第6話 婿入り王子は配偶者に風呂の入り方を教える
(一体どうなっているんだ! どうして石鹸の一つすらないんだ!)
セドリックは混乱しながらも、今朝の買い出しで見つけておいた雑貨屋へ全力疾走した。
シャンプー、リンス、石鹸、シャンプーハット、風呂場用の椅子、入浴剤、タオル、あと女性ものと思われるパジャマを次々手に取る。
支払いの直前、ふと視界の隅に黄色いアヒルを見つけた。
「……好きそうな気がする」
アヒルに手を伸ばすと同時に漏れ出た独り言に、思わず口を抑えた。
支払いのときに、店主がこちらをみてニマニマとしていて、いたたまれない気持ちになった。
家に帰ると、まず風呂場を掃除した。
ほとんど使われていなかったからこびりついた汚れはない。
使われていないまま放置された風呂をそのまま沸かしても構わないのだろうが、最初に入る湯船くらい気持ちがいいものであって欲しい。
泡をシャワーで洗い流しながら、セドリックは思う。
この国は別名、水の国と呼ばれている。国を横断するように大きな川が走っており、海に面している領地も多い。
こんな今にも倒壊しそうなあばら家にも当たり前に湯船やシャワーがある程度には、水が身近な国だ。
平民でさえ毎日シャワーを浴びる習慣がある。
だというのに、どうして――。
「……手伝いますか?」
セドリックの思考は、突如かけられた声によって中断された。
風呂場のドアの隙間から、ひょっこりとノエルが顔を出した。
親の機嫌を窺う子どもみたいだ。
ノエルの足元には床に並んだ紙人形たちが、一斉にうちわを振っていた。
うちわにはこう書かれていた――『オクサマ ガンバレ』『フレー! フレー!』
そんなうちわを振っているというのに、セドリックが視線を向ければ一斉にドアの影に隠れてしまう。
――一枚だけ、どんくさく転んで逃げ遅れているのを除いて。
「すぐに終わります」
セドリックがそう言えば、ノエルは小さく頷いて、そのまま廊下に座り込んだ。
紙人形たちがうちわを置いて二階へと上がり、代わりに本やペン、紙をえっさほいさと運んでくる。
ノエルは床に座り込み、紙にさらさらと何かを書きはじめる。
紙でできた鳥や蝶が頭上をふわふわと舞いながら、時折ノエルの頭をつついていた。
……どうやらこのまま廊下で仕事を続けるつもりらしい。
「これからあなたに風呂の入り方を教える」
「はぁい」
間延びした返事をするノエルは、バスタオルを一枚、胸から下に巻いてあるだけの状態だ。太ももより下が丸見えであるが、艶めかしい白い肌からは目を逸らした。
すでに成人した男女同士、なにより結婚をしているのだし、別に裸を見たところで問題はない。
問題は無いが――羞恥心やらいたたまれなさやらで耐えられる気がしない。
あと、ノエルの見た目や言動から、どうも実年齢よりも幼く見える。いたたまれなさが倍だ。
「そのタオルは絶対に外すな。落ちたら私は死ぬ」
ノエルに対して強く宣言した。
「死んじゃうんですか」
セドリックは真顔で強く頷いて続けた。
「情緒が。心が。あと尊厳が」
「初対面の奥様に死をほのめかされてる〜〜!?」
セドリックの言葉にノエルは口を尖らせながら言った。
「でも、外しちゃ駄目なら、うん、わかりました。お約束は守ります」
なんだかよく分かっていない顔をしているが、奥様を死なせるのはよくない、そんなことを思った顔をしている。
バスチェアに座らせて、石鹸を手に取りタオルでもこもこと泡立てた。
ノエルの身体を覆うバスタオルは背中側で結んでいたので、「外します」と声をかけて結び目を解く。
彼女はしっかりと胸元に手を当ててバスタオルが落ちないようにしていた。
首から肩、背中辺りまで泡立てたバスタオルでしっかりと擦る。
ノエルの背中は、貴族令嬢とは思えない程傷だらけだった。魔獣との戦いで付いたものであろう、大小さまざまな傷の数々は見ているだけで痛々しい。
肩には肉ごと食いちぎられたような古傷があって、目の奥がつんと痛んだ。
そんなセドリックの気持ちも知らずにノエルは「あわあわだ〜!」とご機嫌そうに笑っている。
背中が一通り洗い終わったので、先にシャンプーをすることにした。
