第15話 逃げる森
フィローネは、村の中央から少し離れた場所をじっと見つめていた。ヒューには何も見えない。マリアも同じらしく、フィローネの視線を追いながら首を傾げている。
「フィローネ?」
マリアが呼びかけても、すぐには返事がなかった。フィローネの目には、二人には見えないものが映っていた。淡い虹色の光。拳よりも小さなそれは、空中に浮かびながら、弱々しく明滅している。赤、青、緑、金。色が混ざり合いながら、ゆっくりと形を変えていた。人でもない。魔物でもない。肉体すら持たない。森や大地に宿る生命の気配が形を得た、純粋な生命の塊。
精霊。《精霊使い》となったフィローネにだけ、その姿が見えていた。
「……あなたなの?」
フィローネが小さく尋ねる。虹色の光が一度だけ強く輝いた。
「泣いていたのは……」
また光が揺れる。言葉が耳から聞こえてくるわけではない。それでも、フィローネには分かった。悲しい。怖い。苦しい。そして、伝えたい。そんな感情が直接胸の中へ流れ込んでくる。
「話ができるの?」
フィローネはゆっくりと手を伸ばした。精霊は逃げなかった。指先へ近づき、淡い光を瞬かせる。その瞬間、フィローネの頭の中へ光景が流れ込んできた。
「……っ」
フィローネが息を呑む。
「どうした?」
ヒューが近づこうとする。
「待って」
フィローネは片手を上げた。
「この子が……何か見せてくれてる」
森。深い森。木々の間を走る影。一頭ではない。森虎。狼型の魔物。牙の大きな猪。さらに、その向こうにも無数の影がある。どれも何かに怯え、森の浅い場所へ向かって走っている。
「魔物が……逃げてる」
フィローネが呟いた。
「逃げてる?」
マリアが聞き返す。
「ええ。森の奥から、たくさん」
さらに光景が変わる。逃げてきた森虎の群れ。その進路上にエルネ村があった。
「……村を狙ったわけじゃない」
フィローネの顔が強張る。
「どういうことだ?」
「エルネ村が、逃げてきた魔物たちの通り道にあったの」
村の狩人たちが弓を構える。家から人々が逃げる。子供を抱えて走る者。老人を支える者。そして、村の奥から一人の老エルフが前へ出た。フィローネの師匠だった。
「師匠……」
師匠は矢を放った。一頭。二頭。三頭。森虎が倒れる。ほかの狩人たちも戦っている。だが、敵が多すぎる。矢を放っても、その後ろから次の魔物が現れる。倒しても、倒しても終わらない。師匠は何度も村人を逃がそうとした。
自分は最後まで前に残った。矢筒が空になる。弓が壊れる。それでも短剣を抜いた。
「……最後まで」
フィローネの頬を、また涙が流れた。
「最後まで、村を守ろうとしてた」
虹色の光が悲しそうに明滅する。
「逃げなかったのね……」
精霊から返ってきた感情は、少し違った。フィローネが目を閉じる。
「違う」
「何が?」
マリアが尋ねる。
「師匠だって、生きたかった」
フィローネは静かに言った。
「死ぬつもりで戦ってたんじゃない。最後まで生きようとしてた。でも……逃げたら後ろにいる人たちが死ぬから、逃げられなかったの」
英雄的に死のうとしたわけではない。死ぬ覚悟があったから残ったのでもない。生きたかった。それでも、守りたい者が後ろにいた。ただ、それだけだった。ヒューは木の根元に眠る老エルフを見る。その姿が、少しだけ違って見えた。
◇
精霊が見せた光景は、そこで途切れた。フィローネはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「まだいる」
「何が?」
「魔物よ」
虹色の精霊が森の奥へ向かって揺れている。
「この子が言ってる。エルネの森には、まだ危険な魔物がたくさん残ってる」
