第5話 婿入り王子は配偶者のヤバさに気づく
一階の掃除を終えたセドリックは、静かに二階へと足を踏み入れた。
階段は黒く腐っていて、踏み抜きそうでひやひやした。明日以降は階段から上の改修も必要だろう。突き当たりの扉を前に、セドリックは一瞬だけ躊躇した。
――私室を勝手に見ていいのだろうか
……いや、見たいんじゃない。確認だ。生活スペースの確認。それに、配偶者の部屋だ。配偶者の部屋を見ることの一体何が悪いというのか。
随分と長いこと自分に言い訳をした末に、彼はついに扉を開けた。
扉を開けてまず鼻についたのは、埃と紙の匂い……あと、つんとしたカビの臭いもした。セドリックの人生の中で、一番近いのは図書館の匂いだった。
二階は一部屋だけだったが、本棚を境にして、左右でまったく違う性質の空間に分かれていた。
左側は床にゴミ一つ落ちておらず、書き物机と座り心地の良さそうな椅子。そしてベッドのみ置かれていた。
机に近づいてみたら「熱烈歓迎」とノエルの字で書かれた紙が置いてあった。
……これは、もしかしてノエルが自分のために用意してくれたスペースということだろうか。
シングルベッドは、部屋を仕切る本棚の陰に置かれていた。
(……まさか、ここで一緒に寝るのか?)
どう考えてもぎゅうぎゅうにくっつかないと眠れそうにない。
想像してしまった自分に頭を振って、慌てて本棚の向こう側を覗き込む。
本棚の向こう側は、ノエルの執務スペースのようだった。
部屋半分を囲むように本棚がぐるりと置かれており、床には紙や、本棚に入り切らなかったと思われる大量の本が散乱していて足の踏み場もない。
居住者がもう一人増えると分かったから、慌てて半分スペースを空け、ノエルのものだけこちらに寄せた。そんな印象を受けた。
執務机と椅子の大きさが合っていない。両方ともそのへんで拾ってきました、と言われても信じてしまいそうな程チグハグだ。
部屋の中には五つの色付きのシャボン玉が浮いている。
机の上には書きかけの書類や、本が置かれていた。
乱雑な本の上では、人の形をした紙が井戸端会議をしていた。セドリックがこちらを見ていることに気づくと、一枚が慌てて死んだふりをして、それに気づいた他の紙たちもパタパタと死んだふりをした。
(やはり、嫌われているのだろうか)
コミカルな動作が微笑ましいはずなのに、胸の奥がちくりと痛む。
紙人形から目を逸らしたセドリックの目に次に入ってきたのは、机の端に寄せられている真鍮でできた魔道具。
火の気もないのに呼吸をするように、ぽふり、ぽふりと、輪の形をした煙を吐き続けている。
貴族令嬢の部屋とはとても思えない。乱雑で、整理されていなくて。それなのに、あまりにも心惹かれるものばかりで、もっと見ていたいと思ってしまった。
――絵本で見たような、魔法使いの部屋。
貴族令嬢の部屋というよりは、山奥に籠もっている偏屈な魔法使いの部屋と言われたほうがよっぽど合っている。
部屋を見ていたセドリックにふわふわとシャボン玉が近づいてくる。
近づいてきたシャボン玉をよく見てみたら、中でオレンジ色の霧が渦巻いていた。試しに人差し指でつついてみたら、ぱちんと弾けてノエルの声がした。
『領地南側で瘴気の発生。調査中。様子見』
「……っ、しまった」
思わず弾いてしまったせいで、ノエルの大事な記録を消してしまったかもしれない。
どうすれば、戻せるのだろう。慌てたところで遅い。
だが魔法を使えないセドリックでは戻し方すら想像がつかない。
だというのに、他のシャボン玉たちがふわふわとセドリックに近づいてくる。
その時、一階でドアが開く音がした。
ノエルが帰ってきたに違いない。セドリックは慌てて階段を駆け下りた。――急いではいたが、腐食した板を踏み抜かないように、気をつけることも忘れなかった。
玄関先で、ノエルが一瞬きょとんと立ち尽くしていた。
外出する時に着ていったレンガ色の外套には、血が滲んでいた。
「おかえり! ……怪我したの?大丈夫?」
外套に付いた血を見た瞬間、シャボン玉の事も忘れて思わず口をついて出ていた。
セドリックの言葉に、ノエルは驚いたように目を丸くし――それから、何かを思い出したような顔をして、無言で踵を返した。
――自由に過ごしていいと言われてはいたけど、勝手に家を改修したのがまずかった?それとも、シャボン玉を壊したことがもう分かっていて怒っているのだろうか。
もし怒られたらどうしよう。
外から何やらバサバサと音が聞こえ、すぐにノエルがドアを開けて戻ってきた。
外套を脱いで腕に抱きかかえている。
「ただいま帰りました。怪我はしていません」
ノエルはそう言って嬉しそうに笑った。
「お部屋を綺麗にしていただいて、ありがとうございます」
その言葉で、外套についた汚れをこの場所に持ち込みたくなかったのだと、セドリックは理解した。
「ノエル、ごめん。君の部屋に入った時シャボン玉を壊してしまったんだ」
先ほどあった件について報告すると、ノエルはこともなげに答えてくれた。
「ああ。……あれは、ただのメモです。ペンを取るのも面倒な時に使ってるだけです。今度は無視してください」
ノエルはそう言ってセドリックの横を通って廊下の奥へと消えていった。
少しすると、がさがさという衣擦れの音、その後にはシャワーの音が聞こえてきた。
隣の部屋にいるのに聞こえてくるのは、共同生活を営むうえで大変気まずい。
次は壁の補修か……。いや、この狭さだといっそ引っ越ししたほうが早いのでは?などと考えていたらあっと言う間にノエルが出てきた。
……おかしい、早すぎる。シャワー音が鳴っていたのは、ほんの数十秒だった。
お風呂上がりだというのに、着ていた服は先程までと一緒だ。シャツの一番下のボタンがやっぱり外れかけたままだから。
何より、石鹸の匂いが一切しない。
セドリックは慌てて風呂場へ突撃した。
湿気だけがこもった浴室には、石鹸の香りも湯気もなかった。
あったのは、水たまりと、濁った赤いものがわずかに混じっているだけ。
そして、なにより――。
「……ノエル、お風呂って、どうやって入ってるの?」
「え? シャワーでしゃーってやって、終わりですけど?」
――風呂場には、シャンプーやリンス、石鹸といった類のものが一切なかった。
ノエルの髪の先から水がぽたぽたと肩に落ちている。
よく見てみれば赤い髪には血がまだこびりついていてちゃんと落としきれていない。
「服、さっきと一緒だよね」
「魔法で「えい!」で綺麗にできるので」
セドリックは思わず顔に手を当て、天を仰いだ。
それは「お風呂に入る」ではなく、行水とか、水浴びというのだ。髪についた血も、服についた汚れも、全部まとめて「えい!」で済ませているということか。
あと服は毎日着替えろ。
(子爵家の令嬢でありながらお風呂の入り方を知らない……!?)
セドリックは声にならない悲鳴をあげた。
自分はとんでもない相手と結婚したのだと。




