第8話 婿入り王子は二度寝デビューを経験する
夜明け前に目が覚めた。もはや王子としての職業病だ。
見慣れない天井を見上げて、そういえばもう自分は王子ではないのだと、改めて思い出した。今のセドリックは領主ではあるが、領主としての業務は妻が抱えている。
今のセドリックのするべきことは、妻にお風呂の入り方を教えることと屋敷の補修だ。
それも強制されているものではないし、締め切りが決まっているものではない。
やりたくなければやらなくていい。実質、休みみたいなものである。
つい、いつもの習慣でヘッドボードに置いた手帳を手探りで探し、今日の日付を開いた。
……当然だが、予定は何もない。
手帳に最後に書かれている予定は、数日前の『婚姻届の提出』だった。それまでは分刻みでスケジュールがみっちりと詰め込まれていたのに、『婚姻届の提出』以降は空白が続いている。
セドリックはふと気づく。
(も、もしかして……これは、二度寝しても許されるのでは……!?)
「二度寝」という甘美な響き、二十四年間の人生の中で一度もしたことのない行為だ。
ただ寝直すだけなのに、とても贅沢な行為のように感じる。
本棚の向こうではノエルが未だに仕事をしている気配がする。カサカサ、カリカリと、なにかを書き続けている気配が。
ベッドから起き上がり、ノエルの方を覗いた。
セドリックが眠る前から一度も動いていないようだ。相変わらず本がふよふよと空中に浮かんでいて、本人は机に向かっている。
「ノエルー?」
一応、呼んでみるが反応はない。
意図的に無視している場合、何らかの反応が出るはずだ。
……それらが一切ないということは、本当に集中していて気づいていないのだろう。
まだ出会ってすぐだが、この令嬢だったら「そういうこともありそう」で済んでしまう。
必死に仕事をしている彼女を横目に、自分が二度寝をすることへの罪悪感はある。
過労が人をおかしくすると分かっていても、気づいていない相手を止める術がない。
ノエルからも昨日「休んでいいよ」と言われている。
なにより、彼女を呼んでも気付かないのだからしかたない。
セドリックは布団にくるまりながら、自分にこう言い聞かせた。
(ちゃんと、自分が回復したら今度はノエルを休ませるから……これは戦略的な……だめだ、ねむい……)
布団の中に再び潜り込んだセドリックを見て、紙人形がおふとんをちまちまと叩いている。
人差し指で紙人形の頭をそっと撫でて、セドリックは微睡みに身を任せた。
本棚の向こうでノエルが書き物をしている気配と、時折本のページを捲る音が聞こえる。
それらは不快な音じゃない、どこか心地良くて、眠りを誘う音だ。
「"領地南で瘴気発生継続。四月から、さん、よん、ろく、じゅう、じゅうに"」
ノエルの少し低い呟き。そのあとにぽぷ、という音と魔法の行使される気配。きっとあのシャボン玉メモを作っているのだろう。
セドリックはこうして、人生で初めての「二度寝」を堪能することにした。
***
「流石に寝すぎた」
ベッドに腰をかけたまま、セドリックは額に手を当てた。
二度寝から目覚めたらお昼を過ぎていた。
だが、しっかりと寝た分身体は軽かった。そういえばここ数日はカーティス領に来るために野宿しかしてなかったのだ。
「うわ、身体軽い」
思わず言葉に出てしまうくらい感動した。
これまでは豪奢な刺繍入りのジャケットは必須だったし、胸にはクラヴァットを付けて、儀礼用の剣も腰に帯びる必要があった。
よく寝られたからというのもあるが王子様の衣装を脱ぐだけで、こんなにも身体が軽くなるなんて。
王都を出る前はそれが淋しいと思っていたはずなのに、今となっては解放された気持ちでいっぱいだ。
王子時代は夜明けとともに目覚め、深夜まで公務に追われる日々だった。
引き受けていたのは、弟妹たちが嫌がるような面倒な案件ばかりだ。他の王子と比べれば三倍は仕事をこなしていた。
だというのに魔力がないからと王太子にはなれず、本来もらえるはずの領地もなく、婚姻届提出のギリギリまで仕事を詰め込まれ、挙句の果てに見送りすら無かった。