ヒューが森を見る。昨日戦った森虎一頭なら、今の三人でも倒せた。二頭でも、おそらく戦える。だが、この村を滅ぼしたほどの数が残っているなら話は別だ。
「どうする?」
マリアが尋ねた。フィローネはすぐには答えなかった。村人たちを殺した魔物。師匠を殺した魔物。すぐにでも追いたい気持ちはあるだろう。だが、感情だけで剣を振れば、自分たちまで死ぬ。
「……追いたい」
フィローネは正直に言った。
「でも、今すぐじゃない」
ヒューが頷く。
「俺もそれがいいと思う」
「どうして?」
「先にやることがある」
ヒューは村を振り返った。倒れたままの人々。フィローネも同じものを見る。しばらくして、静かに頷いた。
「……そうね」
◇
三人はその日、村人たちを弔うことにした。三十人近い遺体を、一人ずつ運ぶ。簡単な仕事ではなかった。土を掘り、運び、また土をかける。ヒューはほとんど休まず穴を掘った。《戦士》によって強くなった身体でも、何度も土を掘り返していれば腕が重くなる。マリアも魔法だけには頼らず、できることを手伝った。フィローネは一人ずつ名前を口にした。知っている者は、名前を呼んだ。
知らない者も、顔を見て覚えようとした。母親と、その腕の中にいた娘も一緒に眠らせた。
「この二人は、離さないで」
フィローネが言った。ヒューもマリアも異論はなかった。最後は師匠だった。フィローネは壊れた弓を胸元へ置こうとして、一度迷った。それから弓を引き戻す。
「これは……私が持っていってもいい?」
返事をする者はいない。それでも、フィローネは少し待ってから弓を抱えた。
「借りていくわ、師匠」
墓には、師匠が使っていた短剣を置いた。夕方近くになって、ようやくすべてが終わった。三人は並んで墓の前に立った。風が吹く。フィローネの周りには、いくつもの小さな光が集まっていた。昨日までは見えなかったもの。今は、こんなにもたくさんいる。赤い光。青い光。緑の光。
形も大きさも少しずつ違う。どれも村人たちを見送っているようだった。
「……みんな、ここにいたのね」
フィローネが小さく呟いた。
「精霊?」
マリアが尋ねる。
「ええ」
「何て言ってる?」
「今は……何も」
フィローネは少しだけ笑った。
「ただ、一緒に見送ってる」
三人はしばらく、その場を動かなかった。
◇
その直後だった。フィローネの表情が変わった。
「……え?」
近くにいた虹色の精霊が、突然激しく明滅し始めた。ほかの精霊たちも同じだった。ゆっくり漂っていた光が一斉に動き出す。
「どうしたの?」
マリアが尋ねる。フィローネは耳を澄ませるように目を閉じた。次の瞬間。
「逃げて」
「え?」
「逃げてって言ってる!」
ほぼ同時に、森の奥から低い音が聞こえてきた。どどどどど、と地面そのものが震えている。ヒューが剣へ手をかけた。
「何だ?」
「分からない。でも来る!」
木々の間から鳥が一斉に飛び立った。さらに奥では、太い枝が何本も折れる音がする。マリアが杖を構えた。
「魔物?」
「たぶん……」
フィローネの声が止まった。森の奥に、最初の一頭が見えた。森虎。昨日戦ったものと同じ大型の魔物だった。その後ろから狼型の魔物が数頭。さらに猪型の魔物。オーガらしき巨体まで見える。だが、それで終わりではない。木々の間から次々と姿が現れる。十。
二十。数えられない。
「……多すぎる」
マリアの顔から血の気が引いた。ヒューも剣を抜いたものの、すぐに理解した。戦える数ではない。昨日の森虎一頭でも、三人で戦ってヒューは傷を負った。あれほどの魔物を正面から受ければ、最初の数頭を倒したところで囲まれる。
「無理だ」
ヒューが剣を戻した。
「逃げるぞ」
迷いはなかった。
「でも村が――」
フィローネが振り返る。
