第26話 神様と帰り道
「帽子、よし」
あかりは、月読命の頭を見上げて言った。
薄いベージュのキャップは、昨夜、千晴と通話しながら悩みに悩んで選んだものだった。黒だと逆に目立つ。白だと月読命の顔立ちと合いすぎて、変装ではなく撮影衣装みたいになる。結果、いちばん普通で、いちばん無難で、いちばん「近所の大学生っぽい」色に落ち着いた。
——はずだった。……はずなのに。
「うーん」
あかりは腕を組んだ。
月読命は、玄関の上がり框に立っていた。白っぽいシャツに、濃いめのパンツ、足元はスニーカー。神様らしい衣ではなく、完全に今時の服装である。
なのに、なぜか普通にならない。
背が高くて、姿勢が良い。何よりも顔が整いすぎている。黙って立っているだけなのに、六畳の部屋より外の世界の方が遠慮しそうな気配がある。
「……やっぱり、目立つ」
「そなたが選んだ衣だ」
「服は悪くないの。 服は普通で、問題は中身」
「中身」
「神様成分」
月読命は、少しだけ眉を動かした。
「それは、隠しようがない」
「そこをなんとか隠してほしいんだよね」
「難しいことを言う」
「外出初心者なんだから、まずは謙虚にいこう」
あかりは人差し指を立てた。
「いい? 今日の目的は、遠出じゃありません。 昨日決めた外出ルールの実地訓練です。 社会勉強です。 近所をちょっと歩いて、無事に帰ってくる。 それだけだからね」
「承知している」
「神力禁止」
「承知している」
「知らない人に勝手についていかない」
「我は子供ではない」
「犬にもついていかない」
「……戌にも、か」
「前科がありそうな間を作らない」
月読命は、ほんのわずかに視線を外した。
あかりはそれを見逃さなかった。
「あるんだ」
「昔、少し」
「何が」
「縁が」
「犬と?」
「戌だけではない」
「はい、もう不安!」
あかりはため息をついた。
玄関の外から、夕方の気配が入ってきていた。扉の向こうから、誰かが階段を下りる足音がする。遠くで自転車のブレーキが鳴り、どこかの部屋からテレビの音が小さく漏れている。
夕方だった。
昼ほど明るすぎず、夜ほど危なくもない。子供たちはもう家に帰り始めていて、道に人はいるけれど、多すぎるほどではない。昼の熱は少しだけ引き、外を歩くにはちょうどいい風が吹いている。どこの家からも夕飯の匂いが漂い始める時間だ。
外出ルールを決めたあと、月読命と近所を歩くには、たぶん、これ以上ない時間だった。
——たぶん。
あかりは自分に言い聞かせる。
「あと、名前」
「ツク、であろう」
「そう。 外では絶対に月読命って呼ばない。 私も呼ばないし、ツクも自分で名乗らない」
「我が自ら『ツク』と名乗るのか」
「まあ、名乗る場面が来ないのが一番だけどね」
「ならば、そなたが呼べばよい」
何でもない声だった。
なのに、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「……呼ぶけど」
「ああ」
「変な顔しないでよ」
「していない」
「今、ちょっと嬉しそうだった」
「そうか」
「否定しないんだ」
「そなたに名を呼ばれるのは、心地よい」
あかりは、靴べらを持ったまま固まった。
こういうところで、月読命はまっすぐだ。照れ隠しも、冗談も、逃げもない。言葉がそのまま落ちてくる。だから、受け取る側のあかりだけが勝手に照れる。
「……はいはい。 じゃあ行くよ、ツク」
「うむ」
月読命は、静かに、そして、しっかりと頷いた。
その顔があまりに真面目だったので、あかりは少し笑ってしまった。
「そんな決戦みたいな顔しなくていいから。 ただの散歩だからね」
「ただの散歩、か」
「そう。 ただの散歩」
そう言いながら、あかりは鍵を手に取った。
けれど、ドアを開ける直前、ほんの少しだけ息を吸った。
以前も、月読命と外へ出たことはある。ラーメン屋にも行ったし、お月見の夜には、川まで歩いた。でも今日は、どこかへ連れていくためではなく、あかりがいつも歩いている道を、月読命が隣で歩く。
