第25話 神様の外出ルール
月読命が、窓の外を見る時間が増えた。
最初、あかりはあまり気にしていなかった。月の神様なのだから、空を見ているのだろうと思っていた。月が出ていない時間でも、きっと神様には神様なりに、空を見る理由があるのだろう。
そういうものだと勝手に納得していた。
けれど、そこから三日目あたりで気づいた。月読命が見ているのは、空ではなく、アパートの前の道だった。
買い物袋を下げた近所の人、自転車で通り過ぎる高校生、ランドセルを揺らしながら歩く小学生、宅配の車、散歩中の犬。
特に犬が通る時、月読命の視線は分かりやすく動いた。
白い小型犬が、飼い主に連れられてとことこ歩いていく。
月読命は、それを黙って見ている。犬が角を曲がって見えなくなるまで、じっと。
「ツク」
「何だ」
「犬、見すぎ」
「歩いている」
「うん。 犬も歩くよ」
「連れられている」
「うん。 散歩だからね」
「さんぽ」
月読命が、その言葉を静かに繰り返した。
あかりは、嫌な予感がした。
神様が、知らない言葉を繰り返す時。それは、だいたい面倒な方向へ転がるのだ。
「ツク」
「何だ」
「まさかとは思うけど」
月読命は、もう一度、犬が消えた角の方を見た。
それから、まっすぐに言った。
「我も歩きたい」
ーー来た。
神様に、散歩欲が芽生えた。いや、十五夜の時に連れ出してから、散歩の味を占めたのかもしれない。
「……」
「我も、外を歩きたい」
「今、犬を見た流れで?」
「犬も歩いていた」
「犬基準で決めないで」
「人も歩いている」
「人基準でもちょっと待って」
あかりは、ちゃぶ台に置いていたマグカップをそっと下ろした。
月読命は本気だ。あかりにはそう見えた。
いつものように表情はあまり動かないし、声も落ち着いているけれど、その目は窓の外へ向いている。あかりがコンビニの新商品の陳列に向かう時より、ずっと真剣な様子だ。
「外は危ないんだよ」
いつかこうなるのではないかと予想していたあかりは、用意していた言葉を順番に言ってみた。
「前にも話したでしょ。 月読神社に車が来たこと。 ツクを探してる人たちがいるかもしれないこと。 外で目立ったらまずいこと」
「うむ」
「ツクは目立つの」
「なぜだ」
「まず身長。 次に顔。 あと、なんか神々しい」
「神であるからな」
「そこ、堂々としない!」
月読命は眉間にシワを寄せた。
「神であることは、隠すべきことなのか」
「外ではね」
「なぜだ」
「神様ですって自己紹介したら、たぶん通報か動画撮影か、最悪バズる」
「ばずる」
「そこから説明すると長い」
月読命は、考え込むように黙った。やがて、静かに言った。
「では、我はいつまでここにいればよい」
その声は、怒ってはいなかった。責めているようにも聞こえなかった。ただ、分からないことを問うているだけのようなのに、あかりの心に刺さってしまった。
「それは……」
「そなたが、よいと言うまでか」
「……」
あかりは勘違いしていることに気づいた。
「我は、そなたの部屋に置かれている物ではなかろう」
月読命は、あかりを心を刺しに来ていたのだった。あくまでも冷静に。
「相手の荷を奪えば、歩く力まで弱らせる。守るとは、すべてを背負うことではない」
ーー正論だ。
神様に正論で刺された。しかも六畳で。
あかりは、スマホを手に取った。
こういう時、自分一人で考えるとだいたい変な方向へ行く。だから、現実担当が必要だった。
あかりが、通話ボタンを押して、数回の呼び出し音を聞いたところで、千晴はすぐに出た。
『何。 レポート終わった?』
「終わってない」
『知ってた』
「千晴、まずい」
『何』
「神様が散歩したいみたい」
電話の向こうが、数秒、静かになった。
『犬のしつけ相談か!』
千晴のツッコミが大声で飛んできて、あかりはスマホを耳から離した。
「だって、ずっと窓の外見てるんだよ。 犬が通るたびに目で追ってるんだよ」
『完全に散歩前の犬じゃん!』
「神様です」
『散歩前の神様じゃん!』
「いや、そうなんだけど、新ジャンル作らないで」
月読命が、こちらを見ていた。
「我は犬ではない」
「千晴、聞こえてたみたい。 『我は犬ではない』って言ってるよ」
『でも散歩はしたい?』
千晴の声に全く悪びれた様子はない。
「ツク、千晴が散歩したいかってさ」
月読命は、少しも迷わず答えた。
「したい」
「したいってさ」
『かわいいな』
「千晴、褒めないで。 育つ」
「育つとは何だ」
「今は忘れて」
『スピーカーにして。 たぶんその方が早い』
