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Moon Light Lover  作者: 巡
第5章 月読神社編

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第32話 神様とワイン


 アマツ機関の観測室には、窓がなかった。


 外が昼なのか、夜なのか、雨が降っているのか、晴れているのか、分からない。


 そこにいる者たちは、壁の外の空を見ない。


 見るのは、いくつもの画面に並ぶ数値と、地図と、波形だけだった。


「旧暦七月十五日、二十三時台。 京都市内西部の神力反応、再解析終わりました」


 若い分析員の声に、室内の数名が顔を上げた。


 画面中央には、京都市内の地図が表示されていた。その一角には、解析条件ごとに算出された半透明の赤色の円が、複数重ねて表示されていた。円が重なる部分ほど赤は濃かった。


 最も濃く重なった領域の中心は、なぜか京都市内の大学だった。


 再解析結果には、こう表示されている。


 『神格級反応』

 『継続時間、約五分』

 『発生源、月読神社を起点として東へ移動したのちに消失』

 『神力分析班解析、東進時の推定速度、約90キロメートル毎時』

 『現地対応班による目視情報、あり』


 三笠透子は、画面の前で腕を組んだまま、表示された再解析結果を見つめていた。


 『現地対応班、月読神社付近到着時、車内から対象を背後より目視』

 『対象、東方向へ高速で移動。 視認時間、数秒』

 『推定身長、一八〇センチ台』

 『白色の和装様の衣服』

 『長髪』

 『顔貌、確認できず』


 透子は、神力分析班の解析結果と現地対応班の目視報告を見比べた。


 現地対応班が月読神社付近へ到着した時、対象はすでに東へ遠ざかっていた。車内からその後ろ姿を捉えられたのは、わずか数秒だった。


 それでも、複数の班員の報告は一致している。


 長い髪、白色の和装のような衣服、一八〇センチ台とみられる長身、そして、猛烈な勢いで遠ざかる背中。


 神力分析班が算出した約90キロメートル毎時という移動速度は、その目視情報とも矛盾しなかった。


 顔は見えていない。


 透子は、しばらく黙っていた。


 あの夜、月読神社周辺には神格級の反応が出た。現地対応班が捉えたのは、数秒間の後ろ姿だけだった。まるで古い絵巻から抜け出したような特徴だったが、それだけでは足りない。街には仮装をする人間もいれば、祭り帰りの人間もいる。白い服など、珍しくもない。


 アマツ機関は、一定以上の神力反応を示す地点を、常時監視していた。


 神社、古墳、霊山、湧水、地下水脈の交点。


 人が「神域」と呼ぶ場所の多くは、別の言い方をすれば、古くから異常が積み重なってきた場所でもあった。だから、反応そのものは珍しくない。


 珍しいのは、その強度だった。


「神格級、か」


 透子の声は、ほとんど独り言に近かった。


 分析員が、別の画面を開く。


「SNS画像の抽出結果です。 位置情報付きの投稿を中心に、京都市内全域で再走査しました。 観光地、神社仏閣、水辺、繁華街を優先しています」


 画面には、京都駅、四条河原町、祇園、清水寺周辺、伏見稲荷、嵐山、鴨川沿い、桂川沿い、北野天満宮、下鴨神社、上賀茂神社、そして月読神社周辺まで、京都市内の各所で撮られた無数の画像が並んでいた。


 そこには、観光客や修学旅行生、白い上着の男性、和装の女性、舞台衣装のようなものを着た若者、夜の川辺で撮られたピントの甘い写真まで、雑多な画像が混じっていた。


 玉石混交だ。


 だが、透子はそれらを捨てなかった。


「生物反応偏差は?」


 別の分析員が資料を確認した。


「同時期から、周辺のネズミ駆除依頼は平年同期比一・四倍。 へびの目撃件数、鳥類の異常集合、猪の出没件数も、それぞれ過去五年平均を上回っています。 ただし、いずれも単独では異常判定の閾値に達していません」


