第5話 神様、六畳に座る
鍵を回したあと、あかりはすぐにはドアを開けなかった。
ドアノブに手をかけたまま、後ろを振り返ると、外階段の薄い明かりの下で、月読命がこちらを見ている。
白銀の衣に、月光を帯びた長い黒髪。背が高く、静かで整った顔。存在感は薄くなっているはずなのに、どう見ても普通ではない。
「……あの、念のため言っておきます」
「何だ」
「私の部屋に入ったら、勝手に月っぽい現象とか起こさないでください」
月読命は、わずかに眉を寄せた。
「月っぽい現象」
「さっきから、光ったり、存在感がすごかったり、飛んだり、足音がなかったりしてるので。そういうの全部です」
「それは神力の一部だ」
「じゃあ、その神力です。部屋の中では控えめにお願いします」
「なぜ」
「近所迷惑になるからです」
「近所迷惑」
「現代社会では、かなり重い罪です」
月読命が、少しだけ神妙な顔をした様に見えた。
「控えよう」
「本当にお願いします。うち、壁薄いんで」
「壁が薄いと、神力は漏れるのか」
「音が漏れるんです」
「なるほど。神力より厄介だな」
「そこは否定しません」
あかりは小さく息を吐いた。
この神様が真剣な表情をしているのか、ただ無表情なのか、あかりには分からなかった。それよりも、今の説明で壁の薄さと近所迷惑を理解してくれているのか、それが不安だった。
あかりはもう一度だけ廊下の左右を確認した。誰もいない。隣室の気配もない。遠くで車が一台通る音がしただけだ。
「じゃあ、入ってください」
あかりはドアを開けたが、月読命は入り口の前から動かなかった。
「どうしました?」
「ここが、そなたの住処か」
「住処って、ちょっと野生動物みたいですね。まあ、そうです。私の部屋です」
「入ってよいのか」
「私がいいって言ってるので」
「そうか」
月読命は、ゆっくりと敷居をまたいだ。
その瞬間。
部屋の照明が、ふっと揺れた。
壁にかけていた小さな飾りが震え、ちゃぶ台の上のペンがころりと転がった。閉めていたカーテンの隙間から月明かりが差し込んだわけでもないのに、部屋の中に淡い銀色の光が一瞬だけ満ちる。
「ちょ、ちょっと!」
あかりは慌ててドアを閉めた。
「今の! 今の何ですか!?」
月読命は部屋の中を見回し、少し困ったように言った。
「すまぬ。抑えたつもりだった」
「抑えてそれ!?」
「この部屋は、小さい」
「それは大家さんに謝ってください!」
あかりは急いで靴を脱ぎ、カーテンの隙間を確認した。外に誰かいる様子はない。近所の部屋から反応もない。たぶん大丈夫。たぶん。
振り返ると、月読命は玄関で立ち尽くしていた。
靴、という概念に困っているらしい。
「あ、靴……いや、それ靴なのかな。とりあえず脱げます?」
「これは衣の一部だ」
「それは......そうですね」
「脱ぐものではない」
「あー……じゃあ、そのままでいいです。でも床は傷つけないでください」
「その心配はない。我は少しだけ浮いている」
あかりには、そう述べる月読命の表情が、どことなくドヤ顔に見えたのでツッコミを入れるべきか迷った。けれど、トラブルのタネになりかねない原因を冷静に潰すことにした。
「お願いだから地に足つけてください」
月読命は、一瞬だけ何ともいえない表情をあかりに向け、ゆっくり屈むと履き物の白い紐を解き始めた。
「......では脱ぐ」
あかりは、その声が先ほどよりも一段小さな声だったことに気づかないふりをした。
履き物を脱ぎ終えた月読命を部屋の奥へ案内した。
玄関を入ってすぐの右手側にはトイレと浴室があり、短い廊下を抜けた先には六畳のリビング兼寝室がある。小さなちゃぶ台、本棚、ベッド、床に置いたトートバッグ、読みかけの民俗学の本、千晴から借りっぱなしの漫画。生活に必要なものをどうにか詰め込んだ、あかりだけの小さな世界だ。
さらに、その奥には3畳ほどの台所があり、六畳と三畳は木の柱1本と短い垂れ壁で空間が緩く仕切られていた。
ここに月読命が加わっただけで、六畳の部屋は急に狭くなった。月明かりを人の形にしたような存在が、小さなちゃぶ台と本棚と洗濯物用の小さな籠に囲まれている。
異様だった。
神々しいというより、生活に合わない。あかりはそのあまりの不釣り合いさに、逆に笑いそうになった。
「とりあえず、ここに座ってください」
あかりは部屋の隅からクッションを一つ引っ張り出して、床に置いた。
月読命はクッションを見下ろした。
「これは」
「座るものです」
「これに座るのか」
「現代の庶民の暮らしです」
「そうか」
彼は真剣な顔でクッションに腰を下ろした。