面と向かって暴言を吐かれたこともある。誰も諌めなかった。 そんな仕打ちを、何年もの間、笑顔で飲み下してきたのだ。
魔力がない、王に似ている要素がない。
今までは「なら仕方ない」と受け入れてきた。
優しくされた。受け入れてもらえた。ゆっくり眠れた。
ノエルが、セドリックが魔力持ちでないことをバカにしなかった。
……その「当たり前」が揃って、ようやく気づいた。
自分は、ずっと理不尽な扱いを受けていたのだと。
……同時に、怒りがじわじわと湧いてきた。
「理不尽が仕方ないわけあるか! お前を大事にしない宮廷なんてとっとと捨てろ!」
そんなふうに過去の自分の頬を張り倒したい気持ちでいっぱいだった。
自分の時間を、国への奉仕精神を、ずっと利用されてきていた。
もう少し早くに怒っておくべきだった。全てに対して。
今日びドアマットだってもっと良い扱いをされている。
本棚越しにノエルを見たが、まだ机に向かっていた。
寝る前と書類は変わっている。浮いている本も違う。
つまり、止まっていたわけではない。
彼女は本当に、あれからずっと仕事を続けていたのだ。
紙人形たちがせっせとノエルの口にパンを運んだり、郵便物の仕分けをしている。一体は真鍮製の魔道具から吐き出されるドーナツ状の煙にぶら下がって遊んでいた。
郵便物は「家族」「仕事」「その他」と書かれた三つの箱に分けられている。
物理的に届けられた郵便物は紙人形が仕分けをして、ノエルが確認しているらしい。「家族」の箱は空っぽで、「仕事」の箱には数通入っていて、「その他」だけ未開封の手紙が山になっていた。
どうやら「家族」の箱に入っている郵便が最優先で処理されるらしい。
「その他」の中に見覚えのある郵便物が混じっていた。王家からの郵便物がいくつもそこに入っていたからだ。
たぶん、セドリックがノエル宛に出した手紙もこの中に埋もれているのだろう。
扱いが広告とか不幸の手紙と同じだ。……これじゃ、返信なんて返ってくるはずもない。
むしろ、返ってきた一通が奇跡だったのかもしれない。
セドリックの渋い表情を見て、紙人形たちがざわつき始め、井戸端会議を始めた。遊んでいた紙人形でさえも中断して集まっている。
そのうち紙人形たちはノエルの机の端っこに集まり、一輪挿しの花瓶をぱしぱしと叩いた。
――花瓶に生けられていたドライフラワーは見覚えがあるものだった。
薄紫色のその薔薇は、王家の温室でのみ栽培されているものだ。
花びらの形に特徴があって、王家の温室で栽培されているもの以外は市場に出回っていない。
唯一返信が返ってきた、婚姻届の提出日を知らせる手紙にセドリックが付けたものだから覚えている。
本当は生花を送りたかった。だが、王都からカーティス領までは数日かかる。
彼女の手に届いたとき、萎れていたら悲しいだろうと思ってセドリック自らドライフラワーにした。
少しでも、美しいままで届いてほしかったから。――受け取ってもらえたかどうかすら、分からなかったけれど。
(もしかして……「その他」入れの中でも花がついていて目立っていたから、手に取ってくれたのだろうか。)
紙人形のうち一体が、赤い毛糸を頭に乗せてノエルの髪を模し、ドライフラワーを両手でぎゅう、と抱きしめる。背後では他の紙人形たちがハート型の紙吹雪を散らしていた。
どうやら彼らは「ノエルがこうしていたよ!」と再現して見せてくれているようで。
ずっと、嫌われていると思っていた。だから手紙が返ってこないのだと。
でも実際はセドリックの想像が及ばないくらい無頓着なだけだった。
王家からの手紙を「その他」に入れるのは問題だし、後で叱る必要もある。
……嫌われてない。
少なくとも、そのまま花瓶に飾るくらいには喜んでくれていた。
しばらく、その事実をうまく処理できなかった。
セドリックにとって衝撃的すぎて、目元と口元が緩みっぱなしでしばらくの間、元に戻らなかった。




