第8話 神様、説教される
「相当やばい人拾ったんだね」
千晴のその一言は、六畳の部屋にしばらく残った。
あかりは、畳に正座したまま両手を膝の上で握りしめていた。目の前には、腕を組んで座る千晴がいた。
その横には、何が問題なのか分からないという顔で、静かに二人を見ている月読命。
「違う。拾ったんじゃない」
あかりは、まずそこから訂正した。
「神社にいたの」
「神社にいた男を連れて帰ってきたんでしょ」
「ラノベのタイトルになりそう」
「ふざけないで。新聞の見出しになるレベルの話」
千晴はぴしゃりと言った。
いつもの千晴なら、ここで少し冗談めかしてくれる。
けれど今は違った。
本気で怒っている。
いや、怒っているというより、心配している。
それが分かるから、あかりも強く言い返せなかった。
「昨日の夜、私がどれだけ心配したと思ってるの」
「……ごめん」
「連絡もない。既読もつかない。電話しても出ない。で、朝になって部屋に来たら、知らない男がいる」
「知らない男じゃなくて、月読命さん。神様」
「そこが一番やばいって言ってるの」
千晴は頭を押さえた。
あかりは、少しだけ視線を落とす。たしかに、普通の説明では通らない。
神社で月読命に会いました。月の神様でした。追われていたので連れて帰りました。
以上です。
そんなものを二十歳の女子大生が真顔で言い出したら、まず病院か警察の話になる。けれど、昨日の夜に起きたことは現実だった。
ーー月読神社。
月明かりの中、白とも銀ともつかない衣。境内の外から近づいてきた車の音。そして、あかりを抱えたまま夜道を駆け抜けた、息ひとつ乱さない男神。
あれを夢だったとは、もう思えない。
「千晴」
あかりは、ゆっくり顔を上げた。
「信じろって言っても、無理なのは分かってる。でも、昨日の夜、本当に変な人たちが来たの。ツクを探してた」
「ツク?」
「……月読命のこと」
「もう愛称つけてる」
「そこ今ツッコむところじゃない」
「大事でしょ。距離の詰め方が早すぎる」
千晴の声は厳しい。けれど、その目は月読命を観察していた。
白とも銀ともつかない衣。
長い黒髪。
整いすぎた顔立ち。
夏の朝の六畳に座っているには、あまりにも場違いな男。その姿だけなら、たしかにコスプレか演劇関係者に見えなくもない。でも、千晴は昨夜のあかりの様子を知っている。そして今の月読命から、普通の人間にはない静けさを感じ取っているようだった。
「月読命さん」
千晴が、わざと丁寧に呼んだ。
「私は、あなたが本当に神様だなんて、認めてません」
「そうか」
「でも」
千晴は一度、あかりを見た。
あかりは、何も言えずにその視線を受け止めた。
「もし、あなたが本当に神様なのだとしたら」
千晴はもう一度、月読命を見た。
「この子を、危ない目に遭わせないでください」
その声は大きくなかった。
ただ、言葉の奥にある怒りと心配だけは、はっきり伝わった。
月読命は、ほんのわずかに目を細めた。まるで、その声に含まれた何かを聞き分けたみたいに。
やがて、月読命は低く言った。
「危うき目に遭わせぬと、今ここで断じることはできぬ」
「……どういう意味ですか」
「我は、なぜ地上に下ろされたのかを知らぬ。我を探す者もいるようだ。そなたの言う危うさが、すでに近くにあるのならば、我がいること自体が、この者を危うくするやもしれぬ」
あかりの胸が、少し冷えた。
月読命は、嘘をつかなかった。
安心させるための言葉を、選ばなかった。
千晴は何か言い返そうとして、わずかに口を開いた。
けれど、言葉はすぐには出てこなかった。怒りが消えたわけではないはずだ。
ただ、目の前の男が、あかりを丸め込もうとしている人間ではないことだけは、分かってしまった。
それが余計に、怖かった。
「……じゃあ、なおさらです」
千晴は、声の温度を少し落として言った。
「危ないと分かっているなら、あかりだけを巻き込まないでください。何か起きたら、私にも分かるようにしてください」
月読命は、静かに千晴を見た。
「心得た」
「それと」
千晴は続けた。
「あなたが神様なのだとしたら、人間がどれくらい簡単に限界になるか、軽く見ないでください。あかりは、あなたよりずっと弱いです。怖がるし、疲れるし、傷つきます」
「……心得た」
あかりは、思わず千晴を見た。
千晴はあかりを見なかった。ただ、月読命だけを見ていた。
その横顔を見て、あかりは何も言えなくなる。
千晴は、知っている。
あかりが明るくしているからといって、いつも平気なわけではないことを。冗談を言って、何でも面白がっているように見えても、急に糸が切れたように動けなくなる夜があることを。
たぶん、あかり自身よりもずっと冷静に。
「……ごめん」
あかりが小さく言うと、千晴はようやくこちらを見た。
「謝るところじゃない」
「でも」
「謝るくらいなら、次からちゃんと連絡して」
「はい」
「一文字でもいいから。無理、でも、生きてる、でもいい」
「生きてるって」
「笑いごとじゃない」
千晴の表情は、まだ硬いままだ。
その表情を見たあかりは、一瞬だけ、昔のことを思い出してしまった。
ーー高校二年の夏。
何がつらいのか、自分でも言葉にできなかった夜があった。
窓から差し込む月明かり、微かに感じる磯の香りと波の音。扉の向こうで、千晴が何度も名前を呼んでくれた。
ーーあの時も満月だったかもしれない、と考えつつ、その記憶を胸の奥に押し戻した。
今は、それを話す時ではない。
けれど、千晴が怒っている理由がなんとなく分かった。千晴は、昨日の夜のあかりを、あの夜のあかりと重ねていたのかもしれない。




