第3話 月の男
月明かりの下で、待ってくれていたのだ。
そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ふっと解けた。
もちろん、そんなはずはない。
ここは現代の京都で、目の前にあるのは由緒ある小さな神社、あかりはただの大学生だ。月の信仰や旧暦七月十五日、あの世の方角といったものに惹かれ、調べているうちに勢いで夜の神社まで来てしまっただけ。
たとえ月明かりの中に人が立っていたとしても、偶然そこに居合わせただけだ。神様が自分を待っていたなど、物語の中でしか起こらない。
そう思おうとした。
けれど、できなかった。
白い光の中に立っていたのは、ひとりの男だった。
白とも銀ともつかない衣をまとい、夜の闇に溶けるどころか、月の光そのものを身にまとっているように見えた。広い袖と、足元へ流れる裾。布の合わせ目には、淡い銀の紋が浮かんでいる。
男は、あかりより頭ひとつ以上は高かった。近づけば見上げることになると、離れていても分かるほどだ。
男の長い黒髪は風に揺れ、白い光を受けるたびに艶やかに輝いた。確かにそこに立っているはずなのに、現実の重さが感じられない。
白い光に照らされた顔立ちは、整っているという言葉では足りなかった。
美しいというより、遠い。
人間の顔としてはあまりに静かで、彫刻として見るには、あまりに生きている。俳優でも、モデルでも、神社の祭礼で見かける装束姿の人でもない。あかりがこれまで見てきた、誰とも違っていた。
男がそこに立っているだけで、祈祷殿も、木々も、降り注ぐ月明かりも、すべてが彼を迎えるために存在しているようだ。
風が吹き、祈祷殿の神具がかすかに揺れた。
――シャラン。
澄んだ音が鳴ると、男があかりへ向かって一歩を踏み出した。その動きに合わせるように、人影を包んでいた白い光が衣の内側へ吸い込まれていく。
光が消えると、境内を照らすのは満月だけになった。
あかりは息を止めた。
目が合った。
その瞳は、夜の色をしていた。
けれど暗いわけではない。深い井戸の底に月が映っているような、覗き込んだら戻れなくなるような色だった。
「来たか」
男の低い声は、耳に届くというより、胸の内側へ響くようだった。あかりは一瞬、その言葉が自分に向けられたのだと理解できなかった。
「……え?」
「来たのだな」
もう一度、男は言った。
あかりは固まったまま、数秒遅れてまばたきをした。
「えっと……」
すみません、どなたですか。夜に神社で何をしているんですか。撮影ですか。関係者の方ですか。それとも、私の方が不審者ですか。
尋ねるべき言葉はいくつも浮かぶのに、どれも喉の手前で引っかかり、声にならない。
代わりに口から出たのは、どうしようもなく間の抜けた一言だった。
「あの……待ち合わせ、してましたっけ」
言ってから、あかりは自分の頭を抱えたくなった。
違う。
そうじゃない。
なぜ初対面の謎の美形に、まるで友達との約束を忘れたみたいな聞き方をしているのか。
男は、ほんのわずかに眉を動かした。
「待ち合わせ」
「いや、今のは忘れてください。私も何を言ってるのか分からないので」
「分からぬのか」
「はい。かなり」
「ならば、なぜ来た」
問われて、あかりは言葉に詰まった。なぜここへ来たのか、自分でも説明できない。
昼間の講義で境界の話を聞き、図書館で月の信仰を調べた。
ただそれだけのはずなのに、気づけばここまで来ていた。
「……月が」
あかりは、ぽつりと言った。
「月が、気になったんです」
男は黙っていた。
あかりは続けた。
「今日の月、なんか変で。いつもより近いというか、こっちを見てるみたいというか。別に、月が本当に見てるなんて思ってませんけど。でも……」
夏の月を見るたび、胸の奥の水たまりに残る、理由の分からない寂しさ。誰かを待っているような、誰かに呼ばれているような、それなのに相手の名前だけが分からない感覚。
そんなものを、初対面の相手に説明できるわけがない。
「でも、来なきゃいけない気がしたんです」
口にしてから、あかりは自分でも驚いた。紛れもない本音だった。
男は月明かりの中で目を細める。
「そうか」
笑いも、驚きも、疑いもせず、それだけを答えた。最初から分かっていたことを確認するような声音が、かえって怖かった。
「あの、本当にどなたですか」
