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Moon Light Lover  作者:


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第1話 月がさみしい夜

 汐見あかりは、夏の月を見ると、いつも少しだけ寂しくなる。


 それは、はっきりとした理由のある寂しさではなかった。


 たとえば、誰かと別れた夜を思い出すとか。

 昔住んでいた町を懐かしむとか。

 もう会えない人の顔が浮かぶとか。


 そういう、名前のついた感情ではない。


 ただ、夏の夜。

 湿った風が頬を撫でて、遠くで電車の音がして、ビルの隙間や神社の木々の上に、ぽっかりと月が浮かんでいるのを見ると――あかりの胸の奥に、薄い水が溜まる。


 誰かを待っている気がする。


 けれど、誰を待っているのか分からない。


 どこへ行けば会えるのかも分からない。


 そもそも本当に誰かを待っているのか、それとも自分が勝手にそんな物語を作っているだけなのかさえ、分からない。


 だから、あかりはその感覚を、いつも笑ってごまかしてきた。


「いや、月見てしんみりするとか、私、平安貴族か」


 そう言って、自分で自分にツッコミを入れる。


 けれど、笑ったあとも、胸の奥に残るものは消えない。


 月は、さみしい。


 夏の月は、特にさみしい。


 それが、汐見あかりの中に昔からある、説明のつかない感覚だった。


     *


「で、あかり。また昨日も夜更かししたでしょ」


 その日の昼休み。


 京都市内の大学キャンパスは、夏休み前の独特な浮つきに包まれていた。

 テストやレポートの締切を前にした学生たちの焦りと、もうすぐ自由が来るという期待が、湿気の多い空気の中で混ざり合っている。


 食堂の窓際の席で、汐見あかりは唐揚げ定食のレモンを絞りながら、向かいに座る親友を見た。


「なんで分かるの、千晴。怖いんだけど」


 篠原千晴は、冷やしうどんを箸でほぐしながら、当然のような顔をした。


「顔。あと、授業中に三回あくびしてた」


「三回まで数えてたの?」


「四回目いったら注意しようと思ってた」


「お母さんか」


「友達です」


 千晴はそう言って、短く笑った。


 篠原千晴は、あかりと同じ学部の二年生だ。

 黒髪を肩のあたりで切りそろえ、服装も化粧も派手ではない。けれど、目つきは鋭い。誰かの小さな変化に気づくのが早く、余計なことは言わないが、本当に必要な時には逃がしてくれない。


