第11話 山賊の罠
リーヴェンへ向かう街道は、しばらく穏やかな景色の中を続いていた。緩やかな台地の上を、二台の荷馬車がゆっくりと進んでいく。道の左右には背の低い草原が広がり、遠くまで見渡すことができた。風も弱い。空には薄い雲が浮かび、鳥の声まで聞こえてくる。
「こういう道ばかりなら楽なのにな」
荷馬車の横を歩きながら、ヒューが言った。
「そうね」
マリアも周囲を見回す。
「魔物が来ても遠くから見えるし、隠れる場所もほとんどないもの」
「だからこそ、こういう場所では襲われにくいのよ」
少し前を歩いていたフィローネが答えた。
「盗賊でも魔物でも、自分たちが見つかりやすい場所で待ち伏せなんてしたくないでしょう?」
「山賊って、もっと適当に襲ってくるものだと思ってた」
「それで何年も生きていけるなら楽でしょうね」
フィローネは肩をすくめた。
「相手だって死にたくないのよ」
それは当然のことだった。だが、ヒューは少し意外に感じた。これまで戦ってきた相手のほとんどは魔物だった。魔物はこちらを見れば襲ってくる。少なくとも、こちらの人数や荷物の価値を調べて、勝てるかどうか考えてから襲うわけではない。人間が相手なら。そうはいかない。
◇
昼を過ぎる頃には、景色が大きく変わっていた。平らだった道は少しずつ登り始め、左右から山が迫ってくる。広かった空も狭くなった。街道そのものは荷馬車が二台すれ違えるほどの幅がある。しかし、その両側には木々と岩の多い斜面が続いていた。
「ここから少し気をつけて」
フィローネが言った。
「さっきまでとは違うのか?」
「見れば分かるでしょう?」
フィローネが右側の斜面を見る。
「隠れる場所が多い」
大きな岩。木。茂み。高低差。上から街道を見る場所はいくらでもある。ヒューも剣へ手を添えた。二台の荷馬車は速度を少し落とした。先頭には御者。その後ろに依頼主の商人。ヒューたちは一台目と二台目の間を中心に歩いていた。
フィローネが先頭寄り。マリアが中央。ヒューは後方へ気を配る。しばらく進む。何も起こらない。さらに進む。やはり。何もない。
「考えすぎだったかしら」
マリアが小さく言った。
「……」
フィローネは答えなかった。足を止める。
「フィローネ?」
「待って」
二台の荷馬車も止まった。フィローネは周囲を見回した。右。左。頭上。地面。
「どうした?」
「分からない」
「分からない?」
「何か……変」
フィローネ自身も戸惑った顔をしていた。耳を澄ます。目を細める。
「前なら、もう少しはっきり分かったはずなのに」
「レベルが上がった影響?」
マリアが聞く。
「たぶん」
フィローネはレベル16になった。以前より視力も聴覚も反応も高まっている。だが、身体が強くなれば、すぐにその性能を完璧に扱えるわけではない。
「見えすぎるし、聞こえすぎるの」
フィローネが眉を寄せる。
「今までなら気にしなかった音まで入ってくる。どれが必要な情報なのか、まだ――」
その言葉が、途中で止まった。
「伏せて!」
フィローネが叫ぶ。直後、右側の斜面から。矢が飛んできた。狙いは、人間ではなかった。
「馬!」
ヒューが叫ぶ。矢は先頭の荷馬車を引く馬の首へ向かっていた。だが、届かない。横から吹いた強い風が、矢の軌道をねじ曲げた。矢は馬の首から外れ。街道へ突き刺さる。
「マリア!」
「分かってる!」
マリアはすでに杖を構えていた。二本目。三本目。今度は、左から。
「反対側にもいる!」
フィローネが叫ぶ。左右の斜面。両方から矢が飛ぶ。一台目の馬。二台目の馬。御者。さらにマリア。狙いは一定ではない。
「くっ……!」
マリアが杖を振る。風が荷馬車の周囲を大きく巡った。飛び込んできた矢が、一斉に軌道を変える。一本は荷馬車の側面へ、一本は街道へ。一本は大きく上へ逸れた。
「荷馬車の陰へ!」
ヒューが商人たちへ叫ぶ。
「御者は馬を落ち着かせてくれ!」
「分かった!」
馬が鳴く。すぐ近くへ矢が刺さり、二頭とも怯えていた。御者たちは必死に手綱を引く。
「大丈夫だ! 大丈夫だからな!」
だが、また矢。今度も馬だ。ヒューはようやく理解した。
「こいつら、最初から馬を殺すつもりだ!」
「馬を?」
マリアが風を維持したまま聞き返す。
