一八章 いつか望んだ笑顔の人
誰の言葉もなく強烈な光を放つことなどないヴァイアプトが唐突に家の外を照らすように光り出したのを感じて、ララナは裏口を糸主と刃羽薪に任せて家に入った。裏口まで漏れていた光が廊下を反射した玄関からの光とまでは想定になく、ララナは緊急事態を察して三和土に急いだ。光っていたのは三和土の一株で、それを見つけたララナに、居間のクムが叫んだ。
「ララナ様、表へ。オト様から連絡があったとヴァイアプト様が言っています!」
「ありがとうございます。急ぎます」
廊下を通ったとき襖が閉まっていた寝室。オトがそこから連絡したのだとそのときは思っていたが──、玄関から外に出ると、鈴音、夜月、刻音の驚きの表情の先にいた音羅と〈翌竜〉らしき存在を発見した。鈴音達に表の番を任せて音羅と竜を家に入れるとヴァイアプトが光を治めたのでそれでもって緊急事態が済んだことを察した。音羅の肩の傷を癒やしつつ居間に寝かせたララナは翼を畳んでにょろっと動いた竜を窺う。
「その動きは、プウちゃんですね」
「プゥ」
「大きく成長しましたね。見違えるようです」
「わたしを助けに来てくれたんだ。物凄く恰好よかったよ」
とは、音羅が笑って言うから、
「見た目ほど、怪我は痛まないようですね」
「うん、なんとか」
自己治癒でなんとか塞いだようだがひどい攻撃を受けたと傷口で察せられた。
オトが惑星アースで魔団と対峙するまでの経緯を音羅経由でプウから聞き、連れ去られたあとのことを音羅から聞いて、ララナは寝室を覗いた。今も惑星アースで戦っているのだろう、寝室にオトの姿はなかった。
フードの男、もとい若い男性はオトが掲示板に書いた言葉真国夫に似ているようだったと聞いた上で、その隣に学がいたことを聞き、ララナは、ひどく不安になった。
……オト様にはつらい相手が二人も──。
言葉真国夫が悪い方向、学が良い方向のつらさをオトに齎した。言葉真国夫が魔団であり学を傀儡に仕立てたことは疑う余地もない。それに、魔団・傀儡を問わずオトは学を葬らなければならない。
「ララナ様」
クムが蜜柑山から降りて窺った。「オト様を迎えに行きますか」
「……いいえ、待ちます」
「どうして」
と、傷の癒えた音羅が上体を起こした。「ママならパパの助けになるはずだよ」
「オト様がお一人で対されたのなら乱入は足手纏いになることでしょう」
「でも、相末さんはママじゃないと……」
「気持の面ではつらいでしょう」
言葉真国夫がどんな理由で魔団となったのか。操られた学がどんな気持になるか。それらを受け止めてどのように対処するとしても、生身で激情を受け止めた彼をララナは信ずる。
「オト様は負けません。魔団についてもオト様が押さえ込んでくださります。ですが、念のため私達は守りを固めます」
「解りました。オト様にそう伝えますわ」
と、言ったクムの会釈にうなづき返して、ララナは音羅とプウに目を向ける。
「疲れたでしょう。ゆっくり休んでください」
「うん、そうさせてもらうね。パパが帰ってきたら、改めてお礼を伝えないと……」
「それがいいですね。──」
怪我を負わされながらも音羅がなんとか帰ってきた。オトもきっと帰ってくる。そう信じている。それでも、
……胸騒ぎがするのは、なぜなのでしょう。
クムが受けたオトの返事を聞いて、裏口の立ち番に戻ったララナは、
「浮かぬ顔じゃな」
と、前を向いた糸主に言われて、しばらく考えてから打ち明けた。
「オト様なら必ず乗り越えてくださる。そう信じております。が、底知れない不安感を覚えています。音羅ちゃんが観た幻覚についてオト様から伺いましたが、その幻覚が、じつは再生された学さんだったのだとしたら──」
「して、それをオトが感づいておったとしたら、と、考えたんじゃな」
「はい」
「思考の起点が変わるもんな。つまり、ララナはオトを疑っちまってるわけだ」
と、地面に刺した斧に背を預けた刃羽薪が空を仰いで言った。
思考の起点。それが音羅の幻覚のときであったのだとしたら、音羅の魔力分析を行って情報を集めて、その頃から対策を打っていたはずだ。実際はそのあとの出来事である葛神思の接近を許し、学とも対峙することになってしまった。オトとしては対策が甘かったのではないか。言い方を換えるなら、オトが手を抜いていた──。そうした理由、いや、そうしてしまった理由、それが学の存在だとしたら対峙は極めて危険ではないか。
「音羅ちゃん達を安心づけながら、私は……」
「いいんじゃねぇの別に」
と、刃羽薪が睨むように言った。「今に始まったこっちゃねえから噓を疑うのは仕方ねぇとして、なんのための噓かなんざはっきりしてんだ。ジョウちゃんに自責させたくてやってるとでも疑ってんなら、オレが一回、その首切り落としてやるよ」
「必要ございません」
家族の平穏。オトはそう望んでいる。自責の念など望まない。解る。解っている──。
「悩みが尽きねぇな、ジョウちゃんは」
「内心の自由を制限されるお方ではござりません」
「だらしない旦那を持つと大変だ、っつぅ体で心配し続けるわけだ」
口ほどだらしないとも思っていないがララナは心配する。ただ、この自責の念とそれを望まないオトとの関係が胸騒ぎの根本ではないように、ララナは思うのである。
「オト様は本当に、魔団の魔法を把握していらっしゃらなかったのでしょうか」
「何が言いてえ」
「魔団の魔法を把握していないならこれまでの経緯は納得です。一方、音羅ちゃんの観た幻覚が再生された学さんと把握または憶測して探っていらっしゃったのなら、もっと早い段階で傀儡化に気づき対策の魔法薬をお作りでもおかしくない。いいえ、そもそも……魔団の空間転移を辿れたオト様が恐らくは空間転移で神界に訪れた学さん達の気配に無頓着だったとは──」
話しながら掘り下げていたララナは、胸騒ぎの根本に気づいた。
──いつかまた、会いとぉね、あんな人に──。
「オト様は学さんとの再会を心から望んでいらっしゃった」
して、死者の傀儡をことごとく葬ってきたオトが学だけを野放しにはできない。その手で葬ることを避けられない。
「オト様は、再び、その手で──!」
掲示板に情報を書き込んでいても実際に現れるかは未知数だった死者の傀儡。現れていないときは予測の一言で済まされる事態も現実になったなら対処に痛みが伴う。なぜなら、これまで死者の傀儡を葬ってきたから次も葬る、と、いう単純な思考で決断できるわけがないのだ。その決断と行動に伴う痛みがオトに取って最悪のものとなりかねないことを、音羅から話を聞いたララナは気づき始めて、不安を感じていたのである──。
橘鈴音のようにこの手に掛けるとしても、躊躇ってはならない。
