第27話 月と渡る橋
嵐山の駅を出た瞬間、あかりは思わず肩に力を入れた。
夏の強さはもうない。けれど、まだ冬の気配には遠い。
やわらかな秋の日差しの下で、焼けた醤油の匂いと、肉を焼く脂の匂いと、何かの甘い匂いが、駅前の人混みに濃く混ざっていた。
昼間の観光地に月読命を連れてくるのは、これが初めてだった。
——外出訓練だからね。
そう月読命に言い聞かせていたのに、あかり自身の心から言い訳がましいとツッコまれた。
分かってはいたけれど、やはりこの辺りは人の流れが日常の速度ではなかった。しかも、今日は連休の最終日ということもあり、人でごった返していた。
家族連れ、修学旅行生らしい制服、それに外国人観光客で通りは埋め尽くされていた。カメラを向ける人も、食べ歩きの串を手にした人も、楽しげな表情で店先をのぞき込んでいる。
誰もが少し浮ついていて、少しだけ日常から外れていた。
食欲と好奇心と、人波の熱が一度に押し寄せてきて、あかりは、ほんの少し息を浅くした。
そんな中、月読命が立っていることにあかりは心配した。
——絶対に目立つじゃん。写真撮られるかも。
けれど。
「……あれ」
思ったほど、浮いていない。
背が高いし、姿勢がいい。顔立ちは、やっぱり整いすぎている。それでも、嵐山には目を引くものがいくらでもあった。
着物姿の観光客、大きなカメラ、人力車、店先で笑いながら写真を撮る人たち。
月読命の異質さは、嵐山の非日常の中に、思ったより自然に紛れていた。
「……意外と」
「何だ」
「いや。 意外と、いけるかもって」
「何がだ」
「ツクが、観光地に溶け込む作戦」
「我は溶け込んでいるのか」
「かなり。 少なくとも、普通の住宅街よりは」
「住宅街では、溶け込んでおらぬのか」
「それはまあ……だいぶ」
あかりが曖昧に笑った、その時だった。
横から、修学旅行生の集団が流れてきた。
地図を見ていたらしい一人が立ち止まり、後ろの子がそれにぶつかり、列が少しだけ横に膨らむ。
あかりの肩に、誰かの腕が軽く当たった。
「あ、ごめ——」
言い終える前に、距離が空いた。
ほんの一歩分だった。
けれど、その一歩で、月読命との間に知らない人の背中が入った。
次の瞬間、手を取られた。
——手を......握られた。
「我から離れるな。 迷子になるつもりか」
——強い。
けれど、痛くはない。あかりは、月読命の手から、逃がさないという意思を感じた。
遅れて、あかりの心臓がドクンドクンと高鳴り始めた。
手の掌が熱いし、たぶん顔も赤い。
「……迷子になるの、ツクの方じゃなかったっけ」
あかりは、ようやくそれだけ言った。
声が少し小さくなったのは、きっと人混みのせいだ。
「我から見れば、そなたの方が人に紛れて見えぬ」
月読命は、あかりの手を離さないまま言った。
「人の中に入ると、すぐ隠れる」
「隠れてないし」
「隠れる」
「小さいって言いたい?」
「小さい」
「言い切った」
「事実だ」
「そこは言い直して」
月読命は少し考えた。
「……見失いやすい」
「悪化してない?」
「ならば、離れるな」
その言い方が、あまりにもまっすぐで、下心など微塵も感じられなかったから、あかりは開きかけた口を閉じた。
少しだけ冷静になってみると、周りには大勢の人がいた。家族連れも、観光客も、学生たちも、みんなそれぞれの目的地へ向かって歩いていた。
手をつないでいる男女なんて、珍しくもない。
そう、珍しくないのだ。
——普通だ。
ここでは、普通のことだ。
——だから、この手を振りほどかないのも、きっと普通だ。
そういうことにした。
「……じゃあ、離れません」
「うむ」
「でも、強く引っ張らないでね。 人間の腕は取れます」
「取れぬ」
「いや、冗談だからね」
