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Moon Light Lover  作者: 巡
第2章 日常入門編

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第10話 神様とコンビニ


 玄関の扉を抜けると、夏の朝の空気が肌に触れた。


 まだ午前中だというのに、日差しにはもう熱がある。階段の手すりも、少しだけ温まっていた。


 あかりは玄関の鍵を閉めながら、隣の部屋のドアをちらりと見た。


 誰も出てこない。


 よし。


 今のところ、六畳の部屋に月の神様を隠していたことは、近所にはばれていない。


 たぶん。


 きっと。


 できれば、そうであってほしい。


「ツク、こっち」


 あかりは小声で言った。


 月読命は、キャップをかぶり、ストールで白とも銀ともつかない衣の目立つ部分を隠し、長い黒髪をゆるくまとめた姿で立っていた。


 正直、完全に普通ではない。


 だが、千晴の言う通り、ぎりぎり「服装にこだわりの強い観光客」くらいには見える。少なくとも、月読神社の月明かりの下にいた時よりは、地上に寄っている。


「階段、ゆっくりね」


 あかりが言うと、月読命は静かにうなずいた。


「昨日も通った道であろう」


「そうだけど、今日は逃げてるわけじゃないから。 普通に歩いて」


「普通に」


 月読命は少し考えたあと、足を進めた。


 その動きは、やはり少しだけ静かすぎた。


 足音がほとんどしない。


「……普通って、難しいね」


 あかりがつぶやくと、千晴が後ろから小さく言った。


「足音、なさすぎない?」


「そうか?」


「うん。 そこからもう普通じゃない」


 月読命は、納得していない顔で階段を降りた。


「まず、道路に出たら車に気をつけて」


「昨日見た、あの鉄の箱か」


「うん。 人を運ぶ速いやつ」


「やはり危ういな」


「その感覚は正しいです」


 千晴が真顔でうなずいた。


 アパートの階段を降り、三人は通りへ出た。朝の京都は、夜とはまるで違っていた。自転車が走り、車が通り、どこかの家から洗濯物の匂いがする。遠くで子どもの声が聞こえ、コンビニの配送トラックらしき車が角を曲がっていく。


 月読命は、そのすべてを静かに見ていた。


 驚いているようには見えない。


 けれど、目の奥がずっと動いている。光も、音も、匂いも、人の気配も。月の神様は、朝の人間世界をひとつずつ測っているみたいだった。


「そんなに見ない」


 千晴が低く言う。


「何をだ」


「全部です」


「あまり見てると目立つから」


 あかりも言った。


 月読命は少しだけ視線を落とした。


「見ることも、控える必要があるのか」


「現代社会では、じっと見すぎると不審者です」


「我は、怪しまれているのか」


 あかりと千晴は、同時に黙った。


 それから、千晴が言った。


「かなり」


「千晴」


「事実でしょ」


「まあ、事実だけど」


 月読命は怒らなかった。


 ただ静かに、キャップのつばを少し下げたその仕草が、思ったより自然だったから、あかりは少しだけ安心する。


 この神様は、分からないことを馬鹿にしない。知らないことを、ちゃんと知らないものとして受け取る。


 だから余計に、放っておけない。


「コンビニは、この角を曲がってすぐ」


 あかりは言った。


「私のバイト先とは別の店舗ね。 さすがにバイト先に連れて行く勇気はない」


「なぜだ」


「知り合いの店員さんに見られたら、説明が詰むから」


「詰む、とは」


「終わるってこと。 現代語の沼なので、今は入らなくていい」


 月読命は少しだけ納得していない顔をした。


 千晴が横で笑いをこらえている。


 角を曲がると、その先に緑と白の帯が特徴的な看板が見えた。


 白く明るい四角い建物。ガラス張りの入口。店内から漏れる照明。雑誌の棚。飲み物の冷蔵ケース。


 あまりにも見慣れた、どこにでもある光景だったけれど、月読命はそこで足を止めた。


「ここか」


「うん。 コンビニ」


 月読命は、看板を見上げる。


「小さき社のようだな」


「社?」


「人が集まり、明かりがあり、食物があり、物が捧げられている」


「捧げられてはないかな。 お金と交換してるの」


「供物ではないのか」


「供物ではないです。 商品です」


 千晴が即答した。


「でもまあ、気持ちは分からなくもない」


 あかりは店内を見た。


 明るい棚に、食べ物や飲み物がびっしり並んでいる。人はそこから好きなものを選び、レジに持っていく。電子音が鳴り、金銭が動き、商品が手渡される。毎日見ているから普通に感じているだけで、少し引いて見れば、現代の不思議な儀式みたいでもある。


