第31話 神様の初仕事
白峰伊織からの連絡が来てから、三日後。
月読命の、月読神社での初めての手伝いの日が来た。
あかりは、その日の午後に講義が入っていないことを確認し、バイトのシフトも少しだけ調整してもらった。月読命をひとりで行かせる、という選択肢は最初からなかった。
本人は平然としている。
むしろ、やる気だった。
問題は、やる気のある神様ほど、何をするか分からないことだ。
この三日間、月読命はやけに真剣だった。
あかりがバイトに行っている間、アパートに置いてあるノートパソコンで、月読神社のことや神社奉仕の作法を調べていたらしい。
帰宅したあかりは検索履歴を見て、しばらく画面の前で固まった。
『神社 手伝い 服装』、『境内掃除 作法』、『授与品 並べ方』、『奉仕 意味』、『神 神社 手伝う 問題』
「最後のやつ、何?」
あかりが聞くと、月読命は真面目な顔で答えた。
「前例を確かめた」
「たぶん、ないよ」
「ないのか」
「ないと思うよ」
「では、我が初例となる」
「その前向きさが不安」
そう言ったあかりを、月読命は不思議そうに見ていた。
出かける少し前、月読命は机の上に置いていた紫のお守りを手に取った。紫の布地に金の刺繍が入ったそれは、あかりの白銀のお守りと同じ社で授かったものだ。月読命は、それをしばらく手の掌にのせて見つめていた。
それから、なぜか部屋の隅へ向かった。
「何してるの?」
「紐を探している」
「紐?」
月読命は、棚の横に置いてあったビニール紐を手に取った。あかりが雑誌をまとめるために買っておいた、白くて、少し安っぽいやつだった。
「それ、雑誌縛るやつだけど」
「結べば、輪になる」
「まあ、なるけど」
月読命は器用にビニール紐を通し、お守りを首から提げた。
白いシャツの上に、紫のお守りが揺れる。
神様と、ビニール紐。
ありがたいのか、雑なのか、いや、神様が古紙回収されるようだ。
「……それ、首から下げるの?」
「肌身離さず持つものなのであろう」
「言ったけど、そういう意味でビニール紐を使う人はあんまりいない」
「落とさぬ」
「そこは安心だけど」
月読命は、何が問題なのか分からないという顔で、胸元のお守りに手を添えた。
今日の月読命は、白いシャツに、濃紺のカーディガンを羽織っている。下は黒のパンツで、動きやすく、神社でも浮きすぎないようにと、あかりが選んだ服装だった。
『神様に現代服を着せて、仕事をさせに神社へ向かわせる』
やっぱり、どう考えてもおかしい。
*
アパートを出ると、十月下旬の空気が、シャツの袖口からすっと入り込んだ。
昼間の日差しにはまだやわらかな暖かさが残っている。けれど、風はもうすっかり秋のものだった。道端の木々も、少しずつ赤や黄を帯び始めている。
ーー本当に大丈夫かな。
月読神社へ向かう道を歩きながら、あかりは何度目か分からない不安を胸の中で転がしていた。
『神様が神社を手伝う』
表現を変えてみても、おかしいものはおかしい。
月読命は、隣をいつも通りの足取りで歩いている。歩幅は大きいが、あかりに合わせているせいか、速度は少しだけ控えめだった。
「ツク」
「何だ」
「今日は、本当に普通にしてね」
「普通とは、どの範囲を指す」
「そこから確認が必要なのが不安なんだけど」
「神力を使わぬことか」
「基本的には、それ」
「承知した」
本当に承知したのか、あかりにはまだ分からなかった。
月読神社に着いた時、境内は午後の光を受けて、やわらかく明るかった。
鳥居の朱色は、前に来た雨上がりの日よりも乾いた色をしていて、石段の端には風に落とされた葉がいくつも重なっていた。祈祷殿の軒下にはやわらかな影が落ち、舞台の板張りには午後の光が淡く差していた。
社務所の前で、伊織が待っていた。
「来てくださって、ありがとうございますぅ」
伊織は、前に会った時よりも少し柔らかい声で言った。
「こちらこそ、声をかけていただきまして」
月読命が、きちんと頭を下げる。
あかりは横で、思わず瞬きをした。
ーー誰?
