第24話 帰れない神様
レポートの資料は、机の上で小さな山になっていた。
神道の入門書、日本神話の概説書、古事記の現代語訳、日本書紀の抜粋、民俗学の本、境界信仰について書かれた論文集、祝詞の解説書。
六畳の部屋のちゃぶ台に並べると、それだけで何かの儀式みたいに見えた。
ただし、儀式としては、かなり散らかっている。
「……多いな」
月読命が、積まれた本を見下ろして言った。
窓から入る秋口の光を正面に受けた月読命には、神々しいという言葉がそのまま当てはまっていた。散らかっていても儀式に見えたのは、たぶん月読命の存在感がそうさせたのだろう。
「レポートの資料」
「れぽーと」
「大学の課題。 調べて、まとめて、文章にするやつ」
「木簡に記すのか」
「パソコンです」
「ぱそこん」
「そこから説明すると卒業できないから、今は勘弁して」
あかりはノートパソコンを開いたまま、ため息をついた。
画面には、書きかけの文章が一段落だけ表示されている。
――境界信仰において、川・橋・井戸・山・海などは、日常と非日常を分ける場所であると同時に、それらをつなぐ場所でもある。
そこまでは書いたけれど、問題はその先だった。
日常と非日常、この世とあの世、人間の世界と神の世界。
そんな言葉を並べるたびに、部屋の中央に座っている男神が視界に入る。
――実物がいるんですけど。
レポートが進むわけがなかった。しかも、味噌汁を飲むし、ラーメンに感動するし、スーパーで目を輝かせる。
スマホが鳴った。
画面には、千晴の名前が表示されている。
「あ、千晴だ」
あかりが通話ボタンを押すと、すぐに聞き慣れた声が飛び込んできた。
『今、大丈夫?』
「うん。 レポートと格闘中」
『進んでる?』
「資料は増えてる」
『文章は?』
「約十行ってところ」
『全然だめじゃん』
「知ってる」
電話の向こうで、千晴が小さく笑った。
『藤宮先生のレポート、テーマ何にしたの?』
「境界信仰。 川とか橋とか井戸とか、そういう場所が、日常と非日常をつなぐっていう話」
『あんた、完全に実体験混ざってるじゃん』
「混ぜてない。 混ぜたら危険」
『まあ、そりゃそうか。 参考文献に“うちの六畳にいる月の神”って書けないもんね』
「書いたら単位じゃなくて面談が来る」
あかりは苦笑しながら、机の上の本を一冊閉じた。
電話越しの千晴の声はいつも通りだった。軽くて、現実的で、少しだけ鋭い。
その声を聞くと、あかりは少し安心する。
神様と二人きりでいる時間が増えてから、普通の友達の声が、前よりずっと現実の重みを持つようになっていた。
『で、レポートはともかく』
「ともかく?」
『月読さんの方は?』
あかりの指がキーボードから離れた。
「方って?」
『月に返す手段。 何か見つかった?』
軽い声だった。
でも、千晴が本当に聞きたかったのは、たぶん最初からそれで、レポートの話はそこへ入るための口実だったのだと、あかりには分かった。
あかりは、机の上に積まれた、古い神様の名前や神社の作法、神と人との関わりについて書かれた本の山を見た。
「全然」
自分でも驚くほど、短い声が出た。
『全然?』
「うん。 全然」
『追いかけて来た人たちのことは?』
「もっと全然。 追いかけて来たのは勘違いだったかもしれないって思い始めてる」
あかりは椅子の背にもたれた。
「図書館から借りてきた本は、本当にただの神話だったよ。 月読命の名前は載ってるし、三貴神の説明もある。 保食神の話も、昼と夜が分かれた話も、一応は書かれてる」
『うん』
「でも、現代の地上に降り立った神様を神域へ戻す方法なんて、一行たりとも載ってない」
当然といえば、当然だった。
そんなことが載っている本が普通に大学図書館に置いてあったら、それはそれで怖い。
けれど、あかりにとっては笑い話ではなかった。この六畳にいる神様を、どうしたら元の場所へ帰せるのか。