掲示板に情報を書きながら、それを決意したというのに、一人、また一人、と、送るたび、消耗してゆく心をオトは感じた。その感覚を、音羅もまた感じたのだろうと思うと居た堪れなくなって、救出を急ぎたかったのに手が出せないもどかしい時間が流れた。消耗した心が癒えぬまま、圧迫されて、潰されて、今では形もはっきりしないくらいにぐちゃぐちゃになっている感を覚える。だからこそ言葉真国夫を理解し説き伏せることもできたのだと解っていても、可能なら、今このとき、相末学と対する時間は昔の心を取り戻して口を開きたかった。
そのひとは、高潔だった。
いつも友達に囲まれていて、いつも笑顔が集まっていて、中心にいるそのひともいつも笑っていて、愉しそうで、いつも可愛かった。標準語で体裁を作ることも幼くして覚えていて、他方、国言葉を使って親しいひとと砕けたやり取りもできる、大人だった。友達は勿論、初対面のひとともきちんと話ができて、その中でも自分を強く持っていて、ぶれることなく、誰にも優しかった。
相末学は、そのひとをずっと知っていた。初等部に上がる前から画面越しに見つめていた。晴天のもとで朝露を纏った花のように煌めいていて、胸がときめいたことは何年経っても忘れない。そんなひととクラスメイトになって、毎日のように近くで顔を見られるようになって、目を向けたのでもなければ視線が搗ち合ったのでもないのに、気恥ずかしくなって、積極的に話しかけることができなかった。
そのひとと幼馴染である田中淳が、同じく幼馴染の堤端総からゲームを借りるとかで、その流れから、
「コーリャクてつだってくれるよな」
と、そのひとを気軽に誘っている声を聞くことはしょっちゅうで、羨ましく思うものの、行動に移せない自分では踏み込めない関係なのだと解っていて、当たって砕けたのでもないのに砕けた気持で諦めていた。
……遠くから見ていられるだけでも幸せだ。
奇跡を感じていた。同じ学園の同じ教室に通う日が来るなんて考えもしていなかったのだ。スピーカの発する電子的な音などではなく、そのひとの口から出て直接に空気を震わせた声が自分の耳に伝わってくることの悦びは、言葉で表しきれないほどの熱がある。それだけで満足してしまえるのに、同じ空気を吸い、ときにはこの眼で瞥ることができるのだ。毎日のように顔が熱くて、勉強に身が入らないくらいにそのひとのことしか考えられなくなってしまった。
それだというのに、時折自分の優柔不断を責め咎めたくなることがあったのは、相末学がそのひとの弱さを薄薄感じていたからだった。
……コトハマさんは、ときどき、ふと、倒れる。
ひとより明るくて、勉強もスポーツも魔法もこなせて、できないことがないのではないかというほど超人的に観えるそのひとは、不意に幼馴染に負ぶわれていることがあった。
幼馴染の堤端総達にしてみればそれは当り前のことで、声を大にして広めることはせず、間髪を容れず負ぶいていた。が、距離があって実態を摑めなかったからか、負ぶわれているそのひとを何度も目撃した相末学は、不安になった。そのひとがいつか世界からいなくなってしまうのではないか、と。
相末学はそのとき、ようやく自ら行動を始めた。旧家という間柄、親同士の親交があった堤端総にそのひとの話を聞いたのである。
「あの、コトハマさんは、何かの病気なの」
みんなに聞こえないような小声だった。「お医者さんには、診てもらっているのかな」
「判らない。ただ、君も知っての通り裕福じゃない……。病院に通えているか、定期的な診断を受けているのかは、ぼく達では知りようもないことだよ」
「……総君から促せない」
「お金の問題には必ず親が絡む。子どものぼくが首を突っ込んでいい話じゃない」
当然の結論。しかし、そのひとをずっと支えてきた幼馴染の彼から言えば伝わることもあるのではないか。
「総君は、今のままでもコトハマさんが傷つかないと思う」
「……そんなふうに思ってるように、薄情に観えてるのか」
「ごめん……、何も言えないぼくが責めるようなことをして……」
そのひとが傷つかないなら、幸せなら、それでいい。「いつも愉しそうにしている総君達が守っていてくれるなら、一緒なら、コトハマさんはきっと大丈夫だよ」
「ああ、大丈夫だ。ずっとぼく達が守るから」
幼馴染の言葉は力強い。そのひとをきっと支えてくれる。相末学はそう思っていた。
そのひとの幸せを遠くから祈願する。それが自分にできる最大限のこと。相末学はそう思って行動を続けた。そのひとを直接支える人間にはなれなかったが、みんなの幸せを祈願して生きてゆけたらきっとそのひとの幸せにも貢献できると考えたからだ。ひとがやらないことを率先してこなして、そのひとが学園で担っている仕事を少しだけ密かに肩代りして、みんなに優しく、そのひとが少しでも穏やかに過ごせるように行動した。行動しなければならないような気がして、そうした。そうしなければ、またそのひとは倒れてしまう──。
巡り合せというものがある。ある種のそれには見放されていると諦めていた相末学である。進学から間もない頃、とあることでそのひとの「友人」という肩書になっていた相末学であるが、幼馴染を始めとする親しい友人に比べれば盛んに会話しておらず関係に変化が起こるとは思っていなかった。
ところが、思わぬ流れ星を仰ぐように幸運が降り注いだ。相末学はそのひとから勉強を教わる機会を得たのである。まさか、まさか、の、二人きりの時間が巡ってきたのである。連日の緊張。勉強の入る余地がないほど体じゅうが悦びでいっぱいだった。同じ教室の空気どころか、そのひとの家を訪ねて、そのひとが日日生活している空気を、肩を寄せ合うようにして吸うという至福の時間だった。
その日日の中でも、相末学の中に強く印象づいた出来事があった。帰り際、車が走り抜けた細い道で、そのひとと一緒に畑に転んでしまった相末学は、本当は自分が引き起こすところ、そのひとに引き起こしてもらって、目に留まった一輪の花をそのひとと包んで、ふと、指先が触れ合って──。触れ合ったまま、時を忘れたように花を見つめて、先にぱっと立ち上がったそのひとにつられるように相末学も立った。そのひとがいうようにそこはいい香りが漂っていた。躍る胸を必死に取り繕って、そのひとと顔を合わせた。
「──、ぼく、帰りますね」
「はい、道中お気をつけて」
「ありがとうございます。気をつけます」
お辞儀を互いに交わす、昨今では縁遠くなりつつある別れの挨拶。
離れれば離れるほど思い起こされる体感。そのひとの柔らかさや優しさや明るさや力強さや匂いや声、そのひとに語った将来の夢──、あらゆるものが指先に残っていて、どきどきを潜めることができないまま家路を辿った。
