第13話 エルネ村へ
翌朝。ヒューとマリアが宿の食堂で朝食を取っていると、フィローネがいつもより少し遅れてやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
ヒューが返す。フィローネは二人の向かいへ座ったものの、すぐには食事へ手を伸ばさなかった。昨日の夜から何かを考え込んでいるのは、二人にも分かっていた。
「エルネ村のこと?」
マリアが先に尋ねる。フィローネは少し驚いた顔をしたあと、静かに頷いた。
「ええ。一週間以上、誰もリーヴェンへ来ていないのはやっぱりおかしいわ」
「知り合いがいるのか?」
「いるわ」
フィローネはテーブルの上で手を組み、少し懐かしそうに目を細めた。
「昔、私はエルネ村で長いこと暮らしていたの」
「フィローネの故郷?」
「故郷ではないわ。修行のために住んでいたのよ」
弓の扱い方だけではない。森の歩き方、獣の痕跡の探し方、風向きから匂いを読む方法、音から相手との距離を測る技術。今のフィローネを形作っている《狩人》としての基礎の多くを、その村で学んだという。
「師匠がいるの」
「弓の?」
「それも含めて全部ね。狩人として必要なことを一から教えてくれた人よ」
長い間、その師匠のもとで修行し、村の者たちとも親しくなった。
「しばらく顔を見せてないんだけどね」
フィローネは小さく笑った。
「……久しぶりに、師匠の顔も見たい」
そこまで話したところで、少しだけ言葉に迷う。
「それで……二人にお願いがあるの」
いつもなら、経験のあるフィローネが二人を導く側だった。ヒューとマリアの実力を試したのも彼女だ。森でも、護衛の途中でも、何度も助言を受けている。そのフィローネが、今度は二人へ頼もうとしていた。
「私はエルネ村の様子を見に行こうと思ってる。できれば……二人にも一緒についてきてほしいの」
「もちろん」
ヒューは迷わず答えた。
「ええ。行きましょう」
マリアもすぐに頷く。フィローネが少し目を丸くした。
「まだ何が起きてるかも分からないのよ?」
「だから一人じゃ不安なんだろ?」
「それは……そうだけど」
「なら一緒に行けばいい」
ヒューにとっては、それだけの話だった。ダスクベアとの戦いでも、山賊との護衛でも、フィローネには何度も助けてもらっている。今度は彼女が困っている。なら力を貸せばいい。
「私も行くわよ。それに、雷魔法も少し試してみたいし」
マリアが言う。
「そっちが本当の目的じゃないでしょうね?」
「違うわよ!」
フィローネは思わず笑った。
「……ありがとう」
その声は、少しだけ安心したように聞こえた。
◇
エルネ村までは歩いて一日ほどの距離だった。三人は宿へ預けていた荷物をまとめ、食料と水を補充した。毛布、簡単な調理器具、火を起こす道具、魔物への備え。冒険者として旅をするための野営道具はすでに一通り揃っているため、大きな買い物をする必要はなかった。昼前にはリーヴェンの門を出た。
「新しい剣、どう?」
街道を歩きながらマリアが尋ねる。
「前の剣より少し重い。でも、使いやすい」
ヒューは腰に下げた新しい長剣へ手を置いた。
「盾は?」
「まだ慣れないな」
左腕には鍛冶屋で買った小盾を装着している。剣だけを十年間使ってきたヒューにとって、左腕に何かを付けて戦う感覚そのものが新しかった。
「じゃあ、十年くらい盾も練習したら?」
「それまで敵が待ってくれるならな」
「待ってくれないでしょうね」
「だから今から慣れるしかない」
少し前を歩いていたフィローネが振り返った。
「盾を意識しすぎて、剣の動きを遅らせないようにね」
「ああ」
「でも矢が飛んできたらちゃんと使って」
「分かってる」
「山賊のときみたいに立ってるだけじゃ困るもの」
