第10話 成長の代償
ヒューが目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れた宿の天井だった。
「……ん」
身体を起こそうとする。
「いっ……!」
全身へ痛みが走った。肩。腕。背中。腰。脚。どこか一か所ではない。身体中の筋肉が、まとめて悲鳴を上げているようだった。
「なんだ、これ……」
ヒューは枕へ頭を戻した。ダスクベアとの戦いで何度も攻撃を受けた。胸も痛い。左足首にも傷がある。それは分かる。だが、今感じている痛みは、それだけではなかった。十年間剣を振り続けてきたヒューは、筋肉痛には慣れている。だからこそ分かった。これは筋肉痛だ。それも、今まで経験したことがないほどひどい。
「熊に殴られると、こんなところまで痛くなるのか……?」
「ならないわよ」
「うわっ」
横から声がした。顔を向ける。部屋の隅。椅子に座ったマリアが、呆れた顔でこちらを見ていた。
「起きてたのか」
「ずっといたわよ」
「気づかなかった」
「でしょうね。さっきまで死んだみたいに寝てたもの」
マリアは立ち上がろうとして――
「いたた……!」
腰を押さえた。
「……マリア?」
「何?」
「今、痛いって」
「言ってない」
「言っただろ」
「言ってない」
「いたたって」
「聞き間違いよ」
そう言いながら。マリアは、ひどくゆっくり立ち上がった。
「マリアも筋肉痛なのか?」
「……少し」
「少し?」
「少しよ」
歩き方まで少しぎこちない。どう見ても少しではなかった。ヒューが笑いかける。
「笑ったら怒るわよ」
「まだ笑ってない」
「顔が笑ってる」
「マリアも同じなら、熊のせいじゃないのか」
「たぶん違うわ」
マリアがベッドの横まで来る。
「状態を確認してみて」
「状態?」
「レベル」
言われて。ヒューは自分の内側へ意識を向けた。淡い文字が浮かぶ。
【名前:ヒュー】
【レベル:15】
【職業:《剣士》《戦士》】
【魂の器:2/2】
「……」
ヒューは何度か瞬きをした。
「どうしたの?」
「十五」
「え?」
「俺」
もう一度見る。変わらない。
「レベル15になってる」
「十五!?」
今度は、マリアが大きな声を出した。
「昨日十一だったでしょう!?」
「ああ」
「四つも上がったの!?」
「みたいだ」
「ちょっと待って」
マリアも目を閉じる。自分の状態を確認する。
「……」
「どうだ?」
「十四」
「マリアも四つ上がってるじゃないか」
「……本当だわ」
マリアが自分の腕を見る。
「私、昨日まで十だったのに」
二人とも、一度の戦いで。四つ。普通ではない。そのとき、部屋の扉が開いた。
「起きた?」
フィローネだった。片手には果物の入った小さな籠を持っている。
「ああ」
「ならよかった」
フィローネは部屋へ入り。近くの椅子へ腰を下ろそうとした。
「……っ」
一瞬。表情が固まった。非常にゆっくり。座る。ヒューが見つめる。
「フィローネ」
「何?」
「痛いのか?」
「何が?」
「身体」
「別に」
「今、すごくゆっくり座ったぞ」
「気のせいよ」
「フィローネも筋肉痛だって」
マリアが言った。
「マリア」
「何?」
「余計なことを言わなくていいわ」
「だって昨日からずっと――」
「マリア」
「はい」
ヒューは笑った。
「二人とも同じじゃないか」
「ヒューが一番ひどいから安心しないで」
フィローネが即座に返す。
「私は二つ上がってた」
「レベル?」
「ええ。今は十六」
「フィローネまで……」
三人とも、ダスクベアとの戦いで。大きくレベルを上げていた。
「一度にこんなに上がることがあるのか?」
「滅多にないわ」
フィローネが答えた。
「でも、ないわけじゃない」
「神の祝福は、魔物を何体倒せば一つ上がる、みたいなものじゃないでしょう?」
「ああ」
鍛錬。経験。仕事。戦い。その中で、どれだけ成長したのか。それを、神々が認める。
「昨日の戦いで、私たちは今までにないくらい自分の力を使った」
フィローネが自分の腕を動かした。
「あなたは、自分よりはるかに力の強い相手と正面から戦った」
ヒュー。
「マリアは、覚えたばかりの《風術師》を実戦の中で使い続けた」
マリア。
「私も、動きの読めない相手に何度も矢を当てた」
「それが一気に評価された?」
「そう考えるのが自然ね」
ヒューは、もう一度。自分の身体を見る。