それだけのことなのに、テーマパークに行くときのような高揚感があった。
「……行こっか」
ドアを開けると、夕方の景色が二人の前に広がっていた。
外に出た瞬間、月読命は足を止めた。
あかりは慌てて振り返る。
「どうしたの?」
「いや」
月読命は、アパートの廊下から見える町並みを見下ろしていた。洗濯物が揺れている。電線が夕焼け空を横切っている。遠くの道路を車が走り、子供の声がどこかから響いてくる。
「そなたは、ここから出て、日々この道を歩いているのだな」
「大げさだし、今さら。 ……まあ、そうだけど」
「部屋の中にいるだけでは、分からぬ」
月読命は、廊下の手すり越しに夕方の町を見て言った。
「そなたが帰ってくる場所は見ていた。 だが、そなたが帰ってくるまでの道は知らなかった」
あかりは、夕日で赤みがかった月読命の横顔を眺めて、昨日のことを思い浮かべた。
——そなたが歩く道を知らぬ。それでは、そなたを知っているとは言えぬ。
「……今日は、ちょっとだけね」
「ああ」
「本当にちょっとだけだからね。 調子に乗って遠くまで行かないからね」
「そなたの指示に従う」
「よろしい」
階段を下りる時、月読命は一段一段、妙に丁寧に足を置いた。
「階段は知ってるよね?」
「知っている」
「じゃあ、なんでそんな儀式みたいに下りるの」
「この履物にまだ慣れぬ」
「あ、スニーカーか」
「足に張りつく」
「それが普通なの」
「不思議な履物だ」
あかりは笑った。——神様がスニーカーに戸惑ってる!
アパートから道路に出ると、昼の熱を少しだけ残した風が、二人の背中をゆるく撫でていく。
道端の隅で、猫じゃらしみたいな草の穂が揺れていた。夏の名残みたいに青いのに、先だけが少し乾いて、夕方の光を受けると赤く見える。
「あ、秋っぽい」
「秋っぽい?」
「猫じゃらしみたいな草。 名前はたぶん、エノコログサだったかな」
月読命は、草の穂を静かに見た。
「こういうのが風に揺れてると、秋って感じするの」
「そなたは、この草を好むのか」
「好き。 なんか、夕方に合うし」
「そうか」
月読命は、それ以上何も言わなかった。ただ、覚えるように、風の方を向いた。
あかりはその横顔を見て、変な気持ちになった。
——ただの近所の道なのに。
バイトに行く時に、大学から帰る時に、コンビニに寄る時に、何度も歩いた道だ。特別でも何でもない。疲れていれば面倒で、雨が降ればうんざりして、夏は暑くて、冬は寒いだけの道だ。
なのに、月読命が隣にいるだけで、初めて歩く道みたいに思えた。
「こっち」
あかりが歩き出すと、月読命は半歩後ろを歩いた。
「いや、そこまで下がらなくていいよ」
「そうか」
「隣。 隣でいい」
「……隣か」
「外出訓練だから。 見張りやすい位置にいて」
「見張るのか」
「うん。 主に私がツクを」
月読命は少しだけ考えた後、あかりの隣に並んだ。
——近い。
部屋の中でも近くにいたはずなのに、外で隣に立たれると、距離の意味が変わる。
道幅は広くない。だから、自転車が通れば自然に肩が寄る。歩幅を合わせるために、月読命はほんの少しだけ速度を落としている。
そのことが、あかりにはちょっぴり嬉しかった。
——ツクは、神様なのに人間に合わせてくれてる。私に合わせて歩いてくれてる。
「そなたは、いつもこの道を歩くのか」
「うん。 バイトの時はだいたいこっち。 大学行く時は駅の方だから、別の道も使うけど」
「夜も一人で歩くのか」
「まあ、バイト帰りは夜になることもあるね」
月読命の視線が、道の先に向いた。
「暗いな」
「まだ明るいよ」
「夜になれば、さらに暗い」
「街灯あるし、人もいるし、大丈夫だよ」
「大丈夫、か」
その言い方が少し納得していなかったので、あかりは横目で見た。
「心配?」
「そなたは弱い。 と千晴は言っておった」
「千晴はそう言ったけど......」
「だが、正しい」
「神様基準で言ったら人間はみんな弱いじゃん」
月読命は、心配してくれているのだ。
