第8話 深い森
人の悲鳴が、森の奥から響いた。
「こっちよ!」
マリアが迷わず駆け出した。木々の隙間を抜ける風が、彼女の髪を後ろへ流している。耳を澄ませているのではない。風の流れに混じる音を拾い、悲鳴の方向を探っているのだ。ヒューはその背を追いながら、剣の柄へ手をかけた。右側の茂みが揺れる。だが、飛び出してきたのは一羽の小鳥だった。ヒューの横をかすめ、三人が進んでいる方向とは反対側へ逃げていく。森の中が騒がしい。
先ほどまで聞こえていた鳥の声は消え、代わりに枝の折れる音が遠くから何度も届いていた。
「マリア、あとどれくらいだ?」
「近いわ。さっきより悲鳴が小さくなってる」
声を出す力さえ失いかけているのかもしれない。
「左は私が見るわ」
フィローネが弓を構えたまま、ヒューたちの横を走る。彼女はマリアのように風が運ぶ音を拾うことはできない。それでも《狩人》として培った目は、折れた枝や踏み荒らされた草を素早く見つけていた。
「誰かがここを通ってる。かなり慌てていたみたい」
地面には大人の靴跡が続いている。歩幅が一定ではない。途中から片方の足跡だけが深くなり、土の上を引きずった跡へ変わっていた。
「怪我をしているのか」
「その可能性が高いわ」
フィローネが足を止めずに答える。前方でマリアが大きく腕を振った。
「いたわ!」
茂みを抜けた先に、少しだけ開けた場所があった。その中央で、一人の男が倒れている。背負い籠が地面へ転がり、中に入っていた薬草が周囲へ散らばっていた。土で汚れた服を見る限り、何度も転びながらここまで逃げてきたのだろう。
「大丈夫ですか!」
マリアが男のそばへ駆け寄る。
「う……」
男は反応したが、起き上がることはできなかった。右足のズボンが裂け、ふくらはぎから血が流れている。傷は深いものの、魔物の爪で直接えぐられたようには見えない。
「木の枝で切った傷ね。動かさないで」
フィローネが弓を背へ戻し、男の足元へ膝をついた。昨日、ヒューの傷へ使ったのと同じ淡い光が、その掌から広がっていく。流れていた血が少しずつ止まった。フィローネは傷口を確認すると、男の服の裾を短剣で切った。それを包帯代わりに巻き、しっかりと縛る。
「これで出血は抑えられる。でも、すぐに町へ戻した方がいい」
「す、すまない……」
男が苦しそうに息を吐いた。顔は青ざめ、額には大量の汗が浮かんでいる。
「何があったんですか?」
マリアが尋ねた瞬間、男の目が大きく見開かれた。
「来る……」
「何が?」
「奥に……化け物が……」
震える手が、男の逃げてきた方向を指す。
「熊だ……大きな熊が……急に襲ってきた」
「熊型の魔物?」
フィローネが立ち上がり、弓を手に取った。
「色は分かる?」
「黒い……いや、灰色だったかもしれない……影みたいな毛で……」
男は言葉を続けようとしたが、喉が引きつった。
「目が……赤かった」
その瞬間、森の奥で木が折れた。ばきばきと太い枝が砕け、葉の擦れ合う音が近づいてくる。男の顔から、さらに血の気が引いた。
「来た……!」
地面が揺れた。一度、二度。重い何かが地面を踏みしめるたび、散らばった薬草がわずかに跳ねる。
「マリア、彼を頼む」
ヒューは剣を抜き、男の前へ立った。
「でも、ヒュー一人では――」
「一人じゃないでしょう?」
フィローネがヒューの左側へ移動し、弓へ矢をつがえた。
「私は後ろから狙う。マリアは怪我人を守りながら援護をお願い」
「分かったわ」
マリアは男の腕を自分の肩へ回し、近くの大木まで身体を引きずった。