「じゃあ、この筋肉痛も?」
「たぶん祝福の影響」
フィローネが答えた。
「短い間に身体が大きく成長すると、こうなる人がいるの」
「レベルが上がっただけなのに?」
「数字だけが変わるわけじゃないもの」
筋力。身体の丈夫さ。反応。魔力。職業によって違いはあっても、祝福を受ければ。身体そのものが少しずつ変わっていく。
「普通なら、時間をかけて少しずつ変わる」
フィローネがヒューを見る。
「でも今回は、それが一気に来た」
「身体がついていけてないのか」
「そういうこと」
マリアが自分の肩を揉んだ。
「だから昨日から身体中が痛いのね……」
「昨日から?」
ヒューが聞き返す。
「俺はどれくらい寝てた?」
「町へ戻ってからずっと」
「どうやって戻ったんだ?」
「……」
マリア。黙る。フィローネも、黙る。
「?」
嫌な予感がした。
「俺、歩いて帰った記憶がない」
「歩いてないもの」
マリアが答えた。
「じゃあ」
「運んだの」
「誰が?」
マリアは自分を指した。次に、フィローネ。
「私たち」
「……二人で?」
「二人で」
◇
ダスクベアが倒れ。ヒューが気を失ったあと。二人はまず薬草採取者の男を休ませた。フィローネの治癒魔法と応急処置のおかげで、男は太い枝を杖代わりにすれば、どうにか歩くことができた。問題は、完全に意識を失ったヒューだった。
「重い!」
マリアが叫んだ。ヒューの右腕を自分の肩へ回している。反対側では、フィローネが左腕を肩へ乗せていた。
「そっち、ちゃんと持って!」
「持ってるわよ!」
「足が地面に引っかかってる!」
「だって重いんだもの!」
ヒューの身体は、二人の間で。ほとんど引きずられていた。服は泥だらけ。血もついている。熊の毛まで付着していた。
「なんでこんなに重いのよ!」
「《戦士》になって筋肉が増えたんじゃない?」
「そんなところで成長しなくていいわよ!」
「私に言わないで!」
途中。ヒューの足が、木の根へ引っかかった。身体が一気に後ろへ持っていかれる。
「きゃっ!」
「ちょっと!」
二人とも、危うく倒れかけた。
「もう置いて帰らない?」
フィローネが言う。
「駄目よ!」
「冗談よ」
「目が本気だったわよ!」
少し後ろでは、薬草採取者の男が。杖代わりの枝へ身体を預けながら歩いていた。
「俺より……大変そうだな……」
「喋らないで歩いてください!」
マリアが振り返って叫んだ。さらにしばらく進む。ヒューが。
「……う……」
小さく声を出した。
「ヒュー?」
マリアが顔を見る。
「起きた?」
「……母さん……」
「……」
マリアの眉が動く。
「私はあなたのお母さんじゃないわよ!」
返事はなかった。また。眠っている。
「今の状態で間違えられるの、ちょっと腹が立つわね」
泥まみれ。汗まみれ。髪も乱れている。フィローネが、少し笑った。
「お母さんも苦労したのかもしれないわね」
「笑ってないで持って!」
「持ってるわよ」
町へ着いた頃。二人は、ダスクベアと戦った直後より疲れていた。
◇
「……すまない」
話を聞き終えたヒューは、素直に謝った。
「本当に大変だったんだから」
マリアが腕を組む。
「重いし」
「悪かった」
「汚いし」
「それも悪かった」
「血はつくし」
「俺の意思じゃないだろ」
「服を洗うの大変だったのよ」
「洗ってくれたのか?」
「宿の人に頼んだわ」
「……ありがとう」
「だから」
マリアが言った。
「ヒューのおごりね」
「何が?」
「ケーキ」
「……なんで?」
「運搬料」
「運搬料?」
「町まで運んだでしょう?」
「俺を運ぶ依頼を受けたわけじゃないだろ」
「だから依頼料をあなたから取るのよ」
「おかしくないか?」
フィローネが頷いた。
「私は賛成」
「フィローネまで?」
「半分は私が運んだもの」
「……」
二対一。勝てる気がしなかった。
「分かった」
ヒューは諦めた。
「治ったらな」
「約束よ」
「ああ」
◇
出発まで、三人は新しい依頼を受けないことにした。ダスクベア戦で受けた傷。急激なレベル上昇。身体が完全に回復していない状態で、さらに戦う理由はない。ギルドへはすでに報告を済ませていた。本来なら深い森にいるはずのダスクベア。異常に赤い目。鈍くなった痛覚。傷も疲労も無視して、動くものを攻撃し続ける異常な行動。そして、以前から続いていた。