テレビに向かって「世間とは誰の名か」と聞いていた神様と、同じ人には見えない。
「今日は、難しいことをお願いするつもりはありません。境内のお掃除と、授与品の整理を少しだけお手伝いいただければと思っていますぅ」
「承知した」
「それから、動きやすいように、こちらを」
伊織が差し出したのは、薄い作業用の前掛けだった。
月読命はそれを受け取り、少しだけ見つめた。
「これは」
「掃除や整理の時につけるものですぅ」
「なるほど」
月読命は真剣な顔で、白いシャツと濃紺のカーディガンの上に、作業用の前掛けをつけた。
——似合ってる。
似合っているのが、またおかしかった。
最初の仕事は、境内掃除だった。
伊織から箒を渡されると、月読命はその柄を片手で持ち、境内を見渡した。石畳の上には落ち葉が散り、砂が少し溜まっている。
「これを、集めればよいのだな」
「そう。 普通にね。 普通に掃けばいいからね」
あかりは念を押した。
念を押したはずだ。
それなのに、月読命は箒を手にしたまま、ほんの少しだけ……目を伏せた。
次の瞬間、境内の空気が変わった。あかりが月読命の目元へ視線を移した、ほんの一瞬。月読命の背後では、石畳に散っていた落ち葉がひとりでに集まり、見る間に不自然なほど整った山を作っていた。
しかも、それはまだ高くなっていく。
「神力使わないって言ったじゃん!」
「基本的には使わぬ。 しかし、この場合は使ったほうが良いであろう」
「……あぁ、私の言い方が悪かったかぁ」
少し離れたところで見ていた伊織は、騒ぐことも、叫ぶこともしなかった。ただ、その光景を見てから、月読命へ目を向けた。
その表情に浮かんでいたのは、驚きよりも、何かを確かめたような納得の色だった。
「……白峰さん」
あかりは、小さく声をかけた。
「はい」
「……分かってますか」
何を、とは言えなかった。
けれど伊織は、少しも急かさなかった。
「月読さんのことでしたら」
伊織は、月読命の方へ目を向けた。
「普通の方ではない、とは思っておりますぅ」
「普通の方じゃない、というか」
あかりは声を落とした。
「……月読命、なんです」
あかりは、このことを口にした途端、急に怖くなった。冗談みたいな話なのに、これは冗談ではない。
けれど、伊織はただ、ほんの少し姿勢を正しただけだ。
「そうではないかと、思っておりました」
「……やっぱり」
「ただ、こちらから御名を確かめることは、失礼にあたると思いましたので」
あかりは、すぐには言葉を返せなかった。怖がられるかもしれない。疑われるかもしれない。もしかしたら、利用されるかもしれないとさえ思っていたからだ。
けれど伊織は、月読命を暴こうとはしなかった。確かめようとも、試そうともしなかった。
ただ、名を呼ぶことさえ慎んでいた。
そのことに、あかりは知らず詰めていた息を、そっと吐いた。
「では、白峰さんは……本当に分かっていて、手伝いを頼んだんですか」
「はい。 存じ上げたうえで、お願いしました」
伊織は、まっすぐに答えた。
「怖く、ないんですか」
あかりの声は、自分でも思ったより小さくなった。
「怖くない、と言えば嘘になりますぅ」
伊織は、境内へ目を向けた。
「けれど、畏れることと、拒むことは違いますぅ」
「畏れることと……拒むこと」
「はい。 あの方は、人の祈りを軽く扱われませんでした」
あかりは、月延石の前での月読命を思い出した。
若い夫婦の祈りを、勝手に叶えようとはしなかった。乱れた願いを力で整えることもしなかった。ただ、少し聞いただけだと言っていた。
「だから、お願いしたのですぅ」
伊織の声は大きくない。けれど、その言葉ははっきりと響いた。
「この社が、あの方を祀るだけの場所ではなく、今ここにおられるその御方が、人の祈りに触れられる場所にもなれるのなら。 私は、そのための準備をしたいと思いました」
あかりは、込み上げてくるものをこらえるように、唇をそっと結んだ。
白峰伊織は、月読命を普通の人間だとは思っていない。異物として追い出そうともしていない。そのことが、思っていた以上に有り難かった。
けれど、だからこそ、不安も消えなかった。
月読命があかりを見る。
「でも、普通におかしいよ。 神様が神社で手伝うっていうだけでもおかしいのに、今みたいに神力使っちゃったら、絶対ごまかせないし」
言いながら、自分でも分かっていた。あかりは、月読命を自分の知っている場所へ戻そうとする言葉を投げかけていると。
「アパートで料理とかしててもらってもいいし。 ツク、料理うまいし。 そっちの方が安全っていうか」
「あかり」
「何」
「我は、そなたの部屋に隠れるために、この世にいるのではないと考えている」
その一言は、思っていたよりも深くあかりに刺さった。
月読命は、足元に散った落ち葉を見た。ゆっくりと周囲へ視線を巡らせ、最後に祈祷殿の軒先へ目を向けた。
「役目とは、与えられるものばかりではない。 己がここに在る理由を、小さな働きの中に見いだすものだ」
あかりは、月読命を自分の知る安全な場所に留めておきたいという気持ちが、静まっていくのを感じながら、返事を探した。
けれど、すぐには見つからなかった。
「……でも、神力は禁止」
「なぜだ」
「今の話とそれは別」
「別なのか」
「別です」
あかりは、月読命の手にある箒を指さした。
「今日は、それで。 人間の範囲で」
