婚約指輪
第33話「婚約指輪」
一幸は一歳を迎えた。
歩き方はまだ少し危なっかしい。
けれど、保育園から帰ってくると、元気だけは全開だった。
*
「ただいま戻りました」
一絵が旅館の勝手口から入ってくる。
その腕の中で、一幸がもぞもぞ動いた。
床に下ろすと、小さな足でよちよちと一絵に向かって戻ってくる。
「ママ〜」
一絵の胸がきゅっとなる。
「はいはい、一幸」
一幸は両手を広げ、全力で甘えてきた。
そして。
「チュッ」
一絵のほっぺたに、小さなキスをした。
*
一絵は固まった。
次の瞬間、涙ぐむ。
「一幸……」
一幸は得意げに笑った。
「ママ、ちゅ」
その姿を見て、七海が目を細めた。
「まあまあ」
菊江は口元を押さえる。
「なんて可愛いの」
麻里子は笑う。
「これはもう旅館全体が陥落するやつやね」
光博が厨房から顔を出す。
「俺は陥落せん」
七海がすぐ言った。
「もうしてます」
*
一絵は一幸を抱きしめた。
つらいことは消えない。
でも、この子の温もりが、毎日を少しずつ照らしてくれる。
「ありがとう、一幸」
小さな命は、今日も確かにそこにあった。
*
一方、麻里子と陽介は婚約指輪を選びに出かけていた。
陽介は相変わらず緊張気味。
「どれがいいかな」
「陽介、顔が営業先の重大プレゼンみたいになってる」
「いや、人生の重大プレゼンやから」
麻里子は笑った。
そして、シンプルな指輪を選んだ。
「これがいい」
「ほんまに?」
「うん。毎日つけられるやつがいい」
陽介はほっとしたように笑った。
「麻里子らしいな」
*
夜。
篠田家の食卓には、久しぶりに明るい話題が並んでいた。
一幸の一歳。
麻里子の婚約指輪。
一絵の仕事の成長。
梨花の穏やかな日常。
七海はその光景を見つめながら思った。
幸せは、大きな音を立てて来るものではない。
こうして、少しずつ積み重なっていくものなのだと。
*
次回予告
第34話「内容証明」
穏やかな日常が戻り始める中、大輝から新たな動きが届く。
弁護士を通じて送られてきた一通の書面。
梨花はもう揺れない。
次回、
第34話「内容証明」
過去は、ときどき封筒に入って届く。




