第2話 月読神社
その日の夕方、あかりは大学の図書館にいた。
集中講義が終わればまっすぐ帰るつもりで、千晴にも「今日は大人しく帰る」と言っていたはずなのに、気づけば冷房の効いた閲覧席に、藤宮教授の講義で紹介された参考文献を何冊か積み上げていた。
窓から差し込む西日がページを橙色に染めている。
月の信仰や旧暦の行事を扱う専門書は少し難しかったが、知らない言葉を一つずつ拾っていく作業は楽しかった。
常世、黄泉、月待ち、十五夜、盆、方角、境界。ページの上に並ぶ言葉を追ううち、単なる知識欲とは違う、もっと個人的で説明のつかない引力が、あかりを先へ先へと読み進ませていた。
スマホで検索を続けていると、ある記事の中に「あの世の方角」という言葉が出てきた。
「あの世の方角……」
あかりは小さく呟いた。
周囲に人がいないことを確認して、もう一度画面を見る。
記事には、地域や語り手によって解釈は異なると断ったうえで、死者の国へ通じる方角、盆の夜にだけ意識される方角、祖霊が帰る方向、境界が開く方向といった説明が並んでいた。
真偽も、学術的にどこまで確かな話なのかも、今のあかりには判断できない。
それでも、「あの世の方角」という言葉は美しく思えた。怖いはずなのにどこか優しく、遠いはずなのになぜか近い。その方角の先には、白い月が浮かんでいるような気がした。
あかりは椅子の背にもたれ、窓の外へ目を向けた。西の空に残っていた赤みは消えかけ、キャンパスの建物が濃い影へ変わり始めている。
その上には、夜を迎えようとする空から切り抜かれたような、丸く白い満月が浮かんでいた。街の明かりよりはるかに遠いはずの光が、窓ガラスを越えて、あかりのもとへまっすぐ届いてくるように見えた。
あかりは立ち上がり、引き寄せられるように窓際へ近づいた。満月を見上げると、胸の奥には、いつもの寂しさがあった。けれど今夜は、その奥に、見覚えのない淡い光が消えずに残っている。
――呼ばれている。
そう思った瞬間、あかりは自分で自分に呆れた。
「いやいや、待って。呼ばれてるって思った時点で、ホラーなら帰れないやつだ」
小声で自分を叱る。千晴にも言われたばかりだ。夜にひとりで知らない神社へ行くのは危ないし、それが正しいことは分かっている。
それなのに、あかりの指はスマホの地図アプリを開き、月読神社までの経路を表示していた。バスと電車を乗り継いでも、思っていたほど遠くない。
――行ける。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、あかりはスマホを伏せた。
「だめ。今日は帰る。私は理性ある大人女子」
声に出して自分へ言い聞かせると、あかりは机に戻り、本とノートを鞄へしまった。今日はこのまま帰って、神社へは明るい時間に行けばいい。神社は逃げないし、月だってまた出る。
そう自分を納得させて、図書館を出た。
キャンパスの外へ出ると、夏の夜気が肌にまとわりついた。昼間の熱を抱えたアスファルトから生温かい空気が立ち上り、吹き抜ける風にも涼しさはない。遠くでは救急車のサイレンが鳴り、街灯が白い光を歩道へ落としていた。
あかりはバス停へ向かって歩き出した。先に来るバスへ乗れば月読神社へ、その次のバスへ乗れば、いつもの帰り道へ向かうことになる。
帰るなら、次を待てばいい。けれど月読神社へ向かうなら、先に来るこの一本を逃す手はなかった。
「……いや、ほんとに何してるんだろ」
あかりは額に手を当てた。熱があるわけでもないのに、自分でもおかしいと思う。珍しい神社に興味を持っただけなのだから、行くなら昼でいいはずだった。
それでも、バス停の屋根越しに見える満月は、これから進む方角を示す道しるべのように思えた。
あかりはスマホを取り出し、千晴とのトーク画面を開いた。
『ごめん。ちょっと月読神社、見てくる』
送信ボタンの上で指が止まる。昼に行くよう念を押していた千晴の顔が浮かび、怒られる未来しか見えなかった。そこで、言い訳のように続きを打ち込む。
『危ないことはしない。着いたら連絡する。帰る時も連絡する。ほんとに見るだけ』
覚悟を決めて送信すると、すぐに既読がつき、間を置かず返事が届いた。
『月読命さんに怒られろ』
あかりは思わず吹き出した。
「月読命さんって」
神様に、千晴は怒る役を押しつけている。続けて届いたのは、冗談の欠片もないメッセージだった。
『本当に気をつけて。変だと思ったらすぐ帰って』