「ここから動かないでください」
「逃げろ……あれは普通じゃない……」
男の忠告をかき消すように、目の前の茂みが大きく膨らんだ。一本の若木が、根元から倒れる。葉を巻き込みながら現れたのは、これまでヒューが見たどの熊よりも大きな魔物だった。四本の脚で立っているにもかかわらず、その背はヒューの胸ほどの高さにある。立ち上がれば、見上げるほどの巨体になるだろう。毛並みは黒ではない。薄暗い森の中へ溶け込むような、濃い灰色。
光の当たり方によって黒くも見えるその毛は、全身にまとわりつく影のようだった。
「ダスクベア……」
フィローネが低く呟いた。
「知っているのか?」
「森の深い場所に縄張りを持つ魔物よ。グレートファングウルフより、ずっと強い」
ダスクベアが低く唸る。開いた口の間から、黄色く濁った牙がのぞいている。そして男が言ったとおり、二つの目は赤かった。夕日に照らされた赤ではない。血が溜まったような、濁りのある赤。
「……おかしい」
フィローネの声がわずかに硬くなった。
「何がだ?」
「ダスクベアが森のこんな浅い場所まで出てくるなんて、普通はあり得ない」
魔物は答える代わりに、前脚で地面を掻いた。土が後方へ飛び散る。
「来るぞ!」
ヒューが叫んだ直後、ダスクベアが駆け出した。巨体からは想像できない速度だった。一歩ごとに地面が揺れ、灰色の塊が視界いっぱいに迫ってくる。ヒューは剣を斜めに構えた。正面から止めるのは無理だ。グレートファングウルフと戦ったときと同じように、攻撃の軌道を外側へ流す。爪が届く直前、身体を半歩ずらした。剣の腹をダスクベアの前脚へ添え、その勢いを横へ逃がそうとする。
「ぐっ……!」
重い。流すどころではなかった。前脚が剣へ触れた瞬間、両腕が痺れた。続いて肩へ凄まじい衝撃が走り、ヒューの身体が地面から浮く。
「ヒュー!」
景色が回った。背中から地面へ落ち、一度、二度と転がる。最後に木の根へぶつかり、ようやく止まった。
「かはっ……!」
肺から空気が押し出された。剣は離していない。だが、指先の感覚がほとんどなかった。今の一撃をまともに受けていたら、どうなっていたのか。考えるまでもない。《戦士》を宿していなければ、腕か肋骨を折っていただろう。
「こっちよ!」
マリアが手を振った。風がダスクベアの顔へ叩きつけられる。土や枯れ葉が巻き上がり、赤い目を覆った。ダスクベアが顔を振る。その間に、フィローネが矢を放った。矢は前脚の付け根へ深く突き刺さる。普通の魔物なら、動きを止めてもおかしくない傷だ。しかし、ダスクベアは矢を見ようともしなかった。
「効いてないの?」
マリアが驚きの声を上げる。
「いいえ、傷は入ってる!」
フィローネが次の矢をつがえた。ダスクベアは痛みを感じているはずだ。矢が刺さった前脚を地面へついた瞬間、わずかに身体が傾いている。それでも逃げることも、傷口を守ることもしない。赤い目が動いた。今度はマリアを捉える。
「マリア、離れろ!」
ダスクベアが突進した。マリアは怪我人を木の陰へ残し、自分だけ横へ走る。まだ身体に馴染みきっていない《風術師》の力が、彼女の足元へ集まった。背中を押す風に乗り、身体が一気に加速する。熊の爪が、わずかに遅れて空を裂いた。マリアがいた場所の地面が深くえぐれる。
「危なっ……!」
だが、速度を上げすぎたマリアは、そのまま木へぶつかりそうになった。身体を包んでいた風を弱め、どうにか幹の手前で止まる。
「まだ止まり方が下手なのよ!」
「今は練習してる場合じゃないだろ!」
