不倫相手の沈黙
第35話「不倫相手の沈黙」
一絵のもとにも、大輝からの書面が届いた。
弁護士を通じて送られてきた謝罪文。
封筒を見た瞬間、一絵の胸はざわついた。
もう終わったはずだった。
それでも過去は、時々こうして手元に届く。
*
一絵は一幸を寝かしつけたあと、ひとりで書面を読んだ。
《申し訳なかった》
《自分の行いを後悔している》
《いつか一幸にも会いたい》
そこまで読んだ瞬間、一絵は紙を机に置いた。
そして、静かに息を吐いた。
*
「違う」
欲しかったのは、そんな言葉ではなかった。
あの時、命を軽んじたこと。
堕胎しろと言ったこと。
妊娠を告げた自分を疑ったこと。
独身だと騙したこと。
その一つ一つに、本当に向き合う言葉はなかった。
ただ、自分が許されたいだけの文章に見えた。
*
一絵は弁護士に返答を託した。
言葉は短く、はっきりしていた。
「命を軽んじるような人物の、上っ面だけの謝罪はいりません」
「二度と、このような書面も送ってこないでください」
「私はあなたによって、人生を壊されかけました」
「今は子どもを育てながら、仕事に打ち込む毎日です」
「息子をあなたに会わせることも、絶対にありません」
*
弁護士は静かにうなずいた。
「その意思で正式に返答します」
一絵は一幸を抱き上げた。
小さな手が、一絵の服をぎゅっと掴む。
「一幸」
赤ん坊は何も知らず、安心した顔で眠っている。
一絵はその寝顔を見つめた。
「あなたは、私が守る」
*
その夜。
一絵は厨房に戻った。
翌朝の仕込みが残っていた。
大根を切る。
出汁の香りを確かめる。
包丁を洗う。
ひとつひとつの作業が、今の自分を支えていた。
過去に引き戻されないために。
自分と一幸の未来を作るために。
*
謝罪は、相手の心に届いて初めて意味を持つ。
届かない言葉なら、受け取らなくていい。
一絵はそう決めた。
*
次回予告
第36話「俺は悪くない」
梨花と一絵に拒絶された大輝は、なおも自分の責任を認めようとしない。
刑務所の中で孤立していく大輝。
一方、梨花と一絵は、それぞれの仕事に向き合いながら少しずつ日常を取り戻していく。
次回、
第36話「俺は悪くない」
反省できない人間は、同じ場所に立ち続ける。




