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第14話 精霊の声

 エルネ村には、誰の声もなかった。つい最近まで誰かが暮らしていたはずの家々は壊れ、扉が外れ、壁には大きな爪痕が残っている。村を囲っていた柵は何かに踏み潰され、畑も荒らされていた。風が吹くたび、地面に落ちた木片や乾いた葉が小さく転がっていく。フィローネは村の入口に立ったまま、しばらく動かなかった。

「……三十人くらい」

 ぽつりと呟く。

「え?」

「この村に住んでいた人数。たぶん、今もそれくらいだったと思う」

 ヒューもマリアも何も言えなかった。フィローネはゆっくりと歩き始めた。

「まず、家を見て回るわ」

 声は震えていたが、それでも前へ進んだ。

     ◇

 最初の家は、入口近くにあった。扉は壊れていた。

「ここは薬師の家よ」

 フィローネが中へ入る。棚は倒れ、乾燥させていた薬草が床いっぱいに散らばっていた。奥の部屋で、一人の老人が倒れていた。フィローネはその姿を見ると、唇を噛んだ。

「……ノイル」

 知っている人だったらしい。返事はない。フィローネは老人の傍らへしゃがみ、静かに目を閉じさせた。

「昔、薬草の見分け方を教えてくれたの」

 それだけ言うと、また立ち上がった。次の家へ向かう。二軒目。三軒目。四軒目。どの家にも生活の跡が残っていた。食卓。寝台。作りかけの籠。洗われた食器。

 壁に掛けられた子供用の小さな弓。だが、生きている者はいなかった。フィローネは一軒ずつ中へ入り、知っている顔を確かめていく。

「この人は昔、私が獲物を仕留めた日に肉を焼いてくれたの」

 次の家では、

「ここの夫婦には、よく食事を分けてもらったわ」

 また次では、

「この子……まだこんなに小さかったのね」

 思い出と現在が、残酷なくらいにつながっていく。やがて、フィローネの声が少しずつ出なくなった。代わりに、涙が頬を伝い始めた。それでも彼女は止まらなかった。マリアは何も言わず、そのすぐ後ろを歩いていた。励ましもしない。大丈夫とも言わない。今のフィローネが大丈夫なはずなどないことを、マリアも分かっていた。

     ◇

 一軒の小さな家で、フィローネの足が止まった。入口付近に、二人の遺体があった。母親らしい女性が、小さな娘を胸の下へ抱き込むように覆いかぶさっている。最後の瞬間まで、子供を守ろうとしたのだろう。母親の背には深い爪痕が残っていた。その下にいた娘も、もう動かなかった。

「……」

 フィローネは何も言えなくなった。マリアがそっと口元を押さえる。ヒューだけは、その場から目を逸らせなかった。十年前。自分を床下へ押し込み、外へ出ていった母の背中が脳裏に浮かぶ。あのとき母は、自分を守るために魔物を引きつけた。そして帰ってきたときには、もう助からないほど傷ついていた。目の前の母親と娘を見ていると、あの日の光景が嫌でも重なった。もし、あのとき。

 あの冒険者が村へ来なかったら。母だけでは済まなかったのかもしれない。村の人間がもっと死んでいたかもしれない。家々は壊され、今日のエルネ村と同じようになっていた可能性もある。あの男は、多くの命を救った。それでも、母の命だけは救えなかった。幼かったヒューは、それが許せなかった。もっと早く来てくれていれば。どうして間に合わなかったんだ。そう叫んだ。

 今でも、その気持ちが間違っていたとは思えない。母は帰ってこない。あの悲しみが消えるわけでもない。だが、今、自分たちはエルネ村へ来た。昨日、異変を知って。できるだけ早くここへ来た。それでも、間に合わなかった。もし一日早ければ。もしもっと早く、薬草が届かなくなったことを知っていれば。誰か一人くらい救えたのではないか。

 そんな考えが、勝手に頭へ浮かんでくる。知らなかったのだから仕方がない。そう言われれば、それまでだ。それでも、もっと早ければ、と考えてしまう。

「……こういう気持ちだったのか」

 ヒューが小さく呟いた。

「ヒュー?」

 マリアが振り返る。

「いや……」

 ヒューは首を横へ振った。十年前。母の墓の前で、あの男は言い訳をしなかった。ただ頭を下げた。救えなくてすまなかったと。今なら、少しだけ分かる。あの男も、自分で自分を責めていたのかもしれない。もっと早く来ていれば。もっと強ければ。そう思っていたのかもしれない。