畑に倒れたとき、相末学は抱え込んだそのひとの緊張感を両腕で感じていた。それは勉強を教わるあいだに自分が感じていたものとよく似ていると直感した。都合がいい妄想だろうか。
……ぼくは、コトハマさんが……好きです。
そんなふうに、内心で告白の練習をしてしまうくらい、舞い上がってしまった。同じ緊張感に体を強張らせているということは、同じ気持をいだいているからだ、と、いう考えが成立してしまったから。そんな、あり得ない考えを肯定してしまうほど、両腕が思い上がった直感を抱き締めて放さなかった。
……コトハマさんが、ぼくを──。
二人きりの時間だった。それは、とても幸せな時間だった。
小さな頃は相末学の気持を知らず化物の片鱗ともいえる一方的な主張をぶつけていた。そういった主張をぶつけられる相手は幼馴染を含めても少なく、初等部からの、当時まだ二年に満たない関係だった相末学に対して本音をぶつけていたのは、極めて稀有なことだった。
彼は遠ざかることがなかった。幼馴染と同じ、いや、それ以上に踏み込んで、控えめながらきちんと手を取ってくれた。
決定的に道を分つ出来事が起きたのは一輪の花を包んだ日から二年四箇月後の一二月二七日金曜日。想像だにしないことがそのひとの身に起きていた。その日に相末学は何もできず、あろうことか、そのひとを傷つけ続けることとなった──。
誰にどれだけの罪があったかなど、問い始めたら時間が足りない。過去には戻れない。消すことのできないそれらには、もはや言及の必要はない。各各が理解し、各各のやり方で償えばいいことだ。
オトは、そう思っている。
竹神音が、昔のような、愛らしい姿に変わった。もっとも、変わったというと正確ではなくもとに戻ったと表すべきなのだろう。化物と蔑まれた竹神音の実態は人外であり──。大切なことは、求められたひとだけが知っていればいい。
「……学君。久しぶり、と、言ってもいいですか」
「言葉眞さん……」
「あなたが蘇生されたこと、魂を持って生き返ったことは偶然ですね。叔父さんはこの世界の摂理に暗いですから意図できることではございません」
蘇生。魂を宿して生前の人格・意識ごと生き返る。これは偶然に偶然が重なるレアケースだった。魂が転生する前に魔言で肉体が再生されたひとだけが、相末学と同じ状態でこの世にとどまっていた。
「叔父さんの影響を突きつめる必要はもうございません。話したいことを飾らずゆうなら、後ろ髪を引かれること。かつて約束してくださったこと──、憶えていらっしゃりますか」
「──」
その言葉を確証の一つとして、胸が張り裂けんばかりのおもいが巡って、相末学は息を忘れた。
相末学がいつかの約束のもと生き抜いてくれたことをオトは知っているから応答は聞くまでもなかった。が、ここでは噓偽りなく語ってもらいたく、
「勿論です」
と、いう応答を聞けて、安心した。相末学は噓をつかないことを宣誓してくれたのである。
「ぼくは、ひとの命を奪う兵器を造りません。そう約束しました」
その約束はオトと相末学以外が誰も知らない、二人の大切な思い出だ。
「砂避けや魔物避け、夜間の魔物発見に役立つ暗視スコープ、冷房・暖房、除湿機に加湿器、そのほか数えきれなきれないほどの品。ひとの命を、生活を支え、守るための機構の開発に尽力してくださったこと、とても、嬉しく、誇らしいです」
「っ……もったいない言葉です。ぼくは、約束を守っただけです」
「そんなあなただから、私は……」
オトは、瞼を閉じて、素直な言葉を紡げず、沈黙するのがやっとだった。
好意──。受け取りたくて、受け取りたくて、仕方ない。容姿そのままに小さく愛らしいそのひとから、仕種が物語るおもいをもらえるのなら受け取ることに吝かでなく躊躇いなどあるはずもない。ただ、それでも、一つだけ、相末学は問わねばならないことがある。
「……どうして、音羅さんに、ぼくを充てがおうとしたんですか」
「……」
「それで音羅さんが、言葉眞さんが、本当に、幸せになれたんですか」
同窓生。幼馴染。親友。そのほか諸諸。そのひとと相末学の関係が何であれ、看過できないこと。それが、そのひとが娘たる竹神音羅と相末学を結びつけようとしたことだった。
「ぼくは、あなたしか要りません。あなたが別の誰かを選んでも気持は変わりません」
「……」
「万一ぼくがあなたを嫌いになっても、音羅さんを伴侶にすることは絶対にありません」
それを、竹神音羅に言わなかったのはなぜか。その答は勿論ある。そのひとに問われれば躊躇なく答える。が、きっとそのひとは問わないし、問えない。相末学がこうであることを知りながら娘と結びつけようとしたからだ。相末学がこうだからこそ結びつけようとしたからだ。
娘竹神音羅を道具のように扱う。元来の竹神音ならそんなことはしない。が、相末学に対してはそれをするほどの愛憎をそのひとは秘めていた。親としてあるまじき罪を察せさせ背負わせることも含めて、全てが罰なのだ。
「罰を理解します。ですが、それだけは受けません。時間がないことは解っていますが……贖罪は別の形でします」
光に包まれたそのひとが、現世の、竹神音の姿を取って相末学を半眼で見据えた。
そのとき相末学は振り返っていた。三〇二三年一二月二八日の火曜日、緑茶荘一〇二号室の竹神音を訪ねた日のことを。
扉を開けたそのひとの姿に、相末学はぽかんと口を開けた。
「なぜここに、」
口にしそうになったことを、
「どちらさん」
と、そのひとが制した。「俺の顔に憶えでもあるん」
「……、いいえ。言葉眞さん、ですよね」
「竹神音。姓が変わったからね」
それからしばらく沈黙があった。
「再会したあの日……、ぼくは、とても驚いたんです」
彼が何に驚いたか解るから、オトは訊かない。
「同時に、拒絶されているんだ、そう思いました」
何をもって拒絶したか、彼が解ればいい。先程伝えたことも踏まえて、確証を与えよう。
「間違っとらんよ。もう、君とは交わらん。そう、示した」
──身近に気を配れ。
謎の結界の中から口唇術でララナにそう読み取らせたことがある。その当時近くで動いていた敵性分子を暗示するための言葉に、オトは相末学への警戒心を潜めていた。
信じたくても信ぜられないことがある。打ち消しても湧いてくる疑心がある。無意識のレベルで潜む本望と葛藤があるから、言葉真国夫にも使うことがなかった刀を、オトは抜いた。
「守一花」
二回の刺突。マモリイチカを消失させたオトは両肩を貫かれた相末学を地面に組み伏せた。魔言は消えているが肉体は本物で、心臓を一突きにすれば致命傷を負わせてしまう。あえて大きな傷や深い傷はつけない。