「入るよ」


「......うむ」


 三人が入口へ近づいたその瞬間、自動ドアが左右に開いた。


 月読命が止まった。


 完全に止まった。


「……開いた」


「開くよ」


「触れておらぬ」


「自動ドアだからね」


「じどうどあ」


「近づくと勝手に開く扉」


 月読命は、開いたドアを真剣に見つめた。まるで、何かの術を見極めようとしているみたいだった。


「人の世の扉は、気配を読むのか」


「だいたい合ってるけど、たぶん違う」


 千晴が小声で言った。


「センサーです」


「せんさー」


「覚える単語が多い」


 あかりは苦笑しながら、月読命の袖を軽く引いた。


「止まると余計目立つ。入って」


「......うむ」


 月読命が一歩、店内へ踏み込んだ瞬間、聞き慣れた軽やかなメロディーが流れた。その音に月読命の肩がぴくりと動く。ほんのわずかな反応だったが、あかりには分かった。


 驚いたのだ。


「今のは?」


「入店音」


「にゅうてんおん」


「人が入ったって知らせる音」


 月読命は、店内の天井を見上げた。


「あれは、祭の鈴ではないのか」


「違う。 店員さんに人が来たって分かるように鳴るの」


「人が来たことを、音で知らせる」


「そう」


「では、鈴と同じ役目ではないか」


「……まあ、役目だけなら、ちょっと似てるかも」


「似てるんだ」


 千晴が小さく笑った。


「神様視点、ちょっと面白いね」


「面白がる前に、目的のもの買おう」


 あかりは店内を見回して、まずは肌着と靴下、それにタオルを探した。


 月読命は店内の明るさに目を細めている。


 朝方の外より、店内の方が白く明るい。涼しい空気が肌に触れ、エアコンや冷蔵ケースのモーター音、レジの電子音、袋を開く音、商品を棚に戻す音が重なっていた。


 いつもなら背景になる音が、今日はやけに大きく聞こえる。


 月読命がいるせいだ。


 自分の日常が、ひとつひとつ異物として浮き上がっていく。


「ツク、こっち」


 あかりが小声で呼ぶと、月読命は素直についてくる。


 その姿を見て、千晴が少しだけ眉を寄せた。


「あかり」


「何?」


「今の......」


「え」


「声のかけ方が、完全にお母さん」


「お母さん!?」


「月読命さんが迷子みたいに見える」


「実際、現代では迷子みたいなものじゃん」


「だから余計に、普通に見せて」


 月読命は二人の会話を静かに聞いていた。


「なぜ母なのだ」


「今は深く考えなくていい」


 あかりと千晴の声が重なった。


 月読命は納得していない顔だったが、それ以上は聞かなかった。


 日用品の棚へ向かう。


 靴下、肌着、タオル。そして、男性用の下着の前で、あかりは一瞬固まった。


 月読命を見る。


 千晴を見る。


 棚を見る。


 そして、千晴の腕をつかんだ。


「千晴」


「何」


「お願い」


「何を」


「選んで」


「なんで私が......」


「無理。 私には無理」


「神様を部屋に泊めたくせに?」


「それとこれとは別!」


 千晴は深いため息をついた。けれど、すぐに棚を見た。


「サイズ分からないんだけど」


「身長高いから、大きめ?」


「適当にLでいいでしょ。 靴下も大きめ。 とりあえず緊急用だし」


 月読命は二人のやり取りを見ていた。


「それは何だ」


「聞かないで」


 あかりは即答した。


「聞くなということは、重要なものか」


「重要だけど聞かないで」


「不可解だ」


「現代の常識です」


 千晴が真顔で言った。


 月読命は少しだけ考えた。


「ならば、聞かぬ」


 本当に聞かないらしい。 その素直さに、あかりは救われた。


 千晴が商品をいくつか手に取り、買い物かごに入れる。


 タオル、靴下、肌着、マスク。


 それから飲み物の棚へ向かった。


 冷蔵ケースの前に立った月読命が、また止まる。


 ガラスの向こうに、飲み物がずらりと並んでいた。水、お茶、ジュース、コーヒー、エナジードリンク、乳酸菌飲料。


 あかりにとっては見慣れた棚でも、月読命の目には、何か別のものに見えているようだった。


「水が、閉じ込められている」


「ペットボトルね」


