第28話 神様は嘘が下手
バイト先の自動ドアが閉まる音を背中で聞いた瞬間、あかりは小さく息を吐いた。
十月の夜だった。
九月の終わりまで、あんなにしつこく残っていた暑さは、いつの間にか遠くへ行っていた。昼間はまだ歩けば汗ばむこともある。けれど夜になると、空気がちゃんと冷たい。
コンビニの明るすぎる照明から外へ出ると、その冷たさが頬に触れた。
あかりは肩に掛けた鞄の位置を直した。
薄手のカーディガンでは、帰り道の風を少し頼りなく感じる。とはいえ、厚手の上着を着るほどではない。季節がどっちつかずの顔をしていて、身体の方がまだ追いついていなかった。
店の前の歩道には、かすかに金木犀の匂いが漂っていた。
どこに木があるのかは分からない。でも、この季節になると、京都の夜は時々、思い出したように甘い匂いを差し出してくる。
あかりはその匂いを吸って、すぐに欠伸を噛み殺した。
「……歩きながら寝そう。 だめだ、帰ってからもやることある」
自分に言い聞かせる。
今日は、いつもよりシフトが長かった。
最近、少しだけバイトを増やしている。
少しだけ。
ほんの少しだ。大げさな話ではない。大学生が少しシフトを増やすくらい、珍しくもない。生活費のためにバイトをするのは、普通のことだ。
ただ、普通のこととはいえ、倍に積み重なるとそれなりに重い。
食費、雑費、水道光熱費、衣服費、交通費。
それから、月読命が「悪くない」と言ったものを、もう一度食べさせてあげたいと思ってしまう自分の気持ち。
あかりはスマホを取り出した。
画面には、千晴からの通知が並んでいる。
『今日もバイト?』、『最近シフト増やしすぎじゃない?』、『神様養ってる?』
あかりは歩きながら、思わず眉を寄せた。
「おっしゃるとおりですよー」
小さく呟いてから、返信する。
『養ってない』
すぐに既読がついた。
『否定早い』
『完全否定はできない』
『じゃあ生活共同体?』
『近い』
『まあ冗談は置いといて、ほんと無理しないでね』
あかりは、そこで指を止めた。
画面の白い光が、夜道でやけにはっきり見える。
——無理しないでね。
千晴は、いつもそういうところだけ真面目だった。
あかりは返事を打とうとして、少し迷ってから短く送った。
『大丈夫』
送ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。
——大丈夫。
便利な言葉だ。
何も説明しなくていいし、これ以上聞かないで、と言うより優しい。なのに、心配しないで、と言うより軽い。
あかりはスマホを鞄にしまい、アパートへ向かって歩き出した。
空を見上げると、夜空には細い月がかかっていた。
満月にはまだ遠い。新月を過ぎて、少しずつ光を取り戻している途中の月だ。薄く、頼りなく、でも確かにそこにある。
月読命は、あの月を見たら何と言うだろう。
そう思った瞬間、疲れていた足が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
*
アパートに着く頃には、指先が少し冷えていた。
階段を上がる音が、自分で思っていたより重い。
一段、また一段。
鞄が肩に食い込むような感覚に、あかりの一日が乗っかっているようだった。
今日の廃棄チェックのことや、レジで小銭を落としたお客さんのことや、肉まんの蒸し器から立ち上がる湯気のことが、頭の中でぼんやり混ざっていた。
鍵を取り出す。
部屋の前で、あかりは一度だけ背筋を伸ばした。
疲れた顔で帰るのは、よくないと思った。月読命は心配するのだ。つまり、心配されると説明しなければならないし、説明すると、たぶん、いろいろ面倒なことになるはずだ。
あかりは頬を軽く両手で挟んだ。
「よし」
鍵を開け、ドアを開くと、六畳の部屋からテレビの音が聞こえてきた。
画面の中では、秋の行楽特集が流れているらしい。どこかの観光地で、温かい栗まんじゅうを手にしたリポーターが、大げさに頬を押さえていた。