月読命の真面目な顔を見て、あかりは思わず笑いそうになったけれど、人にぶつかりそうになって、慌てて前を向いた。
焼けた醤油や肉の匂いも、何かの甘い匂いも、まだ周りにあったのに、それらは手の掌の熱に少しずつ存在を奪われていった。
月読命は、つないだ手を見下ろした。
さっき、あかりが人に押された瞬間、月読命の内側の水面に、灰色が浮かんだ。
月明かりのように澄んだ白でも、輝くような銀でもない。落ち着かず、細かくざらつくような印象を与える濁った色だった。
しかし、あかりの手を取ると、その灰色の下から、淡い蒼が現れた。
曇り空の隙間から空が覗くような、鮮やかな蒼だった。
けれど、広がりかけて、すぐに奥へ隠れてしまう。
月読命は、その色の意味する感情の名前を知らなかった。
知らぬまま、手を離さなかった。
*
渡月橋へ向かう道には、さらに人が増えていた。
歩き出すと、匂いは少しずつ変わった。
店先を通り過ぎるたび、抹茶の甘い香りや、ほうじ茶の香ばしい匂いがふっと流れてくる。その合間には、化粧品のやわらかく整った香りも混じった。
川の方から、少し湿った風が吹いてくるのを感じて、先の方に視線を向けると橋が見えた。
——渡月橋だ。
京都にいれば特別珍しい場所というわけでもない。大学に入ってからも何度か来たことがあったし、高校生の時には修学旅行で千晴たち同級生ととも訪れたのも、この嵐山だったから当然知っていた。
それでも、月読命と手をつないでそこへ向かっていると、すでに知っている観光地では済まなくなる。
渡月橋が近づくにつれて、食べ物の匂いは少しずつ薄くなっていき、代わりに川風に混じる湿った匂いが強くなる。
甘さも、焦げた匂いも、人の熱も、風の中でほどけていく。
昼の空に、月は見えない。
新月になったばかりの空は明るくて、どこを探しても月の輪郭なんて見つからなかった。けれど、あかりのすぐ側には、はっきりと存在する月がいた。
それは手の掌の中に、熱とともにあった。
「ツク」
「何だ」
「あの橋、渡月橋っていうんだよ」
「とげつきょう」
「うん。 月を渡るって書く」
月読命は、橋を見た。
「月を、渡る」
「そう」
あかりは、少しだけ手に力を込めた。
「でも今日は、違うね」
「違う?」
「月を渡る橋じゃなくて」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
でも、もう途中まで言ってしまったから、ここで止める方が、もっと恥ずかしい。
あかりは前を向いたまま、小さく続けた。
「月と渡る橋」
川風が吹いて、人の声が流れる。
橋の上を、たくさんの足音が行き交う。
あかりは、余計なことを言ったかもしれないと思った。
でも、月読命の手は、むしろ肯定するように強く握り返してきた。
「そうか」
やがて、月読命が言った。
「ならば、渡ろう」
「……うん」
二人は、手をつないだまま橋へ踏み出した。
橋の上は、思ったより風が強かった。
醤油や肉の焼ける香ばしい匂いが、川風に流されずに袖のあたりから漂っている気がした。
けれど、あかりがはっきり感じていたのは、つながれた手の熱だった。
橋の途中で、外国人観光客の一人が川を背景に写真を撮っていた。その隣では、着物姿の女の子たちが笑い合っている。
手をつないで歩くカップルもいる。親子もいる。友達同士もいる。
その中で、あかりと月読命も歩いている。
——神様と、橋を渡ってる。
周りから見れば、たぶん普通の二人にしか見えない。
——普通。
その言葉が、胸に染みた。
橋を渡り切ったところで、あかりはわざと明るく言った。
「よし。 次、何か食べよう」
「食べるのか」
「観光地に来たら食べ歩きでしょ」
「歩きながら食べるのか」
「そこから?」
「食す時は、座るものではないのか」