「……あれが嫌だったから買ったんだ」
「なら、ちゃんと役に立ててね」
ヒューは左腕を動かし、歩きながら盾の位置を確かめた。まだぎこちない。それでも、以前よりできることが増えたのは間違いない。
「マリアはどうなんだ?」
今度はヒューが尋ねた。
「雷」
「もう使えるようになったのか?」
「少しだけね」
マリアは昨日買ったグリモアを鞄から取り出した。
「昨日の夜、ずっと読んでたから」
「ちゃんと寝たのか?」
「寝たわよ」
「何時間?」
「……必要なだけ」
「寝てない顔だな」
「うるさい」
マリアはグリモアをしまうと、右手を前へ出した。指先に青白い小さな光が集まり、ぱちっと乾いた音を立てる。
「おお」
ヒューが目を見開いた。
「それだけ?」
「それだけって何よ!」
「もっと大きいと思ってた」
「最初から空から雷を落とせるわけないでしょう!」
もう一度、指先で青白い光が弾ける。
「今は小さな雷を飛ばすくらい。威力もほとんどないわ」
「でも昨日までは使えなかっただろ」
「……まあね」
マリアの口元が少し緩んだ。
「そのうち、もっと強くするわ」
「その前に自分を感電させないでね」
フィローネが言う。
「おばあちゃんにも同じこと言われたわよ」
◇
昼を過ぎる頃には大きな街道を外れ、三人は森へ続く細い道を歩いていた。エルネ村へ向かう者が昔から使っている道らしい。木々が増え、枝葉が日差しを遮っている。フィローネは時折周囲へ目を向けながら、それでもどこか懐かしそうに歩いていた。
「この辺りも覚えてるのか?」
「ええ。昔は何度も通ったわ」
「ずいぶん昔?」
「人間の感覚で聞かないで」
「エルフって便利ね」
マリアが笑う。
「ほら、あそこに大きな岩があるでしょう?」
フィローネが道の脇を指した。
「昔、師匠に怒られて、あそこで一晩反省させられたことがあるの」
「何をしたの?」
「狩りの途中で勝手に獲物を追った」
「フィローネにもそんな時代があったんだな」
ヒューが言う。
「あるわよ」
「意外だ」
「ヒュー」
「ん?」
「これから助言するのやめようか?」
「悪かった」
即座に謝ったヒューを見て、マリアが声を上げて笑った。そのとき、フィローネが突然足を止めた。
「待って」
さっきまでの柔らかな表情が消えている。右手が弓へ伸びた。
「何かいるの?」
マリアも杖を構える。
「前に一体。かなり大きい」
ヒューが新しい剣を抜いた。森の奥から低い唸り声が聞こえ、木の上にいた鳥たちが一斉に飛び立つ。茂みの向こうで太い枝が揺れた。やがて、大きな影が道へ姿を現した。
「虎……?」
ヒューが呟く。黄色と黒の縞模様を持つ、大型の獣。見た目は虎に近いが、普通の獣より明らかに大きい。四本の脚で立っていても背丈はヒューの腰を越え、太い前脚の先には短剣ほどの爪が伸びていた。
「森虎よ」
フィローネが弓を構える。
「大型の魔物だけど、ダスクベアみたいな異常個体じゃない」
「強い?」
「油断しなければ三人で倒せるわ」
森虎が身体を低くした。
「来る!」
次の瞬間、一気に駆け出した。速い。ダスクベアのように真っすぐ押し潰す突進ではなく、木々の間を左右へ走りながら狙いを絞らせない。
「ヒュー、正面!」
「ああ!」
ヒューは剣を右手に構え、小盾を前へ出した。森虎が地面を蹴って跳ぶ。振り下ろされた右前脚が、小盾へまともにぶつかった。
「ぐっ!」
強い衝撃で身体が後ろへ押される。それでも、爪はヒューの身体まで届かなかった。盾が受け止めている。
「使える……!」
「感心するのはあと!」
フィローネが矢を放った。森虎は素早く身体をひねって矢をかわし、着地するとすぐに木の陰へ回り込む。二本目の矢がその動きを追った。完全には避けきれず、矢が右後脚を浅く貫いた。