叫びたいほどの痛みが走ったところ、呻きに抑えた相末学が、質問する。
「度重なるぼくの訪問を拒否しなかったのはなぜですか。もっと早くこうされても、ぼくは抵抗しませんでした……」
「音羅や納月や子欄やプウ、クム、それに羅欄納……あの子達に可能性を観た。約束を守り通してくれたなら、君を許せると思った」
相末学が約束を守り抜いてくれた。しかしオトは許せず、マモリイチカで貫いた。「君は君の意志で約束を守ってくれた。けど、君はひとの悪意に操られて娘を傷つけた。そのことを、そのことだけは、どうしても、許すことができん」
お門違いの処罰感情だとは解っている。彼を操った叔父が罪の根源だ。オトもそれを問うて叔父の罪を許した。他者への処罰意識ではなく通じ合ったものが救いなのだとメリアにも経験を通して説いた。が、どうしても、相末学の罪は許せない。それが、音羅を傷つけた行為であるから余計に、傍目には不条理でも、この世の誰に理不尽を咎められても、オトは、相末学のその罪を許せなかった。
「守一花──」
組み伏せた背中から、もう一度、肩の傷を広げるように突き刺した。宙を漂っては消える刀に怯えることもなく呻きにとどめた相末学に言い尽くせない感情をぶつけるように掌を押し当てて、オトは、俯いた。
「会うことまで拒否するのは難しかった。それくらいには、心が残っとったみたいやよ、軟弱やね、俺だって、君と同じなのにね……」
今日まで音羅を救えなかったからでもなく、オトは娘を傷つけてきた。守りたくて仕方がなかったのに、傷つけて、守ることも助けることもできなかった不出来な親だ。だから、せめてひとの害意からは守りたいのに、それを成し遂げられない弱さを手放しきれない。弱さを棄てて本当の化物・人外に成り果て、彼が求めてくれた自分に戻れなくなることが恐かったのだ。
オトは、押さえつけた彼の背に顔をうづめ、感情を零した。
「ごめんなさい……」
決めれば一切迷わず葛藤しない。オトはそんな〈竹神音〉としての自分をこれまで貫いてきたが、相末学を前にしては覚悟が打ち崩されてしまう。迷いや葛藤、躊躇が出てきてしまう。音羅が決行せずに済んだ火葬は、もともとオトの手で行うべきことであるから掲示板に情報を記す前から決意を固めていたのに躊躇ってしまっている。
「学君──」
「迷ってくれて、ありがとうございます。ぼくは、それで充分です。……蘇ったぼくを許容することは、この世を生きる全てのひとへの冒涜をも許すに等しいことです」
「……できれば、君が亡くなったあとに、逢いたかったな」
そうであれば、心臓を刺さずに済む。生きたまま火に投げ込むようなことも、せずに済む。
「躊躇わずに済むよう、ぼくの大罪を示します」
「……」
「あなたからたくさんのものを奪ってしまった。あなたの大切にしていたものをたくさん傷つけてしまった。あなたがここにいるのはぼくの弱さのせいです」
そう言われて、心を殺すのは難しかった。さらには、
「ここまであなたを追い込んでしまったのは、ぼくです」
「いや、──」
「あなたは背負いすぎです」
「こちらの台詞やよ。全ての罪は──」
「だとしても、どうか聞いてください。お願いします」
オトは、自身の言葉を吞み込んで、彼の言葉を、聞き届ける。
「ぼくの愛したあなたを、生きてください」
透かさず、こう切り返してもよかった。「君がそれをゆうの」と。「昔に戻ることはできないと察しながらそうさせていると自白した張本人が何をゆう」と。いずれにしても数秒で事足りる。短い言葉も口から漏れなかった。躊躇うことなく殺せるよう怒りを煽ってくれている。それが彼の贖罪であることを察しているから、オトは、息もできなかった。魔言なら意に介する必要もないが、多くのひとを想ってきた彼から自分だけを想って放たれた言葉は、言葉眞家の特異能力に似て、なおかつ、老衰死を迎えた相末学では放ち得ない重さがあった。一つ一つが彼の言葉にしかない迫り方で胸を打つ。
「あなたは優しいから、いろんな面でぼくの願いを叶えようとしてくれたんでしょう。でも、ぼくはずっと、傍にいますから──」
その言葉を聞いたオトは、
「……──」
恐ろしさとは異なる神経のざわめきを覚えて、爪先から頭のてっぺんまでぞわぞわとした。
言葉は理解した。そう思いながら、オトは返事をしなかった。
相末学が、それからは少しだけ軽やかに口を開いた。
「音羅さんにも伝えたいことがあります」
「……」
「何があってもぼくは味方です。看取ってくれて、ありがとう、音羅さん」
「……」
オトは、返事をしなかった。道具のように扱ったことを償いたいが、音羅の心を軽くするだろう伝言を確約できない。音羅の願いを叶えることもできない。
「最後は、言葉眞さんに」
「……」
「『──幸せになれると本気で思っていました』。ついぞ実現できなかったぼくに感謝の言葉をくれて、今も迷ってくれたあなたを、ずっと愛しています」
それもまた、相末学の贖罪。オトは、息を整え、死者に意を手向ける。
「学君──、[さようなら]」
「──」
全ての輪郭を塗り潰す暗がり。心を示す静寂のそこに、オトが現れた。胎児のように丸くなっていた少女は、ゆっくりと体を起こして話を促す。
「憔悴しているようですね」
「……」
沈黙にも理解できることはある。
「留守番をすればよろしいですか」
「ん。お願い」
「家族にはどう伝えたら」
「怪我したから竹神本家にお邪魔しとるでも」
「お話はここまでですか」
「……、満足しとるん」
「ええ」
何についての肯定なのか、知っているひとはもういない。だから、知っているひとが知っていればいい。
「調子はいかがですか」
「やるべきことが残っとる」
「そちらはお任せしても」
「それから、……遅くなった」
「いいえ──。畏まりました」
短いやり取りだが十分だ。闇に融けたオトを見送って、少女は髪を二つに結い上げる。
何者にも脅かされない暗がり。ここから一歩でも外へ踏み出すということは、自由と引換えに危険との遭遇を選んだも同じこと。それでも躊躇いはない。
「残された可能性を、試しに行きましょう」
今も昔も何も変わらない。決めたら、進むだけだ。
「んっ……ぅうっ!」
「クムさん……!」
突然の呻き声は、危なっかしくもいつも元気な小人のものだった。蜜柑山に手をつき膝を折ったかと思うと、俯せになって倒れ込んでしまった。大声を出しては差し障る。ララナはなるべく落ちついて声を掛けた。
「クムさん、どうしたのですか」
「横向きにするわよ」
楽になるよう結師が体の向きを変えてあげたが、
……花が──!