 でも、ここには誰もいない。エルネ村をこんな姿にした何かは、謝ることもなく去っている。その事実が、ヒューには妙に重く感じられた。

     ◇

 村の中には、森虎の死体もあった。一頭ではない。家の間。畑のそば。村の中央。何頭もの森虎が倒れている。矢を受けている個体もあった。深く斬られた傷のある個体もいる。

「村の人たちも戦ったのね」

 マリアが呟いた。

「ええ」

 フィローネが涙を拭う。

「狩人の村だもの。何もしないで殺されたわけじゃない」

 その声には、ほんの少しだけ誇りが混じっていた。だが、生き残った者はいなかった。村の中をほとんど見て回っても、助けを求める声は一度も聞こえない。ヒューたちは何度も名前を呼び、家の下や物陰も確認した。それでも誰も返事をしなかった。約三十人いたエルネ村。見つけられた者は、すべて死んでいた。

「……師匠の家は?」

 マリアが静かに尋ねる。フィローネが村の奥を見る。

「あっち」

 今までより少しだけ、足が重くなったように見えた。

     ◇

 師匠の家は、村の一番奥にあった。ほかの家より少し小さく、すぐ裏手には森が迫っている。家の前に着いた瞬間、フィローネが立ち止まった。

「……ここ」

 長い間、暮らしていた場所。フィローネにとっては、ただの師匠の家ではない。自分が狩人として育った家だ。扉は外れていた。フィローネが中へ入る。

「師匠?」

 返事はない。奥へ進む。

「師匠……?」

 寝台。机。古い棚。見覚えのある物が、壊れて散らばっている。

「いない……」

 家の中に遺体はなかった。フィローネは急いで外へ出た。家の裏手。地面には血が残っていた。そして、長い緑色の髪が何本も落ちている。

「……これ」

 フィローネがしゃがみ込む。震える指で髪を拾った。

「師匠の髪よ」

 少し離れた場所には、破れた衣服の一部が落ちていた。さらに先には一本の弓。片側が大きく割れ、弦も切れている。フィローネはその弓を見た瞬間、息を呑んだ。

「師匠の……」

 手に取る。何度も見てきた弓だった。子供の頃から、修行していた頃から。その弓が今は、壊れている。

「師匠!」

 フィローネが走った。

「フィローネ!」

 三人は家の裏手から森との境へ向かった。そこにも森虎の死体があった。一頭。その先にもう一頭。さらに奥に二頭。どの森虎にも矢が刺さっている。目。喉。脚。的確に急所や動きを奪う場所を狙っていた。

「……師匠の矢」

 フィローネには分かるらしい。

「全部……師匠が撃ったの」

 折れた枝。血。何度も踏み荒らされた地面。ここで激しい戦いがあった。それは、誰の目にも明らかだった。そして、大きな木の根元。人影があった。フィローネが止まった。

「……」

 動けない。そこに、一人の老いたエルフが座るようにもたれかかっていた。服は傷だらけだった。身体にも深い傷がいくつも残っている。矢筒は空だった。腰に下げていた短剣は手の近くに落ち、その刃にも血がついている。最後まで戦ったのだ。矢が尽きても、弓が壊れても。それでも村を守ろうとした。

「……師匠」

 フィローネがゆっくり近づく。老エルフは目を閉じていた。少し疲れて眠っているようにも見えた。フィローネがその前へ膝をつく。

「師匠」

 呼ぶ。返事はない。

「私よ」

 肩へ触れる。冷たい。

「フィローネよ」

 それでも呼ぶ。

「帰ってきたの」

 声が震えた。

「ねえ……起きてよ」

 返事はない。

「長いこと顔を見せなかったから、怒ってるんでしょう?」

 涙が一粒、地面へ落ちた。

「怒っていいから……」

 もう一粒。

「勝手に出ていって、全然帰ってこなかったって……怒っていいから……」

 声が崩れる。

「だから……」

 フィローネは師匠の手を握った。

「返事してよ……」

 耐えていたものが、そこで切れた。

「うぁ……あああ……!」

 フィローネは師匠の膝へ顔を伏せ、子供のように泣き始めた。

     ◇

 マリアはしばらく動けなかった。何を言っても、違う気がした。頑張って。大丈夫。元気を出して。そんな言葉を今かけても、何の意味もない。だからマリアは何も言わず、フィローネの隣へしゃがんだ。そして、その身体を抱きしめた。

「……マリア」

「うん」

「師匠が……」

「うん」

「死んじゃった……」

「……うん」

 それしか言えなかった。フィローネはマリアへしがみつくようにして泣いた。ヒューは少し離れた場所から、二人を見ていた。十年前。母を失った自分。何もできなかった。ただ泣いていた。あのとき、自分のそばに誰がいたのか。村人たちはいた。あの冒険者もいた。

