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Moon Light Lover  作者: 巡
第4章 渡月編

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第27話 月と渡る橋

 嵐山の駅を出た瞬間、あかりは思わず肩に力を入れた。


 夏の強さはもうない。けれど、まだ冬の気配には遠い。


 やわらかな秋の日差しの下で、焼けた醤油の匂いと、肉を焼く脂の匂いと、何かの甘い匂いが、駅前の人混みに濃く混ざっていた。


 昼間の観光地に月読命を連れてくるのは、これが初めてだった。


 ——外出訓練だからね。


 そう月読命に言い聞かせていたのに、あかり自身の心から言い訳がましいとツッコまれた。


  分かってはいたけれど、やはりこの辺りは人の流れが日常の速度ではなかった。しかも、今日は連休の最終日ということもあり、人でごった返していた。


 家族連れ、修学旅行生らしい制服、それに外国人観光客で通りは埋め尽くされていた。カメラを向ける人も、食べ歩きの串を手にした人も、楽しげな表情で店先をのぞき込んでいる。


 誰もが少し浮ついていて、少しだけ日常から外れていた。


 食欲と好奇心と、人波の熱が一度に押し寄せてきて、あかりは、ほんの少し息を浅くした。


 そんな中、月読命が立っていることにあかりは心配した。


 ——絶対に目立つじゃん。写真撮られるかも。


 けれど。


「……あれ」


 思ったほど、浮いていない。


 背が高いし、姿勢がいい。顔立ちは、やっぱり整いすぎている。それでも、嵐山には目を引くものがいくらでもあった。


 着物姿の観光客、大きなカメラ、人力車、店先で笑いながら写真を撮る人たち。


 月読命の異質さは、嵐山の非日常の中に、思ったより自然に紛れていた。


「……意外と」


「何だ」


「いや。 意外と、いけるかもって」


「何がだ」


「ツクが、観光地に溶け込む作戦」


「我は溶け込んでいるのか」


「かなり。 少なくとも、普通の住宅街よりは」


「住宅街では、溶け込んでおらぬのか」


「それはまあ……だいぶ」


 あかりが曖昧に笑った、その時だった。


 横から、修学旅行生の集団が流れてきた。


 地図を見ていたらしい一人が立ち止まり、後ろの子がそれにぶつかり、列が少しだけ横に膨らむ。


 あかりの肩に、誰かの腕が軽く当たった。


「あ、ごめ——」


 言い終える前に、距離が空いた。


 ほんの一歩分だった。


 けれど、その一歩で、月読命との間に知らない人の背中が入った。


 次の瞬間、手を取られた。


 ——手を......握られた。


「我から離れるな。 迷子になるつもりか」


 ——強い。


 けれど、痛くはない。あかりは、月読命の手から、逃がさないという意思を感じた。


 遅れて、あかりの心臓がドクンドクンと高鳴り始めた。


 手の掌が熱いし、たぶん顔も赤い。


「……迷子になるの、ツクの方じゃなかったっけ」


 あかりは、ようやくそれだけ言った。


 声が少し小さくなったのは、きっと人混みのせいだ。


「我から見れば、そなたの方が人に紛れて見えぬ」


 月読命は、あかりの手を離さないまま言った。


「人の中に入ると、すぐ隠れる」


「隠れてないし」


「隠れる」


「小さいって言いたい?」


「小さい」


「言い切った」


「事実だ」


「そこは言い直して」


 月読命は少し考えた。


「……見失いやすい」


「悪化してない?」


「ならば、離れるな」


 その言い方が、あまりにもまっすぐで、下心など微塵も感じられなかったから、あかりは開きかけた口を閉じた。


 少しだけ冷静になってみると、周りには大勢の人がいた。家族連れも、観光客も、学生たちも、みんなそれぞれの目的地へ向かって歩いていた。


 手をつないでいる男女なんて、珍しくもない。


 そう、珍しくないのだ。


 ——普通だ。


 ここでは、普通のことだ。


 ——だから、この手を振りほどかないのも、きっと普通だ。


 そういうことにした。


「……じゃあ、離れません」


「うむ」


「でも、強く引っ張らないでね。 人間の腕は取れます」


「取れぬ」


「いや、冗談だからね」


 月読命の真面目な顔を見て、あかりは思わず笑いそうになったけれど、人にぶつかりそうになって、慌てて前を向いた。


 焼けた醤油や肉の匂いも、何かの甘い匂いも、まだ周りにあったのに、それらは手の掌の熱に少しずつ存在を奪われていった。


 月読命は、つないだ手を見下ろした。


 さっき、あかりが人に押された瞬間、月読命の内側の水面に、灰色が浮かんだ。

 