あかりはようやく、まともな質問を口にした。
「ここの神社の方ですか? 神職さん……では、ないですよね。服装的にも、存在感的にも」
「存在感」
「すみません、変な言い方しました。でも、普通ではないので」
「普通ではない」
「はい。かなり」
男は、答えを選ぶように視線を落とした。その仕草が人間と変わらず、あかりの緊張が一瞬緩む。
けれど、続く言葉で身体が再び強張った。
「我は、月読命」
その名が告げられた瞬間、風が止まったように感じられた。祈祷殿の神具の音も、木々のざわめきも、遠くを走る車の音も、一斉に遠のいていく。
――月読命。
昼間、図書館で何度も目にした名前だった。古事記や日本書紀に記され、天照大神、素戔嗚命と並びながらも、神話の中で語られることは少ない、空白の多い月の神。
目の前の男は、その名を自分のものとして告げた。
あかりは、何度か口を開け閉めした。
「……はい?」
「月読命だ」
「えっと」
「聞こえなかったか」
「聞こえました。聞こえたから困ってます」
あかりは思わず一歩下がった。石畳の上で靴底が小さく鳴る。
「それは、あれですか。芸名ですか。ハンドルネームですか。もしくは、何かの演目の役名ですか」
「芸名ではない」
「じゃあ、コスプレ」
「こすぷれ」
「知らない感じですか」
「知らぬ」
「ですよね」
あかりは額に手を当てた。
いけない。
落ち着け。
ここで考えられる可能性は三つ。
一つ目。目の前の男は、本当に自分を月読命だと思い込んでいる危ない人。
二つ目。何かの撮影か演劇の関係者で、あかりが勝手に現場へ入り込んでしまった。
三つ目。
本当に、月読命。
「いや、三つ目はない」
あかりは小声で言った。
「何がない」
「こっちの話です」
月読命と名乗った男は、あかりをじっと見つめていた。
その視線に敵意も警戒もない。それでも、表情だけでなく胸の内まで見透かされているようで、あかりは落ち着かなかった。
「あの、失礼ですけど」
「何だ」
「あなた、本当に人間ですか」
言った瞬間、あかりはしまったと思った。初対面の相手に向かって、あまりにも失礼すぎる。
けれど男は怒らなかった。むしろ、不思議そうにした。
「人間ではない」
「即答しないでください」
「偽る理由がない」
「偽らなすぎるのも問題なんです」
あかりは鼻から深く息を吸い込んだ。湿気を含んだ夏の夜気には、湿った土と夏草、古い木の匂いが混じっている。その中には、冷たい水の気配もあった。
神社の奥で、湧き水が月明かりを受けている。
あかりがその方角へ目を向けると、男も同じように視線を動かした。
「水が、呼んだのかもしれぬ」
「水?」
「境は、水に宿りやすい」
あかりの背筋に、細い震えが走った。
――水は、こちら側とあちら側を隔てながら、同時につなぐものでもある。
昼間に聞いた藤宮教授の言葉が蘇る。目の前の男は、まるで講義の続きを口にしたようだった。
「……どうして、それを」
「知っている」
「何を?」
「月が照らす境を」
男は言った。
あかりは言葉を失った。
満月、小さな神社、祈祷殿、風に鳴る神具、境内の奥にある湧き水、そして月読命と名乗る男。
目の前に揃ったすべてが、偶然というには不自然で、不自然というには美しすぎた。
「じゃあ……本当に神様なんですか」
男はすぐには答えず、祈祷殿の上へ視線を向けた。白く丸い満月が、夏の夜空に明るく浮かんでいる。
「そのように呼ばれていた」
「呼ばれていた?」
「長く」
「過去形なんですね」
「人が神を呼ばぬ世になって久しい」
その言葉に、あかりを責める響きはなかった。それでも、胸に棘が刺さったような痛みが残った。
神様を信じるかと聞かれれば、はっきりとは答えられない。初詣には行くし、お守りも買う。怖い話も、神社の空気も好きだった。けれど、神の存在を信じているか、それを正面から問われれば、きっと笑ってごまかしてしまう。
好きだけれど、信じ切ってはいない。惹かれるけれど、踏み込むのはなんとなく恥ずかしい。
あかりはいつも、そのくらいの距離にいた。
「……すみません」
気づけば、あかりは謝っていた。
男が視線を戻す。
「なぜ謝る」
「いや、なんとなく。人間側として」
「おかしな娘だ」
「よく言われます」
「よく言われるのか」
「はい。友達に」
そこで初めて、男の目にわずかな揺らぎが生まれた。