その動作は妙に慎重だった。まるで、椅子ではなく何かの儀式用の台に座るかのようだった。
神様が、六畳の部屋で、安いクッションに座っている。
ありえない。
ありえないのに、現実だった。
「……すごい」
あかりは、思わず呟いた。
「何がだ」
「いや……神様って、本当に六畳にも座るんだなって」
「座れと言ったのは、そなただ」
「そうなんですけど」
月読命は、静かに部屋を見回した。
「ここで、暮らしているのか」
「はい。学校に通うには、まあまあ便利なので」
「この小さき場所に、日々があるのだな」
その言い方は大げさだったけれど少し優しかった。
あかりは肩をすくめた。
「そんな立派なものじゃないです。課題やって、寝坊して、友達と電話して、コンビニご飯食べて、たまに掃除をサボる場所です」
「掃除をサボる」
「そこは現代女子大生の闇なので、そっとしておいてください」
「承知した」
月読命は真顔で頷いた。
あかりは、緊張しているはずなのに、怖いと思っていたはずなのに、なぜか笑いそうになった。この神様と話していると、変なところで気が抜ける。
あかりは台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。
「飲み物、麦茶でいいですか?」
「むぎちゃ」
「お茶です。冷たいです」
「酒ではないのか」
あかりは冷蔵庫の扉をつかんだまま固まった。
「……お酒、飲むんですか?」
「飲む」
「神様が?」
「神も酒は飲む」
「まあ、たしかに神話ってお酒出てくるけど……」
「人の世の酒にも興味がある」
月読命は、初めて少しだけ前のめりになった。
あかりはその目を見て、嫌な予感がした。
「ちなみに、私たちが飲むお酒って分かります?」
「知らぬ」
「ですよね」
「だが、興味はある」
「よっぽど興味あるんですね……」
あかりは冷蔵庫の中を見た。
幸か不幸か、冷蔵庫には、この前の土曜日に千晴が置いていった小さな白ワインのボトルが一本あった。あかりの誕生日祝いに持ってきてくれたものの、結局その日は開けないままになっていたものだ。
自分では普段ほとんど飲まない。料理に使うか、特別な日に開けるかと思っていたけれど――今は、神様が麦茶でしょんぼりする絵面に耐えられない。
「麦茶でそんなにしょんぼりしないでください」
「我はしょんぼりなどしない」
「今してましたよ」
「していない」
あかりはグラスを二つ出した。
そのうち一つに、ほんの少しだけワインを注ぐ。もう一つには麦茶を注いだ。自分は飲まない。こんな状況で酔ったら終わりだ。
月読命は、差し出されたグラスを両手で受け取った。
そして、まるで儀式のように香りを確かめる。
その横顔は、さっきまでの世間知らずな様子とは違っていた。静かで、古くて、どこか遠い。月明かりの下で捧げ物を受け取る神の顔だった。
けれど次の瞬間、彼はひと口飲んで、明らかに目を見開いた。
「……よい」
「気に入ったんだ」
「人の世も悪くない」
その言い方があまりに真剣で、あかりは笑ってしまった。
「判断基準、ワインなんですね」
「香りは、記憶を運ぶ」
月読命はグラスの中を見つめた。
「この透明感は、月の光を思わせる。香りは陽気を誘うが、夜に合う」
夜に合う。
確かに、そうかもしれない。
窓の向こうには月があって、カーテンの隙間から丸い姿を覗かせている。そこから細く差し込む光が、グラスの縁で微かに反射している。そして彫刻のように整った顔が、――唇が、そこに触れる。
――夢を見てるみたい。
まるで、この六畳の部屋だけが、幻想の世界に入り込んでしまったみたいだった。
あかりは麦茶を飲んだ。
冷たさが喉を通り、ようやく現実感が戻ってくる。
「ツク」
「何だ」
「これから、どうするんですか」
月読命は答えなかった。
グラスを置き、静かに窓の方を見る。
あかりもつられて、カーテンの隙間へ目を向けた。月は見えないけれど、そこにあるのは分かる。
「我は、帰らねばならぬ」
「月の神域に?」
「そうだ」
「でも、道は閉じてる」
「閉じている」
「開く方法は?」
「分からぬ」
「誰がツクを地上に下ろしたのかは?」
「分からぬ」
「目的は?」
「知らされておらぬ」
「分からないことだらけですね」
「そうだ」
月読命は、あまりにも素直に認めた。
あかりはそのことに、胸が痛くなった。神様なのに、迷子みたい。月を司るほどの存在なのに、自分がなぜここにいるのか分からないなんて。
「怖くないんですか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
