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Moon Light Lover  作者: 巡
第5章 月読神社編

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第30話 色違いのお守り


 講義が終わるころには、窓の外の光がずいぶん薄くなっていた。


 十月の終わりに近い京都は、昼間こそまだ歩けば少し汗ばむ日もあるけれど、夕方になると急に空気が冷える。大学の構内を行き交う学生たちの服も、薄手の上着やカーディガンが増えていた。


 あかりは、講義棟の一階にある自習スペースで、鞄を椅子の横に置いた。


 大きな窓のそばに並んだ席は、昼間なら日差しが入って明るいのに、今は外の色を映して少し青っぽく沈んでいる。蛍光灯の白い光が、机の上のノートパソコンやスマホを冷たく照らしていた。


「寒くなってきたねえ」


 向かいの席に座った千晴が、少しだけ厚手の上着を椅子の背もたれにかけながら言った。


「ね。 昼はそうでもなかったのに」


「あかり、今日バイト?」


「うん、夜から。 いったん帰って、ちょっとだけ休んでから行く」


「えらい」


「えらくはない。 生活のため」


 あかりはそう言って、鞄の中から筆箱を取り出そうとした。


 その時、鞄の横で小さく揺れたものに、千晴の視線が止まった。


「ん?」


「え?」


「それ、お守り?」


 千晴が指さしたのは、鞄につけた白銀のお守りだった。


 白い布地に、銀色の糸が控えめに刺繍されている。派手ではないけれど、蛍光灯の光を受けると、銀糸だけがそっと浮かび上がった。


 あかりは、反射的にお守りへ手を添える。


「うん。 月読神社で授かったの」


「へえ、……白銀。 月読さんっぽいね」


「でしょ」


 言ってから、あかりは少しだけ口元が緩んだことに気づいた。


 千晴の目が、すっと細くなる。


「……なるほど」


「何が」


「月読さんにも買ったでしょ」


「なんで分かるの!?」


 声が少し大きくなった。


 近くの席でノートパソコンを開いていた学生が、ちらっとこちらを見る。あかりは慌てて声を落とした。


「違う、買ったっていうか、授かったっていうか」


「はいはい。で、何色?」


「……紫」


「色違いじゃん」


「違う!」


「色違いでしょ」


「色違いだけど、そういう意味の色違いじゃない!」


 千晴は肘をつき、にやりと笑った。


「ペア守り」


「違う!」


「反応が速い」


「違うから速いの」


「あかりって、分かりやすいよね」


「分かりやすくない」


「いや、めちゃくちゃ分かりやすい」


 千晴は楽しそうに笑いながら、白銀のお守りを見た。


「で、月読さんは、その紫のお守りをどう受け取ったの?」


「それがさあ」


 あかりは、昨日の帰り道から部屋に戻った後のことを思い出した。


      ◇


 月読命は、紫のお守りをしばらく手の掌にのせたまま見つめていた。


 白銀のお守りは、あかりが鞄につけた。けれど、紫のお守りは、月読命の手の中でいつまでも行き場をなくしていた。


 あかりが「どうしたの」と聞くと、月読命は真顔で言った。


「これは、どこに祀ればよい」


      ◇


 思い出しただけで、あかりは肩を震わせた。


「祀る?」


 千晴が聞き返す。


「そう。 祀る。 私も言ったよ。 祀らない、肌身離さず持つの、って」


「……肌身離さず?」


「え?」


「あかり、それ自分で言ってて気づいてる?」


「何が?」


「いや、もういい」


「よくない。 何その顔」


「大丈夫。 今のあかりはだいぶ面白い」


「大丈夫じゃないじゃん」


 千晴は、肩を揺らして笑った。


「でも、神様にお守り渡すと、処理がそうなるんだね」


「ね、びっくりした」


「いや、でもちょっと分かる。 神様側からしたら、お守りって人間が持つものだもんね」


「そうなんだよね。 本人も『神に、守りを持たせるのか』って言ってた」


「正論」


