↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/56

実家の灯り

 第31話「実家の灯り」


 週末の夜。


 梨花は勤務先近くのアパートから、京都の実家へ向かった。


 新しい生活には少しずつ慣れてきた。


 病院にも通いやすい。


 一人で眠れる夜も増えた。


 それでも、週末に見る実家の灯りは、やはり特別だった。


 *


 旅館の玄関に明かりがともっている。


 格子戸の向こうから、出汁の香りがふわりと流れてくる。


「ただいま」


 梨花が声をかけると、七海が出てきた。


「おかえり」


 その一言だけで、梨花の肩から力が抜けた。


 帰れる場所がある。


 それは、想像以上に人を支える。


 *


 その日、麻里子も来ていた。


 ただし、一人ではなかった。


 隣には、スーツ姿の男性が立っている。


 少し背が高く、清潔感のある青年。


 だが、顔は完全に緊張していた。


 彼の名前は、沼田陽介。


 山崎付近にある大手飲料メーカーの営業担当。


 麻里子が以前から交際していた相手だった。


 *


 旅館の門をくぐる前から、陽介は落ち着かなかった。


「俺、噛んだらどうしよう」


 麻里子は横で笑う。


「いいじゃん。いつもの陽介で」


「いやぁ、初めてのことなんで、めっちゃ緊張するわ」


 麻里子はさらっと言った。


「いや、二回も三回もあっちゃ困るでしょ」


「それはそうやけど!」


 陽介はさらに緊張した。


 麻里子は笑いながら、陽介の背中を軽く押した。


「大丈夫。うちの家族、怖いのは最初だけ」


「それ、全然安心できへん」


 *


 奥の座敷。


 光博、七海、梨花、一絵、一幸、そして麻里子が揃った。


 陽介は正座し、深々と頭を下げた。


「沼田陽介と申します」


 声が少し裏返った。


 麻里子が横で肩を震わせる。


「このたび、麻里子さんと結婚を前提に……」


 そこで一瞬詰まる。


 陽介は慌てて言い直した。


「いえ、結婚を前提というか、正式に婚約を……」


 さらに詰まる。


 光博が静かに言った。


「落ち着きなさい」


「はい!」


 返事だけは立派だった。


 *


 場に少し笑いが起きた。


 そのおかげで、陽介の肩の力も少し抜けた。


 麻里子が言う。


「お父さん、お母さん。私、陽介と婚約します」


 七海は静かに微笑んだ。


「そう」


 光博は陽介を見る。


「麻里子を大事にできるか」


 陽介はまっすぐ背筋を伸ばした。


「はい」


 今度は噛まなかった。


「麻里子さんのことを、大事にします」


 *


 陽介には、これまでのことをすべて伝えてあった。


 梨花が大輝に傷つけられたこと。


 麻里子が姉を守るために戦ったこと。


 一絵と一幸のこと。


 家族全体が大きな傷を抱えたこと。


 それでも陽介は、麻里子と一緒になると決めた。


 *


 光博が静かに聞いた。


「全部、聞いているんやな」


「はい」


 陽介はうなずいた。


「麻里子さんから聞きました」


「重い話やったやろ」


「はい」


 陽介は正直に答えた。


「でも、それを聞いて、麻里子さんがどれだけ家族を大事にする人か、改めて分かりました」


 麻里子は少し照れたように視線を落とす。


 *


 陽介は続けた。


「僕は、過去をなかったことにはできません」


「……」


「でも、これから麻里子さんが安心して笑える場所を、一緒に作りたいです」


 七海の目が少し潤んだ。


 梨花も静かに微笑んだ。


 一絵は一幸を抱きながら、その言葉を聞いていた。


 *


 光博はしばらく黙っていた。


 そして、短く言った。


「分かった」


 陽介の顔がこわばる。


「えっ」


「麻里子をよろしく頼む」


 陽介は目を見開き、すぐに頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 勢いがよすぎて、畳に額がぶつかりそうになった。


 麻里子が慌てて止める。


「ちょ、陽介、そこまでせんでいい!」


 その場に笑いが広がった。


 *


 食事が始まると、空気はさらに柔らかくなった。


 光博の料理。


 七海のおもてなし。


 一絵が練習で切った野菜も、さりげなく一皿に添えられていた。


 陽介は一口食べて、目を輝かせた。


「めちゃくちゃ美味しいです」


 光博が少しだけ得意げに言う。


「そらそうや」


 七海がすぐに突っ込む。


「自分で言わんの」


 また笑いが起きる。


 *


 梨花は、その光景を見ていた。


 かつては、食卓が怖かった。


 何を言われるか分からない場所だった。


 けれど今、目の前にある食卓は違う。


 誰かが失敗しても笑える。


 誰かが緊張しても受け止められる。


 そういう食卓だった。


 *


 食後。


 梨花は縁側に出た。


 旅館の庭に、柔らかな灯りが落ちている。


 麻里子が隣に来た。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「私、結婚するんやね」


「うん」


「ちょっと怖い」


 梨花は麻里子を見る。


 麻里子は笑っていたが、その声は正直だった。


「お姉ちゃんのことがあったから、結婚ってものが怖くなった時もあった」


 梨花は黙って聞いた。


「でも、陽介は違うって思えた」


「うん」


「全部聞いても、逃げんかった」


 梨花は優しく言った。


「いい人やね」


「うん」


 *


 麻里子は小さく息を吐いた。


「お姉ちゃん」


「何?」


「私、幸せになってもいいよね」


 梨花の胸が少し痛んだ。


 そして、すぐに温かくなった。


「当たり前やん」


 梨花は麻里子の手を握った。


「麻里子は、幸せになっていい」


 麻里子の目に涙が浮かんだ。


「ありがとう」


 *


 その夜。


 旅館の灯りは遅くまでついていた。


 誰かが帰ってくる場所。


 誰かが報告できる場所。


 誰かが泣ける場所。


 そして、また外へ歩き出すための場所。


 梨花はその灯りを見つめながら思った。


 帰れる灯りがあるから、人は外へ歩き出せる。


 *


 次回予告

 第32話「大輝からの電話」


 刑務所の中から、大輝は再び梨花へ連絡を取ろうとする。


 しかし梨花はもう揺れない。


 一方、麻里子と陽介の婚約は正式に進み、篠田家に久しぶりの明るい話題が訪れる。


 次回、

 第32話「大輝からの電話」


 過去からの声に、もう戻らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。