第9話 傍観者
熊の赤い目が、血を流しながらヒューを捉えていた。右目にはフィローネの放った矢が深々と突き刺さり、肩と後脚からも血を流している。普通の魔物なら、とっくに逃げ出しているような傷だ。それでも、ダスクベアは止まらない。痛みを感じていないわけではなかった。傷つくたびに巨体は震え、苦しげな唸り声が喉の奥から漏れている。ただ、その痛みがひどく鈍い。
本来なら身体を止めるはずの激痛が、遠くで鳴っている音のようにしか伝わっていない。自分の身体が壊れかけていることさえ気にせず、目の前で動くものが止まるまで襲い続ける。ダスクベアが、血に濡れた前脚を振り上げた。ヒューの頭上を覆うほど巨大な爪が、夕暮れの光を遮る。あれを受ければ。たぶん、死ぬ。逃げなければならない。剣を構えなければならない。そう思っているのに、身体が動かなかった。
倒れた木の根に挟まれた左足を引き抜こうとする。
「ぐっ……!」
足首の奥に、鋭い痛みが走った。抜けない。地面へ剣を突き立て、両腕で身体を引いても、木の根はヒューの足を放さなかった。ダスクベアが一歩踏み出す。地面が揺れた。土の上に落ちていた小石が、わずかに跳ねる。
「ヒュー!」
マリアの声がした。こちらへ駆け寄ろうとしている。
「来るな!」
叫んだつもりだった。だが、喉から出たのは息に混じった掠れた声だけだった。ダスクベアは動くものを襲う。マリアが近づけば、次は彼女が狙われるかもしれない。フィローネの矢も、あと何本残っているか分からない。薬草採取者の男は、立ち上がることさえできない。ここで自分が倒れれば。この熊は、次に動いた者へ襲いかかる。分かっている。分かっているのに、剣を握る指へ、力が入らなかった。
柄が手の中から滑り落ちそうになる。両腕は何度も爪を受けた衝撃で痺れ、呼吸をするたびに胸の奥が痛んだ。そして何より、足が震えていた。木の根に挟まれているからではない。痛いからでもない。ただ死ぬのが怖いからでもなかった。この震えを、ヒューは知っていた。ずっと忘れようとしてきた。何度も剣を振り、その記憶ごと消してしまおうとした。けれど、十年経っても。
消えることはなかった。ダスクベアの爪が、ゆっくりと持ち上がっていく。その動きが、異様なほど遅く見えた。熊の毛先から落ちた一滴の血が、ゆっくりと宙を落ちていく。赤い雫の表面に、夕暮れの光が映っていた。地面から舞い上がった砂粒まで、一つ一つ見える。マリアがこちらへ伸ばした手も、フィローネが次の矢へ手を伸ばす動きも。止まっているように見えた。音が。遠ざかっていく。
熊の唸り声も、森を揺らす風も。自分を呼ぶマリアの声も、やがて。聞こえるのは、自分の心臓の音だけになった。ドクン。ドクン。一度脈打つたびに、目の前の景色が暗くなる。森の木々が消えた。夕暮れの光が消えた。代わりに、狭く。暗い床下が現れた。
土と湿った木の匂い。身体を丸めなければ入れないほどの隙間。そこにいたのは、幼い頃のヒューだった。両手で口を塞ぎ。震えている。
『大丈夫。すぐ迎えに来るから』
母の声。
『だから、何があっても声を出してはダメよ』
小さな隙間から、ヒューは外を見ていた。母が、わざと大きな足音を立てて走っていく。自分から、魔物を引き離すために。追いかける魔物の咆哮。母の足音。そして、何かが激しく地面へ倒れる音。悲鳴が、途切れた。隙間の向こう。泥と血にまみれた服の裾。地面へ広がっていく赤。
飛び出したかった。母のところへ走りたかった。けれど、動けなかった。母に言われたとおり。声を殺した。もし声を出せば。母が自分を守った意味がなくなる。幼いヒューにも、それだけは分かっていた。だから、ただ見ていた。何もできないまま。
◇
魔物が倒され。静かになった村。床下から飛び出したヒューは、血に染まった地面を走った。
『母さん!』