「正論なんだけど、持っててほしかったんだもん」


 言ってから、あかりはまた自分の声が少し柔らかくなった気がして、慌てて咳払いをした。


 千晴はそれを見逃さない。


「はい、今の大事」


「何が」


「“持っててほしかったんだもん”」


「そこだけ切り取らないで」


「切り取りじゃなくて引用です」


「悪質! 著作権違反だ!」


 千晴は笑った。


 あかりは、白銀のお守りを指先でつつく。小さなお守りが、鞄の横で揺れた。


「でも、ツクも最近、変な方向に賢くなってきてて」


「変な方向?」


「テレビとネット」


「ああ」


 千晴は一瞬で納得したような顔をした。


「それは危ないね」


「でしょ。 普通、人間って子ども番組とか教育番組とか、そういうところから社会性に入っていくんだろうけど、ツク、最初にニュース覚えちゃったから」


「それは、社会性に装備なしで入り込んだね」


「ほんとそれ」


 あかりは深くうなずいた。


 月読命は、テレビをよく見るようになった。


 最初は、映像そのものに興味を持っていた。けれど最近は、そこから流れてくる情報を、ものすごい速さで吸収している。


 ニュース、天気予報、ワイドショー、通販番組、昼のドラマ。


 見る順番が、完全におかしい。


「この前なんか、謝罪会見を見てたの」


「ああ、ニュースでやってそう」


「そしたらツクが、『これは何の儀式だ』って」


「儀式?」


「私も最初笑ったんだけどさ、ツクが真面目に『これは、誰に詫びているのだ』って聞くわけ」


「うん」


「だから、えっと、世間? って答えたら、『世間とは、被害を受けた者の名か』って」


 千晴が、口元に手を当てた。


「強い!」


「私、何も言い返せなかった」


「月読さん、ニュースから現代日本の嫌なところを先に理解してない?」


「そうなんだよ」


 あかりは机に頬杖をついた。


「しかもそのあと、『迷惑をかけた者に頭を下げるのではなく、関係のない多数の前で頭を下げる。 ならば、これは謝罪ではなく、薄く広く穢れを移す儀式に近い』って」


「テレビ見てる人に穢れが移るってこと? 怖いね」


「ほんとにね!」


 あかりは思わず声を上げかけて、また少し声を落とした。


「あと通販番組も危ない」


「危ないって何」


「『物の価値を、驚きで上げる儀式』だと思ってる」


「間違ってはない」


「千晴まで!」


「いや、だって、間違ってはないでしょ」


「そうだけど!」


 千晴は、肩を揺らして笑った。


「昼ドラは?」


「それが一番危ない」


「ああ」


「色違いの小物を持つ男女は、親しいらしいって覚えた」


「完全にペア守り案件じゃん」


「だから違うって!」


「月読さん、その紫のお守り、もう意味分かって持ってるんじゃない?」


「分かってるようで、分かってないと思う」


「それ、あかりも同じじゃない?」


「え」


 千晴の言葉に、あかりは何か言い返そうとしたのに、うまく言葉が出てこなかった。


 でも、千晴はそれ以上追い込まず、あかりに話の続きを促した。


「最近、ノートパソコンで検索を覚えた」


「誰が?」


「ツクが」


「神様が?」


「うん」


「終わりじゃん」


「何が?」


「人類」


 千晴が真顔で言ったので、あかりは吹き出しそうになった。


「私がバイト行ってる間、アパートにノートパソコン置いてあるでしょ。 使ってないし、ちょっと調べ物できるように教えたら、覚えるの早くて」


「まあ、神様だもんね」


「神様だからなのか、本人の理解が早いのか分かんないけど、とにかく検索履歴がすごい」


「見たの?」


「見たっていうか、私のだもん」


「……アカウント分けてないの?」


「……分けてる」


「あかり、それはプライバシーの侵害」


「いいえ! ペアレンタルコントロールです!」


 そう言って、あかりはアカウントを『ツク』に切り替え、ブラウザを起動した。隣では千晴が「ものは言いようだね」と呟きながらも、興味津々と言った様子で画面を覗き込んできた。


