第33話 神様のいる神社
十一月に入った月読神社の石畳には、黄色く色づいた落ち葉が目立ち始めた。
風はまだ冬のときほど冷たくはないけれど、境内を吹き抜けるたび、半袖ではもういられない季節だと肌に教えてくる。
祈祷殿のそばには、淡い黄色の小菊がいくつか飾られていた。
派手な花ではない。
けれど、秋の光の中で見ると、その小さな黄色は、境内の空気までやわらかくしているように見えた。
白峰伊織は、授与所の横に立ちながら、境内を歩く男を見ていた。
白いシャツを着て、黒い長髪を秋の風になびかせるその男は、背が高く、姿勢がよく、動きは静かだった。
外見だけなら、モデルか若手タレントか、はたまた世間にうまく馴染めていない青年のように見える。けれど、この方は、月読神社の主祭神であらせられる月読命ご本人なのだ。
その方が、今、月読神社で手伝いをしている。
それは、あまりにも当然で、あまりにも不自然だった。
月読命は、境内を行き交う参拝者を見ていた。石段の前で足を止めた老婦人がいれば、その足元へさりげなく目を向ける。月延石の前で戸惑う若い女性がいれば、そちらを見すぎることなく、困っている気配だけは逃さない。拝殿の前で手を合わせる人がいれば、その祈りを邪魔しないよう、そっと視線を外す。
ただ立っているだけなのに、境内の呼吸に合っていた。
伊織は、思わず口にした。
「月読さんは、神社に馴染まれるのが早いですねえ」
月読命は、境内の木々を見たまま答えた。
「馴染む、とは違う」
「違うのですか?」
「己の力で場を染めることではない。 場の呼吸に、己の呼吸を合わせることだ」
伊織は、その言葉に改めて感心した。
その若々しい姿を見ていると、忘れそうになるが、この方は自分よりも遥かに長い時を重ねている。
そして、その年月は、人の暦では数えられないほどだ。
伊織が神職として学んできた祝詞や由緒や伝承のさらに向こう側に、この方は立っている。
「……失礼しました」
伊織は小さく頭を下げた。
「何がだ」
「いえ、……月読さんが、あまりに自然にそこにいらっしゃるので……」
「自然であることは、悪いことか」
「いいえ。 ……ただ、忘れそうになります」
伊織は、境内に目を向けた。淡い黄色の小菊が秋の風に揺れている。
「あなたが、ここにいて当然の方でありながら、本来なら、ここにいてはならない方なのだということを」
月読命は答えなかったが、それが怒ったということでもない。ただ、伊織の言葉を、境内の風と同じように受け取っていた。
伊織は、その沈黙の意味を測れないことが怖かった。
——この方は、自分がここにいることの意味を、どこまで分かっていらっしゃるのだろう。それとも、分かっていて、それでもここにいるのでしょうか。
「おかあさん、これ、かわいい」
その時、幼い声がした。
伊織は、ほっとして視線をそちらへ向けた。
母親に手を引かれた女の子が、祈祷殿のそばに飾られた小菊を見ていた。年は五つか、六つくらいだろう。
女の子は、淡い黄色の花に見入っている。
「お花ー」
「菊よ。 きれいね」
「これ、持って帰っちゃだめ?」
母親は女の子へ笑いかけた。
「だめよ。 神社に飾ってあるものだから」
「そっかあ」
女の子は残念そうな顔をしたが、それ以上ねだることはなかった。ただ、きれいなものを見つけて、心がそちらへ向いている。そんな表情だった。
月読命は、その顔をじっと見ていた。
その表情はいつもと変わらず、無表情だった。けれど、女の子へ向ける眼差しにだけは、どこか親しいものを見るような柔らかさがあった。
「あかりも」
伊織はその一言で、その眼差しが女の子だけに向けられたものではないことに気づいた。
月読命の言葉は、穏やかに続いた。
「あかりも、喜ぶと、あのような顔をする」
伊織は、その呼び方に耳を留めた。
――あかり。
その響きは、伊織の耳に奇妙なほど親しげに聞こえた。
「……汐見さんが、ですか」
「うむ」
月読命は当然のように頷いた。
「目が丸くなり、頬が赤くなり、言葉が増える」
「よく見ていらっしゃいますね」
「見ている」
何の迷いもないその一言に、伊織は自分の中で興味が膨らんでいくのを感じた。