「グァアッ!」
森虎が吠える。
「マリア!」
「やってみる!」
マリアが杖を向ける。先端に青白い光が集まり、小さな稲妻が走った。
「《雷撃》!」
雷が森虎の肩へ命中する。ぱしっ、と乾いた音が響いた。
「……効いた?」
森虎は倒れない。皮膚にも目立った傷はない。
「弱い!」
「分かってるわよ!」
だが、森虎の前脚が一瞬だけ硬直した。動きが止まる。ほんの僅かな時間だった。それでも、ヒューには十分だった。
「止まった!」
一気に距離を詰め、新しい剣を横へ振り抜く。刃が森虎の肩を裂き、血が飛んだ。森虎もすぐに動きを取り戻した。振り向きざまに爪が飛んでくる。ヒューは盾を上げたが、わずかに遅い。爪の先が盾の横を抜け、右腕を浅く裂いた。
「ヒュー!」
「大丈夫だ!」
血は出ているが、動かせないほどの傷ではない。森虎は再び距離を取った。
「動きを落とすわ!」
フィローネが矢を放つ。狙ったのは目だった。森虎が顔を振ったため直撃はしなかったが、矢は頬へ突き刺さった。次の矢は前脚。さらにもう一本。フィローネは同じ脚へ傷を重ね、少しずつ森虎の機動力を奪っていく。
「マリア、もう一度!」
「今やってる!」
マリアが杖を構える。今度は先ほどより少しだけ大きな青白い光が集まった。
「《雷撃》!」
雷が森虎の脇腹へ弾ける。
「グッ……!」
再び脚が硬直した。
「やっぱり止まる!」
「倒せるほどじゃないけどね!」
「それで十分だ!」
ヒューが踏み込む。しかし、森虎もただ待ってはいない。牙を剥き、真正面からヒューへ飛びかかった。ヒューは小盾を顔の前へ出す。森虎の牙が盾の縁へ噛みついた。
「ぐっ……!」
そのまま体重をかけ、ヒューを押し倒そうとしてくる。重い。だが、《戦士》を得てレベル15まで成長した今の身体なら、耐えられる。
「フィローネ!」
「分かってる!」
矢が飛んだ。森虎の左目へ深く突き刺さる。
「ギャアアアッ!」
森虎が盾を離し、激しく頭を振った。左目から血が流れる。ヒューが剣を振ったが、森虎は後ろへ跳んでかわした。そして、そのまま身体の向きを変える。
「逃げる!」
マリアが叫ぶ。負傷した前脚を庇いながら、森虎が森の奥へ向かって走り出す。
「逃がさない」
フィローネが矢を放った。狙いは後脚。深く刺さった矢によって、森虎の身体が大きく傾く。
「マリア!」
「いける!」
三度目。マリアが杖を向けた。
「《雷撃》!」
青白い雷が森虎の背中へ命中した。身体がびくりと震え、逃げようとしていた脚が一瞬止まる。
「ヒュー!」
「ああ!」
ヒューが走った。森虎が振り返ろうとする。だが、間に合わない。ヒューは一歩深く踏み込み、新しい剣を両手で振り抜いた。
「はっ!」
刃が森虎の首へ深く入る。巨体が大きくよろめいた。ヒューはすぐに剣を引き、今度は胸へ突き込んだ。刃が心臓まで届く。森虎の身体から力が抜け、地面へ倒れた。
「……終わった」
ヒューは剣を引き抜き、荒くなった息を整えた。
「腕を見せて」
マリアがすぐに駆け寄ってくる。
「浅いよ」
「浅くても怪我は怪我でしょう」
フィローネも傷を確認した。
「これなら私の治癒魔法で十分よ」
淡い光がヒューの右腕を包み、流れていた血が少しずつ止まっていく。
「ありがとう」
「盾を買ってなかったら、もっと深い傷になってたかもしれないわね」
「ああ。買って正解だった」
ヒューは爪痕の残った小盾を見る。
「私の雷も役に立ったでしょう?」
マリアが嬉しそうに胸を張る。
「ああ。まだ弱かったけどな」
「……ヒュー?」
「でも、あれがなかったら何度か逃げられてた」
「でしょう?」
一瞬で機嫌が直った。フィローネが笑う。
「今は相手を少し止められるだけでも十分よ。雷を使い始めたばかりなんでしょう?」