月読命は、窓際に近い場所に正座していた。
いつものように姿勢がいい。
薄い部屋着の上から、あかりが買ったカーディガンを羽織っている。黒髪は低くまとめられ、白い横顔にテレビの光が淡く乗っていた。
「ただいまー。 今日も平和に労働してきました」
あかりは、できるだけ明るく言った。
月読命がこちらを見る。
「おかえり」
「うん。 ただいま」
靴を脱ぐ。
鞄を置く。
その動きの途中で、あかりは膝の力が少し抜けそうになり、慌てて踏ん張った。
——大丈夫。普通にしていれば大丈夫。
「疲れているな」
普通にしているつもりだったのに。
あかりは振り返った。
「疲れてないよ」
月読命は、表情を変えない。
「声が明るすぎる」
「何その判定」
「そなたは、疲れている時ほど声を明るくする」
「観察力が嫌な方向に育ってる」
「嫌ではない」
「私が嫌なの」
あかりは玄関から部屋に上がり、テーブルのそばに座った。
座った瞬間、身体が沈んだ。
——まずい。座ると、疲れがばれる。
月読命は、じっとあかりを見ていた。
「今日は、帰りが遅い」
「シフトが長かっただけ」
「最近、長い」
「そういう時期なの」
「どのような時期だ」
「大学生が労働に励む時期」
「それは暦にあるのか」
「ないです」
月読命は少し考えた。
「金が要るのか」
あかりは、言葉に詰まった。
月読命は、いつもまっすぐだった。まっすぐすぎて、たまに嫌になる。
「まあ、そりゃいるよ。 人間社会はだいたいお金がいるから」
「我のためか」
「全部が全部ツクのためじゃないよ」
言ってから、あかりは、しまったと思った。
月読命が、ほんのわずかに視線を細めた。
「全部ではない、ということは、一部はそうなのだな」
「……神様、言葉尻を捕まえるの上手くなったね」
「言葉は残る」
月読命は、静かに言った。
あかりは、少しだけ違和感を覚えた。いつもの返しと調子が違うからだ。
月読命の視線は、あかりではなく、テーブルの上に置かれたスマホへ向いていた。
さっきまで千晴とやり取りしていたスマホだ。
それは、あかりよりも一足先に眠ってしまったかのように、画面は黒かった。
「すまほには、残す力があるのではないか」
「え?」
「言葉が残る。 姿が残る。 音も残る。 いない者の声まで、そこに残る」
月読命は、スマホを見つめたまま言った。
テレビの中では、リポーターが栗まんじゅうを割っている。湯気が上がり、画面の向こうで誰かが笑った。
あかりは、スマホを手に取った。
「まあ、履歴とか写真とか動画とか、残るね」
「人の世は、残しすぎる」
「……言い方が急に怖い」
「怖いのか」
「ちょっとね。 スマホを神話の道具みたいに言うから」
「違うのか」
「違わない……のかな。 いや、違うと思うけど」
あかりは寝た子を叩き起こすようにスマホの画面をつけた。
千晴とのLINEが開いたままだった。
『神様養ってる?』
その文字が、白い画面の中に残っている。
千晴はここにいない。
でも、千晴の言葉はここにある。確かに、残っていると言える。
「千晴は、そこにおるのか」
「いないよ。 LINEだから」
「いないのに、言葉がある」
「そういうものだよ」
「そういうものか」
月読命は、納得したような、していないような顔をした。
あかりはスマホを伏せた。
その瞬間、ふと思った。
月読命は最近、時々こういう顔をする。
何かに気づいているのに、それを言葉にしない顔だ。テレビを見ているはずなのに、窓の外を見ていることがある。あかりが帰ってくると、何もなかったようにこちらを見る。
嵐山から帰ってきてからだ。
あの、渡月橋を渡った日、みたらし団子を食べた日、……手をつないだ日。
あかりは、意識を持っていかれそうになるのを堪えた。そして、ズバリ気にしていたことを聞いてみた。
「ツク」
「何だ」
「何か隠してない?」
月読命は動かなかった。