 あかりにとっては、ありがたくも少し厄介な友人だった。


「昨日、何してたの? また変な都市伝説でも読んでた?」


「変なって言い方ひどいなあ。民俗学的関心と言ってほしい」


「夜中の二時にスマホで『京都 開かずの井戸 実話』とか検索してるのは、民俗学的関心じゃなくてホラー耐久試験でしょ」


「それは……まあ、ちょっとある」


「あるんだ」


 千晴は呆れたように言ったが、完全に否定するわけではなかった。


 あかりが神社や古い話、伝承、都市伝説の類を好きなことを、千晴はよく知っている。

 ただし、あかりは何でも信じるタイプではない。


 幽霊が出ると言われれば、まず「誰が、いつから、何のためにそう言い出したのか」が気になる。

 神隠しの話を聞けば、「それは実際には迷子や失踪事件の言い換えだったのでは」と考える。

 怪談を怖がりながらも、その背景にある土地の記憶や人々の不安の方に興味が向く。


 信じたいわけではない。

 でも、ただの嘘だと切り捨てるには惜しい。


 人間が長い時間をかけて語り継いできたものには、たとえ事実ではなくても、何かしらの本当が混じっている気がする。


 あかりは、そういう話が好きだった。


「今日は藤宮先生の講義でしょ」


 千晴が言った。


「そう! 旧暦と祭祀の話。たぶんお盆の話も出ると思う。めちゃくちゃ楽しみ」


「あかり、そういう時だけ目が覚めるよね」


「失礼な。私は普段から知的好奇心に満ちた女子大生です」


「知的好奇心に満ちた女子大生は、レポートの締切を三日前に思い出して叫ばない」


「それはまた別の学問的問題」


「何の?」


「人はなぜ締切が近づくまで本気を出せないのか」


「普通に怠惰」


「結論が早い」


 あかりは大げさに肩を落とした。


 その様子を見て、千晴が小さく笑う。


 こういう何でもない会話が、あかりは好きだった。

 明るく騒いで、くだらないことを言って、食堂のざわめきの中で笑う。

 そうしている時の自分は、たぶん普通の大学生に見えている。


 実際、普通だと思う。


 大学に行って、友達とご飯を食べて、講義を受けて、レポートに追われる。

 気になるカフェを見つければ入るし、SNSで流れてきた怪談まとめも読む。

 将来については、まだ少しふわふわしている。


 どこにでもいる、二十歳の大学生。


 そう思うのに。


 ふとした瞬間、胸の奥に穴があくことがある。


 たとえば、夏の月を見た時。


 誰かがいない。


 まだ会っていない誰かが、どこかにいる。


 そんな馬鹿みたいな感覚が、子どもの頃からずっと消えない。


「……あかり?」


 千晴の声で、あかりははっと顔を上げた。


「え、なに?」


「今、どこ行ってたの」


「どこって?」


「顔。急に遠く見てた」


「えー、そんなことないよ」


「あるよ。月の話になると、たまにそういう顔する」


 あかりは箸を止めた。


「月の話?」


「うん。今夜、満月だからでしょ」


「まあ、見てたけど」


「そういう時、あかり、ちょっとだけ静かになる」


 千晴の言い方は、からかうものではなかった。

 だからこそ、あかりは返事に困った。


 自分でも分かっている。


 月を見ると、変になる。

 悲しいのか、懐かしいのか、寂しいのか、分からなくなる。


 でも、それを誰かに真面目に話すのは恥ずかしい。


「いや、ほら。月ってエモいじゃん」


 あかりは笑ってごまかした。


「雑にまとめたね」


「便利な言葉だよ、エモい。だいたいの情緒を収納できる」


「収納するな」


「じゃあ、千晴は月見て何も思わないの?」


「明るいな、とは思う」


「理系みたいな感想!」


「文系です」


 千晴は淡々と答えた。


 あかりは笑った。

 笑いながら、少しだけ安心した。


 千晴はそれ以上、踏み込んでこなかった。


 それがありがたかった。


     *


 午後の講義室は、冷房が少し効きすぎていた。


 外の湿気と熱気から逃げ込んできた学生たちは、最初こそ涼しさに救われたような顔をしていたが、十分も経つ頃には何人かが腕をさすり始めている。


 前方のスクリーンには、白地に黒い文字で講義タイトルが映し出されていた。


 ――民俗信仰と境界の時間。


 教壇に立つ藤宮佐和子は、ゆっくりと資料をめくりながら、落ち着いた声で話し始めた。


「今日は、旧暦七月十五日を中心に、盆行事と境界の信仰について見ていきます」


 あかりはノートを開き、ペンを握った。


 藤宮佐和子は、あかりが所属するゼミの担当教授ではないが、彼女の講義は学生に人気がある。

 派手な語り口ではない。冗談も多くない。

 けれど、淡々とした声の中に、不思議と人を引き込む力があった。


「お盆というと、現代では先祖の霊を迎える行事として理解されることが多いですね。けれど、古い信仰を見ていくと、そこには単に死者を迎えるというだけではなく、こちら側とあちら側の境界がゆるむ時間、という感覚がありました」


 こちら側と、あちら側。


 その言葉に、あかりのペン先が止まる。


「境界がゆるむ時、人々は死者だけではなく、普段は見えないもの、触れられないもの、名づけられないものが近づくと考えました。山、川、海、辻、橋、井戸、そして神社。そうした場所は、日常と非日常の境目として語られてきたわけです」


 スクリーンに、いくつかの写真が映し出される。


 山道。

 川辺。

 古い橋。

 木々に囲まれた社。


「特に水に関わる場所は、境界の信仰と深く結びついています。川は此岸と彼岸を分け、海は遠い異界へ続き、井戸や泉は地面の下にある見えない世界とつながるものとして語られることがありました。水は、こちら側とあちら側を隔てるものでもあり、つなぐものでもあったのです」