あかりは少し迷ったが、結局スピーカーにした。
「聞こえる?」
『聞こえるよ。 月読さん、こんばんは』
「こんばんは」
『外に出たいんですね』
「うむ」
『散歩ですか』
「さんぽとは、人に連れられて外を歩くことか」
『だいたい合ってます』
「ならば、我はさんぽを望む」
「ツク、自分から犬側に寄らないで」
「犬側」
「忘れて」
千晴が電話の向こうで笑っている。あかりは口に手を当てながら必死に笑いを堪えていた。
ーーだめだ。面白い。
神様を犬扱いしてはいけない。
してはいけないのに、窓の外を見て散歩を望む月読命は、正直、少しだけかわいい。
いや、少しではない。
ーーめっちゃ、かわいい。
だけど、あかりはその考えを慌てて追い払った。
相手は月に神域を持つ月読命だ。天照大神、素戔嗚尊と並んで称される三貴神の一柱であり、日本神話に名を残す、歴とした神様である。
決して、犬ではない。
ーーが、散歩に行きたがっている。
「ぷふー」
あかりが堪えきれずに吹き出したタイミングで千晴からの冷静な声が飛んできた。
『まあ、外出禁止は無理があるよ』
千晴の声に、あかりも現実的になった。
『あかりの生活もあるし、月読さんだってずっと部屋の中じゃ限界でしょ。 神様を六畳で飼うわけにいかないし』
「飼ってない!」
「飼う」
「ツク、そこ拾わないで」
『じゃあ、外出ルール作りなよ』
「外出ルール」
『うん。 散歩ルールでもいいけど』
「よくない」
『まず首輪は無理』
「当たり前!」
『リードも無理』
「当たり前!」
『帽子はあり』
「急に現実」
『あと、勝手に飛び出さない』
「しつけだ」
『でも必要でしょ』
「必要なのが悔しい」
月読命が真面目な顔で聞いている。
「首輪とは」
「今は本当に聞かないで」
「りーどとは」
「それも聞かないで」
『月読さん、そこは知らなくていいです。 現代服と帽子。 まずこれ』
「うむ」
『外では月読命って名乗らない。 あかりも呼ばない。 基本はツク』
「ツク」
月読命がその二音を繰り返したとき、あかりの胸が、ほんの少しだけトクンと跳ねた。
ーー外でも、ツク。
自分がつけた短い名前を、外の道でも呼ぶ。
ーー嬉しい。……でも、他の人に聞かれるのは、なんとなく嫌だな。……いや、たぶん防犯上の理由で。
『あと、人前で神力禁止』
「これは絶対」
「やむを得ぬ時は」
「やむを得ぬ時を神様基準で決めない」
『あかり基準も怪しいから、できれば千晴基準で』
「現場にいないでしょ」
『でも私が一番まとも』
「否定できないのが悔しい」
月読命はしばらく考えた。
「では、神力はむやみに使わぬ」
「むやみに、ね。 絶対に使わないって決めると、本当に危ない時に困るから」
『そこは現実的だね』
「現実担当の弟子なので」
『弟子にした覚えはない』
あかりは少し笑った。
月読命はまだ真剣だった。
真剣すぎて、逆に不安になる。
『次。 知らない人について行かない』
「それは子供のしつけ」
『でも必要でしょ』
「必要なのが悔しい」
月読命が疑問を口にした。
「知らぬ者について行ってはならぬのか」
「うん」
「神域へ帰る道を知っていると言われてもか」
あかりの胸が、きゅっと縮んだ。
電話の向こうの千晴も、何かを言いかけて黙った。
さっきまでの犬っぽい雰囲気が、一気に変わってしまった。
「それは、絶対だめ」
あかりは言った。
「帰る方法っぽい話をされても、一人で判断しないで。 私に言って。 千晴にも相談する」
「うむ」
『月読さん、ここ大事です。 帰れますよ、知ってますよ、って近づいてくる人がいたら、かなり怪しいです』
「怪しい」
『はい。 神様誘拐の入口です』
「出口はどこだ」
「誘拐されないでって話をしてるの!」
月読命は納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
『あと、外へ出たい時は、できるだけ先にあかりへ言うこと。 遠くへ行く時は必ず言うこと』
「遠くとは、どこからだ」
「え、……どこからが遠いんだろ」
『大学は遠い?』
「千晴、今その火種入れないで」
「学び舎は遠いのか」
「今は聞かないで」
あかりは、未来の自分が頭を抱えている姿を見た気がした。
ーーツクは、いつか大学に来る。もう今から分かる。絶対に来る。
『それから、あかり側のルール』
「え? 私側もあるの?」
『あるに決まってるでしょ。 月読さんを閉じ込めない。 外へ出たいって言われたら、ちゃんと聞く。 危ないと思うことを一人で決めない』