それが、答えのように見えた。
「隠してはおらぬ」
——怪しい……。
「それ、隠してる人の言い方」
「違う」
「じゃあ、言ってないことがある?」
窓の外から、どこかの自転車のベルが聞こえた。夜の道を走る音が、アパートの壁を薄く撫でていく。
月読命は、やがて小さく息を吐いた。
「ある」
「ほら」
「ほら、とは何だ」
「ほら、あったじゃんってこと」
「そなたも、疲れていないと言った」
あかりは言い返そうとして、やめた。
言い返せなかった。
疲れていないと言ったけれど、それは嘘だ。
大丈夫と千晴に送った。それも、たぶん嘘だ。
あかりは両膝の上で手を重ねた。
「……何を言ってなかったの?」
月読命は、少しだけ窓の方を見た。
カーテンの隙間から、細い月の光はほとんど入ってこない。今夜の月はまだ薄く、夜を照らすには頼りなかった。
「嵐山より戻ってから、人の世に、我の形が残ったような気がする」
「形?」
「姿かもしれぬ。 気配かもしれぬ。 視線かもしれぬ。 だが、分からぬ」
あかりは、身体が急に冷えた感覚を覚えた。
「写真に写ったかもってこと?」
「分からぬ」
「でも、観光地だし、写真くらいは……背景に入ったりすることもあるよ」
「そうか」
「うん。 珍しくないよ。 渡月橋なんて、みんな写真撮るし」
「珍しくない」
月読命はその言葉を繰り返した。それでも、表情は晴れなかった。
「だが、すまほは、残す」
あかりは、伏せたスマホを見た。
黒い画面。
触れればすぐに光る、小さな板。
そこには、千晴の言葉が残っている。写真も、位置情報も、検索履歴も残る。誰かが何気なく撮った写真の端に、知らない誰かが残ることもある。
あかりは、そこで初めて怖くなった。
以前、月読命の記録を調べた時のことを思い出す。
残った言葉、残らなかった言葉。誰かが書いたもの。誰かが選んだもの。そして、残ったものだけが、いつの間にか真実みたいな顔をする。
月読命の記録の少なさは、残らなかったと言ってもいいくらいだった。
——いや、もし本人が望んで残らなかったとしたら……?
「……ツクは、それが怖いの?」
月読命は考えた。
「怖い、という言葉が近いのかは分からぬ」
「じゃあ、嫌?」
「嫌とも違う」
「じゃあ、何?」
「落ち着かぬ」
その言い方が、月読命らしくて、あかりは少しだけ笑いそうになった。でも、笑わなかったのは、月読命が真面目だったからだ。
たぶん、彼にとってそれは本当に言葉にしづらい感覚なのかもしれない。
「外に出たくなくなった?」
あかりは慎重に聞いた。
月読命はすぐに首を振った。
「いや」
「じゃあ、嵐山がダメだった?」
「いや」
「みたらし団子は?」
「悪くない」
「そこは即答なんだ」
「かなり、悪くない」
「最大評価出た」
あかりは、ようやく少し笑った。
月読命も、ほんのわずかに表情を和らげたように見えた。
でも、すぐに表情は元に戻った。
「外へ出ることが悪いのではない」
「うん」
「ただ、人の世は、我が思っていたよりも多くのものを残す」
「うん」
「残されたものが、どこへ行くのか分からぬ」
それは、スマホの話であり、写真の話であり、たぶん神話の話でもあるのだろうと、あかりは思った。
月読命のことは、残っているものさえ、本人の知る真実とは違っていたのだ。それなのに、現代の人の世は、あまりにも簡単に何かを残してしまう。
言葉も、姿も、笑った顔も、偶然映り込んだ影も。
「それ、もっと早く言ってよ」
あかりが言うと、月読命は静かにこちらを見た。
「そなたが疲れていた。 我の話など、すぐにせずともよいだろうと考えたのだ」
「今も疲れています」
「ならば、今も言わぬ方がよかったか」
「そういうことじゃなくて」
あかりは、どう話せばいいか迷った。
月読命は、とても真面目に言っている。相手が疲れているなら、重い話は避ける。それは、当然の優しさだ。
でも、黙られると余計に気になる。
「ツク、神様なのに嘘下手だね」