「馬が死ねば、荷馬車は動けない!」
この狭い山道。馬車を捨てて逃げようにも、商品も置いていくことになる。商人が徒歩で逃げれば、山の中を知る山賊に追いつかれる可能性も高い。まず馬を殺す。逃げ道を奪う。そのあとで護衛を削る。
「ちゃんと考えてるわね……!」
マリアが歯を食いしばる。
「感心してる場合じゃない!」
「分かってるわよ!」
左右から、さらに矢。マリアが両手で杖を握る。
「《風よ――巡って!》」
街道を包む風が、一段強くなった。草が一斉に倒れ。荷馬車の布が激しく揺れる。飛んできた矢が、風に押されて次々と軌道を外れていく。一本。二本。三本。すべて。馬にも人にも届かない。
「すごいな……」
ヒューが思わず呟いた。ダスクベアとの戦いでは、マリアはまだ自分の加速すら上手く止められなかった。それが今は、二台の荷馬車。馬。御者。商人。そして三人の冒険者。これだけ広い範囲を、風で守っている。
「ヒュー!」
「なんだ?」
「感心してないで周り見て!」
「あ、ああ!」
ヒューは剣を抜いた。とはいえ。敵は斜面の上。姿すらほとんど見えない。剣士であるヒューにできることは少なかった。ここで敵を追って斜面へ入れば。護衛対象から離れる。それこそ山賊の思うつぼだ。
「フィローネ!」
「探してる!」
フィローネは、飛んでくる矢そのものではなく。その先を見ていた。射線。角度。矢が木々の間から現れた位置。
「右に三人……いや、四人」
フィローネが呟く。
「左にも少なくとも三人」
「見えるの?」
「少しだけ」
フィローネは弓へ矢をつがえた。だが、すぐには撃たない。
「まだ」
一呼吸。矢が飛んでくる。その瞬間。
「いた」
弦が鳴った。フィローネの矢が、右斜面へ飛ぶ。茂み。その奥から。
「ぐあっ!」
男の声。一人。倒れた。
「当たった!」
マリアが言う。
「まだいる!」
フィローネはすでに次の矢へ手を伸ばしていた。そのとき、山の上から。別の声。
「矢が効かねぇ!」
「女だ! あの女が風で止めてる!」
「魔法使いを狙え!」
次の矢が、マリアへ集中した。
「来る!」
フィローネ。
「分かってる!」
マリアの周囲。風が厚くなる。矢。次々と。逸れる。一本だけ。風を抜けてきた。
「マリア!」
ヒューが前へ出る。剣で。叩き落とした。
「ありがとう!」
「そろそろ魔力は?」
「まだ大丈夫!」
とは言ったが、額には汗が浮かんでいた。広い範囲を守り続ける。しかも、左右から不規則に飛んでくる矢。簡単なはずがない。
「矢を止めろ!」
突然、山賊の声。攻撃が止まった。
「……?」
マリアが杖を構えたまま。息を整える。
「諦めた?」
「違う!」
フィローネが斜面を見る。
「何かする!」
直後、ごろっ。重い音がした。右斜面。大きめの石が、転がり始めた。一つ。二つ。
「石!?」
矢とは違う。風で少し軌道を変えることはできても、完全に吹き飛ばすのは難しい。
「馬車を動かすな!」
ヒューが叫ぶ。ここで慌てて馬を走らせれば。馬車が横転しかねない。
「マリア! 右の石だけずらせるか!」
「やってみる!」
マリアが杖を振る。風が。転がる石の側面へぶつかる。石の軌道。少しだけ変わった。荷馬車の手前。街道へ落ちる。鈍い音。土が跳ねた。
「もう一つ!」
左からも、石。だが、石を動かすために。山賊が姿を晒した。
「見つけた」
フィローネ。矢を放つ。
「ぎゃっ!」
左斜面。男が転がり落ちる。
「マリア、右上! 大きな岩の横!」
「そこね!」
フィローネが指した方向。マリア。杖。向ける。
「《風刃》!」
圧縮された風が、斜面へ飛ぶ。木の葉。切り裂く。岩陰。
「うわっ!」
「ぐっ……!」
二人の声。一人が、斜面から崩れ落ちた。もう一人。腕を押さえ。奥へ逃げる。
「こっちもやられた!」
「くそっ!」
「ロッドが死んだ!」
山賊たちの声が、左右から飛び交う。怒鳴り声。悲鳴。命令。混乱。それでも、矢はまだ来る。一人が倒れても、別の者が撃つ。だが、先ほどまでとは。明らかに違った。射撃の間隔が乱れている。
仲間が死んだ。自分も死ぬかもしれない。そう理解し始めたのだ。右斜面から、男の怒鳴り声。
「ダメだ!」
そして。
「こいつらは弱くねぇ!」