 それでも、母を抱いて泣いていたあの瞬間の孤独は、今も覚えている。ヒューはゆっくり二人へ近づいた。こういうとき、何を言えばいいのか分からない。それでも、見ているだけではいたくなかった。フィローネの肩へ手を置く。そしてマリアごと、二人を抱くように腕を回した。

「……ヒュー?」

「俺もいる」

 それだけだった。フィローネが顔を上げる。涙で目が赤くなっている。

「……ありがとう」

 再び俯いた、その瞬間だった。ヒューの胸の奥で、何かが震えた。

「……?」

 以前にも感じた感覚。マリアへ触れたとき。《魂の器》が共鳴した、あの感覚。視界の前に文字が浮かぶ。

【《魂の器》が共鳴しています】

「ヒュー?」

 マリアも気づいた。

「これ……」

 フィローネが泣きながら顔を上げる。

「何……?」

 表示が続く。

【対象との強い信頼関係を確認しました】

【対象のレベル条件を満たしています】

【接触を確認しました】

【対象:フィローネ】

 ヒューは息を呑んだ。やはり同じだ。マリアのときと同じ。

【対象の《魂の器》を覚醒させることが可能です】

【対象本人の同意が必要です】

「フィローネ」

「……これ、何なの?」

「俺にも全部は分からない。でも、マリアにも前に同じことが起きた」

「私の《魂の器》が開いたの」

 マリアが説明する。

「ヒューに触れて、私がそれを望んだら、新しい職業を持てるようになった」

「新しい……職業?」

 フィローネは涙を拭うことも忘れ、表示を見つめていた。やがて、新しい文字が現れる。

【適性職業を確認しました】

【《精霊使い》】

「……精霊使い?」

 フィローネの声が震える。その名に、彼女自身が一番驚いているようだった。

「聞いたことある?」

 マリアが尋ねる。

「ある。でも……」

 フィローネは表示から目を離せない。

「エルフでも、精霊の声を聞ける人なんてほとんどいない。昔、師匠から話を聞いたことがあるくらいよ」

 ヒューはフィローネを見る。

「今決めなくてもいい」

「え?」

「こんなときだ。力のことなんて、あとでも――」

「ううん」

 フィローネが首を横へ振った。涙は止まっていない。それでも、目だけは真っすぐだった。

「欲しい」

「フィローネ?」

「もっと知りたいの」

 彼女は師匠を見る。村を見る。

「何がここで起きたのか。どうして師匠たちが死ななきゃいけなかったのか」

 震える声で続ける。

「もう……何も知らないまま、大切な人がいなくなるのは嫌」

 フィローネは表示へ手を伸ばした。

「私は、この力が欲しい」

【対象の同意を確認しました】

 柔らかな光がフィローネの身体を包む。

【フィローネの《魂の器》が解放されました】

【魂の器:1/2】

【現在職業:《狩人》】

【空きスロット:1】

【適性職業:《精霊使い》】

【《精霊使い》を装備しますか?】

 フィローネが小さく頷く。

「……する」

【《精霊使い》を装備しました】

【装備職業:《狩人》《精霊使い》】

【魂の器:2/2】

 光が消えた。何か大きな音がしたわけではない。強い力が爆発したわけでもない。ただ、風が吹いた。最初は、森を抜けてきただけの普通の風に思えた。フィローネの髪を揺らし、マリアの頬を撫で、ヒューの服を静かに揺らす。けれど、その風は消えなかった。村の方から、さらに風が集まってくる。壊れた家々の間を抜け、踏み荒らされた畑を通り、倒れた村人たちのそばを優しく撫でるように流れていく。

「……何?」

 マリアが周囲を見回した。風の中に、小さな光が混じり始めた。淡い緑。青。薄い金色。光の粒が風に乗り、ゆっくりと村の中を舞っている。それは美しかった。なのに、なぜか、ヒューには悲しく見えた。木々の葉が揺れる音も、草が擦れる音も。風が家々の隙間を抜けていく音も、すべてが一つの旋律のように重なっていく。

 フィローネが息を呑んだ。

「……聞こえる」

「フィローネ?」

 マリアが彼女を見る。フィローネの目から、また涙が溢れた。先ほどとは違う。何かを聞いている。何かを感じている。色づいた風が、師匠の身体の周りを静かに巡った。フィローネはその光景を見つめながら、震える声で呟いた。

「……精霊が」

 一度、声が詰まる。それでもフィローネは、確かに聞こえているその声を口にした。

「精霊が……泣いている」


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