クムの頭に咲いた花から、一枚、また一枚、花弁が散っては消えてゆく。苦しがっているのは、枯れそうだからか。オトに撫でられたり褒められたりしたとき表情や仕種とともに花が活き活きとするのはよく見かけるがこんな様子は観たことがない。
「神体に何かがあったのかしら」
と、結師がクムの肩に手を置いた。「わたしや織師も神体が燃えそうになって死にかけたことがあったんだけど、こんな苦しみ方はしていない。何かが、おかしいわ」
「オト様と言葉真国夫さんとの決戦でダゼダダに何かが起きたのでしょうか」
「それならまずこの家にいるわたし達に連絡を寄こしてもいいはずだけど無い。それに、たくさんの分祀精霊に影響が出てていいところ、わたしは痛みも何も感じない。音がいないときにこれは、ちょっとまずいかも知れないわね……」
分祀精霊の生態に詳しいオトならクムが苦しんでいる理由が判るだろう。
「オト様なら対処できますか」
「たぶんね。わたし達のときも思わぬ方法で助けてくれたし、何より、複数の分祀精霊に分けて余りあるおもいがあの子にはある。連絡してみるわ」
「お願いします」
オトがいうには魔法は心。「おもい」とは心から発せられて魔法を形作る無限の力だ。分祀精霊が生きるために必要なのはその「おもい」なのだとララナもオトから聞いたことがあるものの、各人がどんなおもいを必要としているか細かくは知らない。オトならクムに必要なおもいを与えて回復させられるだろうが、今は留守だ。
「クムさんが生まれ変わるときを観たことがございませんが、このように苦しんだりは」
「植物を司る精霊に取って生まれ変わるってことは自然死を経ていることに等しい。当り前のことだから物理的な、こういう苦しみはないと聞いているわ」
結師の情報が確かなら異常事態だ。クムの苦しみは最悪の兆しと観ていい。
……生まれ変わるのではなく本当の意味での死、絶滅してしまうとしたら──。
家族が帰る場所としてこの竹神邸がある。オトを中心として、分祀精霊もいて当り前でなければならない。その分祀精霊が絶滅するなどということはあってはならないのだ。
……オト様は学さんを必ず葬られる。ご帰還のときクムさんまで亡くなっていたら──。
心を苛む出来事を立て続けに体験させたくない。
オトとの生活が始まって間もなく結師達とともに家の雑務を担い、娘の相談役になってくれたクム。抱えるように蜜柑を運ぶ姿も時折ドジをして浮かべる照れ笑いも竹神家の日常だ。
……クムさん……。
一つしかない命。失うわけにはゆかない。
……一つしか、ない──。
この場の不安のほかに、過去の行いに関わることでララナは途轍もない不安を覚えたが、今は、クムのことが第一だ。
「おかしい……音からの応答がない」
と、結師が眉根を寄せた。「もしかして、音に何かあった──」
致命的な攻撃を受けた、とか。だとしたら、治療や援護など人手が要るだろう。刻一刻と状況は変化する。普通には死なないはずのオトでも行動不能なほどのダメージを負っている可能性を否定できない。
「捜して参ります」
立ち上がるや三和土に下りたララナの眼前、玄関扉がガララッと開いた。丸い目をした鈴音と対面する恰好となったララナは、立ち番の交替にはまだ早い時間であることから外で何かあったのかと警戒心を高めたが、
「お母さん、いいところに。お客さんが来たんだ」
と、鈴音が言うので少し気が抜けた。傀儡言葉真毎接近の一件もあるので、防衛の心構えを解かず、
「どちらさまでしょう」
と、応対した。すると、以前の自分と同じくらいのちんまりとした少女が鈴音の傍から顔を出した。生まれのよさを感ぜさせる美しい所作で敷居の向こうから一礼して、その少女が用件を手短に伝える。
「竹神音さんの家がこちらと聞いて訪ねました」
オトの関係者か。どこの。疑問はじきに解けるだろう。自己紹介が先だ。
「確かに竹神音の家はこちらです。私は竹神音の妻竹神羅欄納と申します。あなたはどちらさまでしょう」
「失礼致しました。私は竹神本家の末裔竹神動、音お兄さんの母の兄の次女、要するにお兄さんの従妹です」
そのとき、
「『!』」
屋内のいくつもの気配が驚いた様子だった。それとは別に、ララナも古い記憶の扉が開きかけていた。
「オト様のお母様のお兄様の次女、従妹のフルマイさん──」
「声や顔立ちが、小さい頃のお父さんにそっくりだと思わない」
と、傍に寄った鈴音に耳打ちされて、想起されそうだった何かが埋もれてしまった。思い出しかけたことならまたふと思い出すだろう、と、ひとまず何かの記憶を掘り起こすのは保留にした。
オトが出演していたテレビ番組を視聴したことがあるのでフルマイとの類似に気づきそうなものだったが、
……そうでしょうか。
と、ララナは首を傾げる思いであった。オトからも指摘されることが多いが自他の外見を気にしていないせいか、フルマイと幼少期のオトが似ているとは感じない。ただ、別の共通点を見つけた。
……魔力反応を感じません。
辺境神界とはいえフリアーテノアの魔物は他神界と同様に強力である。魔力を潜められる有魔力個体もしくは無魔力個体でも、相応の力をフルマイが有していることは明白だ。鈴音の感覚を信ずるなら声変りする前のハイトーンボイスのオトと近い声であってもおかしくはなく、有魔力個体だとしたら魔力を完全に潜める技術がオトのそれ。自称が多少間違っていてもオトと無関係とは考えにくい。
「こちらの鈴音ちゃんが、声や姿が夫の小さな頃に似ていると言っていますが、どう思いますか」
「従妹ですからね」
フルマイには自覚があるようだった。「世の中には似た顔が三人はいるという話をご存じですか。確率論からすれば数はより多く、血縁であればより高率かと存じます」
……指導者スイッチが入ったオト様に雰囲気が近いですね。
違う点は、高めに二つ結い上げた髪が尻下に達する長さであること。黒のワンピースを纏っている点にオトとの精神的な親しさを感ずるが、より根本的な親しさは黒髪にあるといえるのかも知れない。
「改めまして、そして初めまして、羅欄納お姉さん」
「初めまして」
フルマイのお辞儀に倣ったララナは、自分でも不思議だが、先程から彼女の服に目が留まっている。
「そちらのワンピースは──」
「小さいのに黒のワンピースというのは背伸びしている感がしますか」
「いいえ。オト様も黒がお好きのなので」