文字から伝わる心配に、あかりは画面を見つめたまま息を吐いた。
『分かった。ありがとう』
返信を送ったところで、月読神社へ向かうバスが停留所へ滑り込んできた。扉が開くと、車内から冷房の乾いた空気が流れ出し、肌にまとわりついていた夜気を押し返す。
あかりはスマホを握ったまま、バスへ乗り込んだ。
*
バスと電車を乗り継いで駅を出ると、冷房で冷えていた腕を、湿気を含んだ生温かな夜気が包んだ。風が吹いても汗を乾かすほどの涼しさはなく、昼間の熱が町の中に残っている。
観光地の中心部にあった華やかな明かりは、すでに遠ざかっていた。住宅の窓から漏れる灯りと、離れた道を走る車の音、夜風に揺れる木々の葉擦れが、人気の少ない町に残っている。
あかりはスマホの地図を確認しながら、月読神社へ向かって歩き出した。
月はすでに高く昇り、あかりの左手に広がる夜空から、満月の光を斜めに落としていた。
細い道を進むにつれて車の音は遠ざかり、代わりに、草むらから重なる虫の声が耳へ届く。開いた窓から漏れるテレビの音も、家の前を通り過ぎればすぐに聞こえなくなった。
そうして住宅の灯りが途切れかけたところで、あかりは足を止めた。
そこには、大きな赤い鳥居が立っていた。月明かりを受けた朱色は、夜の闇へ沈むことなく、周囲の景色から切り離されたように輪郭を浮かび上がらせている。
「……ここだ」
地図と鳥居を見比べたあかりの口から、声が漏れた。
鳥居の向こうに広がる境内は、圧倒されるほど大きくも、有名な観光社寺のように参拝客を飲み込むほど広くもなかった。
それでも、鳥居の前に立ったあかりは息をひそめる。住宅街の中へ溶け込むように存在しているはずなのに、鳥居の内側だけが周囲より濃い闇を抱え、ここから先はただの道ではないと告げているようだった。
日常のすぐ隣に、別の場所へ通じる入口が開いている。そんな気がした。
あかりは鳥居の前で軽く頭を下げた。
「お邪魔します」
鳥居をくぐると、その先には短い参道がまっすぐ延び、十メートルほど先に石段が見えていた。
肌に触れる夏の湿気は変わらない。それなのに、参道を一歩進むごとに背後の街は遠ざかり、車の走行音も、住宅から漏れていた生活音も、鳥居の外へ置いてきたように聞こえなくなっていった。
石段の前で足を止め、下から上まで目で数えると、十七段あった。
多すぎるわけでも、息が切れるほど高いわけでもないけれど、月明かりの下から見上げる石段は、ただ高い場所へ上がるための階段には見えなかった。
一段上がるたびに、今いる場所とは違うどこかへ近づいていく。
そんな気がした。
「……見るだけ。ほんとに見るだけ」
自分に言い聞かせ、一段目へ足をかける。石段の周囲には昼間の熱がまだこもっていた。それなのに、月明かりを受けた石の表面は、周囲の熱気から切り離されたような白さを帯びていた。
二段、三段、四段。数を追いながら上がっていくほど、靴の中で爪先に力が入っていく。
怖い。
それでも、帰りたいとは思わなかった。
十七段目を上がりきった先には、華美な装飾のない木製の門が立っていた。月明かりを吸い込んだ古い木肌と、その奥に溜まる闇が重なると、門そのものが二つの場所を隔てる境目のように見える。
あかりは門の前で呼吸を整え、意を決してその下をくぐった。
門を抜けると、左手に祈祷殿があった。あかりは足を止め、その屋根の上へ視線を移す。
欠けたところのない白い満月が浮かび、そこから降り注ぐ光が、祈祷殿の舞台へ斜めに差し込んでいた。舞台の手前半分は屋根の影に沈み、その向こう側の半分は白く照らされている。
舞台上に据え置かれた神具と太鼓が、月明かりの中に浮かんで見えた。
ふいに、祈祷殿を抜けるように風が通った。木々の葉を大きく揺らすほどの強さではなかったが、舞台の向こう半分に置かれた神具の一部が、月明かりの中で揺れる。
シャラン。
鈴よりも細く、風鈴よりも冷たい響きが境内へ落ちた。その音が耳へ届いた瞬間、汗ばんでいたあかりの背中が一気に冷えた。
神具が鳴らした細い響きは、夜の空気を伝って境内の隅々まで行き渡った。
最後の余韻が消えた瞬間、空気が変わった。鳥居の外にあった街の気配が途切れ、あかりの立つ場所だけが、それまでの夜から切り離される。
まるで、それが合図だったかのように。
その一音を境に、祈祷殿はただの古い建物ではなくなった。月明かりに照らされた舞台を見ていると、ここで人々が手を合わせ、見えないものへ願いを届けてきた時間が、今もそこに残っているように感じられた。
