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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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優しい支配

第16話「優しい支配」


 大輝は、急に優しくなった。


 少なくとも、言葉だけは。


《梨花、ごめん》

《本当に反省してる》

《もう一度だけ話したい》

《俺、変わるから》


 梨花のスマホには、そんなメッセージが何度も届いた。


 以前の梨花なら、揺れていたかもしれない。


 大輝も本当は反省しているのではないか。


 もう一度だけ信じれば、結婚生活をやり直せるのではないか。


 そう思っていたかもしれない。


 だが今の梨花には、もう分かっていた。


 これは優しさではない。


 追い詰められた人間が、自分を守るために差し出す柔らかい鎖だった。


     *


 京都市内の個人病院。


 梨花は少しずつ仕事に戻っていた。


 院長の川崎聡一郎。


 副院長で妻の川崎出海。


 二人は、梨花の事情を最低限知っていた。


 梨花が家庭内で暴言を受けていたこと。


 不倫と嘘で傷つけられたこと。


 現在、法的手続きが進んでいること。


 そして、大輝が梨花に接触しようとしていること。


     *


 その日の午後。


 受付に一人の男が現れた。


 大輝だった。


「葛城梨花に会わせてください」


 受付スタッフは戸惑った。


「ご予約は……」


「夫です」


 その言葉を聞いたスタッフの表情が変わる。


 すぐに奥へ連絡が入った。


     *


 診察室の奥。


 院長の聡一郎が立ち上がった。


「来たか」


 出海も表情を硬くした。


「梨花さんには会わせん方がええね」


「当然や」


 二人は受付へ向かった。


     *


 大輝は少し苛立っていた。


「妻に会いに来ただけなんですけど」


 その前に、聡一郎が立った。


 穏やかな顔ではなかった。


「葛城大輝さんやな」


「はい」


「ここは病院や。患者さんもおる。騒ぐならすぐ警察呼ぶ」


 大輝は顔をしかめた。


「いや、騒ぐつもりは」


 出海が前に出た。


「なに? あんた、うちの大事なスタッフに言うたそうやな」


「は?」


「適当に注射して、適当に話聞いて、適当に薬出しとけば終わる、やったか?」


 大輝の顔がこわばる。


 出海の声は冷たかった。


「梨花さんがどれだけ真面目に患者さんに向き合ってるか、あんた何を知ってんの?」


「それは夫婦の話で」


「違う」


 聡一郎が遮った。


「うちのスタッフの職業倫理を侮辱した話や」


     *


 大輝は言い返そうとした。


 しかし、聡一郎の目は笑っていなかった。


「そんなやつのところに、梨花さんを返すわけないやろ」


「院長先生に関係ないでしょう」


「関係ある」


 聡一郎は即答した。


「梨花さんは、うちの大事な看護師や」


 出海も言った。


「患者さんにも必要とされてる。スタッフにも信頼されてる。その梨花さんを壊す人間を、ここに近づけるわけにはいかへん」


 大輝は歯を食いしばった。


「妻に会う権利くらい」


「今のあなたに必要なのは、会う権利やなくて、弁護士を通すことや」


 聡一郎は静かに言った。


     *


「二度と姿を現すな」


 聡一郎の声が低くなる。


「次来たら、問答無用で警察呼ぶ」


 出海も続けた。


「覚悟しとき」


 大輝は周囲を見た。


 受付スタッフ。


 看護師。


 患者の家族。


 何人かが不安そうにこちらを見ていた。


 大輝はこれ以上居座れないと悟った。


「……分かりましたよ」


 吐き捨てるように言い、病院を出ていった。


     *


 聡一郎は、しばらく入口を見ていた。


 そして出海に言った。


「梨花さんに伝えよう」


「うん」


     *


 休憩室。


 梨花は手を握りしめて座っていた。


 大輝が来たと聞いて、体が固まっていた。


 聡一郎が入ってくる。


「梨花さん」


「はい……」


「大輝さんが来た」


 梨花は小さくうなずいた。


「でも追い返した」


「すみません……」


「謝らんでええ」


 聡一郎はすぐに言った。


「悪いのは来た方や」


 出海も梨花の隣に座った。


「怖かったやろ」


 梨花はうなずいた。


「少し」


     *


 聡一郎は言った。


「今日は一人で帰らん方がええ」


「大丈夫です」


「大丈夫やない」


 聡一郎の声は優しかったが、はっきりしていた。


「危ないから、俺が実家まで送っていくさかい、しばらく待っとき」


 梨花は驚いた。


「でも、院長先生、お仕事が」


「患者さんの診察は調整する。こういう時は、安全優先や」


 出海も言った。


「梨花さん、遠慮せんでええ。今は守られる時や」


 梨花は涙が出そうになった。


「ありがとうございます」


     *


 その夕方。


 聡一郎の車で、梨花は実家へ送られた。


 車内は静かだった。


 聡一郎は余計なことは聞かなかった。


 ただ、信号待ちの時に一言だけ言った。


「梨花さん」


「はい」


「あなたは適当に仕事してる人やない」


 梨花は顔を上げた。


「うちの病院は、あなたを必要としてる」


 梨花の目に涙が浮かんだ。


「はい……」


「だから、あんな言葉を信じんでええ」


     *


 実家の旅館前。


 七海と麻里子が待っていた。


 梨花が車を降りると、七海が駆け寄った。


「梨花」


「お母さん」


 麻里子は聡一郎に深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 聡一郎はうなずいた。


「しばらくは送り迎えも相談してください。病院としても対応します」


 七海は涙ぐんだ。


「本当にありがとうございます」


     *


 その夜。


 梨花はスマホを見た。


 大輝からまたメッセージが来ていた。


《病院まで巻き込むな》

《俺は話したかっただけや》

《お前が逃げるからこうなる》


 梨花はそれをスクリーンショットした。


 弁護士へ送る。


 そして、メモに残した。


《優しさに見える言葉のあと、責任転嫁》


 梨花はスマホを閉じた。


 もう、その言葉に引き戻されない。


     *


次回予告


第17話「また怒鳴り声」


 病院で追い返された大輝は、怒りを募らせる。


 謝罪の言葉は一転し、梨花への責任転嫁と怒鳴り声へ変わっていく。


 一方、梨花は職場の支えにより、自分の仕事への誇りを少しずつ取り戻す。


 そして弁護士は、大輝の接触行為に対してさらなる対応を準備する。


 次回、


第17話「また怒鳴り声」


 守ってくれる場所があるだけで、人は少し息ができる。

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