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沈黙の琵琶湖 ― 壊れた日常の向こうへ ―  作者: リンダ


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もう戻れない

 第13話「もう戻れない」


 マンション前の空気は、凍りついたままだった。


 大輝は頬を押さえ、黙っている。


 一絵は涙を流し、両親のそばに立っている。


 梨花の家族。


 大輝の両親。


 一絵の両親。


 そして調査員。


 全員が、大輝を見ていた。


 *


 梨花は静かに口を開いた。


「大輝」


 大輝は顔を上げた。


「私は、あなたと離婚します」


 その言葉に、大輝の顔が変わった。


「待てよ」


「待たない」


「離婚はしたくない」


 梨花は表情を変えなかった。


「心入れ替えるから」


「……」


「これからちゃんとする。梨花にも謝る。一絵にも……ちゃんとするから」


 その言葉に、一絵が顔を歪めた。


 梨花は大輝を見つめた。


「今さら?」


 *


「梨花、頼む」


 大輝の声は、初めて弱くなっていた。


「離婚だけはしたくない」


 梨花は一歩前に出た。


「ねぇ、大輝」


「……」


「逆だったらどう思う?」


「え?」


「私が独身だと偽って、他の男と肉体関係を持って、その人に結婚すると言って騙して」


 大輝は黙る。


「大輝のことも騙して」


「……」


「それで、ばれたあとに、離婚したくない、心入れ替えるからって言ったら」


 梨花の声は震えていた。


 でも、崩れなかった。


「信用できる?」


 大輝は答えられない。


「できないよね」


 *


 梨花は続けた。


「私もできない」


 大輝は顔を伏せた。


「一度壊れた信用って、謝っただけでは戻らない」


「……」


「しかも大輝は、謝る前に私のせいにした」


「……」


「一絵さんの妊娠まで疑った」


 一絵の父・一也が、唇を噛む。


「それで心を入れ替えるって言われて、何を信じればいいの?」


 *


 大輝は必死に言った。


「でも、会社にだけは……」


 梨花は遮った。


「もう大輝の職場にも連絡してある」


 大輝の顔色が変わった。


「は?」


「証拠も、総務部長宛に送る予定」


「やめろ!」


「やめない」


 梨花の声は静かだった。


「大輝の会社には、不倫行為や悪質な法令違反があった場合、理由の如何を問わず懲戒処分になる規定があるんよね」


 大輝は言葉を失った。


 総務部で働いているからこそ、その規定は知っている。


 給与計算を扱う部署の人間が、就業規則を知らないはずがない。


 *


「梨花、それはやりすぎやろ」


「やりすぎ?」


「家庭の問題やん」


「家庭を壊したのは大輝やよ」


 梨花はまっすぐ言った。


「私は壊されたものを、会社にも裁判所にも正しく伝えるだけ」


「裁判所?」


「書類も出した」


 大輝の顔がさらに青ざめる。


「民事と刑事、両方の手続きが進む」


 梨花は言った。


「裁判所からも、関係する通知が届くから」


 *


 大輝は一歩後ずさった。


 ようやく、現実の重さが迫ってきた。


 家庭の中で怒鳴れば黙らせられた梨花。


 何もできないと見下していた梨花。


 その梨花が、自分を確実に追い詰めている。


 *


 梨花は低く言った。


「私、言ったよね」


 大輝は目を見開いた。


「大輝がその気なら、地獄の底まで叩き落としてやるって」


 その言葉に、大輝は完全に沈黙した。


 *


 その時、麻里子が前へ出た。


「それから」


 大輝は顔を向ける。


「私のことも侮辱したよね」


「は?」


「妹に頼らな何もできへんとか、姉妹そろって面倒くさいとか」


 麻里子の声は冷たかった。


「姉の件とは別件で、私からも通達が行くから」


 大輝は苛立った。


「お前まで何なんや」


「妹です」


 麻里子は即答した。


「姉を傷つけられて、黙ってる妹やと思うな」


 *


 大輝はその場に立ち尽くした。


 梨花。


 麻里子。


 光博。


 七海。


 一絵。


 一也。


 菊江。


 俊也。


 祥子。


 調査員。


 全員が自分を見ている。


 逃げ場がない。


 その時、ようやく大輝は、自分の犯したことの大きさを感じ始めた。


 だが。


 反省ではなかった。


 口から出たのは、また責任転嫁だった。


 *


「ここまで大事にしたのは、お前らやろ」


 全員の空気が止まった。


 大輝は続けた。


「なんで俺だけが責められなあかんねん」


 その瞬間。


 パンッ!!


 今度は、梨花の父・光博の平手が飛んだ。


 大輝の顔が横へ弾かれる。


「ふざけるな」


 光博の声は低かった。


「まだ分からんのか」


 *


 光博は大輝を睨んだ。


「お前が嘘をついた」


「……」


「お前が梨花を傷つけた」


「……」


「お前が一絵さんを騙した」


「……」


「お前が自分の子かもしれん命まで疑った」


 光博の声が震える。


「それで、なんで俺だけが責められる?」


 大輝は何も言えなかった。


「責められるだけのことをしたんやろうが!」


 *


 調査員が静かに前へ出た。


 元ラガーマンの大きな体が、大輝の前に立つ。


 だが、声は冷静だった。


「葛城さん」


 大輝は頬を押さえながら見る。


「私はラグビーをしています」


 調査員は言った。


「ラグビーには反則があります」


「……」


「軽い反則ならペナルティで済むこともある」


「……」


「しかし、危険な行為、相手を傷つける行為、試合そのものを壊す行為は、レッドカードです」


 大輝は黙る。


「あなたが行ったことは、レッドカードですよ」


 調査員は言葉を切った。


「一発退場どころか、永久追放です」


 *


 大輝は息をのんだ。


 調査員は続ける。


「これらの証拠は、提携している弁護士事務所とも共有しています」


 大輝の顔がさらに強張る。


「暴言、威圧、不貞行為、虚偽説明、相手女性への偽装、妊娠をめぐる発言」


「……」


「すべて時系列で整理されています」


 調査員は淡々と言った。


「もう、どこにも逃げ場はありませんよ」


 *


 大輝は周囲を見た。


 父の俊也は、怒りと失望を隠せない顔をしている。


 母の祥子は泣いている。


 一絵は、もう大輝を見ていなかった。


 梨花は、静かに立っていた。


 泣いていない。


 すがってもいない。


 もう、夫を見る目ではなかった。


 *


 大輝は初めて、本当に失ったものの大きさを知った。


 妻。


 信用。


 仕事。


 両親の信頼。


 一絵の信頼。


 そして、生まれてくる命に向き合う資格。


 だが、それに気づいた時には、もう遅かった。


 *


 梨花は最後に言った。


「大輝」


「……」


「もう戻れない」


 その声は静かだった。


 結婚記念日の夜。


 夫婦としての時間は、そこで終わった。


 *


 次回予告

 第14話「母の涙」


 祥子は息子の罪に向き合い、梨花へ頭を下げる。


 七海は娘を抱きしめる。


 一絵は両親の前で、大輝への信頼が崩れたことを告げる。


 そして梨花は、正式に離婚と慰謝料請求へ踏み出す。


 次回、


 第14話「母の涙」


 親の涙は、子の罪を消せない。

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