第19話 婿入り王子は新居を発見する
その日、セドリックは夢を見た。
耳が痛くなるほどの静けさが、王家管轄の湖に満ちていた。
水面の下で、死んだように眠る女性。黒い髪の毛が澱のように水底を揺蕩う。百合の花が水面で揺れている。
目を瞑っているはずなのに、どうしてかその女性と目があった気がした。
金縛りにあったように、水面を覗き込んだまま動けない。
『魔力持ちの悪い子はああなるのよ』
一人ではない。何層にも重なり合った声が、セドリックの背後から聞こえた。
女性の輪郭が緩やかにほどけ、魔法のように姿を変える。
――セドリックも良く知っている人物へと。
赤く燃えるような髪、小柄な身体、茫漠とした琥珀色の瞳。
手を伸ばしても水面より先に手が沈まない。水面が虚しく波紋を描くだけ。
名前を呼びたいのに、どうしてか声が、出ない。
百合の花が、とぷん、と音を立てて沈んでいく。一輪ずつ沈む花が、彼女の赤毛を、琥珀色の瞳を、か細い指先を、ひとつひとつ覆い隠していく。
――違う、ノエルは悪い子なんかじゃない。だから連れて行かないで、水底には沈めないで。
は、と目が覚めた時飛び込んできたのは紙だった。
六枚の紙人形がセドリックの顔や手をぺしぺしと叩いている。
どうやらうなされていたらしい。心配かけたことを詫びようと紙人形の頭を撫でようとしたが、手汗で濡れていたので触るのはやめておいた。
肌着が背中に貼り付いて気持ち悪いし、前髪は額に重く貼りついていた。
シーツは水でもぶちまけたように、じっとりと濡れている。
夢の中から現実へと戻ってこれたことに、思わず安堵のため息を漏らした。
本棚の向こうからペンの動く音が聞こえる。どうやらノエルは集中モードらしく、セドリックが悪夢でうなされていたことはバレていないようだ。
未だに震える手で顔を覆った。
夢から覚めたことに安堵したというのに、どうしてこんなにも不安でいっぱいなのだろう。
「違う。ノエルは「悪い子」じゃない。だからあんな未来は起こらない」
自分に言い聞かせるように呟いて、セドリックは起き上がった。
汗でびっしょりだったのでシャワーを浴びた。しばらく熱い湯を浴びていたら自然と手の震えも治まり、悪夢についてもただの夢であると割り切ることができた。
シャワーから上がって暖炉の前に椅子を持ってきて髪の毛をタオルドライする。そのまま、しばらくボーっとしていた。
(あ、枝毛だ)
王宮に居た頃は丁寧に手入れをしていたが、この辺境の地だと同じような手入れはできない。
特にこの家は電気が通ってないから髪の毛を乾かすのはこうやって暖炉の前でタオルドライをするくらいしかできない。
――いっそのこと切ってしまおうか。
元々セドリックに魔力はないし、切って不都合は無い。
高位貴族には長髪が多いが、低位貴族には利便性を優先して短くしている男も多い。
なにせ自分はもう、王子様ではなくただのカーティス子爵なんだし。
そんなことを考えていると二階から階段を降りてくる足音が聞こえ、顔を出したのはノエルだった。
「あれ、奥様、朝風呂ですか?珍しいですね」
「うん、ちょっと夢見が悪くて、汗かいちゃって」
ノエルの顔を見れて安心する日が来るなんて、結婚初日のセドリックに言ったらきっと信じないだろう。
「そういえばこの家、電気通ってないのにお風呂は蛇口ひねればお湯が出てくるけどなんで?」
「魔導式の、バッテリータイプなんです。わたしが改造しました。時々魔力を補充してます」
「便利だね」
「あ! コンロも改造しましょうか?」
「今はダッチオーブンもあるし、しなくていいよ。それより仕事してないときは私に構ったり、休んだりして欲しい」
「じゃあ構います!! 髪の毛乾かすのやらせてください!」
セドリックは笑って了承した。バスタオルを手渡して、ノエルにぽんぽんと拭いてもらう。
「……これって結構時間かかるんですね」
ノエルの髪の毛は首筋くらいまでしかない。タオルで「わしゃわしゃっ」とやればすぐに乾く。
セドリックの髪の毛は肩甲骨くらいまであるので、乾くのに結構な時間がかかるのだ。
「この家、ドライヤーがないからね」
「どらい、やぁ?」
セドリックがどういうものかを説明すると、ノエルは雷魔法に打たれたような衝撃を受けた。
