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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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母の涙

第14話「母の涙」


 結婚記念日の夜は、誰にとっても忘れられない夜になった。


 梨花は離婚を告げた。


 一絵は大輝の嘘を知った。


 大輝の両親、俊也と祥子は、息子がしてきたことを目の前で突きつけられた。


 そして大輝は、それでもまだ、自分だけが追い詰められていると思っていた。


     *


 翌日。


 大輝は両親の家に呼び出された。


 リビングには、俊也と祥子が座っていた。


 祥子の目は赤かった。


 泣き腫らした顔だった。


 大輝は不機嫌そうに座る。


「何やねん」


 俊也は低い声で言った。


「お前が全責任を取れ」


 大輝は顔を上げる。


「は?」


「梨花さんにしたこと。一絵さんにしたこと。会社に迷惑をかけたこと。全部や」


「いや、でも……」


「親を頼るな」


 俊也の声は鋭かった。


「お前が自分でやったことや」


 祥子も震える声で言った。


「お母さんたちは、もう庇えへん」


「息子やろ」


 大輝が言う。


 祥子は涙を流しながら答えた。


「息子やからこそ、間違いまで抱きしめるわけにはいかへん」


     *


 俊也は続けた。


「もし責任を取らんのなら」


 大輝は黙る。


「親子の断絶も覚悟しろ」


「何言ってんねん」


「本気や」


 大輝の顔がこわばる。


 俊也は一切視線をそらさなかった。


「梨花さんを傷つけ、一絵さんを騙し、まだ人のせいにするなら、もう俺たちの息子として扱えん」


 祥子は口元を押さえて泣いていた。


 それでも、止めなかった。


     *


 月曜日。


 大輝は会社に呼び出された。


 大手精密機械メーカー。


 総務部。


 いつもなら自分が勤怠や給与の数字を扱う側だった。


 だがその日は違った。


 会議室に通されると、総務部長、人事担当、コンプライアンス担当者が座っていた。


 空気が重い。


 総務部長が言った。


「葛城大輝さん」


「はい」


「あなたに関する重大な報告と証拠資料が会社へ提出されました」


 大輝の喉が鳴った。


     *


 不貞行為。


 虚偽説明。


 配偶者への暴言と威圧。


 相手女性への独身偽装。


 会社名と残業を口実にした不適切行動。


 提出された証拠は、あまりにも具体的だった。


 写真。


 動画。


 録音。


 探偵の報告書。


 弁護士事務所からの通知。


 会社側は、事態を重く見ていた。


 総務部長は静かに告げた。


「就業規則およびコンプライアンス規定に基づき、あなたを懲戒解雇処分とします」


 大輝の視界が揺れた。


「ちょっと待ってください」


「決定事項です」


「家庭の問題じゃないですか」


「会社名を用いて残業や勤務を偽装した時点で、会社の信用にも関わる問題です」


 大輝は何も言えなかった。


     *


 会社を出た時、大輝は空を見上げた。


 昨日まで自分には仕事があった。


 家庭もあった。


 一絵との未来もあると思っていた。


 だが、そのすべてが崩れた。


 自分で壊したのに、まだそう思えなかった。


     *


 数日後。


 大輝のもとに、弁護士事務所から通知が届いた。


 梨花からの慰謝料請求。


 麻里子からの侮辱・精神的苦痛に対する別件の請求。


 さらに後日、一絵からも慰謝料請求が届いた。


 独身と偽られ、結婚を約束され、妊娠までした。


 その責任を問うものだった。


 そして両家合同で、弁護士費用、探偵費用、調査関連費用の請求も加わった。


 総額。


 一億八千万円。


 大輝は通知書を持ったまま、動けなくなった。


 目の前が真っ暗になった。


     *


「無理や……」


 大輝は両親に電話した。


 出たのは俊也だった。


「何や」


「助けてくれ」


「何を」


「金や。請求が来た」


「いくらや」


「一億八千万」


 電話の向こうで、俊也は黙った。


 大輝は必死に言う。


「親父たちも出してくれ」


「出さん」


 即答だった。


「は?」


「出さん」


「息子が苦しんでるのに助けへんのかよ!」


 その夜、大輝は実家へ押しかけた。


     *


 リビング。


 大輝は叫んだ。


「俺、人生終わるんやぞ!」


 俊也は立ち上がった。


「終わらせたのは誰や」


「だからって親なら助けろよ!」


 その瞬間。


 パンッ!!


 俊也の平手が飛んだ。


 大輝の顔が横へ弾けた。


「甘えるな!」


 俊也の怒声が響く。


「梨花さんはどうなった!」


「……」


「一絵さんはどうなった!」


「……」


「お腹の子はどうなる!」


「……」


「お前は自分の金と仕事の心配しかしてへんのか!」


     *


 祥子は泣いていた。


 けれど、もう大輝を庇わなかった。


「大輝」


 祥子は震える声で言った。


「あなたが苦しんでるのは、あなたが人を苦しめた結果や」


 大輝は呆然と立ち尽くした。


「お母さん……」


「親として悲しい。でも、あなたの代わりに責任は取れへん」


     *


 大輝は初めて、誰にも逃げ込めないことを知った。


 会社は失った。


 妻も失った。


 一絵の信頼も失った。


 両親も助けてくれない。


 残ったのは、自分が積み上げた嘘と、その代償だけだった。


     *


 一方。


 京都の旅館。


 梨花は七海に抱きしめられていた。


 七海は泣いていた。


「梨花、よう耐えたな」


「お母さん……」


「もう我慢せんでええ」


 梨花も泣いた。


 その涙は、まだ痛みの涙だった。


 けれど、少しだけ違っていた。


 もう、大輝の帰りを待つ涙ではなかった。


 自分を取り戻すための涙だった。


     *


次回予告


第15話「帰っておいで」


 梨花は実家で少しずつ眠れるようになる。


 だが離婚、慰謝料、裁判、そして一絵の妊娠。


 問題はまだ終わっていない。


 一方、大輝は失職と請求額に追い詰められ、さらに梨花へ連絡を取ろうとする。


 次回、


第15話「帰っておいで」


 壊れた場所に、無理に戻らなくていい。

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