第25話 婿入り王子は"それ"が苦手
※コメディですが虫の話がでてくるので苦手な方は注意してください。
セドリックは一階の部屋で"それ"と対峙しながら後悔していた。手に握った箒にじわりと汗が滲む。
目だけで逃走経路を探すが、風呂場方面は"それ"の縄張りだ。
逃げるならセドリックの背後一択。だが、背を向けて逃げることは出来ない。
こちらが動いたら向こうも無防備な背中めがけて突撃してくるだろう。――そんな予感がしていた。
アンは外で草むしりをしている。
ノエルは二階で仕事中。
つまり、この部屋には"それ"とセドリックしか生命は存在していない。
いや、それ以前に元騎士として、元王子としては女性と"それ"を対峙させることなんてできない。
――つまりセドリックが殺るしかないのだ。
すー、はー。と鼻で深呼吸する。口を開けたら"それ"が飛び込んできそうで、怖かった。
黒くて、気づいたらどこにでも居て、やたら動きが速くて、生理的嫌悪感を掻き立ててくるフォルムをしている、あいつだ。
――人はそれをGと呼んだりする。
しかも、王都にいた"それ"よりもでかい。手のひらサイズくらいある。
直視しただけでも気絶しそうだった。
あれなら魔獣と戦ったほうがまだマシだ。
だって、魔獣は家には入ってこないから。
じわりと額に汗が滲む、べっとりとした気持ちの悪い汗だ。拭う余裕すらない。
――何が悪かったというのか。
掃除が足りていなかったのか、家の補修を先にやるべきだったのか、そういえばいつもは流し台を乾拭きしてから寝るのに、昨日は疲れて怠ったせいなのか。
後悔を並べながら、どれほど”それ”と睨み合っていただろうか。――沈黙は容易く壊れた。
とんとんと階上からノエルが降りてくる音。
ふわぁ〜と間の抜けたあくびと、ボリボリと無防備に頭をかく音が聞こえる。
完全に気を抜いている。
いつもだったら嬉しいはずのノエルの生活音にこれほど絶望を感じたことは無い。
(だめだ、ノエル、こちらに来てはいけない!!)
そう叫びたいのに、声がでない。
"それ"が飛び上がり、扉へ――ノエルの所へ向かった。
巨大なボディの裏面を見てしまったセドリックは、恐怖のあまり悲鳴すらあげられなかった。
ノエルの動きが、一瞬止まる。
(ノエル――!!)
"それ"がノエルの顔近くまで来た途端、ばしっ! とノエルが素手で叩き落した。
その後無言でノエルが踏み潰す。
ぱきぐちょぶぴぐにゃ、とかそういう名状しがたい音がノエルの足元から響いた。
部屋の中に沈黙が静かに横たわる。
「うわ! 素足でやっちゃった! きっったねー!」
ノエルはそのまま片足を上げた状態で跳ねてお風呂まで行き、洗い流した。
その後も布にくるんで"それ"の遺骸を捨て、床にはアルコール消毒までしてくれた。
もはやこの部屋に"それ"がいた気配なんて微塵も感じない。
何より嬉しかったのは、頼まなくてもアルコール消毒してくれたこと。洗い流した後の排水口の掃除までしてくれた。
お陰で"それ"の死骸を見ることすら無く処理が終わった。
セドリックはノエルの背中にぴっとりとくっついた。
彼女のほうが小さいから、セドリックが完全に覆えてしまう。
こんな小さな身体で、あの邪悪な生き物を躊躇わず退治できることに尊敬してしまう。
「ノエル……しゅき……」
恐怖と安堵と尊敬。クソでか感情が短時間に来たことでセドリックの語彙力は完全に崩壊した。
(私の妻がどんな騎士よりも格好良い……)
元王子とか、夫としてのプライドも地に落ちた。
「えっ、奥様?急にどうしたんですか!?!?わ、わたしも好き……ですけど!?!?」
ノエルはわたわたと慌てて、セドリックの方を向き直ってぎゅうとハグしてきた。
「私はもう君無しでは生きられないかもしれない……」
「そ、そこまで!?!?」
セドリックはノエルを抱きしめたまま、語り続けた。どれほど絶望的な気持ちで"それ"と対峙していたか。"それ"を倒したノエルがどれほど眩しく見えたか。感情のままに、全部。
紫色の目には薄っすらと涙すら浮かんでいる。
いつもは大人の表情しか見せないセドリックが、こうして弱みを見せるのは珍しい。
ノエルは自分よりも大きなセドリックの頭を撫でた。
「怖かったですね。わたしはあいつ、別に平気なので、次に出た時も言ってくださいね」
「ノエル〜〜〜!!!!」
ぎゅうう、と今まで以上に力を入れてセドリックはノエルを抱きしめた。
(鉱山にでてくるゴッキーって、坑道を塞ぐくらいでかいから、あの程度だったら正直可愛い部類だと思うんだけど……やっぱり王子様って虫を見慣れてないのかな)
でも、それを言ったら余計に大事な奥様を怖がらせるだけなので口を噤むノエルだった。