 月明かりのように澄んだ白でも、輝くような銀でもない。落ち着かず、細かくざらつくような印象を与える濁った色だった。


 しかし、あかりの手を取ると、その灰色の下から、淡い蒼が現れた。


 曇り空の隙間から空が覗くような、鮮やかな蒼だった。


 けれど、広がりかけて、すぐに奥へ隠れてしまう。


 月読命は、その色の意味する感情の名前を知らなかった。


 知らぬまま、手を離さなかった。


      *


 渡月橋へ向かう道には、さらに人が増えていた。


 歩き出すと、匂いは少しずつ変わった。


 店先を通り過ぎるたび、抹茶の甘い香りや、ほうじ茶の香ばしい匂いがふっと流れてくる。その合間には、化粧品のやわらかく整った香りも混じった。


 川の方から、少し湿った風が吹いてくるのを感じて、先の方に視線を向けると橋が見えた。


 ——渡月橋だ。


 京都にいれば特別珍しい場所というわけでもない。大学に入ってからも何度か来たことがあったし、高校生の時には修学旅行で千晴たち同級生ととも訪れたのも、この嵐山だったから当然知っていた。


 それでも、月読命と手をつないでそこへ向かっていると、すでに知っている観光地では済まなくなる。


 渡月橋が近づくにつれて、食べ物の匂いは少しずつ薄くなっていき、代わりに川風に混じる湿った匂いが強くなる。


 甘さも、焦げた匂いも、人の熱も、風の中でほどけていく。


 昼の空に、月は見えない。


 新月になったばかりの空は明るくて、どこを探しても月の輪郭なんて見つからなかった。けれど、あかりのすぐ側には、はっきりと存在する月がいた。


 それは手の掌の中に、熱とともにあった。


「ツク」


「何だ」


「あの橋、渡月橋っていうんだよ」


「とげつきょう」


「うん。 月を渡るって書く」


 月読命は、橋を見た。


「月を、渡る」


「そう」


 あかりは、少しだけ手に力を込めた。


「でも今日は、違うね」


「違う?」


「月を渡る橋じゃなくて」


 言ってから、急に恥ずかしくなった。


 でも、もう途中まで言ってしまったから、ここで止める方が、もっと恥ずかしい。


 あかりは前を向いたまま、小さく続けた。


「月と渡る橋」


 川風が吹いて、人の声が流れる。


 橋の上を、たくさんの足音が行き交う。


 あかりは、余計なことを言ったかもしれないと思った。


 でも、月読命の手は、むしろ肯定するように強く握り返してきた。


「そうか」


 やがて、月読命が言った。


「ならば、渡ろう」


「……うん」


 二人は、手をつないだまま橋へ踏み出した。


 橋の上は、思ったより風が強かった。


 醤油や肉の焼ける香ばしい匂いが、川風に流されずに袖のあたりから漂っている気がした。


 けれど、あかりがはっきり感じていたのは、つながれた手の熱だった。


 橋の途中で、外国人観光客の一人が川を背景に写真を撮っていた。その隣では、着物姿の女の子たちが笑い合っている。


 手をつないで歩くカップルもいる。親子もいる。友達同士もいる。


 その中で、あかりと月読命も歩いている。


 ——神様と、橋を渡ってる。


 周りから見れば、たぶん普通の二人にしか見えない。


 ——普通。


 その言葉が、胸に染みた。


 橋を渡り切ったところで、あかりはわざと明るく言った。


「よし。 次、何か食べよう」


「食べるのか」


「観光地に来たら食べ歩きでしょ」


「歩きながら食べるのか」


「そこから?」


「食す時は、座るものではないのか」


「まあ、ちゃんと座る時もあるけど。 ちょっとしたものなら、歩きながら食べたりするよ」


 月読命は、周囲に視線を巡らせ、串を持って歩く人、紙のカップを手にした人、アイスを持つ子供を見た。


「人の世は、移動しながら供物を口にするのか」


「供物じゃない。 おやつ」


「おやつ」


「そう。 楽しみのために食べるもの」


「楽しみのため」


 月読命は、その言葉を繰り返した。


 あかりは、店先から漂ってきた匂いに足を止めた。


「みたらし団子、食べる?」


「団子か」


「そう。 前に月見団子食べたでしょ。 あれとはまた違うやつ」


「違う団子」


「うん。 焼いてあって、たれが甘じょっぱい」


「甘じょっぱい」


「そこも初めて?」


「言葉としては初めて聞いた」


「じゃあ食べよう。 これは経験です」


「経験ならば、受けよう」


「急に神妙」


 あかりは笑って、みたらし団子を二本注文した。


 手を離すタイミングが来た。