 あかりは自然と身を乗り出した。


「また、方角にも意味が与えられました。どちらの方角から死者が来るのか。どちらへ送るのか。あるいは、どちらに向かえば、この世ならざる場所に触れるのか。こうした信仰は地域によって異なりますが、重要なのは、人々が世界を一枚の平面としてではなく、いくつもの層が重なったものとして感じていたという点です」


 世界は、いくつもの層が重なっている。


 あかりはその一文をノートに書き写した。


 なぜか、その言葉が胸に残った。


「死者の国、常世、黄泉、神域。呼び名はさまざまです。しかし、これらは完全に遠い場所ではありません。ある時期、ある場所、ある方角において、ふと近づくものとして語られることがあります」


 講義室の空気が、少しだけ変わったような気がした。


 冷房の音。

 誰かがペンを落とす音。

 窓の外で鳴く蝉の声。


 それらが急に遠くなる。


 あかりは、ノートの端に小さく書いた。


 ――月は?


 自分で書いてから、首を傾げた。


 なぜ月なのだろう。


 藤宮教授はまだ月の話をしていない。

 それなのに、あかりの頭には、いつか見た夏の月が浮かんでいた。


 白く、静かで、少しだけ冷たい光。


 夏の夜の湿気の中に、ひとつだけ別の世界のものみたいに浮かんでいた月。


「神話においても、天上や海の彼方、地下の国、山の向こうなど、異界はさまざまな形で表されます。けれど、月もまた、古くから人間にとって特別な存在でした。満ち欠けを繰り返し、夜を照らし、時間を測る。月は暦であり、死と再生の象徴でもありました」


 あかりのペン先が、また止まった。


 月。


「日本神話において、月の神は決して多く語られる存在ではありません。けれど、多く語られないということは、重要ではないという意味ではありません。むしろ、記述の少なさそのものが、想像の余地を残しているとも言えるでしょう」


 講義室の中で、あかりだけがその言葉を強く受け取った気がした。


 多く語られない月の神。


 記述の少なさ。

 想像の余地。


 胸の奥に、またあの水が溜まる。


 誰かを待っているような感覚。


 まだ会ったことのない誰かの名前を、もう知っているような感覚。


 あかりは小さく息を吸った。


 馬鹿みたいだ。


 講義を聞いているだけなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。


「汐見さん」


 突然名前を呼ばれ、あかりはびくりと顔を上げた。


 教壇の藤宮教授が、穏やかな目でこちらを見ている。


「はいっ」


 思わず大きな声が出た。


 周囲の学生が数人、こちらを見る。


 千晴が隣で口元を押さえて笑いをこらえていた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫です。今の話を聞いて、何か気づいたことはありますか」


「えっと……」


 あかりはノートに目を落とした。


 こちら側とあちら側。

 境界がゆるむ時間。

 方角。

 神域。

 月の神。


 頭の中で言葉が散らばる。


「その……昔の人にとって、異界って、完全に遠い場所じゃなかったのかなと思いました」


 藤宮教授が軽く頷く。


「続けてください」


「普段は見えないけど、季節とか、場所とか、方角とか、そういう条件が揃うと近づくものというか。だから怖いだけじゃなくて、会いたいものでもあったのかなって。死者とか、神様とか……たぶん、戻ってきてほしいものがあるから、境界の話が残ったのかなと思います」


 言いながら、あかりは自分の言葉に少し驚いていた。


 会いたいもの。


 戻ってきてほしいもの。


 自分は何に会いたいのだろう。


 藤宮教授は、少しだけ微笑んだ。


「いい視点です。境界は恐怖の場所であると同時に、祈りの場所でもあります」


 あかりは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「ただし」


 藤宮教授は続けた。


「境界に近づく時、人は必ずしも望んだものだけに出会うとは限りません」


 その言葉に、講義室の空気がほんの少し冷えた気がした。


「会いたいものに会えるかもしれない。けれど、会ってしまったら、元の日常には戻れないかもしれない。だからこそ、古い物語の中で境界に触れる者は、しばしば試されるのです」


