もう怖くない
第45話「もう怖くない」
梨花が久しぶりに大津を訪れたのは、誰かに会うためではなかった。
自分の中で、ひとつ区切りをつけるためだった。
かつて大輝と暮らした街。
待ち続けた夜。
泣きながらスマホを握った部屋。
あの頃の記憶は、まだ完全には消えていない。
*
けれど、琵琶湖の風に吹かれながら、梨花は思った。
「もう怖くない」
大津という街が怖かったわけではない。
怖かったのは、あの部屋で自分を小さくしていた時間だった。
今の梨花は、もうそこにはいない。
*
湖畔を歩きながら、梨花は静かに息を吐いた。
「私は、ちゃんと戻ってこられた」
過去の場所に立っても、今の自分まで戻る必要はない。
そのことを、梨花は初めて体で理解した。
*
その頃、篠田家では大きな話が進んでいた。
麻里子と陽介の結婚式の日取り。
それは、十一月十三日に決まった。
梨花が結婚した日。
そして、大輝と決別した日。
梨花にとって、長く痛みの記憶だった日。
*
麻里子は言った。
「この日を、悲しい日で終わらせたくない」
梨花は驚いて麻里子を見た。
「麻里子……」
「十一月十三日を、今度はみんなで笑って祝える日にしたい」
陽介も静かにうなずいた。
「僕も、そのつもりです」
*
式は、光博と七海が働く旅館の大広間で行われることになった。
派手すぎない。
でも温かい。
家族と親しい人たちに囲まれた式。
畳の香り。
季節の花。
光博の料理。
七海のおもてなし。
篠田家らしい結婚式だった。
*
前撮りの衣装も決まった。
麻里子は白無垢と、淡い桜色の色打掛。
陽介は紋付袴。
式当日は、和装での挙式のあと、披露の席では少し軽やかな訪問着風の衣装へ替える予定になった。
「緊張するなあ」
陽介が言う。
麻里子が笑う。
「また噛む?」
「噛む前提で話さんといて」
「いや、陽介なら期待を裏切らんかなって」
「結婚式で噛んだら一生言われるやつやん」
久しぶりに、篠田家の食卓に明るい笑いが広がった。
*
梨花はその光景を見ていた。
十一月十三日。
あの日は、もう大輝だけの記憶ではなくなる。
麻里子と陽介の始まりの日になる。
家族が笑う日になる。
祝える日になる。
*
梨花は麻里子に言った。
「ありがとう」
麻里子は首をかしげる。
「何が?」
「その日を、楽しい日にしてくれて」
麻里子は少し照れたように笑った。
「お姉ちゃんも、ちゃんと笑って出席してよ」
「うん」
梨花はうなずいた。
「笑う」
*
過去の場所に立っても、今の自分まで戻る必要はない。
そして、過去の日付もまた、新しい意味に変えることができる。
梨花はそう思った。
*
次回予告
第46話「離婚成立」
かつて離婚届に名前を書いた梨花は、今度は妹の結婚式準備に向き合う。
衣装合わせ、料理の打ち合わせ、招待客の確認。
十一月十三日は、もう悲しい日だけではない。
次回、
第46話「離婚成立」
終わった日が、誰かの始まりの日になる。