ヒューは立ち上がりながら叫んだ。胸が痛む。だが、動けないほどではない。ダスクベアはすでにマリアへ向き直っていた。
「こっちだ!」
ヒューが背後から駆け寄り、右後脚へ剣を振り下ろした。刃は灰色の毛を裂き、その下の肉へ食い込む。血が飛んだ。確かな手応えがあった。それでもダスクベアは振り向かない。攻撃を受けたことに気づいていないわけではない。片方の耳が動き、頭がわずかにヒューの方へ向いた。だが、正面で動いているマリアへの攻撃を優先した。
「こいつ……!」
ヒューが剣を引き抜く。その瞬間、ダスクベアの巨体が突然回転した。前脚が横薙ぎに振るわれる。
「ヒュー、伏せて!」
フィローネの声に反応し、ヒューは地面へ身を沈めた。爪が頭上を通過する。風圧だけで髪が大きく揺れた。そこへフィローネの矢が飛んできた。狙いはダスクベアの顔。魔物は矢が迫っているにもかかわらず、顔をかばわなかった。赤い右目へ、矢が真っすぐ突き刺さる。
「――当たった!」
マリアが声を上げた。ダスクベアの頭が後ろへ仰け反る。低い唸り声が漏れた。今度こそ止まる。ヒューはそう思った。だが、魔物は一度だけ首を強く振ると、そのまま前脚を地面へ下ろした。矢は右目に刺さったままだ。赤黒い血が頬を伝い、灰色の毛を濡らしている。それでもダスクベアは倒れなかった。
「嘘でしょう……」
フィローネが呆然とする。
「目を射抜いたのよ」
ダスクベアが、残された左目で彼女を見た。
「フィローネ!」
ヒューが叫ぶ。熊が駆け出す。フィローネはすぐに横へ跳んだ。だが、避けた先には太い木が立っている。ダスクベアは速度を落とさなかった。フィローネではなく、進行方向にある木ごと破壊するつもりなのか。巨体が幹へ激突した。鈍い音が森へ響き、木全体が大きく揺れる。フィローネは直前に反対側へ回り込み、辛うじて巻き込まれずに済んだ。木の幹には、深い爪痕が刻まれている。
「痛みを感じてないのか?」
ヒューが呟く。
「違うわ」
フィローネはダスクベアから距離を取りながら、刺さった矢を見つめた。
「痛みはあるはずよ。矢が刺さったとき、一瞬だけ反応した」
「じゃあ、なぜ止まらない?」
「分からない。でも……本来なら耐えられない痛みが、ただの鈍い痛みみたいに感じてるのかもしれない」
目へ矢が刺されば、普通の獣なら激痛で暴れる。視界を失った恐怖から逃げることもあるだろう。だが、この熊は違う。傷を庇おうともしない。
「防御もしない。傷つくことを恐れてないのか?」
「恐れてないというより……」
フィローネは言葉を切った。ダスクベアが木から離れる。片目を潰され、脚と肩から血を流している。呼吸は荒い。傷も浅くはない。それでも、動きにはほとんど衰えが見られなかった。
「何も考えてないみたい」
マリアが二人のそばへ戻ってくる。
「こちらの攻撃を避ける気も、自分を守る気もない。ただ、目の前のものを壊そうとしてるだけ」
そのときだった。先ほどダスクベアが激突した木から、長い音が響く。幹に刻まれた亀裂が広がっていく。
「倒れる!」
ヒューが叫んだ。太い木がゆっくりと傾き、枝を周囲の木々へぶつけながら倒れていく。三人は落下する方向から離れた。地面へぶつかった木が、大量の枯れ葉と土煙を巻き上げる。ダスクベアも巻き込まれなかった。だが、倒れた木が地面へ落ちた瞬間、熊の様子が変わった。それまでヒューたちへ向けられていた赤い左目が、倒木へ動く。地面へ落ちた枝が、衝撃で何度も跳ねていた。ダスクベアが吠えた。
そして、突然倒木へ襲いかかった。
「え……?」
