壊した側
第42話「壊した側」
一幸が、父親のことをもう一度聞いたのは、雨の日だった。
保育園から帰ってきたあと、旅館の奥の部屋で積み木をしていた時だった。
「ママ」
「なあに?」
「いっくんのおとうさん、どこにいるの?」
一絵の手が止まった。
けれど、もう逃げなかった。
*
この日のために、一絵は準備をしていた。
臨床心理士に相談した。
児童心理の専門家にも話を聞いた。
幼い子どもに、どこまで、どう伝えるのがいいのか。
嘘はつかない。
でも、傷つける言葉で投げつけない。
父親を憎ませるためではなく、一幸が自分を大切に思えるように伝える。
そのために、何度も言葉を選んできた。
*
一絵は一幸を膝に乗せた。
「一幸」
「うん」
「一幸には、お父さんはいるよ」
一幸は一絵を見上げた。
「いるの?」
「うん。でもね、今は一緒には暮らしていないの」
「なんで?」
一絵は一度、深く息を吸った。
七海が少し離れた場所で見守っている。
梨花と麻里子も、部屋の外で静かに待っていた。
*
「お父さんはね、昔、大事な約束を守れなかったの」
「やくそく?」
「そう。人を大切にする約束」
一幸は首を傾げた。
一絵はゆっくり続けた。
「そのことで、ママも、梨花さんも、ほかの人たちも、とても悲しい思いをしたの」
「ママ、かなしかった?」
「うん。悲しかった」
一絵の目に涙が浮かぶ。
「でもね」
一絵は一幸の小さな手を握った。
「一幸が生まれてきてくれたことは、ママにとって一番うれしいことだったよ」
*
一幸は、じっと一絵を見ていた。
一絵は声を震わせながらも、笑おうとした。
「一幸は、悪くない」
「いっくん?」
「そう。一幸は何も悪くない」
一絵は一幸を抱きしめた。
「一幸は、ママの宝物」
一幸の小さな手が、一絵の服をぎゅっと掴んだ。
*
「おとうさん、いっくんのこと、きらい?」
その問いに、一絵の涙がこぼれた。
でも、言葉は乱さなかった。
「一幸のことを嫌いだから離れているんじゃないよ」
「じゃあ?」
「お父さんは、今、自分がしたことをちゃんと考えないといけない場所にいるの」
一幸は難しそうな顔をした。
「かんがえるばしょ?」
「うん。人を傷つけたら、ちゃんと考えて、反省しないといけないの」
「はんせい」
「そう」
*
一絵は一幸の頬に触れた。
「でもね、一幸」
「うん」
「どんなことがあっても、ママは一幸を大好き」
「ほんと?」
「本当」
「ずっと?」
「ずっと」
「おおきくなっても?」
「大きくなっても」
「いたずらしても?」
一絵は涙の中で少し笑った。
「いたずらは、ほどほどにしてほしいかな」
部屋の外で、麻里子が鼻をすすりながら小さく笑った。
*
一幸は一絵の首に腕を回した。
「ママ、すき」
一絵はもう耐えられなかった。
声を殺して泣いた。
「ママも、一幸が大好き」
七海も涙を拭った。
梨花は廊下で口元を押さえていた。
麻里子は涙をぼろぼろこぼしていた。
*
しばらくして、一幸は一絵の涙を小さな指で拭いた。
「ママ、ないてる」
「うん」
「いたい?」
「少しだけ」
「いっくん、ぎゅーする」
一幸は一絵をぎゅっと抱きしめた。
その小さな腕が、一絵の壊れかけた心を包んだ。
*
部屋に入ってきた梨花が、一絵のそばに座った。
「一絵さん」
一絵は涙で濡れた顔を上げた。
「ちゃんと伝わったと思う」
「……はい」
「一幸くん、自分が愛されてるって、ちゃんと分かったと思う」
一絵は一幸を抱いたまま、何度もうなずいた。
*
麻里子も涙を拭きながら言った。
「壊したのは、一絵さんじゃない」
一絵は黙る。
「梨花お姉ちゃんでもない」
梨花も静かにうなずく。
「壊した側が、責任を負うべきなんや」
*
七海が一絵の背中をさすった。
「傷ついた側が、自分を責めんでええ」
一絵はその言葉に、ようやく泣き崩れた。
「私……ずっと怖かったんです」
「うん」
「この子に、いつか嫌われるんじゃないかって」
「うん」
「でも、ちゃんと愛してるって、伝えたかった」
七海は優しく言った。
「伝わったよ」
*
一幸は不思議そうに大人たちを見回した。
そして言った。
「みんな、ないてる」
麻里子が笑いながら涙を拭いた。
「一幸くんがええ子すぎるからや」
「いっくん、ええこ?」
「めちゃくちゃええ子」
一幸は得意げに笑った。
「じゃあ、ママにチュッする」
そう言って、一絵の頬に小さなキスをした。
一絵はまた泣いた。
今度は、少しだけ温かい涙だった。
*
真実は、刃にもなる。
でも、愛情で包んで渡せば、子どもを傷つけるだけのものにはならない。
一絵はその日、母として一つの山を越えた。
梨花もまた、自分の中にあった罪悪感を少しだけ手放した。
壊したのは、自分たちではない。
だから、傷ついた側が自分を責める必要はない。
*
次回予告
第43話「不倫相手への請求」
一幸に真実を伝えた一絵は、母としてさらに強くなる。
一方、梨花は自分の中に残る痛みと向き合いながら、過去を整理していく。
そして、大輝への支払い請求は新たな段階へ進む。
次回、
第43話「不倫相手への請求」
責任は、逃げても消えない。
次回予告