「えっとね、『お守り 持ち方』」


「真面目」


「『神 お守り 持つ』」


「悩んでる」


「『ぺあ 意味』」


「来た」


「『かれし 定義』」


「来たね」


「来てない」


「来てるよ」


「あと、『色違い お守り 意味』」


「完全に来てるね」


「来てない!」


 千晴は、ニヤニヤしながら、さらに促した。


「他には?」


「『神社 奉仕 御礼 相場』」


「現実的」


「この前、月読神社で手伝うかもって話になったから」


「月読さん、ちゃんと御礼の相場調べてるんだ」


「そう。 そこは真面目なんだよね」


「いいじゃん」


「あと、『犬 動画』」


「急に可愛い」


「本人いわく、『ねっとには、真も偽も流れている』らしい」


「そこは分かってるんだ」


「でも、『犬の動画はおおむね真であった』って」


「犬動画でネットの信頼性を判断してる」


「ほんとそれ」


 あかりは笑いながら、さらに画面をスクロールした。


「あと、『らあめん おいしい』」


「検索が雑!」


「ツク、ラーメンに興味があるんだよね」


「月読さん、ラーメン食べるんだ」


「食べる。 しかも、ちょっと偉そうに味を分析する」


「神様のラーメンレビュー、ちょっと聞きたい」


「やめて。長いんだからね」


 あかりは一度言葉を切った。


 最後の検索履歴を見て、少しだけ口ごもる。


 千晴はそれを見て、すぐに察した。


「何。 まだあるでしょ」


「……ある」


「言いなよ」


「『月が綺麗ですね 意味』」


 千晴の顔が、ゆっくりとニヤけていく。


「それはもう、事故じゃないね」


「事故だよ」


「検索履歴に事故は残らないよ」


「残ることもある!」


「ない」


「ある!」


「で、月読さんは意味を調べたんだ」


「……そうみたい」


「じゃあ、あかりが言ったこと気になってたんだね」


「言わないで」


 あかりは、両手で顔を覆いかけた。


 思い出すだけで、耳のあたりが熱くなる。


 あの夜、月を見上げて言った言葉、月読命が返してくれた言葉があった。あの時はまだ、自分でも半分は冗談のつもりだった。けれど、改めて意味を調べられると、急に意識してしまう。