 当然のように、来た。


 財布を出さなければいけないし、団子を受け取らなければいけないから、手を離すのは自然なことだった。


 それなのに、あかりは一瞬だけ迷った。


 月読命も、何も言わず、あかりが財布を出すために手を動かすと、するりと手を離した。


 手と心が寂しくなった。


 その寂しさに気づいてしまったことが、なんとなく悔しくもあった。


「はい、ツク」


 あかりは団子を一本差し出した。


 月読命は、串に刺さった団子をまじまじと見る。


 丸い団子に、艶のあるたれが絡んでいて、焼き目のついた白い表面に、茶色のたれがゆったり光っていた。


「これは」


「みたらし団子です」


「月見団子とは違うな」


「違うね」


「丸いが、月ではないのか」


「団子を全部、月判定しないで」


「だが、丸い」


「丸いもの全部が月だったら、世界が月だらけになるよ」


「それは賑やかだ」


「月が好きすぎるってば!」


 月読命が、団子を一口食べたその瞬間、動きが止まった。


 あかりは、期待して見上げる。


「どう?」


 月読命は、しばらく黙って咀嚼していた。


 ただ、目つきだけが変わった。


「……甘い」


「うん」


「だが、ただ甘いのではない」


「お」


 あかりは、身を乗り出した。


「始まりましたね。 神の食レポ」


「焼かれた米の香ばしさがある」


「うんうん」


「そこに、甘さが絡む。 だが甘さだけではない。 塩の気配が、奥で味を支えている」


「おお」


「柔らかい。 だが、噛むと芯がある。 口の中でほどけるのに、すぐには消えぬ」


「めちゃくちゃ、ちゃんと食レポしてる」


「たれは光る。 だが、光だけではない。 焦げた匂いが、甘さを地に戻している」


「なるほど、地に戻す」


 月読命は、串に残ったたれを見た。


「これは、祈りのために丸めたものではない」


「うん」


「人が、人の楽しみのために丸めた月だ」


 あかりは、思わず吹き出した。


「また急に壮大なこと言う」


「違うのか」


「違わないけど。 いや、違うかもしれないけど。 でも、すごいなって」


「何がだ」


「みたらし団子でそこまで言える神様、なかなかいないよ」


「神は皆、言えるのではないか」


「たぶん言えない」


 あかりが楽しそうに笑うと、月読命には不思議な感覚が湧き上がった。


 あかりの笑い声を聞いた瞬間に、月読命の内側の水面に、ごく薄い黄色が差したのだ。


 それは店先の灯りでも、団子のたれの照りでもなく、熱を感じさせる燃えるような色でもない。淡い蒼が水面に現れて、その端にほんの少しだけ明るさを宿した黄色が混じった。

 

 それはただ、月読命の気持ちが、少しだけ明るくなる色だった。


「ツク、たれついてる」


「どこだ」


「口の端」


 あかりは、言ってから固まった。


 こういう時、普通ならどうするのか。


 ——指で取る?……いや、それで指はどうする!?……舐める……や、やばいでしょ、それは!……紙を渡す!?……そ、それが正解!絶対に正解!!


 あかりは慌てて紙ナプキンを差し出した。


「これで拭いて」


「うむ」


 月読命は素直に受け取り、口元を拭いた。


 それだけなのに、あかりはなぜかほっとした。


 ——嵐山は、危険だ。


 人混みが危険なのではないし、匂いが危険なのでもない。橋が、風が、食べ歩きが、観光地の浮かれた空気が、全部まとめて危険だった。気を抜くと、これは本当にデートだと思ってしまう。


 ——いや、外から見たら、もうデートだよね、これ。


 でも、口に出したら負けだと、あかりは思った。


「次、少し歩こうか」


 あかりは、照れ隠しのように言った。


「まだ食べるのか」


「食べ歩きにどれだけ期待してるの」


「期待はしている」


「正直でよろしい」


 二人は、店先の賑わいから少し離れるように歩いた。


 人の流れは続いているけれど、駅前や橋の上ほどではなかった。道を少し奥へ入ると、匂いが変わった。


 湿った土と、日陰に残った葉の匂いに混じって、竹の青い匂いがしてきた。


 ただ、その匂いを吸った瞬間、さっきまで胸の前に集まっていた熱が、お腹の方へ降りていくような感じがした。


 人混みのざわめきも、少し落ち着いた場所だった。


 あかりは、自然と月読命の隣を歩いていることに気づいた。


 さっきのように、手はつないでいない。


 けれど、距離は近い。


 指先が、時々触れそうになる。


 ——触れない。

 

