第7話 神様と友達
「まずいまずいまずいまずい」
あかりは立ち上がった。
だが、立ち上がった瞬間、自分の髪と服と寝起きの顔を思い出し、もう一度座り込んだ。
「いや、まず私がまずい」
「そなたは、先ほどから何度もまずいと言っている」
「全部まずいんです。私も、状況も、あなたも」
「我もか」
「あなたが一番まずいです」
月読命は少し考えた。
「我は、隠れた方がよいのか」
「隠れる場所がないです」
あかりの部屋は広くない。
玄関。小さな台所。風呂とトイレ。六畳のリビング。クローゼットはあるが、背の高い男神が入るには無理がある。
そもそも、月読命の存在感は隠せる種類のものではなかった。
「じゃあ、せめて……せめて普通にしてください」
「普通とは何だ」
「そこからですか」
あかりは頭を抱えた。
月読命は真面目な顔で言った。
「我は、普通の人間ではない」
「知ってます。でも、千晴の前でいきなり『我は月読命である』とか言わないでください」
「なぜだ。我は月読命だ」
「その正直さ、今だけ封印してください」
「偽れと言うのか」
「現代社会では、すべての真実を初対面で開示するとトラブルになります」
「不可解だ」
「私だって不可解ですよ。でもそういうものなんです」
スマホがまた鳴った。
『二十分で着く』
あかりは短く悲鳴を上げた。
「二十分!?」
「短いのか」
「シャワー浴びるには短い!」
「浴びればよい」
「あなたがいる状態で!?」
言ってから、あかりは自分で顔が熱くなるのを感じた。
月読命の眉根にシワがよる。
「我がいると、水を浴びられぬのか」
「浴びられません!」
「なぜだ」
「なぜって……!」
説明しようとして、できなかった。
いや、できる。できるが、したくない。
この男神には、たぶん本当に分かっていない。男女の距離感も、生活空間の遠慮も、人間が服を脱いで水を浴びるときのあれこれも、何も分かっていない。
昨夜もそうだった。
月読命は、あかりを抱えて走った。
近すぎる距離に、あかりの方だけが勝手に心臓を乱した。
相手は神様で、男で、背が高くて、顔も崩れないし、月明かりの中でやたら綺麗で、でも本人にはそういう自覚がほとんどない。
最悪だ。
かなり最悪だ。
「……いいですか」
あかりは、できるだけ低い声を出した。
「人間には、見られたくない時間があります」
「見られたくない時間」
「そうです。着替えるときとか、お風呂とか、寝起きで顔が終わってるときとか」
「顔が終わるのか」
「はい、終わってます。朝の顔面は事故現場です……って、そこじゃない!」
月読命は真剣に聞いている。
あかりは人差し指を立てた。
「だから、私がシャワーを浴びたり着替えたりしている間、あなたは絶対にこっちを見ない。近づかない。開けない。呼ばれても開けない。分かりましたか」
「分かった」
「本当に?」
「我は約束を軽んじぬ」
その言い方は、ひどく神様らしかった。――いや、真面目すぎる。
「……じゃあ、背中向けててください」
「こうか」
月読命は素直に窓の方を向いた。
あかりはその隙に、クローゼットから着替えを引っ張り出した。Tシャツ。デニム。下着。それから、目についた半袖シャツ。
ちゃんと選んでいる時間はない。清潔で、外に出ても最低限おかしくなければ、それでよかった。それらを抱えて、脱衣所に駆け込む。そして、扉を閉める直前、もう一度だけ言った。
「絶対、開けないでくださいね」
「開けぬ」
「千晴が来ても?」
「開けぬ」
「いや、千晴が尋ねて来たら、それは私が出ます! 勝手に出ないで!」
「難しいな」
「難しくない!」
あかりは脱衣所の扉を閉め、鍵をかけた。
そして、鏡を見た。
「……うわあ」
そこには、昨夜の疲労と寝落ちのすべてを顔に貼りつけた女子大生がいた。
髪は跳ねている。
目の下は少し重い。
頬には枕の跡が薄く残っている。
こんな顔で、神様と朝から会話していたのかと思うと、今さら恥ずかしさが込み上げてきた。
「いや、恥ずかしがるところそこじゃないでしょ」
自分で自分に突っ込み、あかりは急いで服を脱いだ。
*
シャワーの蛇口をひねる。
水が出る。
少し遅れて、お湯に変わる。
湯気が立った瞬間、あかりはようやく深い息を吐いた。
昨夜からずっと身体にまとわりついていた汗と緊張が、少しずつ流れていく。けれど、頭の中は静かにならなかった。月読命。月の神。月読神社。閉じた道。
境内の外から近づいてきた車の音。
あれは、偶然だったのだろうか。
違う。
たぶん、違う。
あの場に、自分たち以外の誰かが来ようとしていた。月読命を見つけるために。あるいは、月読命が現れたことを確認するために。
あかりは、濡れた髪をかき上げた。
「……何に巻き込まれてるんだろ、私」