それはすごく嬉しい。
でも、何でも神様の力でどうにかされるのは違う、とも思う。
昨日、三人で外出ルールを決めた。
人前で神力をむやみに使わないこと、やむを得ぬ時を神様基準だけで決めないこと。
月読命は、それを覚えているはずだ。
だから今も、何かをしようとはしない。ただ、道を見て、暗さを見て、車の音を聞いていた。
守りたいと思っても、手を出さない。
その我慢に、ほんの少し胸が締め付けられた。
「ツク」
「何だ」
「今のところは、ちゃんと外出ルール守れています」
「約したからな」
「うん」
あかりは前を向いた。
「えらい」
「我は子供ではない」
「外出初心者には褒めて伸ばす方針です」
「そうか」
月読命は不服そうだったが、どこか受け入れているようにも見えた。
その時だった。
前方から、小型犬を連れた女性が歩いてきた。
白くてふわふわした犬だった。首輪につながったリードを揺らしながら、軽快に道を歩いている。
あかりは何気なく横へ寄った。月読命も同じように寄る。
すると、犬がぴたりと止まった。
「モコ?」
飼い主の女性が不思議そうに振り返る。
犬は月読命を見ていた。
吠えるわけでも、怯えるわけでもない。
ただ、月読命を見て、尻尾をぱたぱたと振り始めた。
次の瞬間、犬は前へ出ようとした。飼い主が慌ててリードを引くと、リードが、ぴーんと張った。
「すみません、うちの子、人が好きで」
「あ、大丈夫です」
あかりは笑って会釈した。
犬はまだ月読命を見ている。まるで知っている相手を見つけたみたいに、目がきらきらしていた。
「ツク、めっちゃ犬に見られてる」
「そのようだ」
「知り合い?」
「今の戌とは初めて会う」
「今の犬とは、って言い方が気になる」
犬は名残惜しそうに何度も振り返りながら、飼い主に引かれて去っていった。
あかりは苦笑いしながら隣の月読命を見上げた。
「子供だけじゃなくて、犬にも好かれるタイプ?」
「昔の縁がある」
「さっきも聞いた」
「ならば、同じ答えだ」
「絶対何かある」
「そのうち話す」
「そのうちって言う神様、だいたい話さないんだよね!」
月読命は、少しだけ唇を開いてわずかに息を吐いた。
あかりはその顔を見て、追及するのをやめた。
道を進むと、少しずつ店の明かりが増えてきた。さらに進むと、夕方の住宅街の中で、緑と白の帯が特徴的な看板が放つ光だけが妙に目に飛び込んできた。その看板の下の自動ドアが開くと、聞き慣れたメロディーが流れた。買い物袋を提げた人が出てきて、駐車場には車が入り、制服姿の高校生が入口へ向かっていくところだった。
あかりはその光景を遠巻きに見て、足を緩めた。
「ここ」
月読命が足を止める。
「ここがなんだ」
「私のバイト先だよ」
月読命とは、出会った翌日にコンビニに入ったことがあった。あの時の月読命は、明るすぎる店内、整然と並んだ商品、冷たい飲み物、温かい食べ物、電子音のするレジ、見るものすべてに驚いていた。
でも今、月読命が見ているのは、コンビニそのものではなかった。
「そなたは、あの中で働いているのか」
「うん。 レジ打ったり、品出ししたり、掃除したり。 他にもいろいろね」
「客が来る」
「来るね」
「知らぬ者と、言葉を交わす」
「バイトだからね」
「夜もか」
「シフトによるけど、夜もあるよ」
月読命は、店の光を静かに見ていた。
「そなたの世界には、我の知らぬそなたが多い」
あかりは、そんな言い方をされるとは思っていなくて、返事に迷った。
あかりにとっては、ただのバイト先だ。何か特別な場所ではない。でも、月読命にとっては違うのかもしれない。
あかりが自分のいない時間を過ごす場所、あかりが知らない人と話す場所、あかりが疲れて帰ってくる理由の一つ。
そういう場所なのかもしれなかった。
「……そりゃ、まあ。 ツクが知らない私も、多少はありますよ」
「そうか」
「でも、変なことはしてないからね」
「疑ってはいない」
「ほんと?」
「ただ、知りたいと思った」
——なんで私のことが知りたいの?