「これほど多くの水を、器に入れて並べるのか」


「水だけじゃないよ。 お茶とか、甘い飲み物とか」


 月読命は、お茶のボトルを一本見た。


「これは、誰かが作ったものか」


「そう。 会社が作ってる」


「水も、茶も、甘き飲み物も、人は作り、並べ、選び、買うのか」


「うん」


「人の世は、食物と水に満ちているのだな」


 その声音を聞いて、あかりは月読命の横顔をそっと覗いてみた。


 ただの感想には聞こえなかった。


 豊かさへの驚きなのか、それとも、何か別のものなのか、あかりにはまだ分からなかった。


「まあ、満ちてる場所もあるし、そうじゃない場所もあるけど」


 あかりは小さく言った。


 月読命はあかりを見た。


「そうなのか」


「うん。 全部の場所がこうじゃないよ」


「……そうか」


 月読命はそれ以上、何も言わなかったけれど、その沈黙は、さっきまでのコンビニへの戸惑いとは少し違っていた。


「とりあえず、水でいい?」


 千晴が聞いた。


「うん。 水と、お茶も買っとく」


 あかりはボトルを取った。


 その横で、月読命がワインらしき小さなボトルの棚を見つけて、先ほどとは違う雰囲気で立ち止まる。


 あかりは、すぐに気づいた。


「だめ」


「まだ何も言っておらぬ」


「顔が言ってる。 今は買いません」


「なぜだ」


「朝だから。 あと未成年じゃないけど、コンビニで神様にお酒買う状況がもう意味分からないから」


「酒は供物にもなる」


「ここで供えない」


 あかりの目には、月読命が少しだけ、本当に、ほんの少しだけ残念そうに見えて、笑いそうになるのをこらえた。


 神様なのに。


 月の神様なのに。


 お酒を見て、そして買ってもらえなくて、残念そうにするのは、ずるい。


「ワインはまた今度」


 あかりがそう言うと、月読命の目が熱を持って、あかりの目を捉えた。


「約すか」


 この神様は、軽い言葉を軽く受け取らない。適当に誤魔化すのは良くないだろう、とあかりは思った。


「……たぶん。約束って言うと重いから、今度、機会があったら」


「......まあ......いいだろう」


 月読命は、それで引いた。


 ただ、あかりは異性とこんな感じで約束を交わすようなことなんて、ほとんど記憶になく、月読命の素直さと相まって、少し照れた。


「はいはい、甘い空気禁止」


 千晴が買い物かごを持ち直した。


「まだ朝。 しかもコンビニ」


「甘い空気じゃない!」


「じゃあ何」


「生活指導!」


「神様にワインを買うかどうかの生活指導、初めて聞いた」


 千晴の言葉に、あかりは反論できなかった。


 三人はレジへ向かった。


 店員が「いらっしゃいませ」と言う。


 あかりは反射的に軽く頭を下げた。バイト先ではないのに、つい店員側の気持ちになってしまう。


 商品がレジ台に置かれる。


 ピッ。


 月読命が、またわずかに目を細めた。


 ピッ。


 ピッ。


 商品がひとつずつ読み取られる。


「今のは?」


 月読命が小声で聞いた。


「バーコード」


「ばーこーど」


「商品についてる線を機械で読むの」


「線を読む」


「値段が分かる」


「線に価値が記されているのか」


「ざっくり言うと、そう」


 月読命はレジの機械を見た。


「人の世は、物に名と価を刻むのだな」


 あかりは少しだけ言葉に詰まった。


 そう言われると、急にレジが不思議な場所に見える。


 名前、値段、音、数字、支払い、受け渡し。


 いつもの作業が、月読命の言葉で別の儀式みたいになる。


「お会計、二千六百四十二円です」


 店員が言った。


 あかりは財布を出そうとした。


 その時、月読命が静かに言った。


「その価は、誰が定める」


 店員が一瞬、こちらを見た。


 あかりの背中に冷たい汗が流れた。


「すみません、大丈夫です」


 あかりは早口で言って、財布からお札を出した。


「ツク、今は黙って」


「うむ」


 月読命は素直に黙った。


 本当に黙った。


 それはありがたい。ありがたいが、店員の視線が痛い。


 千晴が横で小声で言う。


「今の、けっこう危なかった」


「分かってる」