——見ている。
観察しているのでも、見守っているのでもない。ただ、あかりという一人の人間を自然に受け入れているような響きだった。
「この握った手を見ておれ」
月読命は片膝をついて片手を握り、その拳を女の子に突き出していた。
伊織がほんの少し考え事をしている隙に、月読命は母娘のすぐ近くに移動していたのだ。
「あっ……」
伊織が止めるより早かった。
風も起きず、何の音もしなかったけれど、ほんの一瞬、ほんの少しだけ、月読命の全身が光ったように見えた。
月読命が開いた手の掌の上に、いつの間にか一輪の小菊が乗っていた。
淡い黄色の、小さな菊だった。
「えっ」
女の子が目を丸くした。
「すごい! お花、出た!」
母親も驚いたように目を見開いた。
「手品……ですか?」
月読命は真面目な顔で答えた。
「手品ではない」
「月読さん!」
伊織は、たまらず声を挟んだ。
「なんだ」
訝しげな表情を伊織に向ける月読命を無視して、伊織は母娘の方へ歩み寄った。
「今のは、手品ですぅ」
伊織は、なるべく穏やかな表情を作って母親に言った。
「手品ではないのだが……」
そう小声でつぶやきながら、月読命は女の子に小菊を差し出した。
「持つがよい」
「いいの?」
「うむ」
女の子は、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとう!」
その声は、境内の空気を黄色く弾ませた。
母親が慌てて頭を下げた。
「すみません。 ありがとうございます」
「構わぬ」
「ほら、ちゃんとお礼言って」
「ありがとう、お花の手品の人!」
「手品では……」
「月読さん」
「……うむ」
伊織が横から目で制すると、月読命はそれ以上言わなかった。
女の子は小菊を大事そうに両手で持ち、母親と一緒に鳥居の方へ歩いていった。
女の子の背中を、月読命はじっと見送っていた。
伊織は、月読命のその横顔を見ていた。
驚かなかったわけではない。ただ、その驚きを境内に落としてはいけないと知っていた。
——やはり、この方は……。
奇跡を奇跡とも思わずに起こしてしまうのだ。人が息をするように、水が流れるように。ただ、そうした方がよいと思えば、神力が形になってしまうのだ。
母娘の姿が見えなくなってから、伊織は静かに口を開いた。
「今のは、神力ですね」
「うむ」
「あまり、人前ではなさらない方がいいと思いますぅ」
月読命は、不思議そうに伊織を見た。
「喜んでいた」
「はい、とても喜んでいました」
「ならば、悪いことではあるまい」
「悪いことではありません」
この方を叱るのは違う。ましてや、否定するのも違う。
けれど、伝えなければならない。
「ですが、喜ばせることと、神の力を見せることは、同じではありません」
月読命は黙った。
「人は、目の前に奇跡があると、それがどんな小さなものでも、意味を探してしまいますぅ。 求めてしまいますぅ。 もっと、と」
伊織は、先ほどの母娘が帰って行った鳥居の先を見た。
「あの子は、きっとただ喜んだだけですぅ。 でも、大人は違いますぅ。 奇跡を見れば、祈りとは違う形で、神に手を伸ばしたくなることがありますぅ」
月読命は、境内の小菊を見た。
「人は、神に願うものだろう」
「はい。 けれど、願いと要求は違いますぅ」
「難しいな」
「人の世は、だいたい難しいですぅ」
伊織がそう言うと、月読命は彼女へ視線を向けた。
「そなたも、難しいのか」
「私ですか?」
「神職であってもか」
「神様に近い場所にいるつもりで、実際にはいつも、人の願いのそばにいますから。 人とは難しい生き物だと、つくづく感じますぅ」
月読命は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、先ほどより少しだけ人間に近く、伊織には何かを考えているように見えた。
「我は……」
月読命は、次の言葉を探るように続けた。
「あの幼子を喜ばせたかったのかもしれぬ」
「そう見えました」
「あかりも、……喜ぶと、よい顔をする」
——また。
伊織は、月読命がその名を口にするたびに滲む親しさに、どこか畏れにも似たものを感じていた。