と聞き返したい。でも、あかりは、コンビニに顔を向けたまま、聞かないことにした。
心の奥が、ジンジンする。月読命からの無意識の直球にはまだ打ち返せない。
「……じゃあ、今日は外からだけ」
「ああ」
「中に入ると長くなるから。 ツク、絶対いろいろ聞くし」
「聞いてはならぬのか」
「今日は散歩がメイン。 コンビニ回はもうやったでしょ」
「こんびに回」
「こっちの話」
あかりは歩き出し、月読命も隣に並ぶ。
その時、道の向こうからまた犬が来た。
今度は柴犬だった。
飼い主の男性がスマホを見ながら歩いている。柴犬は最初、地面の匂いを嗅いでいた。けれど、月読命が近づいた瞬間、ぴたりと顔を上げた。
——まさか、また?
柴犬は月読命を見たまま動かなくなった。
「タロ、行くぞ」
飼い主がリードを引く。
リードが、ぴーんと張った。
柴犬は動かない。
むしろ、月読命の方へ行こうとして前足を浮かせ、飼い主が慌ててリードを引いたため、柴犬はその場で後ろ足だけで立つような形になった。
次の瞬間、ころん、と腹を見せる。
道の真ん中で、犬が完全に無防備な姿勢になった。
「タロ!? ちょ、何してんだお前」
飼い主の男性が、さらに困った声を出す。
あかりは思った。
——犬が、神様に全身で「どうぞ」と言っているのでは?
そんなふうに見えてしまった。
「あ、すみません」
今度は飼い主の男性の方が困ったように笑った。
「こいつ、急に止まって」
「いえ、大丈夫です」
あかりはまた会釈した。
柴犬は、じっと月読命を見ている。
月読命も、じっと見返している。
ほんの一瞬、空気がゆるんだような気がした。
柴犬の耳が少し下がって、尻尾が揺れる。まるで、偉い人に会った子供みたいだった。
「ツク」
「何だ」
「犬に好かれすぎ」
「そのようだな」
「二匹目だよ」
「そうだな」
「反応薄い」
「騒ぐことではない」
「私にとってはまあまあ騒ぐことなんだけど」
柴犬は、最後まで名残惜しそうに月読命を見ていた。
あかりは歩きながら、ちらりと月読命を見上げる。
……が。
そこで足を止めた。
「……ねえ、ツク」
「何だ」
「あれ、見える?」
あかりは、少し先の横断歩道の向こうを指さした。
そこにも犬がいた。
今度は中型の茶色い犬で、飼い主の女性が信号待ちをしている。距離はそこそこある。普通なら、こちらを気にするような距離ではない。
なのに、その犬もこちらを見ていた。
ぴん、と。
リードが、まっすぐ張っている。
「……だいぶ遠くにいるあの犬も、リードぴーんってなってない?」
「なっているな」
「なっているな、じゃないんだよ」
「事実を述べた」
「事実が怖いんだよ、こっちは」
信号が青になっても、犬はすぐには動かなかった。飼い主が少し困ったようにリードを引き、犬はようやく歩き出す。それでも、何度もこちらを振り返っている。
あかりは、ゆっくり月読命を見上げた。
「ツク」
「何だ」
「犬界で有名人?」
「いぬかい」
「今、明らかに犬ネットワークみたいなの発動してるよ」
「そのようなものは知らぬ」
「知らないだけで、あるかもしれないでしょ。 犬たちの中で『なんかすごい人いる』って伝わってるかもしれない」
「戌は、言葉ではなく気配で知る」
「急に神様っぽい解説しないで」
あかりは頭を抱えた。
「外出ルールに追加しようかな。 犬を集めない」
「集めてはおらぬ」
「結果として集まってる」
「結果までは、我の責ではない」
「神様ってそういうとこあるよね!」
あかりは歩きながら、ちらりと月読命を見上げる。先程は言いづらそうにしていたから聞くのをためらったけれど、あかりは気になってしょうがなかった。
「本当に、昔、何があったの?」
「世界を歩いていた時、動物たちと道を共にすることもあった」