それを、本当に知りたかった。
「宗教系の本も借りてみた。 神道の入門書とか、祝詞の解説とか、祭祀の本とか、民俗学の本とか」
『本気だね』
「本気だよ」
言ってから、少し胸が痛んだ。
ーー……本気。本気で調べてるの。
でも、その一方で、見つからないことに、ほっとしている自分もいる。
「神様を祀る方法は書いてあるんだけどねぇ。 あと、神様を迎える儀礼とか、神様に祈る言葉とか、失礼にならない参拝の仕方とか、そういうのはいっぱい出てくる」
『うん』
「でも、帰れなくなった神様を月へ帰す方法は出てこない」
電話の向こうが、静かになった。
千晴は茶化さなかった。こういう時、千晴はちゃんと黙ってくれる。だから余計に、あかりは続きを言えた。
「ネットでも調べたよ」
『何て?』
「神様 帰す 方法」
『検索ワードが雑じゃない?』
「じゃあどう調べればいいの」
『神域、帰還、儀式、とか?』
「それも調べたし、だめだった」
『月の神 戻す 儀礼』
「調べた。 出てくるの、だいたいゲーム攻略か、創作設定まとめか、スピリチュアル系」
『まあ、そうなるか』
「あと、途中で思った。 神様を帰す方法って、除霊?」
『除霊って』
「でも、違うなって」
あかりは、視線だけで月読命を見た。
月読命は、本を一冊手に取り、表紙を真剣に眺めていた。そこにいるのは、霊ではなく、悪いものでもない。だから、祓いたいわけでも、追い出したいわけでもない。ただ、帰るべき場所へ帰す方法を知りたいだけだ。
「ツクは霊じゃないし、悪いものでもないし、祓いたいわけじゃない」
『まあ、六畳にいる神様を除霊って、だいぶ失礼だね』
「でしょ。 しかも、もし効いたら効いたで嫌だし」
『嫌なんだ』
「……嫌っていうか」
しまった、と思った。
電話の向こうで、千晴が黙った。
――今の沈黙は、かなり危ないやつ。
あかりは慌てて話題を戻した。
「とにかく、ネットもだめ。 本もだめ。 本人もだめ」
『本人も?』
「うん」
あかりは、もう一度月読命を見た。
月読命は、表紙の文字を読もうとしているのか、少し眉を寄せている。
その本は祝詞の解説書だった。
「ツク、それ上下逆」
月読命は本を上下逆に直し、静かに頷いた。
「うむ」
『……あかり』
「何」
『今、何て?』
「何が」
『今、めちゃくちゃ自然に、ツクって呼んだよね』
「呼んだけど」
『声』
「声?」
『声が甘い』
「甘くない」
『甘い。 今のは砂糖入ってた』
「入ってない。 普通に注意しただけ」
『普通に注意する時の声じゃなかった』
「千晴、そういうとこだけ耳良すぎ」
『友達なので』
あかりはスマホを握り直した。
耳が熱い。
――まずい。今、たぶん顔も赤い。
月読命がそれに気づかないことを祈りながら、あかりは無理やり話を続けた。
「本人に聞いても、分からぬ、ばっかりなんだよ」
『月読さんが?』
「そう。 なぜ地上に降りたのかも、どうやって帰るのかも、帰る道が今どこにあるのかも、追って来たのが誰なのかも、分からぬ。 ぜーんぶ、分からぬ。 だからね。」
『それは……困るね』
「困るよ。 本人が一番分かってないのに、本人が一番落ち着いてる」
『それ、月読さんっぽい』
「しかもさ」
あかりは声を少し落とした。
「なんか、あんまり帰ろうとしてる感じがないんだよね」
『ないの?』
「ない」
あかりは、指で本の端をなぞった。
「ラーメン食べて感動してたし、味噌汁飲んでおいしいって言ってたし、スーパーでは目がきらきらしてたし、子供には白いラスボスって呼ばれてたし」
『白いラスボス、順応してるね』
「順応しないでほしいんだけどね、本当は」
ーー本当は。
その言葉が、自分の中で引っかかった。
本当は、どう思っているのか。
『警察とかは?』
千晴が静かに聞いた。
あかりはすぐに首を振ったけれど、電話なので見えないと気づき、声に出す。
