母の手
第40話「母の手」
一幸は、日に日に成長していった。
歩くのも速くなり、言葉も増え、保育園では友達もできた。
「いっくん、こっち!」
「まってー!」
園庭を走り回る一幸は、まさにヤンチャ盛りだった。
転んでも泣く前に立ち上がる。
泥んこになっても笑っている。
その姿を見て、一絵は毎日へとへとになりながらも、幸せを感じていた。
*
旅館でも、一幸は人気者だった。
七海を見ると駆け寄る。
「ななみしゃーん!」
「はいはい、今日も元気やね」
光博には、少し緊張しながらも甘える。
「こうちゃん、だっこ」
「こうちゃん言うな。光博や」
そう言いながら、光博はすぐ抱っこする。
麻里子は笑う。
「完全に甘やかし部隊やん」
*
けれど、一幸が少しずつ大きくなるにつれて、避けられない問いも近づいていた。
ある日、保育園から帰ってきた一幸は、一絵の膝に座りながら聞いた。
「ねえ、ママ」
「なあに?」
「いっくんのおとうさんは?」
一絵の手が止まった。
七海も、そばで静かに顔を上げた。
*
一幸は続けた。
「ともくんは、パパがおむかえきた」
「うん」
「ゆいちゃんも、パパいる」
「うん」
「いっくんは?」
一絵は胸が痛んだ。
いつか聞かれると思っていた。
でも、その日は思ったより早く来た。
*
一絵は一幸を抱きしめた。
「一幸にはね、ママがいるよ」
「うん」
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、七海さんも、光博さんも、梨花さんも、麻里子さんもいる」
「うん」
「みんな、一幸のこと大好き」
一幸は少し考えた。
「でも、おとうさんは?」
一絵は涙をこらえた。
*
その時、七海がそっと一絵の手に触れた。
母の手だった。
支えるための手。
許すためではなく、倒れないようにそばにある手。
一絵はその温かさに、少しだけ呼吸を整えた。
*
「お父さんのことはね」
一絵はゆっくり言った。
「一幸がもう少し大きくなったら、ちゃんと話すね」
「いまは?」
「今は、ママが一幸をいっぱい抱っこする」
一幸は一絵の顔を見た。
「じゃあ、ぎゅー」
「うん。ぎゅーしよう」
一絵は一幸を強く抱きしめた。
*
夜。
一絵は七海に言った。
「いつか、全部話さないといけないんですよね」
七海はうなずいた。
「うん。でも、今日じゃなくていい」
「逃げてるみたいで」
「逃げてへん」
七海は一絵の手を握った。
「子どもに伝えるには、順番がある。年齢もある。心の準備もある」
一絵は涙をこぼした。
「私、ちゃんと母親できてますか」
七海は即答した。
「できてる」
*
一方、梨花もその話を聞いた。
胸が痛んだ。
大輝が残した傷は、大人だけで終わらない。
子どもにも、いつか問いとして届く。
それでも梨花は思った。
一幸には、嘘ではなく、愛情で包まれた真実を渡したい。
*
母の手。
それは過去を消すためのものではない。
泣く人の手を握り、今日を越えるためにある。
*
次回予告
第41話「調停開始」
一幸の問いをきっかけに、一絵は将来、父親についてどう伝えるかを考え始める。
一方、梨花も自分の過去と向き合い直す。
傷を隠すのではなく、どう語るのか。
次回、
第41話「調停開始」
真実は、いつか優しい言葉で渡す日が来る。