「スケールが大きい」
「夜の道は、人だけのものではない」
月読命は当たり前のことを言ったのだが、あかりにはそう聞こえなかった。
「人より先に、気づくものもいる」
あかりはその言葉の意味を理解できなかったけれど、それ以上を聞くのも気が引けた。
夕方の道が、だんだん濃くなっていく。
空を見上げると、橙から紫がかった色へ移りかけていて、電線の上には、一羽のカラスが止まっていた。
「あ、そうだ」
細い道に入る手前で、あかりは足を止めた。
「こっち、ちょっと寄り道していい?」
「構わぬ」
「小さい神社があるの。 すぐそこ」
「神社」
月読命の声が、ほんの少しだけ変わった。
「嫌?」
「嫌ではない」
「神様的に、他の神社ってどういう感じなの?」
「場所による」
「ざっくりしてる」
「神社とは、ただ建物だけを指すものではない。 そこに積もった願い、時間、場の気配がある」
あかりは正直驚いた。
さっきまでスニーカーに戸惑っていた神様が、急に神様らしいことを言ったのだ。
「急に本職感を出してきた」
「本職」
「いや、神様が本職って言っていいのか分かんないけど」
「我は神である」
「自己紹介が強い」
あかりは笑って、細い道へ入った。
小さな神社は、住宅街の間にひっそりとあった。
大きな社ではない。石の鳥居が一つと古びた狛犬、短い参道の奥に小さな社殿があった。境内の隅には、落ち葉が少し溜まっている。
夕方の町の音が、鳥居に向かって進んでいく中でだんだんと遠くなっていった。
あかりは鳥居の前で足を止めた。
「一応、ここでお辞儀ね」
そう言って、軽く頭を下げると、月読命も、隣で静かに一礼した。
あかりは顔を上げて、思わず月読命を見た。
「神様も神社でお辞儀するんだ」
月読命は鳥居を見上げた。
「ここは境であろう」
「境?」
「人の世と、神の領域を分け、またつなぐものだ。 境を越えるなら、礼は要る」
あかりは、少しだけおどけて言った。
「……出た」
「何がだ」
「急に神様っぽいこと言うモード」
「神であるからな」
「そうなんだけど。 そうなんだけど、さっきまでスニーカーに戸惑ってた人が言うと、温度差がすごい」
「“すにいかぁ”と境は別であろう」
「別なんだ」
「別だ」
「神様の中では分類がしっかりしてるんだね」
あかりは小さく笑いながら、鳥居をくぐった。
境内は静かだった。
夕方の光が社殿の屋根に触れている。狛犬の背に落ち葉が一枚のっていた。どこかでカラスが一声鳴いた。
あかりは賽銭箱の前に立って、財布から小銭を出した。
月読命は、あかりの隣ではなく、距離をとって後ろに立っていた。
「ツクはお願いしないの?」
あかりが振り返ると、月読命は首を横に振った。
「我は、願う側ではない」
「そっか、……ツクは願いを叶え放題って感じ?」
「願いを軽く見るでない」
あかりは、瞬きをした。
夕方の境内で、月読命の声はいつもより少し低く聞こえた。
「願いって、そんなに重い?」
「重いものもある。 軽いものもある。 だが、どちらも残ることがある」
「残る?」
「願いは、消えぬことがある」
あかりは、なんとなく月読命に叱られたような気がして、どうするべきか迷ったけれど、とりあえず賽銭箱の方へ向き直って、小銭を入れることにした。
小銭が、からん、と小さく響いた。
二礼……二拍手……一礼。
手を合わせ、目を閉じる。
——しまった、……何をお願いするかなんて、考えてなかった。
レポートが終わりますように。バイトでミスしませんように。千晴に怒られませんように。今日の夕飯、失敗しませんように。
そんな軽い願いはいくらでも浮かんだ。
でも、心の奥の方で、ひとつだけ先に形になってしまったものがあった。