「村人はもう弔った。俺たちまで死んでも何も変わらない」
その言葉に、フィローネは唇を噛んだ。そして頷く。
「……ええ」
「どっちへ逃げる?」
マリアが聞く。フィローネは精霊たちを見る。
「待って。みんなが何か――」
そのとき、一頭の森虎が村へ飛び込んできた。ヒューが反射的に剣へ手を伸ばす。だが、森虎は三人を見たにもかかわらず、襲ってこなかった。そのまま横を通り抜け、村の反対側へ走っていく。
「……え?」
続いて狼型の魔物も駆け抜けた。こちらを威嚇する余裕すらない。ただ必死に走っている。
「襲ってこない……」
マリアが呟く。フィローネが森の奥を見る。精霊たちから流れ込んでくるもの。恐怖。逃げろ。早く。もっと遠くへ。
「違う」
「何が?」
ヒューが聞く。
「この魔物たち、私たちを襲いに来たんじゃない」
フィローネの声が震えた。
「逃げてるのよ」
ヒューが森を見る。
「あれ全部が?」
「ええ」
「何から?」
「……分からない」
それが一番恐ろしかった。森虎。オーガ。大型の猪型魔物。それぞれなら、森の中で他の魔物を襲う側の存在だ。そのすべてが、同じ方向へ逃げている。
「フィローネ!」
マリアが叫ぶ。精霊たちが一斉に村の端へ向かっている。
「あっち!」
フィローネが走り出した。
「ついてきて!」
三人は村を離れ、森の中へ入った。精霊たちを追う。道ではない。木の根を越え、茂みを抜け、細い斜面を下る。後ろでは地響きが続いていた。
「まだ来てる!」
マリアが振り返る。
「見るな、走れ!」
ヒューが叫ぶ。フィローネは虹色の精霊だけを見ていた。精霊は木々の間を抜け、大きな岩壁へ向かっている。
「行き止まりじゃないの!?」
マリアが叫ぶ。
「違う! この先に何かある!」
岩壁の前まで来る。普通に見れば、ただの岩だった。だが、精霊たちはそのまま岩へ入っていく。
「ここ?」
フィローネが岩へ手を伸ばした。触れたはずの手が、そのまま中へ消えた。
「……通れる!」
「え?」
「二人とも早く!」
フィローネが飛び込む。マリアも続いた。ヒューは一度だけ背後を見る。木々の向こう。逃げる魔物たち。数え切れない。そして、そのさらに奥から、まだ何かが近づいている。ヒューも岩へ飛び込んだ。
◇
次の瞬間、周囲の景色が変わった。
「……ここは?」
小さな泉。苔に覆われた岩。天井はないはずなのに、外の森より薄暗い。それでも空気は澄んでいた。周囲には無数の小さな光が漂っている。赤。青。緑。金。虹色。
「精霊の……隠れ家?」
フィローネにも、初めて見る場所だった。入口へ振り返る。こちら側からは、外の様子が薄く見える。大量の魔物が走り抜けていた。森虎。狼。猪。オーガ。どの魔物も止まらない。隠れ家には気づいていないようだった。
「……助かった?」
マリアが息を切らしながら地面へ座り込む。
「たぶん」
ヒューも荒い息を整える。
「少なくとも、あの群れとは戦わなくて済んだ」
フィローネは何も言わなかった。彼女の周囲では、精霊たちが震えている。逃げ込んで安心した様子ではない。むしろ。さっきよりも怯えていた。
「……どうした?」
ヒューが気づく。フィローネは外を見る。最後の魔物たちが森を走り去っていく。地響きが少しずつ遠ざかる。静かになる。だが、精霊たちはまだ震えていた。
「フィローネ?」
マリアが立ち上がる。虹色の精霊が、森の奥を指すように光った。そこから伝わってきたのは、恐怖。まだ。終わっていない。フィローネの顔色が変わった。
「……まだいる」
「何が?」
ヒューが尋ねる。フィローネは森の奥から目を離さないまま答えた。
「この子たちが逃げてきた、その原因が」
静かになった森の奥。何かが、こちらへ近づいていた。