彼女はドライヤーというものを初めて知ったらしい。
「ほ……、欲しいものがあったら言ってって言ったのに……!! どうして言ってくれないんですか……!」
わなわなと震えた声でノエルが言った。
「ドライヤーって電気使うでしょ。この家通ってないし、かといって魔導式のだと私は使えないし……」
「だったらちゃんとした家に引っ越しましょう! 新しく建ててもいいです」
「引っ越しって大変だよ? まずはノエルの部屋を片付けて、不用品の分別をして、条件にあった家を探して、新しく建てるなら行政の手続きも複雑になるし……」
セドリックが指折り数える。やることが一つ増えるたびに、ノエルの顔がどんどん苦いものを食べさせられたような顔になっていった。
少し考えただけでもこれだけあるのだ。実際やってみたらもっとやることや問題が増える。
どう考えても今のノエルの状態での引っ越しは無理だ。このまま強行をすればセドリックの負担が大きいと気づいたらしい。
「……そんなわけで今は引っ越しよりも、ノエルの休息が優先かな。……いっそ髪の毛も、切っちゃおうかなって思ってたんだよね。伸ばす意味もないし。ノエルよりも短くしようかな」
ノエルは頭を抱えて、しばらくの沈黙の後に絞り出すように言った。
「今の月の女神様みたいな奥様も捨てがたいし、ワイルドな奥様もきっと格好良いと思います……!!くぅう……どっちも捨てがたい……!!」
人の生死を選択させられたのと同じくらい、ノエルが真剣な顔をしていた。
眉間にシワがより、口元がきゅっと結ばれている。
「ノエル、私のことを月の女神様って思ってたの?」
くすくすと自然と笑いが漏れていた。
「そうだなぁ。じゃあ髪の毛を短くしたら一人称も変えてみようかな。『俺』とかどう?」
「絶対格好いいです!!似合います!!!奥様に似合わないものなんてありませんけどね!!」
そんなことを話していたら、悪夢を見たことなんてすっかり忘れてしまっていた。
タオルでセドリックの髪を乾かしていたノエルがふと思い出したように声を漏らす。
「そういえば、奥様ってカーティス家の一番偉い人になったんですよね?」
「……?うん、そうだね」
「じゃあ、あそこ使っても良いのかも」
「あそこ?」
「前の領主代行の人が住んでいたお家です。急に居なくなっちゃって、勝手に使っていいかも分からなくて放置していました。ここよりも大きいし、電気も通ってたと思います」
道理でおかしいと思っていたのだ。代々の領主がこんなあばら家に住んでいるわけがない。
ノエルの話によれば、街の人に聞いて「ここなら誰も使ってない」と言われた場所に住み着いた結果がこの家だったらしい。
「鍵はあるし、見に行きますか?」
「行こう」
本邸はしばらく放置されていたこともあって、まるで時間が止まったような静けさが漂っていた。
大通りから少し離れた場所に、その立派な本邸は存在していた。
門をくぐると、まず目に入ったのは庭――というには荒れすぎた森だった。
腰の高さまで伸びた雑草が、侵入者を拒むように生い茂り、かつては剪定されていたであろう植木も、形を失ってぼうぼうと伸び放題だ。
今のあばら家を最初に見つけた時と同じくらい荒れ果てている。
樹木の枝はあちこち好き勝手な方向に伸びっぱなしで、思わずセドリックは「生存競争……」と呟いてしまった。
外壁もところどころ崩れかけている。
……それどころか、大きな蜂の巣が我が物顔で鎮座している。あれには近づきたくない。
なんとかして玄関の前にたどり着くと、ノエルが鍵を差し込んで回す。硬い音とともに扉が開くと、乾いた埃の匂いとともに中の空気が流れ込んできた。
「……わあ……」
埃が舞い上がり、光が斜めに差し込むホールの中に、踊る粒子がきらきらと浮かぶ。
中に足を踏み入れると、床板が鈍い音を立てた。
広い玄関ホール。
夫婦の寝室、客室、使用人部屋、食堂、立派なキッチン、夜会を開けそうな広間。
庭には、崩れかけた温室まである。
ノエルが壁に手を伸ばし、ぱちりと小さく音がすると同時に部屋に明かりが灯った。
電気が通ってる。それだけでなく、ガスも。
キッチンの設備が揃っているのが何よりも嬉しかった。ガスコンロ、ジューサー、ガスバーナー……。