マリアが動きを止める。熊は太い枝へ前脚を叩きつけた。一度、二度。木の皮が剥がれ、細い枝が折れて飛び散る。それでも攻撃をやめない。噛みつき、爪を振り下ろし、すでに倒れている木を何度も破壊していく。
「どうして木を……」
ヒューが呟く。
「動いたからよ」
フィローネが答えた。
「何?」
「倒れたときに枝が揺れた。それを見て襲いかかったのよ」
「木を敵だと思ったのか?」
「たぶん、敵かどうかも判断してない」
フィローネは地面から小石を拾った。ダスクベアの左側、少し離れた場所へ投げる。小石が茂みへ落ち、葉を揺らした。熊の攻撃が止まる。残った左目が、茂みへ向いた。次の瞬間、ダスクベアは倒木を放置して、葉が揺れた場所へ突進した。茂みの中へ前脚を振り下ろす。土がえぐれ、草が空中へ飛び散った。
「やっぱり」
フィローネが息を呑む。
「あれは、動くものなら何にでも攻撃する」
熊は茂みが動かなくなっても、何度か爪を叩きつけた。そして完全に動きが止まると、ゆっくりと顔を上げる。左目が再び三人を捉えた。
「敵を選んでるわけじゃないのか」
ヒューは剣を握り直した。
「視界に入って動いたものを、動かなくなるまで壊してるだけ」
「それなら、誘導できるかもしれないわ」
マリアが近くに落ちていた枝へ手を向ける。風が集まり、枝が地面から浮き上がった。
「待って」
フィローネが止めるより早く、マリアは枝を横へ飛ばした。ダスクベアの目が動く。投げられた枝を追い、熊が駆け出した。
「効いた!」
枝が地面へ落ちる。ダスクベアはその上へ前脚を振り下ろし、一撃で砕いた。
「今だ!」
ヒューは熊の背後へ回り込む。狙うのは、先ほど斬った右後脚。同じ場所へ傷を重ねる。剣を振り下ろす直前、足元に風が集まった。マリアが後ろから、ヒューの踏み込みへ風を重ねてくれたのだ。身体が一歩分だけ速く進む。刃が傷口へ食い込んだ。ダスクベアの脚が大きく沈む。
「入った!」
「まだ離れて!」
フィローネの警告が飛ぶ。熊が振り返る。動きは速い。ヒューは剣を引き抜き、後ろへ跳んだ。直後、爪が胸元をかすめる。服が裂け、皮膚に焼けるような痛みが走った。浅い。血は出ているが、戦えないほどではない。
「ヒュー!」
「大丈夫だ!」
ヒューは距離を取った。ダスクベアは傷ついた右後脚を地面へつけている。少しだけ身体が傾いていたが、それでも歩みを止めない。
「同じ脚を狙えば、動きを落とせる」
「でも、何度必要になるか分からないわ」
フィローネが矢をつがえる。
「私も同じ傷を狙う。もう一度、注意を逸らして」
「分かった」
マリアが別の枝を風で持ち上げる。熊の視界を横切るように動かした。ダスクベアは即座に反応し、枝へ向かって突進する。フィローネが矢を放った。だが、走る熊の脚は激しく動いている。矢は狙った傷口から外れ、太腿へ刺さった。
「外した……!」
「いや、十分だ!」
ヒューが再び走り出す。ダスクベアが枝を砕く。攻撃を終えるより先に、ヒューは後脚へ迫った。剣を横に振り抜く。傷口がさらに広がり、血が地面へ散った。今度こそダスクベアの身体が大きく傾いた。それでも倒れない。三本の脚で無理やり踏ん張り、そのままヒューへ身体を向ける。
「まだ動けるのか……!」
熊が前脚を振り上げた。ヒューは剣で受けず、後方へ転がって避ける。爪が地面へ突き刺さった。土が弾け、細かな石が頬へ当たる。ヒューが立ち上がるより先に、もう一方の前脚が振られた。剣の腹で受け止める。衝撃に耐え切れず、身体が横へ押し飛ばされた。
「ヒュー、離れて!」