「月読さんは、汐見さんが喜ぶと、嬉しいのですねえ」
境内を風が吹き抜け、小菊が小さく揺れる。
月読命の表情は、あまり変わらないけれど、その沈黙から、伊織には彼が汐見さんのことを思い浮かべているのだろうと容易に想像できた。
「我は、あかりの喜ぶ姿が……好きだ」
月読命は、何かを定めるように言った。その言葉は、神の言葉として聞くにはあまりに個人的で、人の言葉として聞くにはあまりに真っ直ぐだった。
「……恋愛相談ですか?」
「れんあいそうだん」
月読命は、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「……分からぬ。 帰って、ねっとで調べるとするか」
「調べなくても結構ですぅ!」
伊織は、即座に言った。
「なぜだ」
「月読さんが何を読んで何を信じるか、私には責任が持てません」
「ねっととは、危ういものなのか」
「危ういものも、混じっていますぅ!」
「ならば、あかりに聞く」
「それも……今は、まだ少し早いかもしれません」
「なぜだ」
伊織は困ったように笑った。
「汐見さんが、たぶん固まりますぅ」
「固まる」
「はい」
「人は、喜ぶと固まるのか」
「場合によりますぅ」
「難しいな」
「はい、……とても」
この方は、おそらくまだ、自分が何を言ったのか分かっていない。
——あかりの喜ぶ姿が好きだ。
それは、恋という言葉の入口に立っている言葉だった。けれど、月読命はその入口に立ちながら、まだ看板を読めていない。
読めないから、ネットで調べようとしている。
伊織は、笑いそうになるのを必死で堪えた。息まで詰めたせいか、耳の奥でキーンと音がした。耳から煙が出ているのではないかとさえ思った。
——絶対に笑ってはだめよ、伊織!
「ならば、我は、あかりの望むものを与えればよいのか」
伊織は、平静を装うまでに時間がかかり、すぐには答えられなかった。
そして、この問いには、慎重に答えなければならない。
神にとって、与えることは難しくないのかもしれない。
けれど、人は、望むものを簡単に与えられ続ければ、自分で求め、迷い、選ぶことを忘れてしまう。
「何でも与えることが、喜ばせることとは限らないと思いますぅ」
「望むものを与えず、喜ばせるのか」
「全部叶えてもらうより、一緒に迷ってもらう方が嬉しいこともありますぅ」
「迷う」
「はい」
月読命は、眉をわずかに寄せた。
「迷うことは、不便ではないのか」
「不便ですぅ」
「ならば、なぜ嬉しい」
「一人ではないと、分かるからですぅ」
伊織には、月読命の目が何かを得心したように、輝いて見えた。そして、その視線は遠くへ向けられた。けれど、見ている先は神域などではなく、おそらく、あかりのアパートだろうと思った。
神が、人の世に帰る場所を持っている。
それは、あまりに美しくて、あまりに悲劇だ。
*
やがて、境内の人の流れが落ち着いてきた。
午後の光も傾き始めている。
伊織は授与所の片づけをしながら、月読命に声をかけた。
「月読さん」
「なんだ」
「今日は、お買い物には寄らずに、まっすぐ汐見さんのところへ帰られるのですか?」
月読命は、当然のように言った。
「うむ。 今日は特に買うものはない」
言ってから、月読命はほんの少しだけ間を置いた。
「あかりが待っている」
月読命は、茜色の濃くなった空を見上げた。その仕草は、あまりに自然に口をついて出たその言葉の意味を、確かめているようにも見えた。
伊織は、何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
「お気をつけて」
「うむ」
月読命は鳥居の方へ歩き出した。
「あ、月読さん。 今日のお礼を……」
伊織がそう言いかけた時には、月読命はすでに石段へ向かっていた。急いでいる、というほどではないけれど、その歩みには迷いがなかった。
神様のいる神社。
それは、本来なら正しい姿だった。
けれど、今の月読命が向かう先は、神域ではない。
石段を降り、鳥居を抜け、秋の夕方の道へ出ていく。
神域へ戻るためではなく、あかりの喜ぶ顔を見るために。