森の奥から浅い場所へ移動してくる魔物たち。ギルドも、ただの偶然ではないと判断したらしい。後日。さらに高ランクの冒険者を含む調査隊が、森の深部へ入ることになった。ヒューたちは、その結果を待たない。もう。リーヴェンへ向かう護衛依頼を受けている。今やるべきことは、休むことだった。
◇
最初の日。ヒューは、ほとんど寝て過ごした。起きれば。食べる。また寝る。起きる。腹が減っている。
「また食べるの?」
食堂で、マリアが呆れた。
「腹が減った」
「さっき食べたでしょう?」
「ああ」
「パン何個食べた?」
「覚えてない」
「肉は?」
「二皿」
「スープは?」
「三杯」
「それでまだ食べるの?」
「腹が減ってる」
「すごいわね……」
だが、そう言ったマリアの前にも。いつもより多い皿が並んでいる。ヒューが見る。
「マリアも食べてるじゃないか」
「私は普通よ」
「パン三個目だぞ」
「……」
「普通なのか?」
「成長には栄養が必要なのよ」
「じゃあ俺も同じだ」
「ヒューは食べすぎ」
「なんでだよ」
フィローネまで、普段より多く食べていた。三人とも、身体が急激な成長に必要なものを。求めているのかもしれない。
◇
身体の痛みが少し引くと。三人は、短い時間だけ外へ出るようになった。戦わない。鍛え込まない。ただ、歩く。身体を、新しい力へ慣らす。ヒューは宿の裏で、借りた木剣を。軽く振ってみた。
「……」
軽い。以前より、明らかに。身体へ余裕がある。力任せに振っているわけではない。踏み込む足。腰。肩。腕。全身が、今までより自然につながっていた。止める。
「……すごいな」
自分の身体。なのに、少しだけ。別の身体へ乗り換えたような感覚。
「調子に乗って振りすぎないでよ」
後ろから、マリアの声。
「分かってる」
「昨日もそう言ってた」
「昨日は振ってないぞ」
「これから振りそうだから言ってるの」
「信用ないな」
「これまでの行動の結果よ」
マリアも、指先で。小さな風を動かしていた。強い魔法ではない。木の葉を、一枚。浮かせる。右。左。円を描く。落とす。
「前より上手くなってるな」
「力を出すより」
マリアが答える。
「小さく使う方が難しいの」
「そうなのか」
「ダスクベアを押し返そうとしたときみたいに、魔力を一気に出すだけなら簡単」
葉をもう一度浮かせる。
「でも、これくらいの風をずっと維持する方が難しいわ」
「フィローネが教えたやつか」
「そう」
風を作るのではない。流れている風へ、進む場所を教える。
「少しずつ馴染んできた」
マリアが笑った。
◇
その日の午後。
「ヒュー」
「なんだ?」
「行くわよ」
「どこへ?」
「忘れたの?」
嫌な予感。
「……ケーキ?」
「正解」
約束を、きっちり覚えていた。連れていかれたのは、町の商業区。大通りから一本入った場所にある。小さな喫茶店だった。扉を開く。甘い香り。焼いた小麦。果物。蜂蜜。ヒューは、少し戸惑った。
「こういう店、入ったことない」
「嘘でしょう?」
「甘いものを食べるために店へ入ったことはない」
「人生の半分くらい損してるわね」
「そこまでか?」
「そこまでよ」
なぜか。フィローネまで一緒だった。
「フィローネも来るのか?」
「私は運搬料を受け取る権利があるもの」
「まだ言うのか」
三人。席へ。店員が持ってきた品書き。マリア。ほとんど迷わない。
「これ」
指した。赤い果実。白いクリーム。何層にも重なったケーキ。ヒューが値段を見る。
「……高くないか?」
「ヒューのおごりだから」
「そうだった」
フィローネも。
「私はこれ」
木の実と蜂蜜。焼いた菓子。ヒュー。見る。
「フィローネも結構高いやつじゃないか?」
「私の方が長い距離、あなたの左側を持ってたわ」
「距離まで計算するのか?」
「当然」
「運搬料だから」
マリアまで頷く。
「二人とも楽しんでないか?」
「気のせいよ」
「気のせいね」
同時だった。ヒューは、諦めた。
「俺は水でいい」
「駄目」
マリア。即答。
「なんで?」
「一人だけ何も食べないと、美味しく食べにくいでしょう?」
「じゃあ安いやつ――」
「これにしなさい」
別のケーキ。ヒュー。見る。
「勝手に決めるなよ」
「嫌い?」
「食べたことない」
「じゃあ決まり」
「……」
しばらくして、三つの皿。並んだ。マリアの前。赤い果実とクリーム。フィローネ。蜂蜜。木の実。ヒュー。焼いたリンゴを挟んだケーキ。フォークを持つ。
一口。
「……」
