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Moon Light Lover  作者: 巡
第2章 日常入門編

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第9話 神様、変装する


「月読命さん」


 千晴は、再び月読命に向き直った。


「現代の常識も、覚えてください」


「現代の常識」


「そうです。外に出るなら、その格好はだめです」


 千晴が月読命の衣を指差す。


 月読命は自分の袖を見下ろした。


 広い袖。


 足元近くまで薄く流れる裾。


 淡い銀の紋様が、朝の光を受けてかすかに浮かんでいる。


 神社の月明かりの下なら神秘的だった。


 けれど、日曜の朝のアパートでは完全に異物だ。


「この衣に、何か問題があるのか」


「問題しかないです」


 あかりも小さくうなずいた。


「そのまま外歩いたら、秒で見られる。たぶん写真撮られる。SNSに上げられる」


「えすえぬえす」


「そこからかぁ......」


 あかりは額に手を当てた。


 月読命は本気で分かっていない顔をしている。


 神様にスマホやSNSを説明する日が来るとは思わなかった。


 千晴はため息をつきながらも、すぐに現実的な顔に戻った。


「とりあえず、服が必要。あかりの服じゃ無理?」


「無理だよ。身長差見て」


 あかりは月読命を見た。


 座っていても分かる。


 月読命はかなり背が高い。


 昨日、境内で近づいたときも、あかりは自然に見上げる形になった。


 自分のTシャツを貸したところで、まともに着られるはずがないし、神様がピタピタのTシャツを着ている姿は笑えない。


「じゃあ、買うしかないね」


「買うって、どこで?」


「近くの量販店。もしくは、とりあえず最低限ならコンビニ」


「コンビニで神様の服を揃えるの?」


 あかりが思わず言うと、千晴は真顔で返した。


「神様だろうが人間だろうが、下着と靴下は必要でしょ」


 下着、という単語が耳に残った瞬間、あかりは反射的に月読命のある部分に視線を動かした。

 そして、すぐに目をそらした。

 見た。

 今、見た。

 何を確認しようとした、自分。


「神様に下着って単語を乗せないで。頭の中で祭具と洗濯物が同じ棚に並ぶから」


「......神様の祭具って、あかり、朝から下ネタはきついよ」


 あかりは顔を真っ赤にして否定する。


「違う!そんな意図で言ってないから!」


 月読命が、静かに割って入ってきた。


「こんびに、とは何だ」


 あかりと千晴は、同時に顔を見合わせた。




 そして、千晴が先に言った。


「……本当に、そこからなんだ」


「うん。そこから」


 あかりは苦笑した。


 コンビニ。


 あかりにとっては、生活の一部だった。


 アパートの近くにもある。


 バイト先でもある。


 眠い朝におにぎりを買う場所。


 講義帰りにアイスを買う場所。


 レジの奥で、揚げ物の匂いに包まれながら、何時間も立っている場所。


 そんなあまりにも日常的な場所を、月読命は知らない。


 その事実が、急に不思議だった。


 神様は月の神域から来た。


 けれど、コンビニを知らない。


 スマホのアラームから流れるYOFUKASHIの曲を、どこかから聞こえる女の歌声だと思う。


 SNSも、レジ袋も、ポイントカードも、たぶん知らない。


 あまりに遠い存在なのに、今は六畳の部屋で、あかりの目の前に座っている。


「コンビニっていうのはね」


 あかりは、なるべく簡単に説明しようとした。


「食べ物とか飲み物とか、生活に必要なものが、だいたいいつでも買える店」


「いつでも」


「うん。朝でも夜でも」


「夜にも開く店か」


 月読命は少しだけ目を見開いた。


「地上の夜は、思ったより明るいのだな」


 その言い方に、あかりは一瞬だけ黙った。


 月の神様が言うと、ただの感想ではなく聞こえる。


 夜が明るい。


 それは便利さの話でもあり、月明かりが見えにくくなる話でもあった。


「まあ、明るすぎる時もあるけどね」


 あかりは小さく言った。


「でも、助かることも多いよ。私もそこでバイトしてるし」


「ばいと」


「働いて、お金をもらうこと」


「そなたは、店で働くのか」


「うん。学生だけど、生活費もあるし。汐見家は別に貧乏じゃないけど、京都で一人暮らししてたら、さすがにバイトなしはきついから」


「学生とは、学ぶ者であろう」


「学ぶ者も食べないと生きていけないんです」


 あかりが言うと、千晴が少しだけ笑った。


「それは名言」


「笑わないでよ」


「でも事実」


 月読命は真剣な顔であかりを見ていた。


 その目は、昨日までとは少し違っていた。


 神が人を見る目、というより。


 知らないものを知ろうとしている目だった。


「そなたは、学び、働き、ひとりで暮らしているのか」


「まあ、そうだね」