「単独では、ね」


 透子は、指先で机を軽く叩いた。


 神は、いつも神らしく現れるとは限らない。むしろ、神そのものより、その周囲に生じる歪みの方が先に痕跡として現れる。


 画像、位置情報、生物反応、神力発生地点、目撃証言。


 これらは別々に見れば、ただのノイズだ。


 だが、重ねれば、ひとつの影になる。


「条件を変えて。 白い衣を必須から外す。 長髪、長身も補助条件へ。 神力反応地点との近接、反復出現、生物反応偏差との重なりを優先」


「対象本人ではなく、周辺接触者を拾うということですか」


「本人が映らないなら、本人の近くにいた者を見る」


 数秒後、画面の候補群が入れ替わった。


 白い衣の人物たちが消えていった。


 残ったのは、観光客や地元住民、学生らしき男女、散歩中の老人、買い物袋を提げた女性といった、意外なほど普通の人間たちだった。


 その中で、ひとつの候補だけが、何度も残った。


 若い女性だ。


 おそらく大学生くらいの年齢で、京都市内の複数地点で画像に混じっていた。


 白い衣でも、長身でもない。神格級反応の対象とは、特徴が合わない。


 それでも、消えない。


 若い分析員が、不思議そうに言った。


「この女性、条件には合いません」


「だから残っている」


「はい?」


「対象ではない。 だが、対象の近くにいる可能性が高い」


 透子は、候補の横に表示された仮ラベルを見た。


 接触者候補B。


 名前は、まだない。住所も、年齢も、特定されていない。けれど、影は浮かび上がり始めていた。


「追跡優先度を一段上げて」


「対象名は?」


「まだ要らない。 名前を得る前に、動きの癖を見る」


 画面の中で、若い女性の画像だけが残った。


 透子は、冷えた声で言った。


「神を追うなら、神だけを見ていては遅い」


     *


 テレビでは、夕方の旅番組が流れていた。


 画面の向こうでは、レポーターが大阪の新世界を歩いている。通天閣を見上げ、派手な看板の並ぶ通りを抜け、串カツ屋の暖簾をくぐっていた。


 十月下旬の空は、暮れ始めると早い。窓の外には、まだ明るい水色が残っていると思っていたのに、気づけば茜色は通り過ぎて、深い藍色に変わっていた。


 あかりはちゃぶ台の前に座り、なんとなくテレビを眺めていた。レポーターが串カツを頬張って大げさに目を丸くすると、つられて少し笑う。


 けれど、しばらくすると、あかりの視線はちゃぶ台の上のスマホへ落ちた。


 画面を点けて、時刻を確認する。


 まだ、こんな時間か。


 スマホを伏せ、テレビへ目を戻した。


 月読命は、神社に行っている。


 正確には、神社で働いている。そのことが、あかりを未だに不思議な気分にさせる。


 神様が神社で働く。間違ってはいない。むしろ、字面だけなら正しすぎる。


 けれど実際には、月読命はまだ人間世界の常識を覚えている途中で、掃除道具の使い方も、授与品の並べ方も、伊織に確認しながら覚えている。


 神様なのに。いや、神様だからこそ、なのかもしれない。


 テレビの映像が、通天閣の展望台から大阪の街を見渡す景色に変わった頃、あかりはまたスマホへ手を伸ばしていた。


 何度目なのかは、もう数えていない。


 そのことに気づいた時、あかりは不思議な気持ちになった。


 待っているのが、当たり前になっている。


 ついこの間まで、月読命がこの部屋にいること自体が大事件だった。千晴に説教され、生活用品をそろえ、寝る場所に悩み、現代社会の説明で頭を抱えた。それなのに今は、帰ってくるのを待ちながら、何度も時間を確かめてしまう。


 ——変なの。


 あかりはそう思った。


 でも、正直、嬉しかった。


 ただし、足音を待っているわけではない。月読命には、ほとんど足音がないからだ。廊下を歩いてきても、階段を上がってきても、普通の人みたいな音がしない。気配だけが、ふっと近づく。