「無理」
『まあ、神様ですって連れていくのも無理だけど』
「それもある。 でも、それだけじゃなくて」
『うん』
「あの夜、車が来たって話、したでしょ。 月読神社に」
電話の向こうで、千晴の空気が変わった。
『……うん』
あの夜。
月明かりの濃い境内、白銀の衣をまとった男、月読命と名乗った神様。そして、境内の外から近づいてきた車の音。
あの時は、それどころじゃなかった。けれど後から思い返すほど、偶然とは思えなかった。
「ツクが何者かを知ってる人たちがいるのかもしれない。 少なくとも、あの場所で何かが起きたって気づいた人たちはいる気がする」
『だから、表に出せない』
「うん。 警察に言っても信じてもらえないと思う。 でも、もし信じてもらえたとしても、身元不明者として記録が残る。 どこかに照会されたら、誰かの目に入る」
『それで、月読さんの居場所が漏れるかもしれない』
「そう」
あかりはスマホを握る手に力を込めた。
「ただの勘違いならいいんだけど、誰かに追われているかもしれないなら、警察とか役所とかに記録が残るのが怖い」
『……あかり』
「何」
『それ、月読さんのためだけ?』
胸の奥を、指で押されたような気がした。
「……どういう意味」
『月読さんが危ないかもしれないから隠してる。 それは分かる。 ちゃんと理由もあると思う』
「うん」
『でも、それだけ?』
あかりは答えられなかった。
千晴はいつも、こういうところで逃がしてくれない。優しいくせに、鋭い。鋭いくせに、優しい。
『帰す方法が見つからないことに、ちょっとほっとしてない?』
言葉が出なかった。否定しようと思えば、できた。
――そんなことないよ、と笑えばよかった。
でも、それは嘘だった。嘘になると、分かってしまっていた。
『……あかり?』
「分かんない」
やっと出た声は、小さかった。
「帰したいとは思ってる。 帰れないのは、たぶんよくないから。 ツクがここにいることで、何かおかしなことが起きてるのかもしれないし、本当は帰るべき場所があるんだと思う」
『うん』
「でも、見つからない方が、少しだけほっとしてる自分もいる」
言ってしまった。そして、胸が苦しくなった。
月読命は、帰れない神様だ。それは可哀想なことのはずだ。帰る場所があるのに帰れないなんて、寂しいに決まっている。
そう思う。
そう思うのに。
帰る方法が見つからないことに、どこかで安心してしまう自分がいる。
――最低だ。
『あかり』
「何」
『ガチの初恋じゃん』
「……」
今度こそ、完全に言葉が止まった。
これは、否定するべきだった。いや、反射で怒るべきだった。「何言ってるの」と笑うべきだった。
なのに、何も出てこなかった。
『え、待って。 ほんとに?』
「……ちょっと、やめて」
『ごめん。 茶化した』
「別に、茶化されたから嫌なんじゃない」
『じゃあ、何』
「分かんない」
『また分かんない』
「本当に分かんないの」
――分からない?いや、違う。
本当は、もう分かっている。分かっているから、言いたくない。
あかりは視線を落とした。
机の上の本の文字が、少しぼやけて見えた。
『でもさ、初恋って言うと、あんた一応、彼氏いたことあるじゃんって言い出すでしょ』
「……一応、彼氏いたことはあるし」
『高校の時の、あれ』
「あれって言わないで」
『告白されて、周りがきゃーきゃー盛り上がって、なんとなく付き合って、テスト期間挟んで、何したらいいか分かんなくなって、最終的にあかりから別れたやつでしょ』
「事実だけ並べるのやめて。 刺さるから」
『まだ申し訳ないと思ってるの?』
「思ってるよ。 普通に黒歴史だよ」
高校時代、一度だけ彼氏ができた。その相手は悪い人ではなかった。むしろ、ちゃんと優しい人だったと思う。告白されて、周りが盛り上がって、断る理由も見つからなくて、好きになれるのかもしれないと思って、付き合った。
