家を出る準備
第29話「家を出る準備」
春が近づいていた。
長い裁判。
離婚。
出産。
涙の多かった一年。
それでも時間は止まらない。
少しずつ、それぞれが新しい生活へ向かい始めていた。
*
梨花は引っ越しの準備を進めていた。
勤務する病院の近くに、小さなアパートを借りた。
広くはない。
豪華でもない。
けれど、自分で選んだ部屋だった。
窓からは桜並木が見える。
病院までは徒歩十分。
夜勤があっても安心だった。
*
引っ越し当日。
麻里子が段ボールを抱えて言う。
「お姉ちゃん、一人暮らし久しぶりやな」
「そうやね」
「寂しくない?」
梨花は少し考えた。
「寂しくないと言ったら嘘かな」
「うん」
「でも怖くない」
麻里子は笑った。
「それなら大丈夫や」
*
病院では、聡一郎と出海が歓迎してくれた。
「通勤時間短くなったやろ」
聡一郎が言う。
「かなり」
「その分ちゃんと休みなさい」
出海も笑う。
「今度は自分の体も大事にするんよ」
梨花は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
以前なら、自分のことは後回しだった。
でも今は違う。
自分の人生を、自分で守ろうと思っていた。
*
一方。
一絵も新しい生活を始めていた。
一幸は保育園へ通い始めた。
最初は毎朝泣いた。
保育士さんに抱っこされながら、一幸は必死に母を追いかける。
「うわあああん!」
一絵は何度も振り返りそうになった。
けれど保育士が笑う。
「大丈夫ですよ」
「はい」
母としての最初の試練だった。
*
一幸を預けた後。
一絵は旅館へ向かう。
白衣ではない。
割烹着姿だった。
厨房に入ると、光博が待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は鯛や」
一絵は緊張した。
包丁を握る手に力が入る。
*
板前の世界は想像以上に奥が深かった。
魚を三枚におろす。
刺身に切る。
それだけでも魚によって違う。
鯛。
ヒラメ。
ブリ。
マグロ。
包丁の角度。
刃の入れ方。
厚み。
すべてが変わる。
*
「違う」
光博が言う。
「そこは引かん」
「はい」
「押して切る」
「はい」
何度もやり直す。
手は魚臭くなる。
指先も痛くなる。
でも嫌ではなかった。
*
さらに野菜。
大根のつま。
人参の飾り切り。
季節の盛り付け。
皿の余白。
色の配置。
料理は味だけではない。
見た瞬間から始まっている。
それを一絵は少しずつ学んでいた。
*
ある日の昼休み。
一絵は厨房の隅で賄いを食べていた。
ふと窓の外を見る。
保育園で遊んでいる一幸の姿が見えた。
小さな体で一生懸命走っている。
*
一絵は微笑んだ。
そして心の中で思った。
いつか。
いつか私の料理で。
お客さんに喜んでもらいたい。
泣いていた人が笑顔になるような。
疲れた人がほっとできるような。
そんな料理を作りたい。
*
その日の夜。
旅館の客が帰る時だった。
「今日の煮物、美味しかったよ」
年配の女性客が言った。
光博が笑う。
「ありがとうございます」
そして一絵を見る。
「その大根、実はこの子が切ったんです」
一絵は驚いた。
「えっ」
女性客は優しく笑った。
「そうなの?上手だったわ」
一絵は思わず頭を下げた。
「ありがとうございます」
*
帰り道。
一幸を抱っこしながら、一絵は夜空を見上げた。
大変なことはまだたくさんある。
お金のこと。
仕事のこと。
育児のこと。
将来のこと。
不安がなくなったわけではない。
それでも。
少しずつ前へ進んでいた。
*
梨花も。
一絵も。
麻里子も。
それぞれの場所で歩き始めていた。
守られるだけの日々は終わり。
自分の足で立つ日々が始まっていた。
*
次回予告
第30話「初めての給料日」
旅館で働き始めた一絵に、初めての給料日がやって来る。
一幸のために使うお金。
自分で稼いだお金。
その重みを初めて知る。
一方、梨花にも新しい出会いの気配が訪れる。
次回、
第30話「初めての給料日」
自分で稼いだお金は、自分を少しだけ強くする。




