第6話 神様のいる朝
汐見あかりは、スマホから流れる楽曲で目を覚ました。
軽く跳ねるような電子音と、夜更かしを肯定するみたいな明るいメロディ。スマホのアラームに設定している、YOFUKASHIの曲だった。
いつもなら、イントロが鳴った時点で半分寝たまま手を伸ばし、画面を叩いて止める。
夏季集中講義の最終日を終えた翌朝だった。通常授業もなく、バイトのシフトも午後からで、少なくとも午前中だけは、何もしなくていいはずの朝だ。
けれど、その朝は違った。
「……どこからか、女の歌声が聞こえた」
低い声がした。
「……うわっ」
あかりは反射的にベッドの上で跳ね起きた。
寝起きの頭が、現実を理解するより先に悲鳴を上げる。
六畳のリビング。小さなちゃぶ台。コンビニのバイト帰りに適当に置きっぱなしにしたトートバッグ。読みかけの民俗学の本。
そして、窓際に立っている月読命。
そうだった。
昨夜、神様を部屋に連れて帰ったのだった。
スマホからは、まだYOFUKASHIの曲が流れている。
月読命は、カーテンの隙間から差し込む朝の光ではなく、ちゃぶ台の上で震える小さな板を見つめていた。
「その板が、歌っているのか」
「板じゃないです。スマホです。あと、歌ってるのはスマホじゃなくて、曲です」
「曲」
「音楽です」
「人がいないのに、歌声だけがあるのか」
「心霊現象か」
あかりは慌ててスマホに手を伸ばし、アラームを止めた。
部屋が急に静かになる。
その静けさの中で、あかりはようやく、自分が最悪の状態で寝落ちしたことを理解した。
まず、服が気持ち悪い。
背中に張りついたTシャツ。首筋に残る汗の感触。畳んでもいない布団の上に、ほとんど倒れ込むように眠ったせいで、髪もぐしゃぐしゃだった。
次に、身体が重い。
昨日の夜、月読神社から走って逃げたわけではない。
むしろ、走ってすらいない。
月読命に抱えられていた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつである。
それなのに、あかりは全身に妙な疲労を残していた。走った疲れではない。緊張と混乱と、得体の知れないものに触れてしまった不安と、あと、自分の常識が一晩でぐちゃぐちゃにされたことによる、精神的な筋肉痛みたいなものだった。
「……うわ」
声を出した瞬間、自分の喉が少し乾いていることにも気づいた。
あかりは布団の上で半身を起こし、ぼんやりと部屋を見回した。いつも通りの、狭くて、生活感があって、少し散らかった自分の部屋。
けれど、その窓際にだけ、日常ではないものが立っていた。
月読命は、カーテンの隙間から差し込む朝の光を、まるで理解できないものを見るように眺めている。
白とも銀ともつかない衣は、昨夜の月明かりの下で見たときほど幻想的ではなかった。いや、十分に幻想的ではある。あるのだが、朝の六畳間に立っているせいで、あまりにも浮いていた。
神話の存在が、大学生の一人暮らしの部屋にいる。
それだけで、部屋の空気が若干バグっている。
「……起きてたんですか」
あかりがかすれた声で言うと、月読命はゆっくりと振り返った。
「眠ってはいない」
「でしょうね」
「人は、朝になると目覚める」
「......そうですね」
「夜が終われば、世界はまた別のものになる」
「急に詩的なこと言いますね」
あかりは額に手を当てた。
頭が痛い。
寝不足の頭痛なのか、神様と会話していることによる頭痛なのか、もう分からなかった。
月読命は、あかりをじっと見ていた。
「そなたは、苦しそうだ」
「そりゃ苦しいですよ。昨日、人生で一番意味分かんない夜だったんですから」
「我のせいか」
「八割くらいは」
「残りの二割は」
「私の好奇心です」
言ってから、あかりは少しだけ自分で納得した。
たしかにそうだ。