「そのうち一撃で倒せるくらいにするわ」
「それは怖いな」
「じゃあ次に雷を試すとき、ヒューに撃ってみましょうか?」
「悪かった」
ヒューは即座に謝った。
◇
森虎から使えそうな素材だけを回収し、三人は再びエルネ村へ向かった。日が傾く頃には、目的地まであと少しという場所まで進んでいた。
「今日はここで泊まりましょう」
フィローネが見つけたのは、水場にも近い平らな場所だった。三人は荷物を下ろし、慣れた手つきで野営の準備を始める。火を起こし、簡単な食事を作り、寝るための場所を整えた。食事を終える頃には、森はすっかり暗くなっていた。
「結界を張っておくわ」
マリアが杖を持って立ち上がる。
「雷の練習で魔力を使っただろ?」
「これくらいなら平気よ」
マリアが地面へ杖を触れさせると、淡い光が三人の野営地を囲むように広がった。強い魔物を防げるほどの結界ではない。それでも、小さな魔物や獣が近づけば知らせてくれる。
「これで少しは安心して眠れるわね」
フィローネが言った。ヒューは焚き火の向こうにいる彼女を見る。
「明日には着くんだよな?」
「朝に出れば、それほどかからないわ」
「師匠に会うの、楽しみ?」
マリアが尋ねる。
「……そうね」
フィローネは炎を見つめながら小さく笑った。
「長いこと顔を見せてないから、怒られるかもしれないけど」
「それだけで?」
「師匠って、そういうものなのよ」
「元気だといいな」
ヒューが言った。
「ええ」
フィローネは頷く。
「元気なら、それでいいわ」
その夜、魔法結界が反応することはなかった。
◇
翌朝。三人は日が昇ると同時に野営地を片づけ、簡単な朝食を済ませて歩き始めた。
「もうすぐよ」
先頭を歩くフィローネの足取りは、昨日までよりわずかに速い。森はさらに深くなり、大きな木々が道の左右へ並んでいた。
「この先に村があるの?」
「ええ。この森を抜ければ見えるわ」
フィローネは周囲を見回した。
「昔はこの辺りまで、村の子供たちが遊びに来てたのよ」
「魔物は大丈夫なのか?」
「村の狩人が定期的に見回ってるから。森の中だけど、この辺りは安全だったわ」
そう話していたフィローネの歩みが突然止まった。
「……フィローネ?」
ヒューが呼びかける。フィローネは返事をせず、周囲へ視線を走らせた。
「おかしい」
「何が?」
「静かすぎる」
鳥の声は聞こえている。風も吹いている。だが、フィローネが言っているのはそういう意味ではなかった。
「この辺りまで来たら、誰かいるはずなの。見回りの狩人か、薬草を採ってる人か……誰かに会うはずなのよ」
誰もいない。フィローネの表情から血の気が引いた。
「フィローネ?」
マリアが声をかける。だが、フィローネは返事をするより早く走り出した。
「待て!」
ヒューとマリアもあとを追う。木々の間を抜ける。やがて視界が開いた。フィローネが立ち止まった。ヒューも、その後ろで足を止める。
「……」
そこにあったのは、エルネ村だった。いや。エルネ村だった場所、と呼ぶ方が正しかった。木造の家は何軒も倒れ、屋根は崩れ、壁には大きな穴が開いている。畑は踏み荒らされ、村を囲っていた柵も至るところで折れていた。村の中央に立つ大きな木には、何か巨大なものに抉られたような深い傷が残っている。地面には焼け焦げた跡があり、その近くには壊れた弓や道具が散乱していた。
そして、ところどころに残る、乾いた赤黒い染み。
「……嘘」
フィローネの声が震えた。昨日まで、久しぶりに師匠の顔が見たいと話していた。そのフィローネが、ゆっくりと村の中へ足を踏み入れる。
「師匠……?」
返事はなかった。風だけが、蹂躙されたエルネ村の中を静かに吹き抜けていった。