「まあ、ちゃんと座る時もあるけど。 ちょっとしたものなら、歩きながら食べたりするよ」
月読命は、周囲に視線を巡らせ、串を持って歩く人、紙のカップを手にした人、アイスを持つ子供を見た。
「人の世は、移動しながら供物を口にするのか」
「供物じゃない。 おやつ」
「おやつ」
「そう。 楽しみのために食べるもの」
「楽しみのため」
月読命は、その言葉を繰り返した。
あかりは、店先から漂ってきた匂いに足を止めた。
「みたらし団子、食べる?」
「団子か」
「そう。 前に月見団子食べたでしょ。 あれとはまた違うやつ」
「違う団子」
「うん。 焼いてあって、たれが甘じょっぱい」
「甘じょっぱい」
「そこも初めて?」
「言葉としては初めて聞いた」
「じゃあ食べよう。 これは経験です」
「経験ならば、受けよう」
「急に神妙」
あかりは笑って、みたらし団子を二本注文した。
手を離すタイミングが来た。
当然のように、来た。
財布を出さなければいけないし、団子を受け取らなければいけないから、手を離すのは自然なことだった。
それなのに、あかりは一瞬だけ迷った。
月読命も、何も言わず、あかりが財布を出すために手を動かすと、するりと手を離した。
手と心が寂しくなった。
その寂しさに気づいてしまったことが、なんとなく悔しくもあった。
「はい、ツク」
あかりは団子を一本差し出した。
月読命は、串に刺さった団子をまじまじと見る。
丸い団子に、艶のあるたれが絡んでいて、焼き目のついた白い表面に、茶色のたれがゆったり光っていた。
「これは」
「みたらし団子です」
「月見団子とは違うな」
「違うね」
「丸いが、月ではないのか」
「団子を全部、月判定しないで」
「だが、丸い」
「丸いもの全部が月だったら、世界が月だらけになるよ」
「それは賑やかだ」
「月が好きすぎるってば!」
月読命が、団子を一口食べたその瞬間、動きが止まった。
あかりは、期待して見上げる。
「どう?」
月読命は、しばらく黙って咀嚼していた。
ただ、目つきだけが変わった。
「……甘い」
「うん」
「だが、ただ甘いのではない」
「お」
あかりは、身を乗り出した。
「始まりましたね。 神の食レポ」
「焼かれた米の香ばしさがある」
「うんうん」
「そこに、甘さが絡む。 だが甘さだけではない。 塩の気配が、奥で味を支えている」
「おお」
「柔らかい。 だが、噛むと芯がある。 口の中でほどけるのに、すぐには消えぬ」
「めちゃくちゃ、ちゃんと食レポしてる」
「たれは光る。 だが、光だけではない。 焦げた匂いが、甘さを地に戻している」
「なるほど、地に戻す」
月読命は、串に残ったたれを見た。
「これは、祈りのために丸めたものではない」
「うん」
「人が、人の楽しみのために丸めた月だ」
あかりは、思わず吹き出した。
「また急に壮大なこと言う」
「違うのか」
「違わないけど。 いや、違うかもしれないけど。 でも、すごいなって」
「何がだ」
「みたらし団子でそこまで言える神様、なかなかいないよ」
「神は皆、言えるのではないか」
「たぶん言えない」
あかりが楽しそうに笑うと、月読命には不思議な感覚が湧き上がった。
あかりの笑い声を聞いた瞬間に、月読命の内側の水面に、ごく薄い黄色が差したのだ。
それは店先の灯りでも、団子のたれの照りでもなく、熱を感じさせる燃えるような色でもない。淡い蒼が水面に現れて、その端にほんの少しだけ明るさを宿した黄色が混じった。
それはただ、月読命の気持ちが、少しだけ明るくなる色だった。
「ツク、たれついてる」
「どこだ」
「口の端」
あかりは、言ってから固まった。
こういう時、普通ならどうするのか。
——指で取る?……いや、それで指はどうする!?……舐める……や、やばいでしょ、それは!……紙を渡す!?……そ、それが正解!絶対に正解!!