 だから待っているのは、玄関のドアノブが回る音と、ドアが開いた瞬間に部屋へ入り込む外の空気だった。


 その時、玄関のドアノブが回った。かちゃ、と小さな音がする。続いて、扉が開いた。


 ひやりとした夜の空気が、部屋の中へ滑り込んできた。


「ただいま」


 月読命の声がした。


「おかえり、ツク」


 あかりは、すぐさま立ち上がった。


 玄関には、月読命が立っている。白いシャツの上に、紫地に金の刺繍が入ったお守りが揺れている。相変わらず、それはビニール紐で首から提げられていた。


 神様と、ビニール紐。


 見慣れたはずなのに、見るたびに笑いそうになる。


 月読命の手には、スーパーの袋が二つあった。


「あれ、買い物してきたの?」


「うむ」


 月読命は、どこか誇らしげに袋を掲げた。


「帰り道で、食材を得た」


「食材を得たって、狩りみたいに言わないで。 スーパーで買ったんでしょ」


「すぅぱぁは、よく整えられた狩場だ」


 これは月読命なりの冗談なのだろう。あかりには、月読命の無表情が、なんとなくイタズラっぽく見えた。


「スーパーの人に狩場だなんて言わないでね。 泥棒扱いされるよ」


 あかりが袋を受け取ろうとすると、月読命はそれを渡さず、そのまま台所へ向かった。


「重い。 そなたは座っていろ」


「いや、私の部屋だし」


「我が持つ」


「はいはい」


 あかりは苦笑しながら、台所へ向かった。


 袋の中身を出していく。


 鶏もも肉、玉ねぎ、きのこが数種類、トマト缶、コンソメ。


 そして、赤ワイン。


「赤ワイン?」


「うむ。 葡萄酒である」


 月読命は、真剣な顔で頷いた。


「れしぴに合うとあった」


「れしぴ?」


「料理の手順を記した文書だ」


「知ってる。 でも、ツクが言うと古文書みたいになる」


 あかりは赤ワインのボトルを手に取った。


 ラベルには、見慣れない外国語の文字が並んでいた。神様がスーパーでこれを選んでいる姿を想像すると、可愛くて笑いそうになった。


「ツクって、赤ワイン好きなんだっけ」


「いや」


「違うの?」


「白の方が好ましい」


 あかりは瞬きをした。


「じゃあ、なんで赤にしたの?」


「鶏ときのこのとまと煮には、赤が合うとあった」


「……料理に合わせたんだ」


「そなたに食わせるものだからな」


 月読命は、当然のように言った。


「……もう」


 自分の好みより、料理に合うもの。そして、その料理は、あかりに食べさせるもの。


 あかりはボトルを見下ろしたまま、頬が熱くなるのを感じた。


「……ありがと」


「礼を言うほどのことではない」


「そういうところだよ」


「どのところだ」


「こっちの話」


 あかりは、照れ隠しのようにトマト缶を持ち上げた。


「それで? 今日はツクが作るの?」


「そのつもりだ」


「本当に?」


「大筋は、すでに調べた」


 月読命は、あかりのノートパソコンの方を見た。


「ぱそこんを借りる」


「いいけど、変なサイト開かないでね」


「変な、とは」


「いや、説明すると長くなるから今はいい」


 月読命は不思議そうにしながらも、真面目に手を洗い、パソコンの前に座った。


 検索画面に、ひらがなで慎重に入力する。


『とりにく きのこ とまとに れしぴ』


 あかりは横から覗き込んで、吹き出しそうになった。


「惜しい」


「何がだ」


「いや、通じる。 たぶん通じるから大丈夫」


 検索結果を開く月読命の表情は、神託でも受けているかのように真剣だった。


「今の季節は、きのこが安くて、風味もよく、食感がしっかりしているのだ」


「え、急に生活者みたいなこと言い出した」


「すぅぱぁに書いてあった」


「ポップに書いてある情報、めちゃくちゃ吸収してる」


「役に立つ知識は、神託と同じだ」


「スーパーのポップを神託扱いしないで」


 月読命は、包丁を手に取った。


 あかりは一瞬身構えたが、手つきは熟練の主婦のそれと大差なかった。そして、観察して覚える力が異常に高いのだろう。一度レシピの写真を見ると、玉ねぎをどう切るか、きのこをどうほぐすか、かなり正確に再現していった。