答えは出ない。
ただ、ひとつだけ分かっていることがある。
このまま、なかったことにはできない。
月読命は今、自分の部屋にいる。
帰る場所がないと言った。月の神域への道は閉じていると言った。そして、あかりは彼を置いて逃げなかった。
連れてきてしまった。
いや。
連れてきた、というより。
手を伸ばしてしまった。
あの夜、月明かりの下で、ひとりで立っていた男神に。
「……ほんと、どうすんの」
シャワーの音に紛れるように、あかりはつぶやいた。
そのときだった。
ピンポーン。
部屋のチャイムが鳴った。
「早っ!」
あかりは叫んだ。
千晴だ。
絶対に千晴だ。
二十分と言っておきながら、たぶん全力で来た。
あかりは慌ててシャワーを止めた。
脱衣所の外から、月読命の声がした。
「来客だ」
「分かってます!」
「開けぬのだな」
「開けないでください!」
「約束は守る」
「えらい! でも今それどころじゃない!」
あかりは大急ぎで身体を拭き、服を着た。
インターホンがもう一度鳴る。
ピンポーン。
続いて、スマホが鳴った。
脱衣所の扉越しに、月読命が言う。
「板も鳴っている」
「板じゃない! スマホ!」
「すまほ」
「今覚えなくていいです!」
あかりは髪をタオルで雑に包み、脱衣所から飛び出した。
月読命は、本当に窓際で背中を向けたまま立っていた。
律儀すぎる。
そして、その律儀さのせいで、余計に現実味がなかった。
「あなた、そこにいてください。今から口を閉じる修行です」
「分かった」
「返事も修行に含まれます」
月読命は口を閉じた。
あかりは玄関へ向かった。
ドアスコープをのぞく。
千晴がいた。
眉間にしわを寄せ、片手にスマホを持ち、完全に怒っている顔だった。
ただ、その目の奥には、明らかに心配の色があった。
あかりの胸が、少し痛んだ。
自分が悪い。
これは、本当に自分が悪い。
あかりは鍵を開けた。
ドアを細く開ける。
「……おはよう、千晴」
千晴は、あかりの顔を見た瞬間、まず大きく息を吐いた。
それから、低い声で言った。
「生きてんじゃん」
「はい」
「返信しないで寝た?」
「はい」
「電話も出ないで?」
「はい」
「昨日、月読神社行ったんだよね?」
「はい」
「で、無事に帰ってきた連絡もしないで?」
「はい」
千晴は、にっこり笑った。全然笑っていない笑顔だった。
「あかり」
「はい」
「説教です」
「ですよね」
あかりは玄関先で小さくなった。
千晴は一歩、部屋に入ろうとした。
その瞬間。
部屋の奥から、月読命が顔を出した。
「この者は、そなたの友か」
空気が止まった。
千晴の動きが止まった。
あかりの呼吸も止まった。
なぜ。
なぜしゃべった。
口を閉じる修行だと言ったのに。返事も修行に含まれると言ったのに。
たしかに月読命は、あかりへの返事はしていなかった。その代わり、質問をした。
でも、そういう意味ではない。
そういう意味ではないのだ。
千晴が、ゆっくりと部屋の奥を見た。
そこには、白銀の衣をまとった長身の男が、六畳のリビングに立っていた。
朝の光の中で、異様なほど顔が整っている。髪も、目元も、姿勢も、存在感も、何もかも普通ではない。
千晴は数秒黙った。
それから、あかりを見た。
「……あかり」
「はい」
「寝落ちしたって言ったよね」
「言いました」
「男連れ込んで?」
「違う! 違う違う違う! それは違う!」
あかりは全力で首を振った。
千晴の目が細くなる。
「じゃあ何」
「えっと、その、これは……」
月読命が静かに言った。
「我は、月読命である」
「あああああああ!」
あかりは頭を抱えた。
封印してくださいと言った。
確かに言った。
だが、封印の方法までは教えていなかった。
千晴は、もう一度、月読命を見た。
そして、あかりを見た。
「……なるほど」
「千晴?」
「分かった」
「何が?」
千晴は落ち着いた声で言った。
「昨日の夜、あんた、相当やばい人拾ったんだね」
「分かってない!」
叫んでから、あかりは一瞬だけ言葉に詰まった。
いや。
完全に間違っているわけではない。
人ではない。
拾ったつもりもない。
けれど、相当やばい存在を部屋に連れてきた、という一点だけは、否定しきれなかった。
「……いや、分かってないけど、ちょっとだけ分かってるのが腹立つ!」
月読命は、静かに二人を見ていた。
朝の光は、何も知らないみたいに部屋の中へ差し込んでいた。
千晴には、完全に誤解された。
シャワーを浴びても、現実は何ひとつ流れていなかった。
あかりは、濡れた髪から落ちる雫を頬に感じながら、心の底から思った。
たぶん今日から、平穏な日常は終わる。
いや。
もう昨夜の時点で、終わっていたのだ。