 千晴は、頬杖をついてあかりを眺めた。


「月読さん、もうネットで恋愛学習してるじゃん」


「してない! してないと思いたい!」


「『かれし 定義』と『月が綺麗ですね 意味』を検索してる時点で、してるよ」


「やめて。 現実にしないで」


「現実だよ」


「違う! これは、現代知識の吸収」


「便利な言葉だね」


 あかりは机に額をつけそうになった。


 千晴は容赦ない。


 けれど、からかい方がきつすぎないところが、千晴らしかった。


「あとさ」


 あかりは顔を上げ、話題を変えるように言った。


「ツク、最近たまに料理作ってくれる」


「月読さんが?」


「うん」


「神様が料理」


「うん」


「どうなの」


「めちゃくちゃうまい」


 千晴は、一度まばたきをした。


「強い。 神様、同居相手として強い」


「そうなの……腹立つくらいうまいんだよ……」


「何作るの?」


「この前は、だし巻き卵と味噌汁と、焼き魚」


「普通に朝ごはんとして強い」


「しかも火加減が完璧なの。 味噌汁も、なんか優しい味がするし。 本人は『れしぴに従った』って言ってたけど」


「れしぴ」


「ツクが言うと、ひらがなになるんだよね」


「分かる」


「で、私が『そんなに気を遣わなくてもいいのに』って言ったら」


 あかりは、そこで少しだけ声を落とした。


 それは、笑い話として話し始めたはずなのに、思い出すと少し違う温度を持っていた。


      ◇


 台所には、焼き魚の香ばしい匂いが残っていた。


 月読命は、あかりが渡した紫のお守りを、テーブルの端に置いていた。粗末に置いたのではない。食事の邪魔にならない場所に、きちんと向きを整えて置いていた。


「そんなに気を遣わなくてもいいのに」


 月読命は答えず、紫のお守りを指先で一度だけ撫でた。


「大きな奇跡だけが、人を支えるのではない。小さな食事や言葉が、夜を越えさせることもある」


 その言葉は、とても真っ直ぐで、あかりの胸に深く馴染んだ。


      ◇


「……って言ってた」


 あかりが言い終えても、千晴は黙ってパソコンの画面を見ていた。


 自習スペースの向こうで、誰かが椅子を引く音がした。夕方の大学は、少しずつ人の気配が薄くなっていく。


「それ、普通にいいこと言ってるね」


「でしょ」


「でも検索履歴に『かれし 定義』がある」


「台無し!」


 あかりが小声で叫ぶと、千晴は声を殺して笑った。


「いや、だってさ。 お守りは色違い、料理は作ってくれる、ネットで『かれし 定義』を調べてる、しかも『月が綺麗ですね 意味』まで調べてる」


「並べないで」


「並べた状況証拠は最強だよ。 これはもう彼氏じゃん」


「違うの。 ツクはただ、現代に慣れようとしてるだけで……」


 あかりはなぜだか急に不安になって、返す声も尻すぼみに小さくなってしまった。


「じゃあ、あかりは?」


「え?」


「あかりは、どうなの」


 千晴の声が急に柔らかくなったのを感じて、あかりは白銀のお守りに目を落とした。


 銀糸が、蛍光灯の下で静かに光っている。


「……分かんない」


 それは、否定ではなかった。けれど、肯定でもなかった。


 千晴は、その曖昧さを責めなかった。


 あかりは、慌てて話題をずらすように言った。


「ち、千晴の方は、彼氏とどうなの?」


 千晴の表情が、ぱっと変わった。さらには、あまりにも分かりやすく、目が輝いた。


「めっちゃラブです!」


「よくぞ聞いてくれましたの顔!」


「でも、恋愛レベル小学生のあかりには聞かせてあげられなくて残念。R指定に引っかかる」


「二十歳ですけど!」


「じゃあ聞く?」


「……興味ない」


「えー、語りたいのにー」


 あかりは、自分でも分かるくらい、顔が熱くなっていた。


 千晴は、そんなあかりを見て、楽しそうに笑った。


「あかりって、ほんと分かりやすいよね」


 けれど、その笑いの奥で、千晴は少しだけ言葉を選んでいた。


 あかりの初恋が大きく実ってほしいと思う一方で、その相手が本物の神様なのだと、もう心のどこかで受け入れてしまっていた。ならば、この恋の先に普通の成功がないことを忠告すべきなのか、それとも、あかりが自分で気づいているであろう痛みに、下手に触れない方がいいのか。


 千晴には珍しく、まだどちらにも決められなかった。


 窓の外では、いつの間にか夕方の空が色をなくしていた。


 自習スペースに残っていた学生たちも、ひとり、またひとりと荷物をまとめ始める。


「あ、私そろそろ行く」


 千晴が立ち上がる。


「虹輝くん?」


「うん。 今日は駅で待ち合わせ」


「めっちゃラブだ」


「そうです」


「顔が勝者だよ」


「勝ってるので」


「くっ、腹たつ!」


 千晴は少し厚手の上着を羽織り直し、鞄を肩にかけた。


「じゃあ、あかりもバイト頑張って。 あと、月読さんに負けないで」


「何が」


「人類」


「私にはどうすることもできないよ!」


「あと恋愛」


「そこは......戦ってない」


「そういうことにしとく」


 千晴はひらひらと手を振って、自習スペースを出ていった。


 あかりも、少し遅れて荷物をまとめる。鞄を持ち上げると、白銀のお守りが小さく揺れた。


 あかりは、その揺れを抑えるように、そっとお守りを握りしめた。


      *


 校舎の外に出ると、冷たい空気が頬に当たった。


「寒っ」


 思わず声が出た。


 昼間の名残は、もうほとんど消えていた。空は濃い青に沈んでいて、建物の窓には明かりが点いている。


 ふと、空を見上げると、建物の上に、月が出ていた。


 満月にはまだ少し足りない。けれど、もう十分に丸く、明るい。夕方と夜の境目に浮かぶその月は、冷え始めた空気の中で、白く静かに光っていた。


 スマホが震えた。


 あかりは立ち止まり、画面に映し出されたメッセージの差出人の名前を見て、少しだけ息を吐いた。


 ——白峰伊織。


 月読神社の神職であり、凛とした佇まいや涼やかな目とは裏腹に、のっそりしたと京言葉を喋る女性だ。


『先日はありがとうございました。 突然のご連絡、失礼いたします。 もしご都合が合えば、月読さんに一度、短い時間だけ境内のお手伝いをお願いできないでしょうか? 日時は——』


 月明かりに照らされた白銀のお守りが、鞄の横でかすかに煌めいた。


「……ツク、働くんだ」


 ぽつりと呟いてから、あかりは少し笑ってしまった。


 返信画面を開いたけれど、指先は冷たいし、胸の奥は落ち着かなくて、なかなか返事を返すことができなかった。


 月読命の、人の世での初めての“お仕事”が、決まろうとしていた。

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