あかりは慌てて紙ナプキンを差し出した。
「これで拭いて」
「うむ」
月読命は素直に受け取り、口元を拭いた。
それだけなのに、あかりはなぜかほっとした。
——嵐山は、危険だ。
人混みが危険なのではないし、匂いが危険なのでもない。橋が、風が、食べ歩きが、観光地の浮かれた空気が、全部まとめて危険だった。気を抜くと、これは本当にデートだと思ってしまう。
——いや、外から見たら、もうデートだよね、これ。
でも、口に出したら負けだと、あかりは思った。
「次、少し歩こうか」
あかりは、照れ隠しのように言った。
「まだ食べるのか」
「食べ歩きにどれだけ期待してるの」
「期待はしている」
「正直でよろしい」
二人は、店先の賑わいから少し離れるように歩いた。
人の流れは続いているけれど、駅前や橋の上ほどではなかった。道を少し奥へ入ると、匂いが変わった。
湿った土と、日陰に残った葉の匂いに混じって、竹の青い匂いがしてきた。
ただ、その匂いを吸った瞬間、さっきまで胸の前に集まっていた熱が、お腹の方へ降りていくような感じがした。
人混みのざわめきも、少し落ち着いた場所だった。
あかりは、自然と月読命の隣を歩いていることに気づいた。
さっきのように、手はつないでいない。
けれど、距離は近い。
指先が、時々触れそうになる。
——触れない。
——触れそう。
——触れない。
——触れたい。
「あかり」
「な、なに?」
「先ほどから、手を見ている」
「見てない」
「見ていた」
「見てないです」
「そうか」
「信じてないでしょ」
「分からぬ」
「......信じて」
月読命は、少し首を傾げた。
「つなぐか」
「なっ!」
あかりは、変な声を出した。
「そんな、コンビニ行く? みたいな言い方で言うことじゃないから」
「必要ならば、つなぐ」
「必要っていうか」
「人が多い」
「今はさっきほどじゃないし」
「そなたは小さい」
「また言った」
「見失いやすい」
「言い直してもそこなの!?」
あかりは文句を言いながら、視線をそらした。
竹の青い匂いがする。
少し湿っていて、静かで、さっきよりも呼吸がしやすい。
だからこそ、自分の心臓の音がよく分かる。
「……じゃあ」
あかりは、小さく言った。
「人が多くなったら」
「うむ」
「今じゃなくて」
「今ではないのか」
「今ではないです」
「そうか」
月読命は、素直に頷いた。
あかりは、その素直さに胸がきゅっと締めつけられるように痛くなった。
月読命は、ただ聞いてきただけだ。
手をつなぐか。
その決断を、あかりに託しただけだ。
――私は、あなたと手をつなぎたい。
あかりは、素直になれない自分にうんざりした。
でも、同時にこうも思う。
――ずるいよ、……ツクはどうなの?
あかりは、頬が熱くなるのを誤魔化すように前を向くと、竹の青い匂いが、一層濃くなったように感じた。
*
帰り道、あかりはもう一度だけ、渡月橋の方を振り返った。
橋の上には、相変わらずたくさんの人がいた。
「また来ようね」
あかりは、思いつきのように言ったつもりだったけれど、月読命が隣で足を止めて真剣に聞き返してきた。
「また、来るのか」
「うん。 まあ、今日だけじゃなくてもいいでしょ」
「そうだな」
「ツク、みたらし団子気に入ったみたいだし」
「悪くない」
「出た。 悪くない」
「かなり、悪くない」
「最大評価っぽい」
あかりが笑うと、月読命は静かに橋を見た。
「月と渡る橋」
「……覚えてたんだ」
「そなたが言った」
「……うん」
「忘れぬ」
川風が吹いて、髪が、赤く染まった頬にかかった。
月読命が、あかりを見ていた。
触れるわけでも、直すわけでもなく、ただ、見ていた。
その視線が、なぜか手で触れられるよりも近くに感じた。
「……帰ろっか」
あかりは、早口で言った。
「うむ」
二人は、駅へ向かって歩き出した。人の流れは、かなり落ち着いていて、あかりの肩には来た時ほどの力は入っていない。
観光地なら、月読命は思ったより目立たないことが分かった。人の多い場所なら、むしろ紛れることができるのだ。そういう、新しい発見ができてよかった。
もちろん油断はできない。
でも、月読命とできることが、歩ける場所が、少しだけ広がった。
あかりは、隣を見上げた。
「次は、どこ行こうか」
「らぁめん屋」
「即答」
「前に約した」
「約したっていうか、ツクが勝手に食い下がってただけだけど」
「食い下がった」
「認めるんだ」
「らぁめんは、まだ十分に知らぬ」
「一回で十分に知られたら、ラーメン屋さんが困るね」
「ならば、何度も行く必要がある」
「理屈が完成してしまった」
あかりはクスクスと笑った。
駅に近づくにつれて、また匂いが増えてきたけれど、来た時には一度に押し寄せてきたものが、帰る時にはひとつずつ名前を持ってちゃんと見ることができた。
牛串、焼き鳥、コロッケ、いちご飴、抹茶のソフトクリーム、温かいほうじ茶。
そんな匂いの中を通り過ぎ、今日の嵐山が終わっていく。
あかりの手の掌にはまだ、つないだ時の熱が残っていた。
*
数時間後。
京都市内の公開SNS投稿を監視していた端末に、一枚の写真が拾い上げられた。
渡月橋を背景に笑う観光客の、その端。
背が高く、姿勢がいい、長い黒髪の男が映っていた。
隣に若い女の姿があったが、顔は人の流れに隠れていた。
まだ、点でしかなかった。
だが、点は増え始めていた。