「友」
「友達です。えっと、仲がいい人。よく話す人。心配してくれる人」
「なるほど」
「神様には、友達っていないんですか」
あかりは口にしてから、また失敗したと思った。
けれど、男は怒ることなく黙り込んだ。
沈黙は――長かった。
返事を待つ時間が長引くほど、あかりは居た堪れなくなっていく。そして耐えきれず、半ば断定するように言った。
「……いないんですね」
「分からぬ」
「分からない?」
「そのように呼べるものが、あったのかどうか」
あかりは、目の前の男を見た。
美しく、恐ろしい。それなのに、どこか寂しそうに見えた。
その瞬間、あかりの中で何かが変わった。月読命という神話上の神でも、正体の分からない危険な存在でもなく、その向こうに、ただひとりの誰かが立っているように見えた。
月がさみしい夜。
あかりの中にある理由の分からない寂しさが、目の前の男の姿と重なった。
「あの」
あかりは一歩、前に出た。
男がこちらを見る。
「あなたは、どうしてここにいるんですか」
「分からぬ」
「え」
「気づけば、ここにいた」
「神様なのに?」
「神であれば、すべてを知っていると思うのか」
「正直、ちょっと思ってました」
「ならば改めよ」
「はい。今かなり改まりました」
あかりは眉を寄せた。
「つまり、自分でも理由が分からないまま、この神社にいたってことですか」
「そうだ」
「帰る場所は?」
「ある」
「どこですか」
男は月を見上げた。
あかりもつられて見上げる。答えは聞く前から分かった。
「……月?」
「正確には、月の神域」
「神域」
「人の言葉で近いものを選べば、そうなる」
「ちょっと待ってください。情報量が多いです」
あかりは片手を上げた。
月読命は素直に黙った。その反応が律儀で、あかりは笑いそうになった。神様なのに、待てと言われたら待つらしい。
いや、神様かどうかはまだ分からない。
分からないけれど。
「帰れるんですか」
「今は、道が閉じている」
「道?」
「こちらと向こうをつなぐ道だ」
その言葉を聞いた瞬間、昼間の講義と図書館で調べた内容が次々と蘇った。
こちらと向こう、境界、水、月、旧暦七月十五日、あの世の方角。
「じゃあ、あなたは……迷子?」
あかりが言うと、月読命は明らかに不服そうな顔をした。
「違う」
「でも、帰り道が分からないんですよね」
「道が閉じているだけだ」
「自分がなぜここに来たのかも分からない」
「それは、そうだ」
「現代のこともあまり知らない」
「知らぬことは多い」
「それ、迷子では?」
「違う」
月読命はきっぱりと言った。
あかりは口元を緩めた。
怖さが消えたわけではない。むしろ、目の前の男が本当に人間ではないという感覚は、ますます強くなっていた。
それでも、この神様らしき男が困っていることも分かってしまった。
相手が人間でも神様でも、困っている誰かを放っておけない。あかりは、そういう性分だった。
「分かりました」
あかりは言った。
「私は汐見あかりです。京都の大学に通ってます。民俗学とか、神話とか、そういうものが好きです。でも、神様本人と会うのは初めてなので、正直かなり混乱してます」
「汐見、あかり」
月読命は、確かめるようにその名を口にした。その呼び方があまりに丁寧で、あかりの耳の奥が熱くなった。
「はい」
「あかり」
「いきなり下の名前なんですね」
「不快か」
「不快ではないです。びっくりしただけです」
「ならば、あかり」
「はい」
名を呼ばれるたびに、胸の奥で水面が揺れる。低い声が胸の内側へ響き、心臓の鼓動が早くなる。それを嫌だと思わない自分に、あかりは戸惑った。
「我は、何をすればよい」
月読命に問われ、あかりは目を瞬いた。
「私に聞くんですか」
「他に聞く者がいない」
それは、あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
神様が、大学生に助けを求めている。
そんな馬鹿なことがあるだろうか。
でも、目の前にある。
あかりが夜空を見上げると、満月は何事もなかったかのように、白く輝いていた。
このまま帰り、すべてを見なかったことにもできる。明日になれば、きっと夢だったと思えるだろう。夜の神社で変な人に会っただけだと、千晴への土産話にしてしまうことだってできる。