「『価は誰が定める』はコンビニで言うことじゃない」


「分かってるって」


 お釣りを受け取り、袋は断って、あかりは持参していた小さなエコバッグに商品を入れる。


 その様子を、月読命が見ていた。


「なぜ袋を断った」


「今は袋も有料なの」


「袋にも価があるのか」


「ある」


「器にも、価が」


「そう」


 月読命は、少し考えるように沈黙した。その横顔に、また影が差した気がした。


 食べ物にも、水にも、袋にも価値がある。そんなことは現代では、当たり前のことだ。でも、神様の目から見ると、どう映るのだろう。


「ありがとうございました」


 店員の声を背に、三人は店を出た。


 自動ドアが開く。


 入る時と同じように、月読命は少しだけドアを見た。


 けれど、今度は立ち止まらなかった。


 外の光がまぶしい。


 夏の朝は、さっきより少しだけ熱を増していた。


 あかりはエコバッグを持ち直す。中には神様のためにコンビニで買った、靴下、肌着、タオル、水、お茶が入っている。


 その事実だけで、なんだか笑えてくる。


「どうだった?」


 あかりは聞いた。


 月読命は振り返り、コンビニの建物を見た。


 外よりも明るい光、自動ドア、そして、ガラス越しに並ぶ食べ物。それらは、何でもない日常の店の景色だけれど、月読命の目は厳かなものを見るようだった。


「人の世は、明るく、騒がしく、よく満ちている」


「うん」


「だが、その満ちたものにも、すべて価がついている」


 月読命は、ゆっくりあかりを見る。


「そなたは、その中で学び、働き、暮らしているのだな」


「……そうだよ」


「ならば、我はもっと知らねばならぬ」


「何を?」


「そなたが生きている場所を」


 夏の朝のぬるい風が吹いた。


 あかりの胸の奥が、少しだけ涼しくなったような気がした。


 月読命が、コンビニを知った。


 水を、値段を、電子音を、自動ドアを、店員の声を知った。そして、その向こうにある、あかりの日常を、これから知ろうとしている。


 たったそれだけのことなのに、あかりはなんとなく嬉しかった。


 千晴が、わざとらしく咳払いをした。


「はい。 いい感じの空気のところ悪いけど、次は服です」


「現実!」


 あかりは思わず叫んだ。


「現実だよ。神様に肌着だけ買って終わるわけにいかないでしょ」


「分かってるけど、私の中の神聖エリアが生活感に侵食されてる!」


 月読命は、真面目にエコバッグを見た。


「これは、我が身につけるものか」


「今ここで確認しない!」


 あかりの声が、朝の道に響いた。


 通りすがりの人が一瞬こちらを見る。


 あかりは慌てて口を押さえた。


 千晴は肩を震わせている。


 月読命は、何が問題なのか分からない顔をしている。


 昨日までは、神様とコンビニに行って、そして、その神様は自動ドアに驚き、レジ音を聞き、値段に疑問を持ち、ワインに少しだけ未練を残す、そんな朝が来るなんて思ってもみなかった。


 それがあまりにもおかしくて。あまりにも現実で。


 そして、少しだけ怖い。


「行こう」


 千晴が言った。


「次、服」


「うん」


 あかりはうなずいた。


 月読命も、静かに歩き出す。その手には、あかりが持たせた水のペットボトルが一本あった。


 透明な水が、朝の光を受けて揺れている。


 月読命はそれをしばらく見ていた。


「ツク?」


 あかりが呼ぶと、彼は顔を上げた。


「いや」


 短く答えたあと、少しだけ間を置いて言った。


「水は、器に入れられても、光を返すのだな」


 あかりは、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。


 けれど、きれいだと思った。


「そうだね」


 だから、そう答えた。


 三人は、夏の朝の道を歩き出した。コンビニの明るい音は、もう背中の向こうに遠ざかっている。それでもあかりには、聞きなれたはずの入店音がまだ耳の奥に残っていた。


 軽くて、明るくて、どこにでもある音。


 月の神様が、初めて人間の日常に入った音だった。

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