「嘘はついておらぬ」
「言ってないことがあるのは、まあ、半分嘘みたいなものだよ」
「そなたもだ」
「私は人間だから、多少は許されるの」
「人であれば、許されるのか」
「……たぶん、許されたいだけ」
あかりが言うと、月読命はその言葉を確かめるように、静かに目を伏せた。
「そなたは、疲れている時ほど声を明るくする。 困った時ほどよく喋る。 言いたくないことがある時は、すぐに別の話を探す」
「やめて。 丸裸にしないで」
あかりは、両手で顔を覆った。
「服は着ている」
「そういう意味じゃない!」
あかりは、慌てて顔から胸部に両手を移して、腕で両胸を覆うように隠した。心なしか内腿にも力が入っていた。
——疲れてる。確かに.....疲れている。
でも、それだけではない。見抜かれていることが恥ずかしかったのだ。
月読命に、そんなところまで見られていることが、胸を変に熱くした。
あかりはゆっくりと本音を呟いた。
「......心配かけたくなかったんだよ」
「我にか」
「うん」
「なぜ」
「なぜって……心配するでしょ」
「する」
「ほら」
「心配してはいけないのか」
「いけなくない。 でも、ツクは真面目だから。 私が疲れてるって言ったら、また自分のせいだとか思いそうだし」
月読命は、黙った。
その沈黙で、あかりは自分の言葉が当たっていたことを知った。
「思ったでしょ」
「少し」
「少しじゃない顔」
「顔で分かるのか」
「分かるようになってきた」
あかりが言うと、月読命は不思議そうに瞬きをした。それから、少しだけ考えるように視線を落とす。
「我も、心配をかけたくなかった」
「だから黙ってた?」
「そうだ」
「神様も、そういう嘘つくんだ」
「嘘ではない」
「半分嘘」
「半分か」
「うん。 全部じゃない。 だって、悪いことしようとして隠したわけじゃないから」
月読命は、その言葉をゆっくり受け取るように視線を上げた。
テレビの中では、秋の観光地特集が終わり、天気予報に変わっていた。
『明日の京都は晴れ。 朝晩は冷えるでしょう。』
月読命は、やがて静かに口を開いた。
「嘘とは、相手を遠ざけるためだけのものではない。 傷つけまいとして差し出される、薄い布のような嘘もある」
月読命の言葉は、いつも少し古くて、時々妙で、でも不意に胸の奥へまっすぐ落ちてくる。
——薄い布、か。
たしかに、大丈夫という言葉は、そういうものだったと思えた。
自分の疲れを隠すための、そして、相手の心配を少しだけ遮るための布だ。
でも、布は薄い。だから、相手がよく見ていれば、透けてしまうのかもしれない。
「……それ、すごくいいこと言ってるけど」
「うむ」
「たぶん、私たち二人とも、その布が薄すぎるんだね」
月読命は、ほんの少し考えた。
「神は嘘が下手だな」
「自分で言った」
「そなたも下手だ」
「人間だからいいの」
「そうか」
「そこは納得しないで」
あかりは笑った。
笑うと、疲れが少しだけ身体の底へ沈んだような気がした。
消えたわけではない。
でも、隠す必要が少し減った程度だ。
「ごめん。 ほんとはちょっと疲れてる」
あかりはゆっくりと胸を隠すために覆った腕を解いた。
「知っている」
「知ってても、言わせて」
「ああ」
あかりは、少し息を整えてから続けた。
「最近、シフト増やしてるの。 ツクのせいだけじゃないけど、ツクが来てから増えたものもある。 食費とか、生活用品とか、そういうの」
「我は、重荷か」
「その言い方やめて!」
あかりは、すぐに言った。
「重荷じゃない。 生活が増えたの」
「生活が、増えた」
「そう。 人が一人増えると、必要なものも増える。 お金もかかるし。 でも、それだけじゃないでしょ。 話す相手も増えるし、笑うことも増えるし、心配も増えるし……みたらし団子も二本になる」
「二本」
「そう。 一本より、二本の方が高い」
「ならば、一本でよい」
「そういう話じゃない」