月読命は、手の中の箒を見下ろした。
「……このような細い箒でか」
「箒に失礼だからね」
伊織が、口元を押さえて小さく笑った。
それから月読命は、本当に箒で掃き始めた。
最初は、少しぎこちなかった。力の入れ方が分からないのか、落ち葉が思った方向へ動かず、あかりが横から教えることになった。
「押すんじゃなくて、払う感じ」
「払う」
「そう、強くやりすぎない」
「弱くすればよいのか」
「弱いというか、ほどほど」
「ほどほどとは、難しいな」
「人間社会はだいたいそうだよ」
月読命は、加減を探るように、また箒を動かした。
やがて、石畳の上の落ち葉は、今度こそ箒で集められていった。
その後は、社務所の中で授与品の整理を手伝うことになった。
棚には、お守りやお札が並んでいる。白銀のお守り、紫地に金の刺繍が入ったお守り。ほかにも、交通安全や安産祈願、学業成就のお守りが、種類ごとに置かれていた。
月読命は、布の端を指先で整え、紐が重ならないように、ひとつずつ向きをそろえていく。その手つきには、先ほど落ち葉を一瞬で集めた時のような強引さはない。
ひとつ。
またひとつ。
月読命は、並んだお守りを、ただの品物として扱ってはいなかった。
「丁寧ですねぇ」
伊織が言った。
月読命は、紫のお守りの紐を整えながら答えた。
「祈りの向きが乱れているものは、落ち着かぬ」
「ツク、そういうの分かるの?」
「そなたは我をなんだと思っておるのだ」
授与品整理の途中で、若い女性の参拝者が社務所へやって来た。
大学生か、社会人になったばかりといったところに見えた。明るい色のコートを着て、少し迷ったように棚を見ていた。
「あの、縁結びのお守りはありますか?」
伊織が別の作業で社務所の奥へ下がっていたため、月読命が顔を上げた。
「こちらであろう」
月読命は、教えられたばかりの棚を指し示した。
「あ、ありがとうございます」
女性は月読命を見上げて、笑顔を見せた。
「神社の方ですか?」
「今日より、仕えている」
「そうなんですね。 すごく、似合ってますね」
胸の奥に、小さな違和感が残った。別に、何か嫌なことをされたわけではない。月読命は聞かれたことに答えただけだし、女性も礼を言って、笑顔を見せただけだ。ただ、あかりは、こう思った。
『すごく似合ってますね』——なにが?
女性が月読命を見上げて笑った瞬間、あかりは自分の中に黒いモヤが立ち上るのを感じた。
「ありがとうございました」
女性が縁結びのお守りを受け取り、社務所を離れていく。
月読命は、あかりの方を見た。
「あかり、どうした」
「別に」
「別に、という顔ではない」
「別にって言ったら別になの」
月読命は、まだ何か言いたそうにしていたが、それ以上は口にしなかった。
*
初めての手伝いが終わるころには、空はすっかり夕方の色になっていた。境内の影は長くなり、鳥居の向こうの空には、夜の青が少しずつ混じっている。
「本日は、本当にありがとうございました」
伊織が、社務所の奥から一通の封筒を持って戻ってきた。
「こちら、わずかですが」
差し出されたその封筒の表には、『御礼』と書かれていた。
月読命は、それを見つめた。
「これは」
「今日のお礼ですぅ」
「礼」
月読命は、その一文字を確かめるように繰り返した。
「お気持ちですぅ。 お納めください」
月読命は、白い封筒を両手で受け取った。
「承った」
そう言って、封筒の口を開けた。
「こら、すぐに出さない!」
あかりは反射的に声を上げた。
月読命は、封筒からのぞいた紙幣を手にしたまま、きょとんとする。
「なぜだ」
「だって、その場で中身見るのはいやらしいじゃん! ……って、渋沢さんが三人も!!」
あかりの声が境内に響き渡った。
「本当は、もっとお渡ししたかったのですが……」
伊織が、申し訳なさそうに眉を下げる。
「いやいやいや、十分です! 十分すぎますって!」
「確かに、調べた額よりも多いな」
「そう!」
月読命は、手の中の紙幣を見下ろした。
「働きに対し、礼が返る。 人の世は、分かりやすいところもある」
「だからって、その場で中身を確認しない」
「確認せずに、礼の重さが分かるのか」
「そういう問題じゃないの!」
月読命は不服そうな顔のまま、あかりに言われた通り、紙幣を封筒に戻した。
けれど、封筒を持つ手つきは、さっきより少しだけ大事そうだった。
「……嬉しいんだ」
「何がだ」
「いや、今ちょっと嬉しそうだった」
「礼を受けるのは、悪いことではない」
「悪いなんて言ってないよ」
月読命は、封筒をもう一度見た。
その顔が、どこか誇らしげに見えて、あかりは笑いそうになった。
『神様が、初仕事の御礼をもらって喜んでいる』
やっぱりどう考えてもおかしい。
社務所を出ると、境内の空には、満月が昇っていた。丸く、白く、冷えた空気の中で、音もなく光っている。
その光の下で、月読命は白い封筒を両手でそっと持っていた。
「なくさないでよ」
「失礼なことを言うな」
「いや、だって、御礼もらった神様って初めて見たから」
「我も、御礼をもらう神は初めて見た」
「自分のことだよ!」
月読命は素知らぬ顔をして、封筒を折れないように、あかりが持ってきたエコバッグへ丁寧にしまった。
月の光が、鳥居を照らし、石段を照らし、祈祷殿の屋根と舞台を照らしていた。
その夜は、月さえも誇らしげに輝いていた。