月読命は、ゆっくりとあかりを見た。
「怖い、とは」
「帰れないこととか、目的が分からないこととか、知らない世界にいることとか」
「神は、恐れぬものとされている」
「されている、じゃなくて。ツクは?」
月読命は黙った。
そして、その沈黙は長かった。
部屋の冷蔵庫が小さく音を立てる。外からは車が通り過ぎる音がする。どこかの部屋で水を流す音がする。
やがて、月の神がやっと言葉を紡いだ。
「恐れというものを、我はよく知らぬ。だが、月が見えているのに帰れぬことは、不思議だ。胸の奥が、空いたようになる」
それは、寂しいということではないのか。
あかりはそう思った。
でも、口には出さず、代わりに、少し笑って言った。
「じゃあ、それはたぶん、怖いの一歩手前ですね」
「一歩手前」
「もしくは、寂しいの親戚です」
「人の子は、感情に親戚を作るのか」
「作ります。便利なので」
月読命は真面目な顔で頷いた。
「覚えておこう」
あかりは笑った。
笑いながら、少し泣きそうになった。
どうしてだろう。
自分の部屋にいるのに。
いつものテーブル。いつもの本棚。読みかけの本。床に置いたトートバッグ。千晴から借りっぱなしの漫画。何もかも、いつもの自分の生活のはずなのに、そこに彼がいるだけで世界が違って見えた。
自分の部屋が、誰かを匿う場所になる。自分の名前が呼ばれる。月が、ただの月ではなくなる。
「今夜は、ここにいてください。明日、考えましょう。帰る方法とか、追ってきた人たちのこととか。あと、現代生活の基本とか」
「基本」
「スマホ、コンビニ、電車、服、警察、SNS。覚えること山ほどあります」
「修行か」
「神様の現代研修です」
「講師は、そなたか」
「不安ですか?」
「いや」
月読命は、まっすぐにあかりを見た。
「あかりに教わる」
まただ。
ーー名前を呼ばれただけのことが、こんなにも照れくさいなんて。
あかりは、麦茶のグラスを両手で持ったまま、目をそらした。
「どうした。顔が赤い」
「いちいち指摘しないでください……そういうまっすぐな感じのやつ、受け取り方が分からないです。なんか......うまく説明できないですけど。」
「そうか」
月読命は少しだけ間を置いてから言った。
「今の我には、頼る者があかりしかおらぬ」
そのとき、窓の外で、車の音が止まった。そして、車のドアを閉める音もした。けれど、それ以上の音はしない。
あかりは、嫌な予感がして耳を澄ませた。月読命も、何かを感じ取るように目を細めたが、すぐに視線を戻した。
「まだ来ぬ」
「まだ、って言いました?」
「我のことを見失ったようだ。だが、いずれ来るやもしれぬ」
「怖いことを平皿で出さないでください」
「事実だ」
「事実でも、盛りつけってものがあります」
あかりはため息をついた。
そして、部屋の隅から予備のブランケットを引っ張り出した。
「とりあえず、電気を消しましょう。それで、今日はもう寝てください。私はベッドで寝るとして......ツクは……床でいいですか?」
「床でよい」
「神様を床に寝かせるの、罰当たり感がすごいな……」
「我は眠らずともよい」
「だめです。寝る努力はしてください。現代生活の基本、その一です」
「寝る努力」
「はい。目を閉じて、静かにする」
「それは、祈りに似ている」
「じゃあ祈りだと思ってください」
月読命は納得したのか、真面目に頷いた。その様子を見て、あかりはブランケットを渡してから、電気を消した。
部屋が暗くなる。
カーテンの隙間から入り込む月の光が、床に座る月読命の横顔を照らした。暗闇の中で、彼だけが、この六畳の夜に馴染まない。けれど、最初に見たときよりは、ずっと近くにいるように思えた。
あかりはベッドに横になった途端、強烈な睡魔に襲われた。
睡魔と戦いながら、なんとなく聞いてみたくなった。
「ツク」
「何だ」
「明日になっても、消えてたりしませんよね」
少し間があった。
「ここにおる」
「……そっか」
あかりは目を閉じた。
胸の奥に、水溜まりがある。水面には満月が映っていて、誰かがそこにいる。
ずっと待っていた誰かが。あるいは、ずっと待たせていた誰かが。
あかりは眠りに落ちる直前、かすかに思った。
明日から、きっと大変になる。
だけど。
月がさみしいだけだった夜は、もう終わったのかもしれない。
ーー暗い部屋の中で、誰かが小さく呟いた。
『あかり』
返事をしたつもりが、声にはならない。
その名を呼ぶ声は、月明かりよりも静かに眠りの底へ沈んでいった。