「そうでしたね。っと、話し込みすぎました。不躾ですが上がってもよろしいですか」
「お構いせず申し訳ございません。どうぞ、上がってください」
「ありがとうございます」
先程の所作に続いて育ちのよさが垣間見える。指先までまっすぐに伸ばして両手を下ろした自然かつ研ぎ澄まされたお辞儀、下座で脱いだ靴を正す姿勢、それから居間に向かう足運び──、そこかしこに、
……オト様──。
が、見えた気がした。ルーツを同じくする従妹だからだろう。不在の夫の仕種が恋しくて余所から補いたくなってしまっているのかも知れない。
……我ながら重症です。
外から様子を窺っていた刻音を一瞥、鈴音を立ち番に向かわせたララナは居間に戻り、フルマイがクムに掌を翳しているのを見つけた。
「フルマイさん、何を──」
「ちょっとした診察です」
「(診察。オト様と同じ系譜の方なら──。)クムさんの状態が解るのですか」
「とても苦しそうですね」
見れば判る。そうではなく、
「何が原因なのか判りませんか」
「分祀精霊、通称ギフトの皆さんの活力はひとのおもいです」
「はい、存じています」
竹神邸を合祀の場として各分祀精霊にひとびとのおもいが届くことをララナはオトから聞いた。合祀の詳細は知らなくても、ヴァイアプトなどの加護が邸内に発生していることは娘も知るところとなっている。合祀の場が崩壊したのでもなければおもいが欠如することはなく、クムが苦しむ理由もないと考えられる。
「これまで特に問題なくおもいを受け取れていたはずなのですが……」
「わたしも感じているからそれは間違いないわね」
と、結師が証言してくれたが、フルマイの視点は少し異なる。
「目先のことをお願いするひとと野望の成就をお願いするひとがいるのと同じで、分祀精霊に傾けるおもいには個人差があるのです」
「それはつまりどういうことでしょうか」
「クムさんにおもいを傾けていたひとが本殿や末社から離れたり、おもいを傾ける必要や余裕がなくなったのではないでしょうか」
「(言葉真国夫さんとの戦いで消耗されたのでしょうか、)恐らく、オト様です」
「可能性が高いですね。お兄さんのおもいはほかにない大きな活力です。それが途絶えたなら途端に活動できなくなってしまうのもうなづけます」
自己愛のひと。そして、自分を求めてくれたひとに応えずにはいられないひと。オトはそうして分祀精霊の皆に愛され、愛し返して、家族に等しい絆を育んでいる。
クムから手を離したフルマイがやにわに両手をぱんっと合わせた。空気が弾けるようにして家の中の空気ががらっと変わった。
……まるで、凰慈さんのいた神社のようです。
大神凰慈がいた神社も合祀の聖域と同じように一種の聖域だろう。竹神本家にも同じような聖域があり、フルマイが今まさにそれを展開したのかも知れない。それを裏づけるように、手を合わせて間もなくフルマイが唱える。
「我が名は竹神」
そのとき、陽光が広がるようにして暖かくなり、その柔らかさに反して、空気が引き締まった。清らかさと厳かさが張りつめている。
……まるで、オト様の魔力に包まれたときのよう。
ララナとしてはそんな感じだった。拠り所のない海の真ん中に浮く漠漠とした穏やかさと恐ろしさが綯い交ぜの心地、目の前のクムや結師がいなければ場所を見失いそうな無重力感。
「竹が如く路を見出さん」
……クムさんの様子が。
無残にも残り二枚というところで花弁が水水しくなって、表情が和らいでゆく。
「これはいったい……」
「ふぅ……。しばらく、」
と、畳を躙ってララナを向いて正座し直したフルマイが言った。「家を空けるそうです」
「もしや──」
「お兄さんの伝言です」
「(やはりひどく消耗されて──。)長女の音羅ちゃんから事情を少し聞きました」
亡くなったはずの学と対面した音羅は同じく亡くなったはずの言葉真国夫の命令で動いた学の凶刃で怪我を負った。プウが助けに入って窮地を脱したが特異転移もどきで連れ戻されたりもしたそうだ。音羅とプウが寝に入って間もなくクムを介してオトから報告があり、言葉真国夫が魔団のリーダで間違いなく、能力の詳細は事が済んだら話してくれるとのことだった。言葉真国夫が通常の中級魔術師としてあり得ない能力を手にしていたことは、不死者となったのでもなく干渉してきたことで理解できる。
「(クムさんは快方。と、なると、当面の問題は一つ。)オト様はご無事でしょうか」
「竹神本家で静養しています」
「重体なのでしょうか……」
「心配には及びません」
「では──」
「曰く魔団、言葉真国夫を核とした問題は同人の死亡により終結しました」
ここしばらくの脅威が去ったとはいえ、胸を撫で下ろすのは早い。
「相末学さんのことを何か仰りませんでしたか」
「いいえ、特には。安心していい、と、いう言葉を預かってきました」
「そうですか……」
魔団に係っていると捉えるべき「安心」が、ここでは学の死を受けたオトの心境をいっているようにも捉えられて余計に心配だ。
フルマイは学に関わることをオトから一言も聞いていないよう。言葉真国夫ただ一人で構成されていた魔団がこの世を去って家の防衛態勢を固めなくてもよくなったなら帰宅して休めばいいところ、オトは竹神本家での静養を選んだ。学との別れが口に出せないほどつらかった、と、考えると弱った姿を見せたがらない彼らしい行動だ、と、納得がゆく。
「お見舞に伺ってもよろしいでしょうか」
「お姉さんはそう言うとお兄さんが予想していました。お姉さんなら自分の応答が判るとも」
来てほしくない。そういうことだ。
「ご安心ください。不お姉さん、あ、私のじつの姉なのですが、責任を持って看病しておりますから間違っても重篤化することはございません」
「……ありがとうございます。夫のこと、何卒お願い申し上げます」
フルマイがうなづき、一方で、
「その姿勢をお兄さんに嫌がられませんか」
「……」
思わぬ指摘にララナは困った。「あの、私の、どのような姿勢のことでしょう」
「お兄さんに付き従う姿勢です。初対面で不躾は承知ですが、あえて竹神流で申し上げれば、女性が男性に下るかのような姿勢を執り続けていることに不快感を覚えます」
「……」
竹神家は巫女の系譜、女系だ。オトが女尊男卑になる素地がそこにあったといえるだろう。
ララナはオトの考えを読み解く。
「オト様は不快とまでは仰りません。私にはない平等の感性がオト様にはござります。フルマイさん曰く竹神流の感性も偏りがある、と、オト様はお考えなのでしょう」