「ツク、料理めっちゃうまくなってるよね?」


「日々、学んでいる」


「そっか、料理動画とか見てるもんね」


「うむ。 火を通す順、味の重ね方、塩の量。 人の食は複雑だ」


「まあ、神様の供物とは違うかもね」


「違う」


 月読命は、鶏肉を鍋で焼きながら言った。


「供物は、捧げられるものだ。 だが、食事は共にするものだ」


 油の音が、じゅ、と部屋に広がった。


 玉ねぎが透き通ったところで、月読命はきのこを加えた。さらにトマト缶の蓋を開け、サイコロ状に切られたトマトを加えると、鍋の中が一気に赤くなった。


 そこへ、月読命は赤ワインをひと回し加えた。


 香りが立つ。


「なるほど、酒を鍋に入れると、香りが変わる」


 月読命が、わずかに目を見開いた。


「そういう料理もあるんだよ」


「人間は、酒を飲み、酒を煮るのか」


「理解の仕方が短絡すぎ!」


 あかりは笑った。


 赤ワインがトマトに馴染み、鍋の中で静かに煮立っていく。表面に浮いた油が台所の灯りを映し、ソースは艶のある橙色に見えた。


 月読命は、その色をじっと見ていた。


 あかりには、それがただ料理の様子を見ているだけなのか、何か別のものを見ているのか、分からなかった。


「どうしたの?」


「いや」


 月読命は、鍋から目を離さずに言った。


「この色は、悪くない」


「トマト煮の色?」


「うむ」


「神様の感想って、たまにすごいざっくりしてるよね」


「悪くない、は褒めている」


「分かってるよ。 もっと、おいしそうな色とか、美しい色とか、あるでしょ」


 言いながら、あかりは食器を出した。


 六畳のリビングに、湯気と香りが満ちていく。小さなちゃぶ台の上に、鶏肉ときのこのトマト煮、パン、サラダ、そして赤ワインのグラスが並んだ。


 神様と赤ワイン。


 神様とトマト煮。


 神様とスーパーの袋。


 どれも、月読命と出会う前のあかりなら想像もしなかった組み合わせだった。


 あかりが手を合わせると、月読命も真似をする。


「「いただきます」」


 食事の挨拶が重なって、あかりは思わず頬を緩めた。


 トマト煮を口に運ぶ。


「あ、おいしい」


 思わず声が出た。


 鶏肉は柔らかく、きのこには程よく歯応えが残っている。煮込まれたトマトの酸味も角が取れ、赤ワインの香りがほのかに残っていた。


「おいしいよ、ツク」


「そうか」


 月読命はあかりの言葉を聞くと、静かに息を吐いた。


 いつもの澄ました顔とは違い、その表情はどこか穏やかに見えた。


「神様なのに、こういう普通のご飯もちゃんと作るんだね」


「普通、か」


「うん。 神饌とか供物とかじゃなくて、スーパーで買った鶏肉ときのこで作るご飯」


 月読命は、赤ワインの入ったグラスを静かに見た。


 それから、ちゃぶ台の上の料理、あかりの手元、部屋の明かりを順に見た。


「神聖なるものは、遠き神殿にだけ宿らぬ」


 低い声だった。あかりは、スプーンを持ったまま顔を上げた。


「小さな食卓、呼び合う声、帰る場所にも宿る」


 部屋の中が、ふいに静かになったように感じた。


 大きな神社でも、立派な社殿でもない。


 ここは、六畳の部屋だ。


 ちゃぶ台は小さくて、グラスも安物で、料理もスーパーの食材で作ったものだったけれど、月読命の声でそう言われると、この部屋の灯りまで、何か特別なものに思えてしまう。


 あかりは月読命から目を逸らし、誤魔化すように笑った。


「……ツクってさ」


「うむ」


「たまに、ずるいこと言うよね」


「ずるい?」


「うん。 ずるい」


 あかりは、赤ワインを一口飲んだ。


 少し渋くて、少し酸っぱくて、喉の奥が熱くなった。


「これ、ツクは本当は白の方が好きなんだよね」


「うむ」


「でも、今日は赤なんだ」


「今日は赤だ」


 あかりは、もう一度聞きたかった。確認したかった。月読命が、あかりのことを思ってくれていることを。


 食事が進むにつれて、言葉のない時間さえ、なんだか楽しくなっていった。


 月読命は赤ワインを静かに飲んでいたが、しばらくすると、耳のあたりが赤くなってきた。


「ツク、顔赤いよ」


「そのようなことはない」


「いや、ある。 めちゃくちゃある」


「神に、酔いなど」


「神様でも酔うんじゃない?」


「……少し、熱い」


「ほら」


 あかりは笑った。


 けれど、自分も少しふわふわしていることに気づいていた。


 ——赤ワインのせいだ。たぶん、そうだ。


 月読命がグラスを置いた。指先はグラスに触れたまま一拍残り、それから離れた。


「水、飲む?」


「水」


「うん。 飲んだ方がいいよ。 神様でも酔ってるっぽいし」


「酔ってはおらぬ」


「はいはい」


 あかりは立ち上がり、台所で水を注いだ。


 コップの中で、水が小さく揺れている。それを見ていると、自分の足元まで水面につられて揺れているような気がした。


 ——赤ワインのせいだ。きっと、そうだ。


 コップを持って戻ると、月読命はちゃぶ台の向こうで、どこを見るともなく目を伏せていた。頬だけでなく、耳の先までうっすら赤い。


 いつもの自分なら向かい側に座ったと思う。