マリアが、じっと見ている。
「どう?」
「……うまい」
「でしょう?」
「なんでマリアが得意そうなんだ?」
「私が選んだからよ」
「店が作ったんだろ」
「細かいことはいいの」
マリアは、自分のケーキを一口。途端。顔が緩んだ。
「……美味しい」
「マリア」
「何?」
「すごく嬉しそうだな」
「悪い?」
「いや」
ヒューは、少し笑った。
「こんな顔もするんだなと思って」
「どういう意味?」
「いつも怒ってるから」
「誰のせいよ!」
「ヒューのせいじゃない?」
フィローネが、蜂蜜のついたフォークを口へ運びながら言った。
「フィローネまで」
「昨日だけでも何回マリアに怒られてた?」
「数えてない」
「私は数えるのをやめたわ」
マリアが言った。
「そんなにか?」
「そんなに」
三人とも、笑った。ダスクベアとの戦い。ほんの少し前まで、誰かが死んでも。おかしくなかった。ヒューは、ケーキへフォークを入れる手を止めた。
「二人とも」
「何?」
マリア。顔を上げる。フィローネも、ヒューを見る。
「ありがとう」
「……急にどうしたの?」
「熊のとき」
ヒューは言った。
「二人がいなかったら、俺は死んでた」
マリアの風が、何度も。攻撃を逸らした。フィローネの矢が、熊の目を奪い。脚を潰した。
「それと」
「?」
「町まで運んでくれたことも」
「ああ」
マリアが、少し笑う。
「やっと分かった?」
「ああ」
「じゃあ」
フィローネが品書きを持ち上げた。
「もう一個頼んでもいい?」
「感謝を金に換えるな」
「さっきありがとうって言ったでしょう?」
「限度がある」
「けちね」
「ヒュー」
マリアまで、品書きを見る。
「この店、持ち帰りもできるみたい」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「成長したわね」
「そこは成長したくなかった」
また。三人が笑った。やがて、マリアが残っていた果実を口へ入れた。
「でも」
「ん?」
「生きて帰れたんだから」
少しだけ。声が柔らかくなる。
「それでいいでしょう?」
「……ああ」
ヒューは頷いた。昨日。ダスクベアが倒れたあと。最後に見たもの。マリア。フィローネ。二人とも、生きていた。それで、十分だった。
◇
店を出たあと。三人は宿へ戻るため。大通りを歩いた。途中。ヒューの足が止まる。
「?」
武器屋。店先。剣。槍。斧。盾。いくつもの武器が並んでいる。マリアが、ヒューを見る。
「寄る?」
「……いや」
「いいの?」
「ああ」
ヒューは、腰の剣へ。手を添えた。ダスクベア。何度も、爪を受けた。刃こぼれ。細かな傷。一部には、小さな亀裂まである。まだ使える。だが、長くは持たない。
「リーヴェンで探す」
「もっと大きな町だものね」
「ああ」
「いい剣があるといいわね」
「高そうだな」
「頑張って稼ぎましょう」
マリアが言った。
「私のグリモア代も必要だから」
「自分で払うって言ってただろ」
「もちろん」
「今、一緒に稼ぐみたいに聞こえたぞ」
「気のせいよ」
「最近そればっかりだな」
フィローネが、二人の少し前を歩きながら。小さく笑っていた。
◇
そして、出発の日が来た。朝。町の門前。二台の荷馬車が並んでいる。商品。食料。旅に必要な荷物。商人たちが、最後の確認をしていた。ヒューの身体には、まだ少しだけ痛みが残っている。だが、戦えないほどではない。
マリアも、フィローネも同じだった。ヒュー。腰には、傷ついた剣。マリア。杖。フィローネ。背中へ弓。
「全員揃ったな」
依頼主の商人が、三人を見る。
「予定どおり、リーヴェンへ向かう」
「はい」
御者。手綱。握る。馬車。ゆっくり、動き始めた。ヒューは、一度だけ。町を振り返った。ここへ来たとき。一人だった。冒険者になることしか。
考えていなかった。この町で、マリアと出会った。初めて。魔物と命を奪い合った。《魂の器》が目覚めた。二つ目の職業を得た。父。アーロン。その手掛かりも、見つけた。そして、仲間ができた。
「ヒュー!」
前から、マリアの声。
「置いていくわよ!」
「ああ!」
ヒューは、町から目を離した。前。長い街道。その先。交易都市リーヴェン。さらに、もっと遠く。王都。父がいるかもしれない場所。ヒューは、少しだけ歩幅を速めた。今度は、一人ではない。
三人を乗せた旅が、ゆっくりと動き始めた。