あかりは軽く睨んだ。
「私は、ツクにも食べてほしいの」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
月読命は、黙ってあかりを見ている。
その静けさが、今日はいちいち心に触れる。
「……だから、無理はしないし、ちゃんと考えるの。 でも、全部ツクのせいみたいに思われるのは嫌」
「分かった」
「本当に?」
「すべては分からぬ。 だが、今はそう聞く」
「よろしい」
あかりは、やっと鞄からコンビニの袋を取り出した。
「で、今日は廃棄前のじゃなくて、ちゃんと買ってきました。 肉まん」
月読命の視線が、袋に向く。
「にくまん」
「肉が入った、あったかい饅頭」
「饅頭」
「そこは知ってる?」
「知っている」
「食べたことは?」
「ない」
「じゃあ経験です」
「経験ならば、受けよう」
「その言い方、気に入ってるでしょ」
月読命は否定しなかった。
あかりは袋から肉まんを二つ出した。まだ熱々で、白い皮から、かすかに湯気が立っていた。
十月の夜に、温かい肉まん。
それは、今の二人にとって小さな救いだった。
月読命は、両手で肉まんを受け取った。
「温かい」
「でしょ」
「月のように丸い」
「また丸いもの全部月判定してる」
「違うのか」
「違うけど、今日はもういいです」
あかりは、月読命が慎重に肉まんを見つめるその横顔を見ながら、ふと思った。
スマホに残る言葉、写真に残る姿、神話に残る名前。
残るものは、きっと残り続ける。
でも、残らなければ、なかったことにされてしまう。
月読命は、ほとんど記録に残らなかった神だ。それなのに、今はあかりの部屋で肉まんを持っている。
この姿は、どこにも残らない。残すとしたら、自分の中だけだ。
あかりは、肉まんを半分に割った。
中から湯気が上がり、肉と玉ねぎの匂いがふわっと広がる。
「ねえ、ツク」
「何だ」
「一回、月読神社に行こう」
月読命は、肉まんを食べようと口を開いたまま、あかりを見た。
「あの場所へか」
「うん」
あかりは、湯気の向こうで頷いた。
「文献とか、神話とか、残ったものだけ見てても、分からないことってあると思うんだ」
「そうだな」
「だったら、始まった場所にも行ってみようよ」
あかりは続けて言った。
「ツクが来た場所。 私がツクに会った場所。 何か残ってるなら、そこにも何か残ってるかもしれない」
「残っていなければ?」
「その時は、その時考えるしかないでしょ」
「そなたは疲れている」
「だから今日じゃないよ。 次の休みに行こ」
「休むのではないのか」
「休みの日に神社に行くのは、休みです」
「そうか」
「そういうことにして」
月読命は、肉まんを見つめたまま、ポツリと言った。
「よい」
「もしかして、怖い?」
あかりが聞くと、月読命は少し考えた。
「大丈夫だ」
「それ、怖い時の言い方じゃない?」
「そなたも、よく大丈夫と言うであろう」
「……お互い様かぁ」
「そうだな」
あかりは、手の掌から肉まんの熱がじんわりと広がっていくのを感じた。
窓の向こうでは、十月の夜が、秋の空を少しずつ冷やしていった。その空のどこかで、細い月が、満ちる途中の光を抱えているのだろう。
次の休みに、あかりは月読命ともう一度、月読神社へ行くことにした。
*
その夜、あかりが眠ったあと、月読命はあかりの布団のそばに静かに膝をついた。
疲れの滲む寝息を聞きながら、手の掌に淡い神力を宿した。
すべてを消してしまえば、あかりはきっと怒るだろう。
だから、ほんの少しだけ。
明日の朝、身体が軽くなったと思える程度に。
銀に近い光が、眠るあかりの上に薄い布のように落ちた。
強張っていた肩の力が抜け、寝息がゆっくり深くなる。
「.....何もしておらぬ」
月読命は、あかりに追及された時のために呟いた。
神様は、嘘が下手だ。
それでも、この嘘だけは、下手なままでもつき通すつもりだった。