「お兄さんは男性である自身を嫌っています。その理由の根本はなんだと考えていますか」
「それは……」
女尊男卑となった理由に通ずる後天的な理由ならいくつか思い当たる。従妹のフルマイが相手でもオトのことをどこまで知っているか判らなければ本人の承諾なしには語れない。
フルマイが伝えたかったのは、オトの視点だった。
「生まれは感性を強く育てます。平等とは時空間を超えて自他を上下左右に隔てないこと。男性である自身を嫌っているお兄さんは不平等です。そして、自身が謳う平等からより遠い存在としてお姉さんを捉えていることでしょう」
「……」
ぐうの音も出ない。フルマイの観察のほうが明らかに優れていて、オトの側面もララナの立場も的確に言い表したのである。
……私は、魔物に対する平等を特に欠いております。
オトが魔物討伐を避けていると知ったララナでも討伐に躊躇いはない。オトがGOサインを出そうものならフリアーテノアの全ての魔物を討伐して回ってもいいくらいだ。オトにいわせればそれは蹂躙。とはいっても放っておけば魔物が先んじて同じことをするのだからララナが討伐に前のめりでもヒト全体と魔物全体とで捉えれば殺し・殺される構図に変りはなく、オトの考え方よりむしろ平等だ。
「お姉さんの考えは組織的、総体的で合理的です。お兄さんの考えは個人的、部分的で感情的です。どちらも間違ってはいませんが、確かなのは相入れない意見ということです」
「……、そうでしょうか」
ララナは異議を唱える。「対照的でも歩み寄りが可能です。個が集まって組織になり、部分が集まって全体を成します。逆もしかりです。組織が個のために動くことも、全体が部分を支えることもできます。どちらも形や性質は多彩で関係もさまざま。ぶつかることも受け入れ合うことも意志や思想の対立や調和も、あらゆる思考や生活を保障する平等の上に成り立っているのではないでしょうか」
「なるほど、不平等の立場でも対立する考え方を全否定しない、と、いうことですね」
フルマイが丁寧にお辞儀した。「差し出がましいことを申しました。お姉さんのそのような姿勢をお兄さんは評価しているのでしょう。対照的でも立派な夫婦ですね」
唐突に対立的意見を上したフルマイが納得した様子だ。
「つい乗ってしまいましたが、今の問答はいったいなんだったのでしょう」
「私なら妻に『様』などと呼ばれたくございませんから」
価値観の問題だったらしい。フルマイがこうも続ける。
「丁寧に呼ぶなら『さん』で充分。お姉さんも違和感がございませんか」
「いいえ」
「迷いがないですね」
「オト様がいらっしゃなければ私は生きる目的の大半を失います」
最初は全部だった。家族にはたくさんの命があって、比率が少しずつメリアや娘や分祀精霊に割り振られてゆいたが、中心にオトがいなければララナは嫌なのである。
「お兄さんへの、また、お兄さんの考えへの依存とは考えませんか」
「と、いうと」
「お姉さんは恐らく独りで生きてゆけるタイプのひとですが、お兄さんに寄りかかりすぎている印象です。まるで、お兄さんの考え方、家族に固執した考え方に依存することで自分をどこかに安定させたいかのようです」
「──、その見方は、間違いではないように思います」
ララナは昔から力を持ちすぎていた。少女時代は戦争に突き進んで、振り返ってみれば仲間の命すら軽視する生き方をしていた。その盲目的・暴力的思考の最果てで、ひとを守るためと正義を振り翳してひとを葬り、一つの星を滅亡させることとなった。
そんなララナにひと一人の命の重さをその身で教えてくれたのがオトだ。彼に寄りかかって彼の考え方に依存していることは否定のしようがない。ただ、ララナ自身は、依存とは別の言い方をしたい。
「依存と見做されても構いません。私はオト様を尊敬しております。ご自分の主張に反した私と向き合い続け、決して曲げることのない強さと受け入れ支える寛容さをお持ちです」
「それをお兄さんの我儘とは捉えませんか」
「お互いさまです。私も意見を曲げておりません。折合のつくところを見つけて歩み寄り、曲げられないところは目を瞑って、それでもともに歩める関係がとても貴重なのです」
折合がつかず嫌になったなら離れればいい。傷つくばかりの衝突は嫌であるし、代役のいない仕事でもなければ堪える必要がない。時間を費やして心を消耗しては学ぶ時間や大切なひととの時間を削ってしまう。たださえ大変な人間関係、負の関係はすっぱり切るのが一番楽なのだ。他方、部分的に無駄な時間があったとしても無駄を補って余りある時間が過ごせる相手なら、肩を並べて歩める。
ララナに取ってオトとの時間は、それよりもっと長大なものだ。ほかの誰かとなら無駄と思う時間も無駄と思わない。言葉や目を交わさなくても同じ空間で同じ空気を吸う──、オトは背負った罪をも大切にしてくれる。
「先程のフルマイさんの疑問に答えるなら、罪深い私に一線を引かず何も言わず受け入れてくださったオト様という大樹に私が根づいたというところです」
「寄生ですか」
「そうでもしなければ私は永遠に根無し草でした」
「なるほど。実態を捉えるなら、寄生というより挿し木と共生といったところなのでしょう」
と、フルマイが掌を合わせて微笑んだ。「生まれが異なっても歩み寄るように育ってゆく。とても素的です」
魂を遡れば根元は同じ、と、言い出すと話がややこしくなるので、ララナはフルマイの考え方を受け入れた。
「全てはオト様が存ってこそです」
「迷いなくそういえるのも素的です。広大な宇宙にあってそのような相手との出逢いは貴重。私がいうまでもないことですが大切にしましょう」
「はい」
大切にする。無論、そうなのだが、「──」
「何やら浮かない顔ですね」
「いいえ、なんでもございません」
オトに早く帰ってきてほしい。無事な姿を早く確認したい。その気持は噓ではないが恐くもある。クムが倒れたときに考えたことをオトに伝えてどう思うか問わなければならない。
しばしの沈黙。気づけば神社のような空気は薄れていて、いつもの我が家に程近い。
フルマイが再び両手を合わせてこんな話を始めた。