 ——触れそう。

 

 ——触れない。


 ——触れたい。


「あかり」


「な、なに?」


「先ほどから、手を見ている」


「見てない」


「見ていた」


「見てないです」


「そうか」


「信じてないでしょ」


「分からぬ」


「......信じて」


 月読命は、少し首を傾げた。


「つなぐか」


「なっ!」


 あかりは、変な声を出した。


「そんな、コンビニ行く? みたいな言い方で言うことじゃないから」


「必要ならば、つなぐ」


「必要っていうか」


「人が多い」


「今はさっきほどじゃないし」


「そなたは小さい」


「また言った」


「見失いやすい」


「言い直してもそこなの!?」


 あかりは文句を言いながら、視線をそらした。


 竹の青い匂いがする。


 少し湿っていて、静かで、さっきよりも呼吸がしやすい。


 だからこそ、自分の心臓の音がよく分かる。


「……じゃあ」


 あかりは、小さく言った。


「人が多くなったら」


「うむ」


「今じゃなくて」


「今ではないのか」


「今ではないです」


「そうか」


 月読命は、素直に頷いた。


 あかりは、その素直さに胸がきゅっと締めつけられるように痛くなった。


 月読命は、ただ聞いてきただけだ。


 手をつなぐか。


 その決断を、あかりに託しただけだ。


 ――私は、あなたと手をつなぎたい。


 あかりは、素直になれない自分にうんざりした。


 でも、同時にこうも思う。


 ――ずるいよ、……ツクはどうなの?


 あかりは、頬が熱くなるのを誤魔化すように前を向くと、竹の青い匂いが、一層濃くなったように感じた。


      * 


 帰り道、あかりはもう一度だけ、渡月橋の方を振り返った。


 橋の上には、相変わらずたくさんの人がいた。


「また来ようね」


 あかりは、思いつきのように言ったつもりだったけれど、月読命が隣で足を止めて真剣に聞き返してきた。


「また、来るのか」


「うん。 まあ、今日だけじゃなくてもいいでしょ」


「そうだな」


「ツク、みたらし団子気に入ったみたいだし」


「悪くない」


「出た。 悪くない」


「かなり、悪くない」


「最大評価っぽい」


 あかりが笑うと、月読命は静かに橋を見た。


「月と渡る橋」


「……覚えてたんだ」


「そなたが言った」


「……うん」


「忘れぬ」


 川風が吹いて、髪が、赤く染まった頬にかかった。


 月読命が、あかりを見ていた。


 触れるわけでも、直すわけでもなく、ただ、見ていた。


 その視線が、なぜか手で触れられるよりも近くに感じた。


「……帰ろっか」


 あかりは、早口で言った。


「うむ」


 二人は、駅へ向かって歩き出した。人の流れは、かなり落ち着いていて、あかりの肩には来た時ほどの力は入っていない。


 観光地なら、月読命は思ったより目立たないことが分かった。人の多い場所なら、むしろ紛れることができるのだ。そういう、新しい発見ができてよかった。


 もちろん油断はできない。


 でも、月読命とできることが、歩ける場所が、少しだけ広がった。


 あかりは、隣を見上げた。


「次は、どこ行こうか」


「らぁめん屋」


「即答」


「前に約した」


「約したっていうか、ツクが勝手に食い下がってただけだけど」


「食い下がった」


「認めるんだ」


「らぁめんは、まだ十分に知らぬ」


「一回で十分に知られたら、ラーメン屋さんが困るね」


「ならば、何度も行く必要がある」


「理屈が完成してしまった」


 あかりはクスクスと笑った。


 駅に近づくにつれて、また匂いが増えてきたけれど、来た時には一度に押し寄せてきたものが、帰る時にはひとつずつ名前を持ってちゃんと見ることができた。


 牛串、焼き鳥、コロッケ、いちご飴、抹茶のソフトクリーム、温かいほうじ茶。

 

 そんな匂いの中を通り過ぎ、今日の嵐山が終わっていく。


 あかりの手の掌にはまだ、つないだ時の熱が残っていた。


     *


 数時間後。


 京都市内の公開SNS投稿を監視していた端末に、一枚の写真が拾い上げられた。


 渡月橋を背景に笑う観光客の、その端。


 背が高く、姿勢がいい、長い黒髪の男が映っていた。


 隣に若い女の姿があったが、顔は人の流れに隠れていた。


 まだ、点でしかなかった。


 だが、点は増え始めていた。

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