月読神社に行かなければ、こんなことにはならなかった。旧暦七月十五日だとか、あの世の方角だとか、月の信仰だとか、そういうものに胸をざわつかせなければ、月読命と出会うこともなかった。
けれど。
出会わなければよかった、とまでは思えなかった。
そこがまた、最悪だった。
「……とりあえず、シャワー浴びたい」
あかりは自分の服をつまんだ。
「汗で気持ち悪い。昨日、お風呂どころじゃなかったし」
「しゃわー」
月読命が、初めて聞く神事の名のように繰り返した。
「水を浴びることです」
「禊か」
「たぶん、現代人の八割はそこまで神聖な気持ちで浴びてないです」
「では、何のために浴びる」
「汗を流すためです」
「汗」
月読命の視線が、あかりの首筋に向いた。
あかりは反射的に襟元を押さえた。
「見ないでください」
「なぜだ」
「今の私は、見せる用の私じゃないんです」
「見せる用とは何だ」
「朝の人間には、表に出せる状態と出せない状態があるんです」
「今のあかりは、出せない状態なのか」
「そうです、朝の私は非公開設定です――って、何を言わせるんですか」
「そうか」
月読命は素直に視線を外した。
その素直さが、逆にやりづらい。
あかりは深いため息をつき、枕元に置いていたスマホを手探りで探した。
アラームを止めるために一度触ったはずなのに、半分寝ぼけていたせいでベッドの脇に落としていたらしい。
見つけた瞬間、画面が光った。
通知。
通知。
通知。
通知。
「……あ」
背筋が固まった。
ロック画面に、同じ名前が何度も並んでいる。
篠原千晴。
不在着信、三件。
メッセージ、十二件。
あかりは、ベッドの上で正座した。汗とは別のものが、背中を流れた。
「終わった」
「何が終わった」
「私の社会的信用です」
あかりはスマホを握りしめたまま、画面を開いた。最初のメッセージは、昨日の夜だった。
『着いた?』
その数分後。
『月読神社どうだった?』
さらにその後。
『え、帰ってる?』
『返信して』
『ねえ、あかり?』
『電話出て』
時間が進むにつれて、文面の温度が変わっていく。
『まじでどこ』
『怖いんだけど』
『警察って何分待てばいいんだっけ』
『いやほんとに連絡して』
『既読つかないの無理』
最後のメッセージは、深夜をかなり過ぎていた。
『朝になっても返事なかったら家行く』
あかりは、ゆっくりと窓の外を見た。
朝である。完全に。
「……やばい」
「その板は、何を告げている」
「友達が怒ってます。いや、怒ってるというか、心配してます。いや、たぶん両方です」
「友か」
月読命の声が、少しだけ柔らかくなった。
「そなたを案じているのか」
「そうです。だから、私が悪いです。完全に悪いです。帰ってきたら連絡するって感じだったのに、寝ました」
「眠りは、人に必要だ」
「必要ですけど、連絡も必要なんです。現代社会は、眠気だけで許されるほど優しくないんです」
あかりは急いでメッセージを打とうとした。
だが、指が止まる。
何と送ればいい。
無事です。寝落ちしてました。
それだけなら簡単だ。
問題は、この部屋に月読命がいることである。
月読神社で変な男を拾ってきました。いや、拾ってきたわけではない。
月読命です。
もっとだめだ。
神様を連れて帰りました。
終わりである。
あかりは数秒悩んだ末、最も嘘が少なく、最も説明が少ない文章を打った。
『ごめん! 無事! 帰って即寝落ちした! 本当にごめん!』
送信。
既読は、すぐについた。
「ひっ」
あかりは変な声を出した。
返信もすぐに来た。
『生きてる?』
『生きてる』
『今どこ』
『部屋』
『今から行く』
「終わった」
「また終わったのか」
「今度は本当に終わりました」
あかりはスマホを握ったまま固まった。
千晴が来る。来てしまう。
この部屋に。
この六畳の部屋に。
月読命がいるこの部屋に。




