帰っておいで
第15話「帰っておいで」
京都の老舗旅館。
梨花は、久しぶりに朝まで眠った。
深く眠れたわけではない。
夜中に何度も目は覚めた。
それでも、大津のアパートにいた頃とは違った。
玄関の音に怯えなくていい。
スマホの通知に心臓を跳ねさせなくていい。
食卓で何を言われるか身構えなくていい。
それだけで、梨花の体は少しずつ息を取り戻していた。
*
朝。
七海が客間に顔を出した。
「梨花、起きてる?」
「うん」
「朝ごはん、食べられそう?」
「少しなら」
七海はほっとしたように笑った。
「それでええ」
厨房では、光博が出汁を取っていた。
香りが廊下まで流れてくる。
梨花はその匂いを吸い込み、少しだけ泣きそうになった。
帰ってきていい場所がある。
その事実が、今の梨花には救いだった。
*
だが、現実はまだ終わっていなかった。
離婚。
慰謝料請求。
裁判。
一絵の妊娠。
大輝の失職。
会社への損害賠償。
そして、増え続ける費用。
問題は、むしろここから本格化していく。
*
その日の午後。
弁護士事務所で、梨花、一絵、麻里子が顔を合わせた。
一絵は少しやつれていた。
妊娠三ヶ月。
体調も不安定だった。
菊江がそばに付き添っている。
一絵は梨花を見ると、深く頭を下げた。
「梨花さん……本当にすみません」
梨花は静かに首を振った。
「一絵さんが知らなかったことは分かってます」
「でも、結果的に傷つけました」
「悪いのは、大輝です」
その言葉に、一絵は涙をこぼした。
*
麻里子が椅子に座りながら言った。
「ここからは、別々に泣くより、チーム組んだ方がええと思う」
一絵が顔を上げる。
「チーム……?」
「そう」
麻里子はまっすぐ言った。
「梨花お姉ちゃんは妻として騙されて傷つけられた。一絵さんは独身だと騙されて、妊娠までしてる。私は姉を侮辱され、精神的に追い詰められた家族として請求する」
梨花は麻里子を見る。
麻里子は続けた。
「大輝さんは、相手を分断したいはずや。妻と一絵さんが憎み合えば、自分の責任がぼやけるから」
一絵は唇を噛んだ。
「私、梨花さんに憎まれて当然やと思ってました」
「憎しみたい気持ちがなかったわけじゃない」
梨花は正直に言った。
「でも、一絵さんも騙されてた」
「……」
「だから、責める相手を間違えたくない」
一絵は涙を流しながらうなずいた。
*
弁護士は資料を広げた。
「今後の請求について整理します」
机の上に並ぶ書類。
梨花から大輝への慰謝料請求。
麻里子からの別件請求。
一絵からの慰謝料請求。
探偵費用。
弁護士費用。
両家が裁判に出席するための休業補償。
交通費。
書類作成費。
さらに、大輝が会社に与えた信用毀損や業務上の影響について、会社側から損害賠償を求められる可能性。
すでに請求額は一億八千万円。
だが、それで終わらない。
*
弁護士は淡々と言った。
「裁判が長引けば、出席するご家族の休業補償、追加の弁護士費用、調査資料の追加整理費用も発生します」
光博がうなずく。
「当然です。必要な費用は請求してください」
一也も言った。
「うちも同じです。娘が騙されたこと、絶対に曖昧にはしません」
菊江は一絵の肩を抱いていた。
七海は梨花の手を握っていた。
*
梨花は、書類を見つめた。
金額の大きさに驚かないわけではない。
けれど、これは復讐だけではなかった。
大輝が軽く扱ったもの。
結婚。
信頼。
仕事。
家族。
命。
その一つ一つに、本来どれほど重さがあったのかを示すものだった。
*
一絵は小さく言った。
「私、お腹の子は守ります」
部屋が静かになる。
「大輝のことは、もう信じられません。でも、この子に罪はない」
梨花は一絵を見た。
「うん」
一絵は涙を拭いた。
「だから、私も逃げません」
麻里子がうなずく。
「じゃあ、三人で戦いましょう」
梨花。
一絵。
麻里子。
傷つけられた三人が、同じ方向を見た瞬間だった。
*
一方。
大輝は、自分の部屋で通知書を見つめていた。
一億八千万円。
そこに加えて、会社からの損害賠償の可能性。
裁判費用。
休業補償。
追加請求。
数字は、現実感を失うほど大きかった。
「払えるわけないやろ……」
大輝は頭を抱えた。
だが、誰も助けてくれない。
両親にも拒絶された。
会社も失った。
梨花も戻らない。
一絵も、もう自分を信じていない。
*
大輝は梨花に電話をかけた。
梨花は出なかった。
次にメッセージ。
《話したい》
返信はない。
《やりすぎやろ》
返信はない。
《帰ってこい》
返信はない。
大輝は苛立ち、さらに送った。
《夫婦やろ》
その文字を送った瞬間、梨花のスマホには通知が届いた。
梨花はそれを見て、静かにスクリーンショットした。
そして弁護士へ転送した。
*
梨花はつぶやいた。
「もう、そこは私の帰る場所じゃない」
麻里子が横でうなずいた。
「うん」
「壊れた場所に戻ったら、また壊されるだけやもんね」
「そうや」
麻里子は少しだけ笑った。
「帰る場所は、安心できる場所でええ」
*
夜。
梨花は実家の客間で、久しぶりに自分の予定表を開いた。
病院への復帰日。
弁護士との面談。
裁判の日程。
心療内科の予約。
すべてが詰まっていた。
楽な道ではない。
でも、大輝を待つだけの日々よりは、ずっとましだった。
*
梨花はスマホのメモに、新しい言葉を打った。
《私は帰る場所を選べる》
その一文を見て、梨花は静かに息を吐いた。
壊れた場所に、無理に戻らなくていい。
それは、誰かに言われる前に、自分で自分に言ってあげたかった言葉だった。
*
次回予告
第16話「優しい支配」
大輝は態度を変え、謝罪と復縁を口にし始める。
だが、その言葉の裏には、責任逃れと金銭的恐怖が見え隠れしていた。
梨花はかつての自分なら揺れていたかもしれないと気づく。
一方、一絵は出産を決意し、両親とともに今後の生活を考え始める。
次回、
第16話「優しい支配」
優しさに見える支配ほど、心を縛る。