「人は、忙しいのだな」


「神様よりはね」


 あかりは軽く返したつもりだった。


 けれど、月読命は答えなかった。


 その沈黙が、妙に気になった。


 神様は忙しくないのだろうか。


 それとも、忙しいという言葉では表せないものを背負っているのだろうか。


 月読命は、自分がなぜ地上に下ろされたのか知らない。


 帰る道も閉じている。


 その孤独は、あかりにはまだ分からない。


 分からないのに、なぜか放っておけない。


「で」


 千晴が手を叩いた。


 その音で、あかりの意識が現実に引き戻された。


「感慨に浸ってる場合じゃない。まず今日やることを決めよう」


「はい」


 あかりは背筋を伸ばした。


 千晴はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。


「一、月読命さんの服をどうにかする」


「うん」


「二、外に出る時の最低限のルールを教える」


「信号とか?」


「信号、車、人との距離感、支払い、スマホで撮られそうになった時の対応」


「多いな」


「多いよ。三、昨日の変な人たちについて整理する」


 その言葉で、あかりの身体が少し強張った。


 千晴はすぐに気づいた。


「無理に今全部話せとは言わない。でも、何者か分からない人たちが月読命さんを探していたなら、あかりも危ない」


「……うん」


「警察に言える内容じゃないんだよね?」


 あかりは月読命を見た。


 月読命は静かに言った。


「我を探していた者たちは、ただの迷い人ではない。気配が違った」


「気配」


 千晴は繰り返した。


 信じたわけではない。


 けれど、否定もしなかった。


「じゃあ、こっちも不用意に動けない。服を買うにしても、目立たない時間と場所を選ぶ」


「でも、今日中にどうにかしないと。ずっとこの格好で部屋にいるのも危ないよね。隣の人に見られたら終わる」


「終わるね」


「神様を六畳に隠してます、って説明できない」


「できたら逆に怖い」


 千晴はスマホを操作しながら考え込んだ。


「あかりのバイト先のコンビニ、服ってどのくらい置いてる?」


「肌着、靴下、タオル、傘、充電器、あと簡単な日用品くらい。服はさすがにちゃんとしたのはない」


「じゃあコンビニは緊急用品だけ。服は量販店かな」


「ツクを連れて?」


「連れていくしかないでしょ。サイズ分からないし」


「この格好で?」


「だから、まず隠す」


 千晴は部屋を見回した。


「帽子、マスク、羽織れるもの。あかり、男物っぽい上着ない?」


「ないよ。うちに男物があるわけないじゃん」


「だよね」


「あ」


 あかりはふと思い出した。


 クローゼットの奥。


 父のものではない。


 実家から持ってきた、母が昔使っていた大きめの薄手のストールがあったはずだ。


 日焼け対策にもなるし、夏の冷房避けにもなるから、と持たされたものだ。


「大きめのストールならある」


「それ使おう。あと帽子は?」


「キャップならある。大学のイベントでもらったやつ」


「よし。髪はまとめられない?」


 月読命の長い黒髪を見る。


 あかりは少し迷った。


 神様の髪を、勝手にまとめる。


 考えるだけで罰当たりな気もする。


 でも、外に出るなら仕方ない。


「ツク」


「何だ」


「髪、結んでもいい?」


 月読命は、自分の髪に手を触れた。


「髪を結うのか」


「うん。そのままだと目立つから」


「そなたが必要と言うなら、構わぬ」


 あっさり許可が出た。


 あかりは拍子抜けした。


「いいんだ」


「地上で生きるには、地上の形に従う必要があるのであろう」


 その言い方は、とても素直だった。


 千晴が小さく目を細める。


「……危ない人ではなさそうなんだよね」


「でしょ」


「でも、そばにいたら危ないことは起きそう」


 あかりは返事に詰まった。


 それは、たぶん正しい。


 月読命は優しい。


 少なくとも、あかりに危害を加えるつもりはない。


 けれど、昨日の夜に彼を探していた何者かがいる。


 彼自身も、なぜ地上に下ろされたのか知らない。


 そして彼には、部屋の空気を震わせるほどの力がある。


 優しいことと、危険ではないことは同じではない。


「分かってる」


 あかりは言った。


「でも、放っておけない」


 千晴はため息をついた。


「そう言うと思った」


「ごめん」


「謝らなくていい。だから私も、できる範囲で手伝う」


 あかりは目を見開いた。


「千晴」


「ただし条件」


「はい」


「勝手に一人で動かない。何かあったらすぐ連絡する。昨日みたいに寝落ちする前に、一言でいいから送る」


「はい」


「あと、月読命さん」


 千晴は月読命を見る。


「あなたも、あかりを連れ回す時は私にも分かるようにしてください」


 月読命は静かに言った。


「我は、そのすまほというものを持たぬ」


「そこからだった」