あかりは境内を見回した。
「……あれ、手水舎ないんだ」
神社へ来れば自然と探してしまうものが見当たらない。その代わり、境内の奥から、途切れ途切れに水音が聞こえてきた。
耳を澄ますと、川や水路を流れる音とは違い、地面の下から水が湧き出しているような響きがする。
水音に引かれ、あかりは境内の奥へ視線を向けると、月明かりに照らされた木々の影と、その根元に残る古い石がぼんやりと見える。湿った土と夏草の匂いが混じり合って流れてくる。その辺りに湧き水があるのだろう。
水は、境界のものだ。
川、海、井戸、湧き水――こちら側とあちら側を隔て、同時につなぐもの。藤宮教授の講義で聞いた言葉が蘇る。
境内は広くなく、見渡せば、建物も木々も石段も門もすべて視界に収まった。帰ろうと思えば、鳥居まではすぐに戻れる距離にある。
それでも振り返ると、鳥居の向こうに見える街灯や住宅の明かりは、薄い膜を一枚隔てた景色のように遠く感じられた。ほんの少し前まで歩いていた街なのに、すでに別の世界へ置いてきたようだった。
あかりは社の前へ進み、取り出した小銭を賽銭箱へ入れた。硬貨が木の底に触れる音が、夜の境内へ響く。
二礼。
二拍手。
胸の前で、両手を合わせる。
健康や学業、将来、家族のこと。願おうと思えば、いくらでも浮かぶはずなのに、今ここで伝えたいのは、そのどれでもない気がした。
あかりは目を閉じた。浮かんだのは、夏の月を見るたび胸の奥に残る、名前のない寂しさだった。
誰かを待っているような、どこかから呼ばれているような、それなのに、相手の姿も名前も分からない感覚。
あかりは、その感覚を初めて願いの言葉にした。
――私は、誰を待っているのか、教えてください。
その瞬間。
奥の方で、水音が止まった。
風も止まった。
虫の声も消えた。
世界が、息をひそめたように静かになった。
あかりは目を開けた。
境内の奥、湧き水の気配がしていた方角が、白く照らされている。
月明かりかと思った。
いや、違う。
光は空から差しているのではなく、奥の暗がりそのものから滲み出していた。
「……え?」
あかりの口から、自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
白い光はゆっくりと広がっていく。強くも、まぶしくもなく、むしろ優しささえ感じさせる。しかしあかりは、この世界の光ではないと直感した。
あかりは後ずさろうとしたが、足が動かなかった。
怖い。
それなのに、白い光から目を離せない。
境内の奥から滲み出した白い光が、あかりのいる場所まで広がってくる。左手の祈祷殿では、舞台上の神具が白く照らし出されていた。
振り返ればそこにあるはずの木製の門も、その先の石段も、赤い鳥居も、光に隔てられて遠ざかっていくように見えた。
白い光は、胸の奥の水たまりにも映り込み、その底に沈んでいた寂しさを、これまでになく鮮明に照らし出した。
まるで、長い間閉じられていた扉の向こうで、誰かがようやくこちらに気づいたかのように。
白い光の中に、人影が立っていた。長い衣のようなものが光の中で揺れているが、その姿は白く霞み、男か女か、人かそれ以外なのかも分からない。
ただ、その影がこちらを向いたことだけは分かった。
あかりの心臓が、大きく跳ねた。
――逃げなきゃ。
そう思うのに足は動かず、それと同時に、正反対の思いが込み上げる。
――会いたい。
影が一歩近づくと、光がさらに白さを増し、あかりの目から涙がこぼれた。
悲しいわけでも、怖いだけでもない。
――懐かしい。
正体すら分からない影を見て、そう感じた。
「……誰」
声が震えた。
「あなたは、誰……?」
その問いは、夜の小さな境内へ吸い込まれていった。
白い影は答えず、ただ、あかりを見つめているようだった。人影を包む光は、空から降り注ぐ月明かりではなく、あかりの目の前でそれ自身が光っているように見えた。
そして静寂の中に、どこからともなく低く澄んだ声が響いた。
「――ようやく、道が開いたか」
道。
それは、月の向こう側へ通じる道だと、あかりは直感した。
その声を聞いた瞬間、すべてが腑に落ちた。
見つけたのではない。
見つけてもらったのだ。
気が遠くなるほどの長い時間、ずっと......遥か昔から、誰かに。
月明かりの下で、待ってくれていたのだ。