「神話について聞かせてくれたお兄さんがよくこう言っていました。『神話には事実も隠されとるんよ。』世界創造の唯一絶対神や古を生きた神神、その神神が往き来する広大な宇宙、その全てが真実ではないとしても虚像ばかりではない、と。お兄さんの戯言ではなく、私はそれが事実なんだと思いました。たとい全てが空想や妄想であっても一部分でも現存するなら愉しいと思ったのです。そして神話に表された神界は現にこうして。じつに快いです」
悪神討伐戦争によって広く世に知られた神界。フルマイはそれ以前からその存在を信じ、こうして訪れてオトの言葉をより信じて、その中の愉しさを求めたようである。
「突飛な話をして申し訳ございません。何を言いたいかというと、お兄さんとお姉さんは人間界で生まれ育って遠い神界に居を移した神話の登場人物そのもののような存在。であるなら、同じ立場でお姉さんの悩みを受け止められるのはお兄さんのみということです」
「……」
「お兄さんが帰ってきたら考えを打ち明けましょう。お姉さんが言うように一線を引かず聞いてくれるでしょう」
「……、その通りです」
思い悩むことはこれまでもたくさんあって、打ち明けて暗転したことがないとは言わない。が、それでも受け止め続けてくれたのがオトであるからララナはその点を疑わない。
魔団が消滅、オトもなんとか無事であるなら、長期的問題はクリアされている。目の前の心配事にララナはもう一度踏み込んでおく。
「クムさんは大丈夫なのでしょうか……」
一見クムはいつもの寝顔だ。出没するときに散らす花弁と同様に散った花弁は消え去っている。回復すれば頭の花も満開に戻るかと思いきや、寂しげな二枚が揺れるのみである。
「クムさんには私のおもいを向けました。とはいえ安静が必要です。目を覚ます頃には、花も元通りかと存じます」
「それが聞けてほっとしました……」
クムがこのまま回復できないというような事態をララナは危惧していた。絶滅とともにそれを避けられたのなら安心だ。
「ところで、フルマイさんは神界に来て変調を感じませんでしたか」
「いいえ。魔力が豊かな土地で過ごしやすそうです。もうお察しかと存じますが、私は有魔力個体です」
「神界の魔力に圧されることのない強大な魔力が、クムさんを回復させるおもいの強さに関係しているのでしょうか」
「無関係でもございませんが、無魔力個体のおもいにも分祀精霊はきちんと応えます。おもいは魔力であり魔力ではないのですよ」
「不知得性魔力でしょうか」
「それも同じことです」
「ふむ……」
少し考えてみたが、フルマイの言葉がララナにはちんぷんかんぷんだ。
「難しく考えることはございません。世の平穏と皆の安息を祈ればよいのです。さすればクムさんも自然と満ち満ちていきます」
「含蓄のある言葉ですね」
目の前の無事が連なれば世もまた無事。世が無事なら皆が等しく平穏。苦しんでいるひとも平穏の世に癒やされてゆくということだ。ただ、目の前の一人のために世界の平穏を祈るというのは飛躍している。誰にでもできることではないだろう。
……常に広い視野をお持ちのオト様と似ていますね。
フルマイの視界も広く、オトと同じように目の前のひとを大切にしながら多くのひとに目を向けているのだろう。
「改めてフルマイさん、クムさんを助けてくれてありがとうございます」
「お礼の必要はございません。先程伝えました、安心していい、と、いう部分に関わることですが、お兄さんの留守を任されて私は訪ねました」
「フルマイさんがこちらに逗留を」
「ご迷惑でなければお邪魔させてください」
「家族の意見を纏める必要がございますが、オト様のご意向なら私は歓迎致します」
「ありがとうございます。クムさんを始め分祀精霊のお世話も引き継ぎますので、その点でも安心してください。結師さんも、よろしくお願いします」
と、髪を揺らして微笑むフルマイの視線を受けて、いつも元気すぎるほど元気な結師がたじろいだ。
「わ、わたしを見ないで。石になるわぁ」
言うや否や突撃するように蜜柑山に隠れてしまった。
……あのような姿は希しいですね。髪が好みではないのでしょうか。
見たところフルマイは癖のない長髪である。癖毛や縮毛を梳くのが大好きな結師はやり甲斐を見出せず取っつきにくかったのだ、と、ララナは観た。
……初めましての挨拶がなかったので、顔見知りの可能性も。
フルマイが現れたとき屋内で何人かが驚いたようだった。恐らく、竹神家経由の親交があった分祀精霊がフルマイとの思わぬ再会に驚いていたのだろう。
結師の態度に微笑みを崩さないフルマイが、クムを両手で優しく包んで、囲炉裏の熱が程良く届く座布団に寝かせた。
「私に取って分祀精霊は我が子であり守護者であり尊ぶべき世界そのものなのです」
ララナに取ってのオトのように、
「とても大切にしているのですね」
「はい」
微笑むフルマイに、ララナはどきっとした。
……所作や外見のみならず表情もオト様ととても似ていらっしゃる、のかも知れません。
見蕩れて、見つめて、つい、ときめいてしまいそうになっている。優しい笑顔、幼き時分から今に繫がった夫に観る慈しみ──。結師が蜜柑山に突撃してしまった理由も同じだろう。言い直すなら、たじろいだのではなくどぎまぎしたのだ。
「逗留に関する意見を纏めるためにも家族と顔合せをしてもらってよろしいですか」
「こちらからもよろしくお願いします。ご挨拶後は砕けた言葉遣いに戻りたくも存じます」
「砕けたとは」
「わたし、普段はだらだらやからすっぽんぽんで暮らしたいくらいなんよ」
「『──』」
丁寧な口調と対するお国訛りに加えて言動がオトより危険かも知れない。蜜柑山から覗いている結師も苦笑している。
「と、こんな感じなんやけど、差支えございませんでしょうか」
「国言葉はオト様と同じダゼダダのものですから解することができますが、女性としての発言には気をつけてください」
「平等を謳うお兄さんの家で発言に性差を設けているのでしょうか」
そこはしっかりこう断っておこう。
「生まれたばかりの子もいますので情操教育の問題です」
「言行を慎みます」
「ご協力ありがとうございます」
オトとは違う意味でフルマイには尖った部分があるようだ。竹神家一同と何かしらの衝突や不協和音が発生するのではないか、と、ララナは懸念したが、
「っふふ」
クムの寝顔を見つめる微笑みには囲炉裏の温かさが宿っている。
そのとき、ララナは懸念が取越し苦労に終わる予感が既に湧いていた。設けた挨拶の場で家の総意としてフルマイの逗留が決まったことで予感は現実となったのだった。
──一八章 終──