付き合ったあとも何をすればいいのか分からず、試験勉強の期間を挟むうちに連絡は曖昧になった。
好きじゃないのに周りの熱に飲まれて付き合ったことが申し訳ないと、あかりの方から正直に説明して、別れを告げた。
あれは恋というより、恋愛イベントに巻き込まれた事故に近かった。
『だから言ってんの』
「何を」
『あれは初恋っていうより、恋愛行事に参加しただけ』
「ひどい」
『でも、だいたい合ってるでしょ』
「……否定しづらい」
『あかり、恋愛レベル小学生だから』
「小学生はひどい」
『じゃあ、中一』
「上げ方が微妙」
『今のは違うよ』
千晴の声が、少しだけ柔らかくなった。
『誰かに告白されたわけでも、周りに押されたわけでもないでしょ。 むしろ誰にも何も言われてないのに、自然と甘い声に変わってる』
「声の話に戻さないで」
『戻すよ。 だって分かるもん。 月読さんの話してる時、声が違う。 さっき“ツク”って呼んだ時なんか、完全に好きな人を呼ぶ声だった』
「やめて」
『やめない』
「千晴」
『友達なので』
その一言で、あかりは黙った。
千晴は、からかっている。でも、それだけではない。あかりが自分で言えないことを、代わりに言葉にしようとしている。逃げ道を塞いでいるようで、実は、あかりが自分の気持ちを一人で抱え込みすぎないようにしてくれている。
それが分かるから、怒りきれなかった。
「違う」と言えなかった。
言えば、――大切な友達に嘘ついちゃう。
初めて会ったあの夜、月明かりの下に立つ白銀の男から目を離せなかった。これは、もしかして恋なのではないかと、たぶんどこかで思っていた。
ただ、その時は確信がなかった。非日常に巻き込まれた興奮かもしれない。神様なんてものに出会って、心が浮かれているだけかもしれない。
白銀の衣も、月明かりも、異様な美しさも、全部が現実離れしていたから。
だから、いくらでもごまかせた。
でも、ラーメンを食べて、トイレで真剣に困り、スーパーで季節が棚に置かれていることに驚き、子供たちには白いラスボスと呼ばれ、味噌汁をおいしいと言った。
そのたびに、気持ちが少しずつ大きくなっていくのを感じつつ、それでも、まだ誤魔化せた。
でも、十五夜。
月明かりの下で、彼は微笑みながら「そなたは、我にとっての月かもしれんな」と言ったのだ。
そう言われた瞬間、胸の奥で、鐘が打たれたみたいだった。
強く、深く、何度も。
あれを、聞き間違いにすることはできなかった。あれを、ただの神様の言葉として片づけることは、もうできなかった。
恋に落ちた。月読命に。ツクに。
けれど、相手は神様だ。立場が違う、なんて言葉では足りない。
人間と神。
六畳の部屋で同じテーブルを囲んでいても、本当は月とスッポンどころではないくらい、かけ離れているのかもしれない。
それに、これは完全な片思いだ。
月読命は優しい。
まっすぐで、時々こちらが困るほどの優しい言葉をくれる。でも、それが恋する相手にかける言葉だとは思えなかった。恋愛どころか、現代の常識すら怪しい神様だ。
そんな相手に、一人で恋をしている。
打ち明けたところで、どうなるとも思えない。だから、千晴にさえ言えなかった。言葉にしたら、本当になってしまうから。
本当になったところで、どうにもならないから。
『あかり』
千晴の声で、あかりは現実に戻った。
「……何」
『無理に言わなくていいよ』
「うん」
『でも、なかったことにするのは、たぶん無理だからね』
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……分かってる」
『あと、神様に片思いしてても単位はくれないから、レポートは書きな』
「急に現実」
『現実担当なので』
「ありがたいけど、刺さる」
『刺すために言ってる』
「友達でしょ」
『友達だから刺してる』