マリアが風を放つ。強い突風がダスクベアの顔へぶつかった。熊は顔を背けたが、後退はしない。
「もっと強く……!」
マリアが両手を前へ突き出す。風の勢いが増す。髪が激しく揺れ、彼女の靴が土の上をわずかに滑った。だが、ダスクベアは前脚を地面へ食い込ませ、風に逆らって進み始めた。
「押し返せない……!」
「魔力を使いすぎるな!」
ヒューが叫ぶ。マリアは《風術師》を得て、まだ日が浅い。力の使い方にも、魔力の配分にも完全には慣れていない。先ほどから移動と援護を繰り返し、すでに呼吸も乱れ始めていた。
「でも、このままじゃ――」
「別のものを動かしてくれ! 力比べをする必要はない!」
マリアが周囲を見回す。熊の左側に、折れかけた太い枝が垂れ下がっていた。風が枝を大きく揺らす。葉が音を立てた。ダスクベアの左目がそちらへ向く。ヒューへ向かっていた身体の向きを変え、揺れる枝へ突進した。
「よし!」
爪が幹へ叩きつけられる。枝が根元から折れ、地面へ落ちた。熊は落ちた枝へ何度も攻撃を続ける。
「これなら戦える」
ヒューは荒い呼吸を整えた。性質は見抜いた。動くものへ反応するのなら、その方向を操ればいい。防御しないのなら、同じ場所へ傷を重ねればいずれ倒せる。だが、フィローネの表情は険しいままだった。
「楽観しない方がいいわ」
「何か気づいたのか?」
「私たちは、さっきから何度も走ってる。マリアは魔法を使い続けてるし、あなたも攻撃を受けてる」
フィローネは矢筒へ手を伸ばした。
「矢の数にも限りがある。でも、あの熊はまだ速度が落ちてない」
ダスクベアの呼吸は荒い。大量の血も流している。片目を失い、後脚には深い傷がある。それなのに、動きだけは最初とほとんど変わっていない。
「疲れないのか?」
「疲れてはいるはずよ。心臓も肺も普通の生き物と同じなら」
フィローネが小さく首を振る。
「でも、疲労まで感じにくくなってるのかもしれない」
痛みを鈍らせ、傷を無視する。疲れても止まらず、身体が壊れるまで攻撃を続ける。長期戦になれば、先に限界を迎えるのは三人の方だ。
「早く脚を潰すしかない」
ヒューが言った。
「動けなくなれば、いくら力が強くても攻撃できない」
「ええ。同じ場所へ当てるわ」
フィローネが弓を構える。マリアも頷き、再び枝へ手を向けた。そのとき。
「気を……つけろ……」
背後から、男の声が聞こえた。木の陰で横たわっている薬草採取者が、震える指を持ち上げている。
「あいつは……俺を追ってきたんじゃない……」
「どういう意味ですか?」
マリアが振り返る。
「逃げてる途中で……鹿がいた……」
男は苦しそうに息を吸った。
「あいつは俺を追うのをやめて……鹿を襲った……そのあと、木から飛び立った鳥を追って……また俺を見つけた……」
誰か一人を獲物として狙っているわけではない。動くものを見つけるたび、標的を変えている。先ほどフィローネが見抜いたとおりだった。
「目立つ動きをすれば、必ず反応する」
ヒューは周囲を見た。倒れた木。折れた枝。地面へ張り出した根。利用できるものはいくらでもある。
「マリア。熊の左側に枝を動かしてくれ」
「左?」
「右目はもう見えてない。残った左目の側へ動かせば、必ずそっちを向く」
「分かったわ」
「フィローネは脚を頼む。今度は俺が動きを止める」
「どうやって?」
「注意が枝へ向いたら、正面から入る」
「傷ついた脚を狙うんじゃないの?」
「俺が正面で動けば、熊は俺を攻撃する。その瞬間、身体を支えるために脚の動きが止まる」
フィローネの眉が寄った。
「危険すぎるわ」