 試される。


 あかりは、その言葉をノートに書いた。


 なぜか、手の中のペンが少し重く感じた。


     *


 講義が終わると、あかりはすぐには席を立たなかった。


 周囲の学生たちが鞄を持ち、ざわざわと講義室を出ていく。

 千晴も立ち上がりかけたが、あかりがノートを見つめたまま動かないことに気づいて、足を止めた。


「刺さった?」


「刺さった」


「だろうね」


「なにその、全部分かってましたみたいな顔」


「実際、分かってたし」


 千晴は椅子の背もたれに片手を置いた。


「あかり、こういう話になると本当に目が変わるよね」


「そんなに?」


「うん。唐揚げ見てる時より真剣」


「比較対象が唐揚げなのは納得いかない」


「でも事実」


 あかりはノートを閉じた。


 表紙の端に、講義中に無意識に書いた言葉が残っている。


 ――月は?


 それを見て、あかりは少しだけ迷った。


「千晴」


「なに?」


「月読神社って、知ってる?」


 千晴は一瞬、表情を止めた。


「つきよみじんじゃ?」


「そう。京都にあるんだって。月の神様を祀ってる神社」


「へえ。あかりが好きそう」


「でしょ」


「行くつもり?」


「まだ行くとは言ってない」


「顔がもう行く顔」


「行く顔って何」


「好奇心で危機管理能力が溶けてる顔」


「ひどい」


 あかりはむっとしてみせたが、否定はできなかった。


 講義のあと、スマホで軽く検索しただけでも、月読神社という名前はすぐに出てきた。

 京都にある、月の神を祀る神社。


 それだけなら、珍しい神社のひとつとして覚えておけばいい。


 でも、どうしても気になった。


 月。

 境界。

 古い信仰。

 会いたいもの。

 試される者。


 それらの言葉が、一本の細い糸のようにつながっている気がした。


「昼に行きなよ」


 千晴が言った。


「え?」


「どうせ行くなら、昼。明るいうち。人がいる時間」


「いや、まだ行くとは」


「言ってないけど、行くでしょ」


「……まあ、行くかもしれないけど」


「夜はやめなよ」


 千晴の声が少しだけ真面目になった。


 あかりは顔を上げる。


「なんで?」


「なんでって、普通に危ないから。神社とか以前に、夜にひとりで知らない場所に行くのが危ない」


「それは、まあ」


「都市伝説を楽しむのはいいけど、自分が都市伝説になるのはやめて」


「言い方」


「真面目に言ってる」


 千晴はまっすぐにあかりを見た。


 その目に心配があることは、あかりにも分かった。


 だから、軽く流せなかった。


「分かってる。行くとしても、ちゃんと調べてから行く」


「昼にね」


「……できるだけ」


「夜に行く気だ」


「だって、月の神社だよ? 月が出てる時に行った方が雰囲気あるじゃん」


「雰囲気で身の安全を売らない」


「千晴、現実担当すぎる」


「あかりが非現実担当すぎるだけ」


 千晴はため息をついた。


「せめて、行くなら連絡して。場所と時間。帰ったら帰ったって送って」


「お母さんだ」


「友達です」


 二度目のその言葉に、あかりは少し笑った。


「分かった。ちゃんと送る」


「絶対ね」


「絶対」


 そう答えた時、あかりのスマホ画面がふと点灯した。


 検索結果のページに表示された、小さな神社の写真。


 赤い鳥居。

 石段。

 木々の中にひっそりとある境内。


 その写真の奥に、なぜか月明かりが差しているように見えた。


 昼間に撮られた写真のはずなのに。


 あかりはまばたきをした。


 画面の中の写真は、普通の明るい神社の写真に戻っている。


「……疲れてるのかな」


「何が?」


「ううん。なんでもない」


 あかりはスマホを伏せた。


 胸の奥が、また少しだけざわめいていた。


お読みいただきありがとうございます。

甘く切ない現代神話恋愛として書いていきます。

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