あかりは、目を閉じたまま、心の中でそっと願った。
——ツクが、この世界で迷子になりませんように。
願ってから、なんとなく恥ずかしくなった。でも、これは外出初心者の神様に向けた、分かりやすい安全祈願だ。そういうことにしておけばいい。
道に迷わないように、勝手にどこかへ行かないように、変な人についていかないように、犬に連れていかれないように。そういう、軽い願い。そういうことにしておけばいい。
けれど、目を開けるまでのほんの少しの間だけ、心の奥が静かになった。
涼しい風が吹いて、あかりは目を開けた。
振り返ると、月読命がこちらを見ていた。
「何?」
「この世界で、か」
あかりの心臓がドクンと跳ねた。
「え、聞こえた?」
「言葉は聞いていない」
「じゃあ、なんで」
「少し、残った」
月読命は社殿の方を見た。
その横顔が、ほんの一瞬だけ冷たく見えた。
「……変なお願いだった?」
「いや」
月読命は、少し間を置いてから答えた。
「そなたらしい」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
「ほんとかなあ」
あかりはわざと軽く言って、耳の熱さをごまかした。
「外出初心者向けの安全祈願だからね。 迷子防止。 子供用ハーネス的な」
「我は子供ではない」
「じゃあ犬用リード?」
「なお悪い」
「でも今日の犬人気を見る限り、リード側の可能性もあるよ」
「我を戌として扱うな」
「違う違う。 犬に連れていかれる神様として扱ってる」
「さらに悪い」
あかりは、そこでようやく笑った。
笑ってしまえば、さっきの願いもただの冗談に戻せる気がした。
けれど、月読命はもう一度だけ、社殿を見た。
それから、静かに言った。
「悪い願いではない」
「……じゃあ、良いお願い?」
月読命は、すぐには答えなかった。
「今は、そう受け取っておく」
「何それ。 神様、返事が意味深すぎる」
「そうか」
「そうだよ。 もっと『はい、交通安全ですね』くらいでいいの」
「交通安全」
「そう。 神様の外出安全祈願」
「ならば、なおさら効きそうだな」
「急に都合よく解釈した」
鳥居の上でカラスが羽を揺らした。
一羽だけだと思っていたけれど、見上げると、社殿の屋根の端にもう一羽、隣の電線にさらに二羽と、いつの間にか増えていた。
「カラス、多くない?」
「夕方だからであろう」
「夕方って便利な理由だね」
「便利」
「今、絶対ごまかしたでしょ」
「気のせいだ」
月読命は静かに鳥居の方へ歩き出した。あかりも自然とその隣に就く。
鳥居を出る時、月読命はもう一度、わずかに頭を下げた。
あかりはその横顔を見ていた。
——神様は神社で願わない。でも、願いを軽く見ない。
あかりには全く分からないことだった。ただ、自分の願いが何かに触れたのだということだけは、なんとなく分かった。
境内を出ると、町の音が戻ってきた。いつもの道だった。
なのに、いつもと違って見えた。
「帰ろ」
あかりが言うと、月読命はうなずいた。
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
帰り道は、行きよりも少し暗くなっていて、アスファルトに街灯の光が落ちていた。
月読命は、あかりの歩幅に合わせていたけれど、あかりは、それに気づかないふりをした。
「今日の外出訓練、どうでしたか?」
「多くを知った」
「そんなに?」
「そなたの道を見た。 そなたの働く場所を見た」
「それだけ?」
「それだけではない」
「何?」
「そなたが、願う姿も見た」
「……そこ、なんか恥ずかしいんだけど」
「なぜだ」
「分かんないけど。 なんか、覗かれた感じがする」
「中身までは、覗いておらぬ」
「覗けるの?」
「覗かぬ」
