで自分は、何度も小さくされてきた。


 けれど今夜、初めて思った。


 もう戻らないかもしれない。


 *


 アパートの外には、麻里子が車で来ていた。


 運転席から降り、梨花を見るなり駆け寄ってくる。


「お姉ちゃん」


 梨花は何も言えず、麻里子に抱きしめられた。


「よう出てきた」


「怖かった」


「うん」


「でも、もうあそこにいたらあかん気がした」


「それでええ」


 麻里子は梨花の荷物を受け取り、助手席へ乗せた。


「実家行こ」


 *


 車は夜の大津を走った。


 窓の外に、暗い琵琶湖が見えた。


 梨花は何度も涙を拭った。


 だが、以前の涙とは違っていた。


 怖さだけではない。


 怒り。


 悔しさ。


 そして、わずかな決意。


 麻里子は運転しながら言った。


「お姉ちゃん」


「うん」


「今日の録画、かなり強い」


「そうなん?」


「うん。言葉も、手を上げかけたところも残ってる。探偵さんも見てる」


 梨花は目を閉じた。


「本当に、もう戻れないんやね」


「戻らんでええ」


 麻里子はまっすぐ前を見た。


「戻る場所は、あの家やなくて、お姉ちゃんが安心して息できる場所や」


 *


 一方。


 大輝は翌朝、梨花がいないことに気づく。


 だがその前に、もう一つ大きな嘘を重ねていた。


 梨花と衝突したその日の昼。


 大輝は一絵と会っていた。


 一絵は妊娠の可能性に不安を抱えていた。


 大輝は焦っていた。


 このまま一絵が離れていけば困る。


 もし一絵が誰かに相談すれば、自分の嘘がばれるかもしれない。


 だから、大輝は言ってしまった。


「一絵」


「うん」


「ちゃんとするから」


 一絵は不安そうに大輝を見た。


「ちゃんとって?」


 大輝は、一瞬だけためらった。


 けれど、もう嘘を止められなかった。


「結婚しよう」


 一絵の目が大きく開いた。


「本当に?」


「うん」


「大輝……」


 一絵は泣きながら、大輝に抱きついた。


 大輝はその背中に手を回した。


 その姿もまた、離れた場所から探偵に記録されていた。


 *


 大輝は知らない。


 自分が一絵に結婚を申し込んだ瞬間まで、写真と動画に残されていることを。


 一絵は知らない。


 抱きしめている男に、すでに妻がいることを。


 梨花の家族は、すでに知っている。


 探偵も、すでに動いている。


 そして、直接対決の幕は、静かに上がろうとしていた。


 *


 京都の旅館。


 深夜。


 梨花は実家の客間にいた。


 七海が布団を敷いてくれた。


 光博は黙って温かいお茶を出した。


 麻里子は梨花の隣に座った。


 梨花はスマホを握ったまま、ぽつりと言った。


「私、本当に戦えるかな」


 光博が答えた。


「一人で戦うんやない」


 七海も言った。


「家族で守る」


 麻里子は梨花の手を握った。


「お姉ちゃんは、もう十分耐えた。ここからは、こっちの番や」


 梨花は涙をこぼしながら、初めて小さくうなずいた。


 *


 次回予告

 第9話「録音ボタン」


 梨花は実家へ避難した。


 大輝は妻が消えたことに苛立ち、電話で責め立てる。


 だが、その声もすべて記録されていた。


 一方、一絵は妊娠の可能性を抱えながら、大輝の「結婚しよう」という言葉を信じている。


 探偵、梨花の家族、そして証拠の数々。


 大輝の嘘は、ついに逃げ場を失い始める。


 次回、


 第9話「録音ボタン」


 残すことは、反撃の始まり。

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