でも。
あかりはもう知ってしまっていた。この男の目を、自分の名を呼ぶ声を、友という言葉を前にした長い沈黙を。
「とりあえず」
あかりは言った。
「ここでずっと立ってるのは、たぶんまずいです」
「まずい」
「夜の神社に謎の美形男性がひとりで立ってたら、通報される可能性があります」
「通報」
「人間社会のちょっと面倒な仕組みです」
「なるほど」
「なので、まずは移動しましょう」
「どこへ」
あかりは答えようとして、口を閉じた。神様らしき男を、いったいどこへ連れていけばいいのか。
交番。
いや、だめだ。
病院。
もっとだめだ。
大学。
夜だから閉まっている。
家。
論外。
いや、論外だ。絶対に論外だ。初対面の男を家に連れて帰るなんて、危機管理能力が終わっている。
たとえ相手が神様でも、いや神様ならなおさら、論外。
あかりは頭の中で必死に選択肢を並べた。
そのとき、月読命がふいに顔をしかめた。
「……何かが、近い」
「何か?」
「こちらに向いている」
あかりの背筋が冷えた。冷えたはずなのに、首筋に汗がにじむ。
境内の外から、車の音が近づいてくる。
ゆっくりと。
まるで探すように。
鳥居の向こうに、白い光がかすかに揺れた。
ヘッドライトだ。
こんな時間に、この小さな神社へ来る車。
あかりは息を呑んだ。
「知り合いですか」
「知らぬ」
「ですよね」
心臓が早くなる。
月読命は、鳥居の方を見据えていた。その表情に恐怖はない。しかし、あかりには分かった。
これは、良くない。
理由は分からない。
でも、良くない。
昼間から続いていた胸のざわめきが、今度ははっきりと警鐘に変わった。
「あかり」
月読命が言った。
「はい」
「そなたは、逃げよ」
その言葉に、あかりはむっとした。
「そなたって言いました?」
「そこか」
「そこです。いや、そこじゃないです。逃げよって何ですか。あなたはどうするんですか」
「我は残る」
「迷子のくせに?」
「迷子ではない」
「帰り道が閉じてる神様を置いていけるわけないでしょ!」
自分でも驚くほど大きな声が境内に響き、月読命が目を見開いた。
鳥居の向こうの光が、さらに近づく。
あかりの脳裏に「通報」の二文字が浮かび、反射的に月読命の袖をつかんだ。
布は、冷たくはなかった。
ちゃんと、ここにある。
「行きます」
「どこへ」
「分かりません。でも、ここじゃない場所へ」
あかりは月読命の手を引いた。
月読命は一瞬だけ動かなかったが、すぐに歩き出した。
――シャラン。
祈祷殿の神具が、風に揺れた。
自分が何に巻き込まれたのかも、目の前の男が本当に月読命なのかも、まだ分からない。
けれど、一つだけ分かった。
今夜、あかりは月に呼ばれたのだ。
鳥居の向こうで車のドアが閉まる音が響き、あかりは月読命の袖をつかむ手に力を込めた。あかりの右肩に落ちる月明かりが、首筋に滲んだ汗を白く照らしている。
「走れます?」
「走る?」
「人間は、まずいとき走るんです」
「なるほど」
月読命は真顔でうなずいた。
「では、走ろう」
次の瞬間、あかりの身体がふわりと浮いた。
「え」
足が、地面から離れていた。
月読命があかりを抱き上げていた。
まるで重さなどないみたいに。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「走るのではないのか」
「それは私の足で!」
「その足では遅い」
「失礼!」
抗議の声は夜風にさらわれ、月読命が地を蹴った瞬間、景色が流れた。石段も木々も鳥居も、降り注ぐ月明かりさえも、一瞬で後ろへ遠ざかっていく。
あかりは思わず月読命の衣をつかんだ。
怖い。けれど、その腕から落ちる気はしなかった。
月の光の中を、二人は神社の外へ駆け抜けた――いや、駆け抜けたというより、滑るように夜を渡っていった。
背後で誰かの声がしたが、その言葉までは聞き取れなかった。あかりの耳に残っていたのは、吹きつける風と、激しく鳴る自分の心臓、そして月読命の低い声だけだった。
「案ずるな」
あかりが顔を上げると、月読命は前だけを見ていた。
「落としはせぬ」
その言葉は、低い声の響きとともに胸の奥へ沈んでいった。
夜の京都を駆け抜けるうちに、あかりが知っていた現実は、もう元の形を失っていた。
夏の満月だけが、白く明るく、二人の逃走を照らしていた。