 けれどその夜は、なぜかそうしなかった。


 ちゃぶ台を回り込み、月読命のすぐ右隣に腰を下ろす。肩は触れていないけれど、どちらかが身じろぎすれば、すぐに触れてしまう距離だった。


 あかりは月読命の耳元に顔を寄せた。


「水、飲ませてあげよっか?」


 ——いや、近いって。ツク、耳いいんだから。


 右手にはコップ、左手は、畳の上に軽く置いている。


 月読命は、差し出された水を見なかった。


 その視線は、コップを持つ右手を通り過ぎて、畳の上に置かれたあかりの左手に落ちていた。


「……ツク?」


 呼ぶと、月読命の指がゆっくり動いた。


 コップではなく、あかりの左手へ。


 月読命の手が、あかりの左手へゆっくりと伸びてくる。けれど、触れる寸前でその手は止まった。すぐそばにある指先は、様子を伺うかのように、それ以上近づいてこない。


 月読命の人差し指は意を決したのか、あかりの手の掌の端に触れてきた。探るような触れ方だった。力はない。


 逃げようと思えば、すぐに引ける。でも、あかりは引かなかった。


 触れられたところから、熱が広がる。


 水の入ったコップを持っている右手の方が冷たいはずなのに、意識は全部、畳の上の左手に持っていかれた。


 あかりは月読命の手を見つめたままだった。やがて、その答えを確かめたように月読命の五指が動き、手の掌を下から包むようにして、あかりの手を取った。


 指が絡むような手の取り方ではない。けれど、手は重なっていた。


 ——繋がれてる?


 そう分かった瞬間、あかりの心臓の鼓動は耳に近いところで鳴りはじめた。


 ——あれ? これはどうすればいいの?

 ——なんか、ぼーっとする。

 ——ま、いっか。

 —ツクなら。


 そう思った。


 月読命は、黙ってあかりの手を見ていた。触れているだけで、何かが満ちていく。


 鍋の中で煮えていた、赤ワインとトマトの橙色は、あかりのいる食卓のようで、どこか温かく見えた。


 その橙色が、月読命の内側に、ゆっくりと広がっていく。火のように燃え上がるのではない。月のように冷たく照らすのでもない。


 ただ、そこにある。


 小さな食卓。呼び合う声。帰る場所。


 あかりの手を取ったまま、月読命は低く息を吐いた。


「……あたたかいな」


「手?」


「うむ」


「そりゃ、人間なので」


「人とは、不思議だ」


「また大きい話になりそう」


「大きくはない」


 月読命は、繋いだ手に目を落とした。


「今は、これでよい」


 それが何を指しているのか、あかりには分からなかった。


 手を繋ぐことなのか、この部屋にいることなのか。それとも、赤ワインに酔って、普通のご飯を食べていることなのか。


 たぶん、全部だ。


 あかりは、月読命の手を握り返した。今の感情を込めるように、強く。


 その瞬間、ちゃぶ台の上の赤ワインが、わずかに揺れた。


 窓は閉まっていて、風はないはずなのに。


 グラスの縁を、月明かりのような白銀の光が一瞬だけなぞった。紫地に金の刺繍が入ったお守りが、月読命の胸元で小刻みに震えた。


 祈祷殿で聞いた祭具の音が、ふと頭をよぎった。


 ――シャラン。


 どこかで、そんな音がした気がした。


「今、何か鳴った?」


 あかりが小さく言うと、月読命はゆっくり顔を上げた。


「……少し、緩んだ」


「何が?」


「我の、境が」


「え、それ大丈夫なやつ?」


「大事ない」


 月読命は、あかりの手を離さなかった。


「ほんの少しだ」


 あかりは、不安になりかけた。けれど、月読命の表情は穏やかだった。だから、深く聞かなかった。


 聞いてしまうと、この温かい部屋の空気が壊れてしまう気がした。


 赤ワインの表面は、もう静かになっていた。お守りも動いていない。部屋の外では、遠くで犬が一度鳴いた。


 そして、すぐに静かになった。


     *


 観測室で、警告音が短く鳴るのと同時に、画面上で小さく波形が跳ねた。


 観測員が画面を確認する。


「京都市内、極短時間反応。 神格級ではありません。 ですが、通常値では説明できない波形です」


「位置は」


 三笠透子が問うと、地図が表示された。


 月読神社ではない。


 だが、接触者候補Bの生活圏として推定されていた範囲と、反応地点は重なっていた。


「波形照合」


 分析員が過去の観測記録と照合する。


「出力は違います。 ただ、旧暦七月十五日の反応と、波形が類似しています」


 透子は、画面の中の小さな波形を見つめた。


 神格級ではない。それでも、名前のない若い女性の周囲で、神の影が動いている。


「接触者候補Bの優先度を、さらに一段上げて」


「監視対象にしますか」


「まだ監視とは呼ばない」


 透子は、静かに言った。


「影を追うだけよ」


 画面の中で、短い波形が消える。だが、記録は残った。


 幸福な夜は、誰にも知られずに終わるはずだった。


 けれど、その揺らぎは、すでに観測されていた。

第33話は、2026年11月2日(月)に投稿する予定です。

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