 千晴が目を閉じた。


 あかりは思わず笑ってしまった。


 怖いことはあるし、分からないことも多い。


 けれど、千晴がいる。


 月読命も、知らないなりに学ぼうとしている。


 それだけで、昨日の夜より少しだけ世界が明るく見えた。


「じゃあ、まずは変装」


 千晴が立ち上がった。


「そのあと、コンビニで最低限のものを買って、服を見に行く」


「私のバイト、午後からのシフトでよかった……」


 あかりがつぶやくと、月読命が不思議そうに聞いた。


「しふと、とは何だ」


「働く日と時間のこと」


「働く時間まで決められているのか」


「まあね」


「人の世は、月の満ち欠けより細かく区切られているのだな」


 その言葉に、あかりは少し笑った。


「そうかも」


 月の満ち欠け。


 旧暦。


 あの世の方角。


 昨日まで、それらは本の中や講義の中の言葉だった。


 でも今は違う。


 月読命が、目の前にいる。


 そしてこれから、月の神様を連れてコンビニへ行く。


 あまりにも変で、あまりにも現実的で。


 あかりは、自分の人生がどこかで大きく曲がり始めたことを感じていた。


 クローゼットを開ける。


 奥からストールを引っ張り出す。


 キャップを探す。


 ヘアゴムを手首にはめる。


 月読命は、静かにそれを見ている。


 千晴はスマホで近くの店を調べながら、現実的な予定を組み立てている。


 夏の朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 その光の中で、あかりは月読命の長い髪にそっと手を伸ばした。


 指先に触れた髪は、驚くほど細かく、やわらかかった。


 黒いはずなのに、光を受ける角度によって、月明かりが表面を流れているみたいに見える。


「痛かったら言ってね」


「痛みはない」


「そういう意味じゃなくて」


 あかりが笑うと、月読命は少しだけ間を置いた。


「では、そなたに任せる」


 その一言に、あかりの胸が小さく跳ねた。


 任せる。


 ただ髪を結ぶだけなのに。


 神様にそう言われると、ひどく重くて、ひどく近い。


 ヘアゴムで長い黒髪をゆるくまとめる。


 キャップをかぶせる。


 ストールで衣の目立つ部分を隠す。


 完璧ではない。


 むしろ、よく見ればかなり怪しい。


 けれど、何もしないよりはずっとましだった。


 千晴が月読命を上から下まで見た。


「うん。ギリギリ、服装にこだわりの強い観光客くらいにはなった」


「褒めてる?」


「かなり褒めてる」


 月読命は真面目な顔で言った。


「我は、観光に来たのではない」


「そこは今いいです」


 千晴が即答した。


 あかりはとうとう吹き出した。


 笑っている場合ではない。


 分かっている。


 でも、笑わずにはいられなかった。


 月読命も、千晴も、あかりも。


 昨日まで交わるはずのなかった三人が、六畳の部屋で、神様の外出準備をしている。


 そのおかしさが、少しだけ怖さを薄めてくれた。


 玄関に向かう前、月読命がふと窓の方を見た。


 朝の空に、月はもう見えない。


 けれど彼は、そこに何かを探すように目を細めていた。


「ツク?」


 あかりが呼ぶと、月読命はゆっくり振り向いた。


「いや」


 短く答えて、彼は玄関へ向かう。


 その横顔に、ほんの一瞬だけ、遠い場所を失ったような影が差した。


 あかりはそれに気づいた。


 けれど、何も聞けなかった。


 今聞いても、きっと答えは出ない。


 だから代わりに、靴を履きながら言った。


「コンビニ、びっくりすると思うよ」


「それほどの場所なのか」


「ある意味、地上の神域みたいなものかも」


「神域」


 月読命が真剣な顔になる。


 千晴が横から言った。


「そんな大げさな場所じゃないです。ただのコンビニです」


「でも、夜中でも明るくて、食べ物があって、人が来て、電子音が鳴って、みんな何かを買って帰るんだよ。けっこうすごくない?」


「まあ、それはそうだけど」


 千晴は少しだけ笑った。


 月読命は、玄関の扉を見つめていた。


 その向こうには、夏の朝の京都がある。


 人の生活がある。


 信号があり、車が走り、コンビニがあり、スマホを持った人たちが歩いている。


 月の神様が知らない、明るすぎる地上の朝。


 あかりはドアノブに手をかけた。


 昨日の夜は、逃げるために外へ出た。


 でも今日は違う。


 知るために出る。


 月読命が、この世界を。


 そしてあかり自身が、月読命を。


「行こう、ツク」


 あかりが言うと、月読命は静かにうなずいた。


「行こう、あかり」


 その呼び方に、胸がまた少しだけざわめいた。


 あかりは何でもないふりをして、玄関の扉を開ける。


 夏の朝の光が、三人の足元に流れ込んだ。


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