実家の灯り
第31話「実家の灯り」
週末の夜。
梨花は勤務先近くのアパートから、京都の実家へ向かった。
新しい生活には少しずつ慣れてきた。
病院にも通いやすい。
一人で眠れる夜も増えた。
それでも、週末に見る実家の灯りは、やはり特別だった。
*
旅館の玄関に明かりがともっている。
格子戸の向こうから、出汁の香りがふわりと流れてくる。
「ただいま」
梨花が声をかけると、七海が出てきた。
「おかえり」
その一言だけで、梨花の肩から力が抜けた。
帰れる場所がある。
それは、想像以上に人を支える。
*
その日、麻里子も来ていた。
ただし、一人ではなかった。
隣には、スーツ姿の男性が立っている。
少し背が高く、清潔感のある青年。
だが、顔は完全に緊張していた。
彼の名前は、沼田陽介。
山崎付近にある大手飲料メーカーの営業担当。
麻里子が以前から交際していた相手だった。
*
旅館の門をくぐる前から、陽介は落ち着かなかった。
「俺、噛んだらどうしよう」
麻里子は横で笑う。
「いいじゃん。いつもの陽介で」
「いやぁ、初めてのことなんで、めっちゃ緊張するわ」
麻里子はさらっと言った。
「いや、二回も三回もあっちゃ困るでしょ」
「それはそうやけど!」
陽介はさらに緊張した。
麻里子は笑いながら、陽介の背中を軽く押した。
「大丈夫。うちの家族、怖いのは最初だけ」
「それ、全然安心できへん」
*
奥の座敷。
光博、七海、梨花、一絵、一幸、そして麻里子が揃った。
陽介は正座し、深々と頭を下げた。
「沼田陽介と申します」
声が少し裏返った。
麻里子が横で肩を震わせる。
「このたび、麻里子さんと結婚を前提に……」
そこで一瞬詰まる。
陽介は慌てて言い直した。
「いえ、結婚を前提というか、正式に婚約を……」
さらに詰まる。
光博が静かに言った。
「落ち着きなさい」
「はい!」
返事だけは立派だった。
*
場に少し笑いが起きた。
そのおかげで、陽介の肩の力も少し抜けた。
麻里子が言う。
「お父さん、お母さん。私、陽介と婚約します」
七海は静かに微笑んだ。
「そう」
光博は陽介を見る。
「麻里子を大事にできるか」
陽介はまっすぐ背筋を伸ばした。
「はい」
今度は噛まなかった。
「麻里子さんのことを、大事にします」
*
陽介には、これまでのことをすべて伝えてあった。
梨花が大輝に傷つけられたこと。
麻里子が姉を守るために戦ったこと。
一絵と一幸のこと。
家族全体が大きな傷を抱えたこと。
それでも陽介は、麻里子と一緒になると決めた。
*
光博が静かに聞いた。
「全部、聞いているんやな」
「はい」
陽介はうなずいた。
「麻里子さんから聞きました」
「重い話やったやろ」
「はい」
陽介は正直に答えた。
「でも、それを聞いて、麻里子さんがどれだけ家族を大事にする人か、改めて分かりました」
麻里子は少し照れたように視線を落とす。
*
陽介は続けた。
「僕は、過去をなかったことにはできません」
「……」
「でも、これから麻里子さんが安心して笑える場所を、一緒に作りたいです」
七海の目が少し潤んだ。
梨花も静かに微笑んだ。
一絵は一幸を抱きながら、その言葉を聞いていた。
*
光博はしばらく黙っていた。
そして、短く言った。
「分かった」
陽介の顔がこわばる。
「えっ」
「麻里子をよろしく頼む」
陽介は目を見開き、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます!」
勢いがよすぎて、畳に額がぶつかりそうになった。
麻里子が慌てて止める。
「ちょ、陽介、そこまでせんでいい!」
その場に笑いが広がった。
*
食事が始まると、空気はさらに柔らかくなった。
光博の料理。
七海のおもてなし。
一絵が練習で切った野菜も、さりげなく一皿に添えられていた。
陽介は一口食べて、目を輝かせた。
「めちゃくちゃ美味しいです」
光博が少しだけ得意げに言う。
「そらそうや」
七海がすぐに突っ込む。
「自分で言わんの」
また笑いが起きる。
*
梨花は、その光景を見ていた。
かつては、食卓が怖かった。
何を言われるか分からない場所だった。
けれど今、目の前にある食卓は違う。
誰かが失敗しても笑える。
誰かが緊張しても受け止められる。
そういう食卓だった。
*
食後。
梨花は縁側に出た。
旅館の庭に、柔らかな灯りが落ちている。
麻里子が隣に来た。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「私、結婚するんやね」
「うん」
「ちょっと怖い」
梨花は麻里子を見る。
麻里子は笑っていたが、その声は正直だった。
「お姉ちゃんのことがあったから、結婚ってものが怖くなった時もあった」
梨花は黙って聞いた。
「でも、陽介は違うって思えた」
「うん」
「全部聞いても、逃げんかった」
梨花は優しく言った。
「いい人やね」
「うん」
*
麻里子は小さく息を吐いた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「私、幸せになってもいいよね」
梨花の胸が少し痛んだ。
そして、すぐに温かくなった。
「当たり前やん」
梨花は麻里子の手を握った。
「麻里子は、幸せになっていい」
麻里子の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう」
*
その夜。
旅館の灯りは遅くまでついていた。
誰かが帰ってくる場所。
誰かが報告できる場所。
誰かが泣ける場所。
そして、また外へ歩き出すための場所。
梨花はその灯りを見つめながら思った。
帰れる灯りがあるから、人は外へ歩き出せる。
*
次回予告
第32話「大輝からの電話」
刑務所の中から、大輝は再び梨花へ連絡を取ろうとする。
しかし梨花はもう揺れない。
一方、麻里子と陽介の婚約は正式に進み、篠田家に久しぶりの明るい話題が訪れる。
次回、
第32話「大輝からの電話」
過去からの声に、もう戻らない。




