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懐かしい

「 ここに来たら安らかに死ねる。そんな噂を聞いたから、ここに来た 」


 りいん、と鈴が鳴るような声が、人気のない浜辺に響く。高いが、甲高くはなく、心地よく耳に転がり込む声。その声と華奢な体の持ち主である幼い少女は、歌うようにそう告げた。海に足を浸す。波が、陶製の人形のように細く白い足を打つ。少女は、海に触れること自体初めてだった。波に足を取られて、転んだ。身体全体がびしょ濡れになった。でも、少女はそれを問題ととらなかった。立ち上がって、再び歩き出す。危なっかしい足取りだった。幼かったため、すぐに足がつかなくなった。少女は泳ぎ方を知らない。だから、そのまま流された。波にもまれ、息が苦しくなり、本能的に水面の上に出ては喘ぐ。再び、波に呑まれる。喘ぐ。呑まれる。喘ぐ。呑まれる。


〈 もう……いいよね…… 〉


 力尽きたように、諦めたように、少女は抵抗をやめた。少女の身体が波にもまれ、沈んでいく。ふと、少女の耳が、音を捉えた。誰かが泳いでくる音。少女は、そちらの方に視線をやる。水にやられて、目が痛い。彼女の目が捉えたのは、少年と呼べる年頃の男の子だった。その少年は少女に近寄ると、まず口に含んでいる酸素を少女に口移しで与えた。酸欠で発生していた頭痛が少しだけ治る。

 なぜ、あなたは私を助けるの? なぜ、海を泳いでいたの? なぜ? なぜ?


「少しだけ待ってろ」


 水の中で、やけにその少年の声が響く。声変わり前の、少し高めの声だ。そこには、どこか温かさがあって。少女は彼に身を委ねた。

 彼は、すいすい水面まで上がっていく。まず少年が手を掲げて少女の口を水面から出す。少女は与えられた酸素を貪った。どっと疲れが出てくる。ふう、と少女は息を吐いて、体の力を抜く。続いて少年も顔を出し、改めて少女を抱え直す。少女の生死を確認し、彼もふう、と息を吐く。そして、浜辺まで泳いでいく。少女がぐったりしていたので、少年は少女を抱えたまま浜辺に上がり、そばに転がっていたビーチチェアに少女を寝かせた。少女は少年の方を見た。なぜ助けたの。先ほどの問いを問いかけてみようと口を開いてみても、声が出てこない。出てくるのは、乾いた咳。


「たぶん、海水で喉がやられたんだろう。少しすれば治るとは思うけど、確実に治すんだったら、水を飲むのが一番だと思う。どうする? 買ってこようか?」


 少女が頷くと、青年はしばらく考えたあと、「金、持ってる?」と聞いた。少女が首を振ると、「金がないなら買えないな……」と少ししょげた。どうやらお金を持っていないらしい。買ってこようか、とか言っておいて自分では持ってないのか。思わず少女は笑うが、それも掠れた声にしかならない。


「なんとかして水を調達してくる。また海で死のうとか考えるなよ」


 釘を刺された。少女が頷くと、青年も頷き返して、そのまま踵を返してどこかへ行ってしまった。少女は行く宛もないし、海で死にそうな……というか、自分で飛び込んだけれど、とにかく辛く体力を奪われる行為をした。だから、身体が重く、あまり言うことを聞かない。少女初の海は、最悪の体験で終わる。


「 ……死ねなかったな 」


 救われてしまった。しばらく、死ぬことはできないだろう。あの少年が見張っていて、きっと、助けられてしまうだろう。ふう、と深くため息をついた。何度目のため息だろうか……酷く疲れてしまった。何もやる気が起きない。特段何をしてるとかはないけれど。

 ぼーっとしばらく空を眺めていた。あれは羊に見える。あれはアイスかな。あ、あれはソフトクリーム。そんなテキトーなことを考えていると、ザク、ザクと砂浜が踏みしめる音が聞こえる。


「持ってきた」


 少年の声がして、少女は身体を起こした。そして、声がする方を見た。紙コップになみなみと注がれた水は、タプタプと揺れていた。少年はこちらに歩いてきて、ん、と差し出した。それを少女は受け取り、喉を鳴らして飲んだ。彼女が少しだけ頬を緩めたのがわかったのか、少年は少し控えめに笑う。


「海の家? のおばさんにさ。溺れかけてて、水たくさん飲んで喉が痛いって子がいる、だから水をくれって言ったら、快くくれたのさ。無料で良いってってくれたから、遠慮なくもらってきた」


 少し得意げな少年に、少女は力ない笑みを向ける。少年はん? と何かを言いたいことを察したようで、発言を促す。


「 優しいね 」


 少年は目を見開いた。そしてなぜか嬉しそうに瞳を閉じる。どうしたの、と言いたげに少女が首を傾げると、彼は「綺麗な声だから」と言った。なんだ、そんなことか、と一笑してやろうかと思ったが、その前に少年がさらに言葉を続ける。


「それに、君はとても綺麗な目をしている。右目が綺麗な海色で、左目が鮮やかな朝焼け色。瞳の中にある雪の結晶も、とても美しいよ」


 少し頬を紅潮させて、少年は少女に語る。自身を褒められたことがなく、オッドアイであることを密かに嫌っていた彼女は、少し自信を持てたのか、嬉しそうに顔を綻ばせる。そして、少年を初めてじっくりと見た。そして、驚いた。彼の目も、綺麗だったからだ。右目が鮮やかな夕焼け色で、左目が綺麗な海色と緑のグラデーション。瞳の中に、凍てつき、蜘蛛の糸で絡め取られているダイヤモンドのように透明な宝石があった。どこか冷たい印象を与える瞳だが、少女はそれを見て一目で気に入った。

 二人は浮かれていた。この特殊な状況を楽しめるほどに。現実から逃げられるこの時間が、たまらなく楽に慣れて。


「貴方の瞳も、とても綺麗。冷たいけれど、どこか暖かい感じがする目」


 少女と少年はしばらくお互いの目を見ていた。少女は少年の瞳の中の宝石に見惚れた。少年は少女の瞳の中の雪の結晶に見惚れた。先に目を逸らしたのは、少年だった。


「悪い、じっくり見過ぎた」


 そう恥ずかしそうに言われると、少女も少し恥ずかしくなり、俯いて、また手元にある水を飲んだ。しばらく互いに恥ずかしさで黙っていたが、やがて少年が決まり悪そうな表情を消し、少し顔をこわばらせながら、少女を見た。


「なぜ、君は死のうとした」

「 わからないよ 」


 少女は即答した。そして、そこには理由を話さまいとする確固たる意志があった。少年はそれを感じ取り、そうか、と言った。そして、表情を和らげて少女を見た。


「なあ。これからも、ここで会わないか? 何曜日かは、お前に決めてもらうけど」


 少年なりの配慮だった。少女がこれ以上死のうとしないように。それを、止めたかったから。


「 うん 」


 少女はそれを感じ取ってか取らずか、少し嬉しそうな顔をしながら肯定した。少年も頷いた。少女が曜日を指定すると、青年がこの場所に、と指定した。

 少女の中の暗い、死にたいと思わせるような感情の渦に巻き込まれてしまった心に、少年が光を差してくれた。少女は、少年に救われた。少年も、美しい少女に惚れ込んでいた。当人はそんな自覚はなかった。二人とも、心が踊っていた。

本当の青年と少女の出会いの場面です。ここで全部伝わったかなと思います。

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