一瞬の間。
「退け!」
「生きてる奴を連れてけ!」
「早くしろ!」
足音。木々。揺れる。何人もの人間が、山の奥へ逃げていく。フィローネは、矢をつがえたまま。その方向を見た。
「追う?」
ヒューが聞く。
「追わない」
即答。
「私たちは山賊を討伐しに来たんじゃない」
フィローネは荷馬車を見る。
「護衛よ」
馬。無事。御者。無事。商人。怪我人はいない。
「そうだな」
ヒューは剣を下ろした。
◇
しばらく、三人はその場を動かなかった。フィローネが周囲の音を確認する。
「……もう近くにはいないと思う」
「見に行くか?」
「三人全員では行かない方がいい」
護衛を空にするわけにはいかない。結局。商人たちを荷馬車の陰へ残し。斜面のすぐ近くだけ。三人で素早く確認することになった。最初に見つけたのは、フィローネが射た男だった。胸。矢が深く刺さっている。すでに、動かない。次。
マリアの風刃を受けた男。こちらも、倒れていた。ヒューは、少しだけ足を止めた。魔物ではない。人間。それも、思っていたより若かった。
「……俺と、そんなに変わらないな」
ヒューが呟く。二十歳前後。薄い髭。使い込まれた革鎧。高価な装備など。何もない。
「山賊だからって、年寄りとは限らないわ」
フィローネが静かに答えた。
「……そうだな」
ヒューは、死体から目を離した。さらに、少し奥。
「待って」
マリア。
「生きてる」
男が。木へ寄りかかっていた。腹。深い傷。血。大量に流れている。
「う……ぐ……」
息をするたび。血が。口からこぼれる。この男も、若かった。ヒューと。大きくは変わらない。
「フィローネ」
ヒューが呼ぶ。フィローネは、男の傷を見る。手。淡い光。だが、すぐに消した。
「……無理」
「治せないのか?」
「私の治癒魔法じゃ無理よ」
内臓まで、深く傷ついている。
「もっと強い治癒術師が今ここにいれば別かもしれない。でも」
フィローネが首を振った。
「町までは持たない」
「……いてぇ……」
山賊の男。震えている。
「くそ……」
逃げた仲間たちの方向へ、顔を向けた。
「死に……たく……」
その言葉は、最後まで続かなかった。ヒューは、何も言えなかった。少し前まで、この男は。自分たちへ矢を撃っていた。馬を殺そうとしていた。もしマリアが防いでいなければ。商人たちは逃げられなくなり。殺されていたかもしれない。敵だった。それは変わらない。
だが、目の前にいるのは。苦しんでいる。一人の人間だった。ヒューは、剣を抜いた。
「ヒュー?」
マリアが見る。
「俺がやる」
フィローネは、何も言わなかった。男の呼吸。さらに浅くなる。ヒューは、剣を握り。一度だけ。息を吐いた。
「……悪い」
一撃。男の苦しみを、終わらせた。ヒューはしばらく。動かなかった。やがて、剣についた血を。布で拭う。
「行こう」
それだけ言った。
◇
倒れていた山賊たち。身分証。誰も持っていなかった。
「まあ、当然よね」
フィローネが言った。
「山賊やってますって身元が分かる物を持ち歩く方が変だもの」
財布。中身は、少ない。銀貨。銅貨。何人分か合わせても、大金ではなかった。干し肉。水袋。安物の弓。何度も研ぎ直された短剣。そして、一人が持っていた。
少しだけ状態のいいショートソード。ヒューは、それを手に取った。
「今の剣より短いわね」
マリアが言う。
「ああ」
だが、刃の状態は悪くない。少なくとも、ダスクベアの爪を何度も受けたヒューの剣より。安心して使える。
「持っていけば?」
フィローネが言った。
「……いいのか?」
「置いていっても誰も使わないでしょう」
「そうだけど」
ヒューは、一度。死体を見た。少し、迷う。それでも、ショートソードを腰へ差した。
「リーヴェンまでの予備にする」
「その方がいいわ」
金も。商人へ確認したうえで、回収した。死体は、そのまま残した。埋葬する時間はない。ここは、まだ安全な場所でもない。冒険者の仕事は、商人を。目的地へ送り届けることだ。
◇
荷馬車は、再び進み始めた。先ほどまでの。のどかな空気は、もうない。誰もが、左右の斜面へ注意を向けていた。
「まだ来ると思う?」
マリアが聞く。
「少なくとも、さっきの連中はすぐには戻らないと思う」