頭の中で、料理のレパートリーが次々と広がっていく。
あの家では置けないものがたくさん揃っていた。
セドリックが想像していた以上に、ずっと立派な本邸だった。
派手すぎる絨毯や、過剰な金装飾の家具はセドリックの趣味ではないが、買い換えれば問題はない。
むしろ自分好みにこの本邸を飾れると思うと胸がワクワクしてきた。
バタバタと走り回るたびに埃が足元を舞う。だが、それすら気にならない。
「ねえねえ、この部屋、ノエルの執務室にいいんじゃない?日当たりもいいし、暖炉も有るし、本棚も!……うわ、床下収納まである! しかも広いよ!」
部屋を探検しながらノエルに問いかけるが、当の本人は何やら渋い顔をしている。
「どうしたの?何か問題でもあったの?」
「だって……いまのお家、せっかく奥様が住み心地よくしてくれたのに……」
あのあばら家も最初は庭は雑草が伸びっぱなしで、部屋は隙間風が容赦なく入り込んでくる環境だった。
どうやらノエルは、セドリックが住み心地良く改造してくれたのにすぐに引っ越すのに抵抗があるらしい。
「すぐには移らないから大丈夫だよ。これだけ大きな館をまわすのには人手がいるし、今はまだそこまで余裕が回らない。当面の間は最低限のところだけ掃除して、必要なときだけ使う感じになるかな」
人を採用するのは時間もお金もかかる。
セドリックがそう言えば、ノエルはホッとした表情を見せた。
「こっちに本格的に住居を移したあとだって、向こうの家を秘密基地にしたっていいんだよ」
「秘密基地?」
「うん。使用人に見つからずに美味しいもの食べたいときとか、内緒話したいときとか、夫婦喧嘩しちゃったときの避難先とか。で、ちゃんと仲直りするんだ」
最後に、秘密の話をするように声を抑えて付け足す。
「……私も、あっちの家には愛着があるしね」
「なんか、素敵ですね。そう考えたら引っ越しも悪くないかもって思えます」
二人はあばら家に戻った。ノエルが溜まっている仕事を気にしてソワソワし始めたからだ。
机の上に本邸の図面を広げて二人で顔を突き合わせる。
本邸にいっている間にダッチオーブンでスープを作っておいたのだが、ノエルは気に入ったようでニコニコとしながら飲んでいた。
スープを飲み、セドリックと話しながら同時進行で仕事もしていた。今日は商会の仕事らしく、注文書らしき束を手に持っている。
「掃除するにも、流石にあの広さを奥様一人で掃除させるのは……人でも雇いますか?」
「うーん……」
ノエルの提案にセドリックは難色を示した。
今まで、信頼できる人しか身の回りに置いていなかったので、どうも身元不明の人を周囲に置く、というのに抵抗があるのだ。
今まで身の回りに置いてきた人間は、国が「信頼できる」と判断した人間であり、セドリック個人が信頼していた相手ではなかった。その違いは大きい。
ただ、それを口にしたらカーティス領の民を信頼していないように聞こえてしまいそうで。
そんな時、紙人形たちがエッサホイサと何かを――セドリックが先日作った人形を持ってきた。琥珀色の瞳に三つ編み赤毛の、あの人形だ。
「は? するわけないだろ。却下だ却下。調子に乗りすぎ」
そう言ってノエルは紙人形たちに「あっちにいけ」というように手を払った。
「紙人形たち、なんて?」
「奥様が作った人形に身体を入れ替えてくれって。そしたらお掃除手伝えるからって」
「え、できるの?」
元々この人形は、「小さいノエルが足元で動いてたら可愛いだろうな」と妄想して勢いで作った人形だ。
まさかそれが実現するのだろうか。ドキドキする。
「できますけど、こいつらが余計に調子に乗るからいやです。ただでさえクッキーっていう報酬を支払うようになったってのに……」
ほら、コイツらの欲望には際限がないでしょう。とノエルがぶすくれて付け加えた。
だが、言い切った数秒後、早速ノエルは後悔していた。
(え、自分の作った人形が動くの?見たい……でもノエルが嫌がってるし……無理やりお願いするのも……)
――セドリックがそんな感じの顔で紙人形たちを見ていたからだ。
愛する奥様の望みを察して叶えるのが役割である。ノエルの脳裏に、かつての教えがよぎった。