倒れている母を見つけた。そのそばへ膝をつき。震える手で肩へ触れる。いつも自分を抱きしめてくれた身体は、もう。冷たくなり始めていた。
『母さん、起きてよ!』
何度も、身体を揺する。やがて、母のまぶたが。ほんの少しだけ開いた。
『よかっ……た……』
かすかな声。
『ヒュー……無事、なのね……』
『俺の心配なんてするなよ! 今、誰か呼んでくるから!』
立ち上がろうとしたヒューの手を、母の指がつかんだ。弱い。それでも、行かせまいとする力があった。
『ヒューには……笑っていてほしいの』
冷たい手が、ヒューの頬へ伸びる。けれど、届かなかった。ヒューは慌てて。自分から頬をその手へ押し当てた。
『最後に……ヒューの笑顔を……見せて……』
笑えるはずがなかった。涙が止まらない。胸が引き裂かれそうで、息をすることさえ苦しかった。それでも、母の最後の願いを叶えたかった。震える唇を、無理やり持ち上げる。
『……母さん、見て。俺、笑ってるから……』
母は。ほんの少し。目を細めた。
『うん……いい、笑顔……』
その言葉を最後に、母の手が。地面へ落ちた。
◇
遠くでは、助かった村人たちが。一人の男を英雄と呼んでいた。村を救ってくれた。大勢を助けてくれた。感謝の声。喜ぶ声。だが、その男だけが。泣き叫ぶヒューに気づいた。
『おまえの母親を救えなくて、悪かった!』
英雄と呼ばれた男は、泥と血の混じった地面へ。額をつけた。誰も。あの人を責めていなかった。多くの村人を救った。全身を傷だらけにしながら。最後まで誰かの前に立ち続けた。それでも、あの人は。救えなかった命から目を背けなかった。言い訳もしなかった。
自分は十分に戦ったなどとは、決して言わなかった。数日後。母の墓の前で、ヒューはその男を責めた。
『どうして、もっと早く来なかったんだよ……!』
『お前が英雄なら、母さんも助けられただろ……!』
『母さんを返してよ……!』
どれだけ叫んでも、男は言い返さなかった。ただ隣に座り。ヒューと一緒に、母の墓を見つめていた。そして、村を去る日。追いかけてきたヒューへ、不格好な木剣を投げ渡した。
『何回振れば、お前みたいに強くなれる?』
男が答えた。
『強くなりたいだけ振れ』
たった。それだけだった。ヒューは、遠ざかっていく背中へ。叫んだ。
『俺、お前みたいになりたい!』
『今度は俺が――守れるようになりたいんだ!』
◇
あれから、十年。ヒューは剣を振った。最初は、両手で持つだけでも重かった。まともに振れば身体がよろけ。何度も地面へ転んだ。それでも、立ち上がった。朝。昼。夕暮れ。腕が上がらなくなっても、剣を置かなかった。
手のひらに豆ができた。潰れた。血が出た。布を巻き。また振った。傷が塞がる前に、また皮が裂けた。強くなりたいだけ振れ。あの人は、そう言った。だから、何度でも振った。一度剣を振るたびに、暗い床下で震えていた自分が。
少しずつ消えていく気がしていた。母を助けられなかった自分。何もできず。隙間から見ていることしかできなかった自分。あの日の。弱い自分。消したかった。けれど、何千回。何万回。剣を振っても、消えなかった。
目を閉じれば。今でも、そこにいた。暗い床下。両手を口に押し当て。母の血を見ながら。声を殺して泣いている。幼い自分。そして、今も。同じだった。ダスクベアの爪を前に、身体が動かない。
足が震えている。また。見ているだけなのか。マリアが傷つくところを、フィローネが殺されるところを。大切な誰かを、失うところを。また。傍観者になるのか。
『強くなりたいだけ振れ』
記憶の中。あの男の声。続いて。幼い自分自身の声。
『今度は俺が、守れるようになりたいんだ!』
そうだ。ヒューは、誰よりも強くなりたかったわけではない。最強になりたかったわけでもない。ただ、あの日の自分を消すためだけに。剣を振ってきたわけでもない。剣を握った理由。それは、守れるようになるためだった。何もできないまま。ただ見ているだけで、終わらないためだった。あの日の自分は、消えない。