「走ってる脚へ当て続けるよりはいい」
「攻撃を受けたら終わりよ」
「受けるつもりはない」
ヒューはそう答えたが、自信があるわけではなかった。最初の一撃は、受け流すことすらできなかった。それでも避け続けているだけでは勝てない。《剣士》の技術と《戦士》の身体。二つの職業を使い、ぎりぎりまで熊の攻撃を引きつける。
「……一度だけよ」
フィローネが言った。
「危ないと思ったら、すぐ離れて」
「ああ」
「準備はいい?」
マリアが右手を上げる。ヒューは剣を構えた。
「やってくれ」
風が動いた。地面に落ちていた長い枝が浮き上がり、ダスクベアの左側を横切る。熊はすぐに反応した。枝を追って身体の向きを変える。ヒューが駆け出す。枝へ爪を振り下ろそうとしたダスクベアの正面へ回り込み、剣を大きく掲げた。
「こっちだ!」
赤い左目がヒューを捉える。ダスクベアが枝を放置し、前脚を振り上げた。狙いどおりだ。攻撃の直前、身体を支えるために傷ついた右後脚が地面を強く踏みしめる。脚の動きが止まった。
「今だ!」
フィローネの弓弦が鳴る。矢が真っすぐ飛んだ。傷口へ吸い込まれる。深く刺さり、ダスクベアの脚が崩れた。
「入った!」
巨体が前へ傾く。振り上げていた前脚が、予定していた軌道から外れた。ヒューは横へ跳ぶ。熊の爪が地面へ叩きつけられる。
「成功した!」
マリアの声が聞こえた。傷ついた右後脚は、もうまともに地面へつけない。これなら速度を落とせる。そう思った直後。ダスクベアは三本の脚で地面を蹴った。
「なっ――」
巨体がヒューへ突っ込んでくる。走れないのなら、身体ごとぶつかればいい。熊は自分の脚がさらに壊れることさえ気にせず、残された力で突進した。ヒューは避けようとした。だが、後ろへ下げた足が木の根へ引っかかる。身体が傾いた。
「ヒュー!」
マリアが風を放つ。突風が横からダスクベアへぶつかった。ほんのわずかに軌道がずれる。熊の肩がヒューの身体をかすめた。直撃は避けた。しかし、巨体との接触だけでヒューは弾き飛ばされた。背中から地面へ落ちる。剣が手を離れ、少し先の土へ突き刺さった。
「くっ……!」
すぐに起き上がろうとした。だが、左足が動かない。木の根の間へ靴が挟まり、足首が抜けなくなっていた。
「ヒュー、動いて!」
マリアの叫び。目の前で、ダスクベアが立ち上がる。傷ついた後脚を引きずりながら、それでもヒューへ向かってくる。
「くそっ……!」
ヒューは身体を捻り、足を引き抜こうとした。抜けない。ダスクベアが目前まで迫る。赤い左目。右目に刺さったままの矢。血に濡れた牙。熊が前脚を振り上げた。ヒューは地面へ突き刺さっていた剣へ手を伸ばす。指先が柄に届く。剣を引き抜き、両手で横に構えた。
巨大な爪が振り下ろされる。剣と爪が衝突した。
「ぐっ……!」
両腕へ、これまでで最も重い衝撃が走る。剣が胸元まで押し込まれた。足を取られているため、後ろへ力を逃がすこともできない。肘が震える。肩の骨が軋む。それでも、どうにか一撃を受け止めた。
「ヒュー!」
マリアが駆けてくる。フィローネも矢を放った。矢がダスクベアの首へ刺さる。だが、熊はヒューから目を離さなかった。動くものを襲う。今、目の前で最も大きく動いているのはヒューだ。ダスクベアが前脚を持ち上げる。ヒューの腕から力が抜けかけていた。一度目は止めた。だが、次も同じように受ければ、剣か腕のどちらかが先に折れる。
足は、まだ抜けない。マリアの風が届くより早く。フィローネが次の矢をつがえるより早く。赤い目をした熊が、再び爪を振り下ろした。