あかりは「……もお、もっと優しくして」と言って笑った。
笑えたことに、自分でも少し安心した。
『月読さんのことは、また一緒に考えよ』
「うん」
『警察に渡せないって判断は、私は間違ってないと思う。 でも、あかり一人で全部抱えるのも違うから』
「分かってる」
『ほんとに?』
「……努力します」
『よろしい』
千晴の声が軽くなった。
『じゃあ、レポート頑張って。 恋愛レベル小学生でも、単位は大学生基準だから』
「最後に余計なの付けないで」
『じゃあ中一』
「だから微妙」
被せるようなあかりのツッコミに、電話の向こうで千晴が笑った。
通話が切れると、部屋が急に静かになったように感じた。スマホの画面も暗くなる。
あかりは、しばらくそれを見つめていた。
「千晴は、何と言っていた」
月読命が尋ねた。
あかりはびくりと肩を揺らした。
「え、何が?」
「そなたの声が、途中から変わった」
「……変わってない」
「変わっていた」
月読命は、まっすぐにこちらを見ている。
こういうところが困る。人間の機微は分からないくせに、声の変化だけは妙に拾う。
「レポートの話してただけ」
「そうか」
「そうです」
「それにしては、耳が赤い」
「これは、レポートへの怒り」
「れぽーとに怒ると耳が赤くなるのか」
「人間はそういうものです」
「そうなのか」
「ごめん。 今のは嘘」
あかりは、逃げるように机の上の本をまとめ始めた。
「ツク、その本こっち置いて」
「うむ」
月読命は祝詞の解説書を差し出した。
ーーツク。
自分の声が、その二音を呼ぶ。それだけで、電話越しの千晴の言葉がよみがえった。
『完全に好きな人を呼ぶ声だった』
――もう、本当に、やめて!
でも、否定できない。
月読命は何も知らない顔で、あかりの前に本を置いた。
「この本にも、我が帰る方法は書いておらぬのか」
その言葉に、あかりの手が止まった。
――ああ、この人は、本当に帰れない神様なのだ。
それなのに、六畳の部屋で、当たり前みたいに本を渡してくる。
「……書いてなかった」
「そうか」
「ごめん」
「なぜ、そなたが謝る」
「だって、帰れないの、可哀想だと思って」
言った瞬間、胸が痛んだ。
――可哀想。
その言葉は、嘘ではない。でも、全部でもない。
月読命は、静かにあかりを見た。
「我は、今、ここにいる」
「うん」
「それは、可哀想なことなのか」
「……分かんない」
あかりは、正直に言った。
「でも、帰る場所があるのに帰れないのは、寂しいことなんじゃないかなって思う」
「そうか」
「うん」
「そなたは、我に帰ってほしいのか」
真っ直ぐで、逃げ道のない問いだった。
帰るべき場所があるなら帰った方がいいのだから、帰ってほしいと言うべきだった。
神様が人間の六畳にい続けるなんて、きっと正しくない。
分かっている。分かっているのに。
「……帰れる方法は、探すよ」
やっと出た答えは、問いの答えになっていなかった。
月読命は、あかりから目を逸らさなかった。
「うむ」
月読命はそれ以上、何も聞かなかった。
その優しさが、また苦しかった。
あかりは本を重ね、ノートパソコンの横へ置いた。画面には、まだ一段落しか書かれていないレポートが開いたままだった。
あかりは、その文章を見つめた。
――境界。こちら側と、あちら側。人間と、神様。帰る場所と、帰れない場所。
そして、自分の心。
月読命は、月の神域へ帰る道を失い、現代の地上に取り残された、帰れない神様なのだと、あかりは思っていた。
けれど本当は、……胸の奥では、別の言葉が静かに息をしていた。
――帰したくない。
その言葉を、あかりは声には出せない。
ただ、机の上の本をそっと押さえながら、もう一度だけ、小さく呼んだ。
「ツク」
月読命は、あかりの表情をじっと見つめていた。
「何だ」
「呼んだだけ」
「そうか」
月読命があかりを見つめるその目は、とても優しかった。