「覗けるってことじゃん!」
「願いは、無理に暴くものではない」
「……また神様っぽいこと言った」
「神であるからな」
あかりは早足になった。月読命は少しだけ遅れて、それでもすぐ隣に並ぶ。
「そなたは」
「何」
「我が、この世界で迷子に見えるのか」
あかりは、歩きながら黙った。
すぐには答えられなかった。冗談で返せばよかった。外出初心者だからね、と笑えばよかった。
でも、夕方の神社で願ってしまった言葉が、まだ胸の中に残っていた。
「……ちょっとだけ」
あかりは前を向いたまま言った。
「神様なのに、地上にいて、神域に帰れなくて、スマホもコンビニもスニーカーもよく分かってなくて、犬にはやたら見つめられるし」
「戌は関係あるのか」
「あるに決まってるじゃん。 外出不安要素だよ」
月読命は何も言わなかった。
あかりは続けた。
「でも、だからって、どこにも行けないまま部屋にいるのも違うと思うし。 私の知らないところで勝手に消えられるのも困るし」
言ってから、胸が小さく痛んだ。
——勝手にいなくなるのは嫌だ。
それは、思ったより本音だった。
「だから、迷子にならないでほしい。……この世界で」
最後の言葉は、ほとんど独り言みたいだった。
月読命は、しばらく黙っていた。
風が吹いて、エノコログサの穂が揺れた。
「ならば」
月読命は、空を見上げながら言った。
「そなたが呼べ」
あかりも顔を上げた。
「我が迷いそうになったら、そなたが呼べばよい」
「……ツク、って?」
「ああ」
「それで戻ってくるの?」
「そなたの声ならば、聞こえる」
あかりには、夕方の空が、少しだけ滲んで見えた。
——そんなことを言われたら……。
いや、これは外出訓練だ。神様の社会勉強だ。迷子防止の安全確認だ。断じて、それ以上のものではない。
そう思おうとしたのに、心はうまくいかなかった。
「……じゃあ、呼ぶ」
「ああ」
「迷子になったら、ちゃんと戻ってきてよ」
「約そう」
「また約すんだ」
「約したことは、守る」
「でも、呼んだら戻ってくるって、迷子っていうか犬じゃん」
「戌ではない。......迷子でもない」
あかりは、笑った。
その笑いは、たぶん少しの怖さと嬉しさが混ざっていた。
月読命には、本来帰るべき場所がある。あかりの六畳の部屋は、神様の帰る場所ではない。それなのに、約束が増え、呼び名が増え、帰る場所が重なっていく。
それが、あかりにはどうしようもなく嬉しかった。
アパートの明かりが見えてきた。
「着いた」
「戻ってきたな」
「うん。 無事帰還できたね」
あかりがそう答えた時、月読命はアパートの入り口を見上げたまま、静かに言った。
「次は、らぁめん屋への散歩としよう」
「散歩の目的地が急に濃い」
「以前行った店とは別でもよい」
「選択肢を広げないで」
「人の世を知るには、食も要る」
「急にもっともらしい理由をつけた」
「らぁめんは、人の世の深い理であろう」
「そこまで大きくしないで。 店主さんにプレッシャーだよ」
月読命は、なおも食い下がった。
「では、短時間でよい」
「ラーメン屋への散歩は短時間で終わらないの」
「そうなのか」
「そうなの。 並ぶし、食べるし、ツクはたぶんスープ見つめるし」
「見つめる」
「絶対見つめる」
ラーメンの話のせいで、さっきまで胸の奥に残っていた怖さが、湯気みたいに消えていく。
「まずは今日、無事に帰ってきた。 それで合格」
「合格か」
「うん。 外出初心者、一歩前進」
「ならば、次の一歩はらぁめんだな」
「なぜそうなる」
あかりは鍵を取り出しながら思った。
帰る場所が同じだというだけで、いつものただの道が、こんなにも違う道になるのだと。
——なんか、今、幸せ感じちゃってるかも。