母を救えなかった事実も、消えない。消す必要も、なかった。断ち切るべきなのは、あの日の自分ではない。あの日から、ずっと。自分を縛り続けてきた。――自分には何もできない。その思いだった。時間が、動き出した。遠ざかっていた音が、一気に戻ってくる。熊の咆哮。
森を揺らす風。
「ヒュー!」
マリアの叫び声。そして、頭上へ振り下ろされる。巨大な爪。
「何もできないまま――見ていたくない!」
ヒューは、喉が裂けるほど叫んだ。指へ。力が戻る。両手で、剣の柄を握り締めた。正面から受ければ。剣ごと砕かれる。力では、勝てない。なら。受け止めなければいい。何千回。
何万回。振ってきた剣。身体が、考えるより先に動いた。剣を斜めに構える。爪の軌道へ、差し入れる。爪と刃が、激突した。甲高い音が、森を裂く。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃が、両腕を突き抜けた。肩の骨が軋む。握った指から、感覚が消えそうになる。それでも、力へ逆らわない。押し返すな。受け止めるな。剣の腹へ、爪の力を乗せる。そのまま、外へ。流す。刃を。
ほんの僅か。傾ける。巨大な爪が、火花を散らしながら。剣の上を滑っていった。
「っ!」
振り抜かれた前脚が、ヒューの顔の横を通り過ぎる。爪。地面へ、叩きつけられた。土が。激しく弾け飛ぶ。すべての力を攻撃へ込めていたダスクベアの巨体が、大きく前へ傾いた。こいつは、防御をしない。傷つくことも、反撃されることも。考えていない。その首が、ヒューの目の前へ。
さらされた。ただ一度。その機会だけは、逃さなかった。
「ぐっ……!」
ヒューは、木の根に挟まれた左足を。力任せに引き抜いた。足首に、激痛。皮膚が裂ける。血が滲む。構わない。一歩。踏み込む。その瞬間、十年前に見た光景が。脳裏へ蘇った。
振り下ろされた魔物の爪。それを受け流し。勢いのまま。剣を突き出した。あの男。傷だらけの。ヒューが追い続けた背中。
「俺は――」
ヒューは叫んだ。
「もう、見ているだけじゃない!」
《戦士》として得た力を、足へ。《剣士》として積み重ねた技術を、刃へ。十年間。振り続けてきたすべてを、守りたいと願った。あの日の誓いを、ただ一度の斬撃へ。
「うおおおおおおおっ!」
腹の底から声を上げ。剣を振り抜いた。一閃。刃が。ダスクベアの首へ、深く食い込む。肉。そして、硬い骨を断つ感触。両手へ、伝わった。剣は。勢いを失わない。
そのまま、首を斬り抜けた。ダスクベアの巨体が、ヒューの横を通り過ぎる。一歩、二歩。三歩。前脚が、大きくよろめいた。赤い左目は、それでも獲物を探すように動いている。だが、もう。振り返ることはできなかった。巨体が、地面へ倒れ込んだ。森の大地が、大きく揺れる。
土埃。舞い上がる。折れた枝が、地面を跳ねた。ダスクベアの爪が、一度だけ。土を掻いた。そして、赤い目から。光が消える。全身から、力が抜けていった。
「はぁ……はぁ……」
ヒューは、剣を振り抜いた姿勢のまま。荒い息を吐いた。指の感覚がない。両腕も、痛めた左足も。震えている。身体の中に残っていた力を、全部。使い果たしていた。それでも、顔を上げる。倒れたダスクベア。その向こう。
マリア。フィローネ。二人とも、立っている。二人とも、生きている。その姿を確認した瞬間。全身から、力が抜けた。剣が。手を離れる。地面へ、落ちる。ヒューの身体も、続くように。
前へ傾いた。
「ヒュー!」
マリアが、何かを叫びながら走ってくる。けれど、その声を最後まで聞き取ることはできなかった。地面へ倒れ込む直前。ヒューは目を閉じた。二人とも、生きていた。そして、もう。ヒューは傍観者ではなかった。