千晴の声は軽い。でも、言っていることはまっすぐだった。
あかりは、月読命を守るつもりだった。
月読命のことを探している誰かがいるかもしれないし、その誰かが害意のない人かどうかは分からない。だから見つからないように隠した。
むやみに神力を使われても困る。ここは普通の人々が住む住宅街だ。近所迷惑になってしまう。
けれど。
部屋にいてくれると安心する。
誰にも見つからず、誰にも見られず、ここにいてくれると、安心する。
その気持ちがなかったとは言えなかった。
「……はい」
あかりは小さく返事をした。
「ごめん、ツク。 閉じ込めるつもりはなかったんだけど」
「うむ」
「……でも、ちょっと閉じ込めてたかもしれない」
「うむ」
「否定してくれないんだ」
「否定できぬ」
「正直!」
『神様、誠実』
「誠実すぎて刺さるー」
月読命は、あかりを見た。
「我は、そなたのそばにいることを嫌うているのではない」
「……うん」
「だが、この世を知らねば、我はなぜここに降ろされたのかも分からぬ」
窓の外から、子どもの笑い声が聞こえた。
誰かが階段を下りる音もするし、カラスの鳴き声も聞こえた。
今まで月読命は、これらを聞いていたのだろう。
「そなたが歩く道も、そなたが通う学び舎も、そなたが働く店も、我は知らぬ」
「……うん」
「それでは、そなたを知っているとは言えぬ」
あかりは固まった。
ーーまたっ!
この神様は、たまに何の自覚もなく、こちらの胸を撃ち抜いてくる。
ついこの間、自分の中で、ようやく名前を持ってしまった気持ちがあった。まだ誰にも言えないそんな気持ちを、月読命は何も知らない顔で揺らしてくる。
『あかり?』
「何」
『今、絶対顔赤いでしょ』
「赤くない」
『声が赤い』
「声に色をつけないで」
月読命が、あかりを見る。
「声は赤くなるのか」
「ならない。 千晴の比喩」
『比喩という名の事実』
「事実じゃない」
あかりは咳払いをした。
このままでは危ない。
主に自分の心臓が。
「とにかく、ルールまとめよう」
『はいはい。 月読さん側は、外では神名禁止、現代服と帽子、人前で神力をむやみに使わない、知らない人について行かない、帰る方法の話は一人で判断しない、外へ出る時はできるだけあかりに言う、遠くへ行く時は必ず言う』
「うむ」
『あかり側は、閉じ込めない、外へ出たいって言われたら聞く、危ないことを一人で決めない』
「うん」
『あと、犬扱いしすぎない』
「してない!」
「我は犬ではない」
「分かってる!」
『でも散歩はしたい』
「したい」
「ツクも即答しないで!」
千晴が電話の向こうで笑っている。
あかりは顔を両手で覆った。
ーーだめ……今日のツクは、白い犬にしか見えない!
「あと」
あかりは、顔を両手で隠しながら言った。
電話の向こうの千晴の笑いが止まった。
月読命も、あかりを見た。
「ツクに、もう一個」
「何だ」
「私を置いていかないこと」
あかりの声は両手に抑えられてくぐもっていた。
ーー今のは外出ルールだ。……たぶん。
外で怒って勝手にどこかへ行かれたら困るから。これも防犯上の理由、迷子防止、神様誘拐防止ということだ。
ーーそういうことにしたい。
月読命は、静かに答えた。
「置いていかぬ」
月読命のその声は、優しかった。
『……恋人か』
千晴から小さくツッコミが入ったけれど、あかりは、それを無視してもう一度口を開いた。
「あと……」
あかりは、指の隙間から片目を覗かせた。
「まだあるのか」
「ある」
「多いな」
「神様の外出ルールだから多いの」
ここまでは、勢いで言えた。そして、次の言葉も、この勢いのまま喉の奥から引っ張り出してしまいたかった。
「……私に何も言わず、勝手に神域に帰らないこと」
そのあとに落ちた沈黙は、さっきまでの冗談とは違っていた。
電話の向こうの千晴も、何も言わなかった。
これは、外出ルールではない。犬の散歩ルールでもないし、防犯でも、現代社会の常識でもない。
ただの、あかりのわがままだった。
帰る方法は探すし、帰るべき場所があるなら、帰った方がいい。
そう思っている。
でも、見つかった瞬間、何も言わずに消えられたら、たぶん耐えられない。
月読命は、あかりを見ていた。そして、長い沈黙のあと、静かに言った。
「心得た」
「……いいの?」
「そなたに告げずには、帰らぬ」
あかりは唇を噛んで、泣きそうになるのを堪えた。
ーー外出ルール会議なのに。散歩前の神様問題だったはずなのに。どうして急に、胸が苦しくなるんだろう。
『あかり』