フィローネが答える。
「仲間を何人も失ったもの」
「別の仲間がいるかもしれない」
ヒュー。
「そうね。油断はしない方がいい」
それから、少し。進んだところだった。先頭の御者が、手綱を引く。
「止まれ!」
馬車。停止。
「今度は何だ?」
ヒューが前へ走る。そして、目の前の光景を見た。
「……木?」
大きな木が、街道を横切るように。倒れていた。荷馬車。通れない。
「倒木か」
商人が困った顔をする。
「仕方ない。斧を出すぞ。枝を落として――」
「待って」
フィローネが、木の根元へ近づいた。しゃがむ。
「自然に倒れたんじゃない」
「え?」
マリアも、近づく。幹。根元。そこには、はっきりと。何度も斧を入れた跡が残っていた。
「……山賊」
ヒューが言った。フィローネ。頷く。
「最初から、ここに倒しておいたのね」
ヒューは、来た道を振り返った。狭い山道。左右。高い斜面。そして、前を塞ぐ倒木。全部。つながった。
「馬を殺す」
ヒューが言う。
「馬車を止める」
「その前にも、ここで止まるわね」
マリア。
「前には進めない。後ろへ戻ろうとしても、馬車じゃすぐに方向転換できない」
「そこへ」
フィローネが、左右の斜面を見る。
「上から矢」
偶然。襲われたわけではなかった。ここへ入る前から、山賊たちは。場所を選び。木を倒し。人員を左右へ分け。逃げ道を潰していた。
「ちゃんと作戦を立ててたのね……」
マリアが呟く。
「もし馬をやられてたら」
御者の顔。青くなる。
「完全に動けなくなってたな……」
商人が息を吐いた。
「斧で切るしかない。時間がかかるぞ」
荷馬車。斧。積んである。数人で作業すれば。いずれ通れる。だが、ここは山道。長時間止まりたくはない。ヒューは、倒木を見る。太い。大人二人でも、簡単には動かせないだろう。
以前なら。考えもしなかった。でも、今なら。
「……ちょっと待ってくれ」
「ヒュー?」
マリアが見る。ヒュー。剣を外す。荷馬車の脇へ置いた。倒木。太い枝。両手で掴む。
「何する気?」
「動かしてみる」
「……これを?」
「ああ」
「無理でしょう」
「俺もそう思う」
「じゃあ、なんでやるのよ」
「試すだけだ」
腰を落とす。足。地面へ、踏ん張る。《戦士》。そして、レベル15になった身体。
「ふっ……!」
力を込める。腕。背中。脚。全身。つながる。木。動かない。
「やっぱり――」
マリアが言いかけた。そのとき、ずずっ。
「……」
全員。黙った。倒木が、僅かに。動いた。ヒュー自身も、木を見る。
「……動いた」
「動いた、じゃないわよ!」
マリアが叫ぶ。
「自分で驚いてどうするの!」
「いや、こんなの持ったことないから」
「普通は持たないわよ!」
「持ち上げなくていい!」
御者が慌てて言う。
「道の端へ少しずらせれば馬車は通れる!」
「分かった!」
ヒューは、もう一度。力を入れた。
「ぐっ……!」
筋肉が、強く張る。だが、あの酷い筋肉痛とは違う。今の身体。少しずつ。馴染み始めている。ずずず……。倒木。地面を削りながら。横へ動く。
「ヒュー、そのまま!」
マリア。思わず。応援している。
「もう少し!」
「分かってる……!」
さらに、一歩。そして、もう一歩。やがて、荷馬車一台が。通れるだけの隙間。できた。ヒューは、枝から手を離した。
「はぁ……」
腕。震えている。
「……疲れた」
「当たり前でしょう」
マリアが呆れながら。それでも、少し笑う。フィローネも、動かされた倒木を見る。
「レベル15」
ヒューを見る。
「少しは身体に馴染んできたみたいね」
「ああ」
ヒューは、自分の手を見る。以前なら。絶対に動かせなかった。道を塞ぐ。山賊の罠。それを、今のヒューは。自分の力で、道の端へどかした。
「よし!」
御者が、手綱を握る。
「通れるぞ!」
馬車が、再び。動き始める。ヒューは、腰へ。傷んだ長剣。そして、山賊から手に入れたショートソード。二本の剣を下げ。荷馬車の横へ戻った。山賊たちは、馬を殺し。道を塞ぎ。左右から矢を浴びせ。
逃げ場を奪うつもりだった。決して。何も考えずに襲ってきたわけではない。ただ、今回は。相手を、見誤った。山間の街道を、二台の荷馬車が。再びリーヴェンへ向かって進み始めた。