ノエルの頭にシャンプーハットを被せる。耳に水が入らないように位置を調整したあと、手にシャンプーを出して泡立てた。
はちみつ入りのシャンプーの甘い香りが、風呂場中に広がった。
目に入らないように注意をしつつ、しっかりと生え際まで洗う。
「甘くていい匂いがする〜」
ふんふんとノエルはご機嫌そうに言った。
(つ、疲れた……)
髪の毛と身体を洗った。ただそれだけだというのに、思わずぐったりしてしまう程度には疲れた。
そんなセドリックの気持ちも知らずにノエルは湯船でアヒルのおもちゃと戯れている。
湯船は乳白色の入浴剤を入れているし、バスタオルも巻いたままなので、身体が見えることはない。……うっすらとした肌色は見えるが、セドリックは鉄壁の意志で見ないふりを決め込んだ。
脳裏では、わざと騎士団時代の風呂を思い出していた。筋骨隆々のむさ苦しい男たちが肩をぶつけ合って威嚇し合っている、あの地獄のような光景を。
ノエルの白く艶めかしい肌ではなく、あのむくつけき広背筋の数々を思い浮かべろ、と自分に命じながら。
アヒルと戯れるノエルの指先に、まだインクの黒ずみが残っていた。思わずセドリックはその手を取って、タオルでやさしく擦る。
手にとってわかったが、ノエルの手は驚くほどたこだらけだった。ただ皮膚が固くなっているだけではない。潰れたたこの上に、さらに新しいたこが重なるようにできている。
剣の訓練でできたものにも似ていたが、それだけではなかった。右手の人差し指、第一関節には特に深いたこ――ペンを握り続けた痕があった。
たこだらけの手に、洗っても落ちないインクの黒ずみ。
――これが本当に、貴族の令嬢の手だろうか?
セドリックの知る令嬢たちは、日に焼けることすらない。お茶会と刺繍や読書で一日を過ごし、外に行くときは日傘をさして外出している。
かといって女性に「傷だらけで貴族令嬢らしくないですね!」などと口にするのは無礼が過ぎる。
たとえノエルが気にしないとしても、元王子としての自分の矜持が必死に止めてくる。
ふと、視線を上げたらノエルがこちらをじぃ、と見ていることに気づいた。
――昔、虫入りの琥珀を宝物にしていた。それを思わせる優しい色合いの瞳をしていることに今更気づいた。あの宝物は、どこへやってしまったのだっけ。
湯船に浮かぶアヒルを摘んで、軽く押してみた。ぷしゅ、とアヒルの口から乳白色のお湯が出る。
実はこれは、水鉄砲としても使えるアヒルのおもちゃだ。
「おおー!! なんですかこれは!」
ノエルはやはりこういう遊びを知らなかったようで、目をキラキラとさせて感嘆の声を上げた。
「湯船に沈めて、摘んで……水面より上でまた摘むんだよ」
言いながら実際にやって見せたらノエルは手を叩いて喜ぶ。笑い声が浴室によく響いた。
「すごい! こんなの初めて見ました!」
セドリックが教えたとおりにアヒルを水鉄砲代わりにしてキャッキャと遊んでいる。
その光景を見ていたら、やっぱり買ってよかったな。と思ったのだった。
ぴた、とノエルが動きを止めて、セドリックを窺うように見た。
「こんなに楽しいもの……高かったんじゃないですか?」
至極真面目な顔をして言うノエルに、セドリックは自然と笑みが漏れ出た。
「そこの雑貨屋でも普通に売ってたよ。たぶん、パンより安いよ」
セドリックは冗談めかして笑った。
「それに、出資者は君だし」
昼間にもらった生活費から出したので、別にセドリックの懐は傷んでいない。
「先に出てます。遊ぶのに飽きたら風呂の栓を抜いて出てください」
「あ、じゃあわたしも出ます」
そう言ってノエルは勢いよく立ち上がった。
止める間もなかった。というより、セドリックはその瞬間まで何も考えていなかった。
ノエルは片手で胸の前に手を置いてバスタオルを抑えていたが、お湯をたっぷりと吸い込んだそれは勢いよく音を立てて落下した。……止める暇すら無く。
べしゃっ、とバスタオルが音を立てて湯船に沈む。続いて、無防備な素肌がセドリックの脳裏に焼き付いた。
一瞬で顔に熱がこもる。
「う、っわあああああああああああああああ――――――ッ!!!!」
――王子様らしからぬ悲鳴を上げた彼を、責められる人なんてこの場に居ない。