千晴の声は、いつにも増して柔らかかった。
『それ、ちゃんと約束にしなよ』
「うん」
あかりは頷いた。
そして、月読命に向かって小指を差し出した。
「じゃあ、指切り」
月読命が、差し出された小指を見た。
真剣な顔で言う。
「指を切るのか」
「切らない!」
あかりは反射で叫んだ。
千晴が電話の向こうで吹き出した。
『出た。 神様の真面目解釈』
「切らない。 そういう名前」
「しかし、指切りと言った」
「名前だけ。 実際には切らない」
「人の世は、名と実が異なることが多いな」
「神様もまあまあ多いでしょ」
「そうだな」
「納得した」
あかりは、月読命の手を見た。
大きな手だ。
あかりの手より、ずっと大きい。それなのに、小指を差し出す動きは、ぎこちなかった。
月読命の小指が、あかりの小指に触れた。
そして、ーー絡まった。
「えっと、言うよ」
「何をだ」
「指切りの言葉」
「言葉もあるのか」
『月読さん、真面目に聞いて。 人類最強クラスの約束文だから』
「千晴、余計な前振りしないで」
月読命が、さらに真剣な顔になる。
あかりは嫌な予感がしたけれど、もう遅かった。小指はすでに絡まってしまっていた。
あかりは歌うように言った。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った」
月読命が固まった。
完全に固まった。
「……針を、千本」
「そこ真に受けない」
「飲むのか」
「飲まない」
「だが、嘘をついたら飲ますと言った」
「言ったけど、そういう決まり文句」
「人の世の約束は、恐ろしいな」
「だから真に受けないで」
「これは呪か」
「違う。 たぶん違う。 いや、ちょっと呪っぽいけど」
『呪だね』
「千晴、乗らないで」
千晴は電話の向こうで爆笑していたけれど、月読命は表情を一ミリも動かさずに絡めた小指を見つめていた。
その眼差しがあまりに真剣で、あかりは少し困った。
「でも、破っちゃだめな約束ってこと」
「うむ」
「ツクは、外へ出る時はできるだけ言う。 遠くへ行く時は必ず言う。 人前で神力をむやみに使わない。 知らない人について行かない。 帰る方法の話も一人で決めない。 私を置いていかない。 私に何も言わず、勝手に神域に帰らない」
「うむ」
「私は、ツクを閉じ込めない。 外へ出たいって言われたらちゃんと聞く。 危ないと思ったことを一人で決めない」
「うむ」
「約束」
「約する」
月読命は、今度はちゃんとそう言った。そして、あかりは、絡めた小指を少しだけ揺らした。
「指切った」
「指は切れておらぬ」
「そういうやつなの」
「そうか」
月読命は頷いた。
その瞬間、小指の先がほんの少し温かくなった。
神力なのか、ただの体温なのか、それとも自分が意識しすぎているだけなのか分からなかったけれど、たしかに小指を通して胸の奥まで何かが届いた気がして、あかりは小指をゆっくりと離した。
「はい、おしまい」
『おめでとう。 神様の外出ルール成立』
「うむ」
『これでやっと散歩できるね』
「だから散歩って言わないで」
月読命が、静かに言った。
「明日、外へ出る」
「明日!?」
あかりは声を上げた。
「早い!」
「約した」
「約したけど、いきなりすぎない?」
「人の世を知る」
「いや、知るにしても段階ってものが」
「まず、そなたの歩く道を知る」
ーーまただ。またそういうことを言う。
今日はずっと、心臓の方が忙しい。
『いいじゃん。 短時間から始めれば』
「千晴まで」
『家の近くを少し歩くだけなら、ちょうどいいでしょ。 帽子かぶって、現代服で、神力禁止で』
「うう」
『あかり、閉じ込めない約束したばっかり』
「分かってる」
ーー指切りまでしたし。
あかりは小さく息を吐いた。
「……分かった。 じゃあ、明日、短時間だけ、……わ、私もついて行くからね!」
「うむ」
「絶対に目立たないこと」
「我は目立たぬ」
「その顔で言う?」
「顔」
「そう!」
『もう一個ルール追加。 あかりは月読さんの顔面に負けない』
「無理難題を増やさないで」
千晴が笑ったことに、月読命はやっぱり分かっていない顔をしていた。
通話を切ると、部屋は静かになった。窓の隙間から入る風に、どこか遠くの金木犀の匂いが混じった気がした。
月読命は、もう一度窓の外を見た。
あかりは、その横顔を見る。
もう部屋の中だけの神様ではなくなってしまった。
それは、少しだけ怖くて、少しだけ寂しくて、でも、二人で出かけられるようになったのは、どうしようもなく楽しみだった。




