第23話 神様の短い名前
あかりは、朝の光を受けた月読命の頬に、ほんのりと月明かりが残っている気がした。月読命のその綺麗すぎる顔を見た途端、昨夜のことを思い出して顔を赤くした。
十五夜の月を見ながら「月が綺麗ですね」なんてことを、口にしてしまったからだ。
――いや、違う。あれは説明だったの。
夏目漱石がそう訳したという話は有名だけれど、確実な記録はない。今では恋愛表現として広まっている。そういう都市伝説めいた話を、ただ月読命に説明しただけだ。
だから、深い意味はない。だけど、問題は、そのあとだった。
――そなたは、我にとっての月かもしれんな。
「……うわあ」
あかりは両手で顔を覆った。
ちゃぶ台の上には、朝食用に温めた味噌汁と、パックご飯と、昨日の残りの焼き魚が並んでいる。ちゃんとした朝食と言うには少しだけ手抜きだけれど、菓子パンだけよりはましだ。
向かい側では、月読命が静かに座っていた。いつも通りの綺麗な正座、……いや聖座だ。
長い黒髪は後ろでゆるく結ばれていて、あかりと千晴が選んだ淡いグレーのシャツに、黒のパンツを着ていた。神話の中の存在のはずなのに、六畳の部屋にいると、そんなことは感じられない。
神様のままでいてくれれば、まだ距離を取れたのに、この神様は六畳の部屋に座っていて、味噌汁の香りに反応するのだ。
「良い香りだ」
そして、月を見上げながら、「そなたは、我にとっての月かもしれんな」
なんてことを言った。
――きゃぁぁぁ。
あかりが心の中で叫んでいると、月読命から怪訝そうな声がかかった。
「どうした」
月読命は箸を持ったまま、あかりを見ていた。
「……どうもしてない」
あかりは、顔を覆っていた両手をゆっくりと降ろし、そのままの流れで手前にあった汁椀を持った。
「顔が赤い」
「味噌汁が熱いの」
「まだ飲んでおらぬ」
「湯気で」
「湯気で耳まで赤くなるのか」
「なります。 人間はそういうものです」
「そうなのか」
「納得しないで。 今のは嘘だから」
月読命は、箸を置いた。
「なぜ嘘をつく」
「いや、そんな真剣に受け止めなくていいから」
「昨夜のことか」
あかりの手が止まった。
「……何が」
「そなたは昨夜、月が綺麗だと言った。 そして、その言葉には別の意味があると言った」
「言いましたけど」
「では、そなたは昨夜、我にそう言ったのか」
「……っ」
「好きだと」
「違う!」
即答だった。
――即答しすぎた。
あかりには、月読命の目が少しだけ曇ったように見えた。
「違うのか」
「違うっていうか、違わないっていうか、違うんだけど、違いきれないというか」
「どういうことだ」
「私も分からない!」
あかりは汁椀を置き、もう一度顔を覆った。
「だから、朝から追及しないで。 まだ頭が起きてない」
「そなたは起きてから随分と動いていた」
「そういうことじゃないの」
「では、どういうことだ」
「人間には、分かってても説明したくないことがあるんです」
月読命は、しばらく考えるように黙った。
そして、静かに頷く。
「ならば、今は聞かぬ」
その一言に、あかりは救われた。
この神様は、分からないことをすぐに知ろうとするけれど、踏み込んではいけない場所があると分かると、意外なほど素直に引く。
だから余計に、放っておけなくなる。
「ありがと」
「うむ」
月読命は、味噌汁を一口飲んだ。その表情が、ほんの少し緩む。
「おいしい」
「でしょ」
「人の食は、汁にも心が溶け込むのだな」
「急に詩人みたいなこと言う」
「詩人とは何だ」
「言葉で綺麗なこと言う人」
「では、昨夜のそなたは詩人であった」
「だから、……その話に戻さないで」
朝食は、少しだけぎこちないまま進んだけれど、その沈黙は嫌ではなかった。
あかりは、月読命の皿を見た。
「あ、ツク、醤油いる?」
その瞬間だった。
月読命の動きが、止まった。ほんの少しだけだ。
けれど、あかりには分かった。
「……どうしたの?」
月読命は、あかりを見ずに言った。
「今、我を何と呼んだ」
「え?」
「ツク、と」
「ああ、うん。 呼んだけど」
「なぜだ」
「なぜって……今さら?」
あかりは思わず笑った。
「けっこう前から呼んでるじゃん」
「知っている」
「じゃあ、なんで今さら」
「今、ふと気になったのだ」
月読命の表情は、怒っているわけではないようだし、困っているようでもない。ただ、不思議なものを見るように、こちらを見た。
神様なのに、時々子供みたいな顔をする。
「えーっと……月読命って長いから?」
「神名を、長いという理由で削ったのか」
「言い方......」
「違うのか」
「違わないけど、そんな罰当たりな感じで言われると困る」
「罰当たりではある」
「やっぱり?」
「神名であるからな」
月読命は真面目に言った。
「神の名は、ただの音ではない」
その声が、いつもより少しだけ低くなったので、あかりは背筋を伸ばした。
「神名は、祈りの行き先だ。 人が神の名を呼ぶ時、そこには願いが宿る。 畏れも、感謝も、怒りも、時に呪いも、その名を通って神へ届く」
「……呪いも?」
「うむ。 願いと呪いは、遠くない」
月読命は、自分の手元に視線を落とした。
「人は、言葉を軽く扱うことがある。 だが、言葉は軽くない。 声に出したものは、どこかへ届く。 届いたものは、残る」
名前を呼ぶこと、声にすることは、どこかへ届くなんて、今まで考えたこともなかった。
――ツク。
それは、あかりが勝手に縮めた呼び名だった。
月読命なんて日常で呼ぶには長いし、神様扱いしすぎるのも変だし、何よりこの男神は、あかりの六畳の部屋に座って味噌汁を飲んでいる。
――だから、ツク。
軽くて、近くて、呼びやすい。それくらいのつもりだった。
「じゃあ、怒ってた?」
あかりは、恐る恐る聞いた。
「神名を縮めたこと」
「初めは、無礼な娘だと思った」
「初めは」
「うむ」
「今は?」
月読命は、すぐには答えなかった。
窓の外から、風の音がして、秋が始まりかけている気配した。
「今は、分からぬ」
「分からない?」
「その名で呼ばれると、妙な感じがする」
「妙って、嫌ってこと?」
「嫌ではない」
月読命は、はっきりと言った。
「嫌ではない。 だが、記憶の底に何かがある」
「何があるの?」
「月読命と呼ばれる時、我は神である」
「うん」
「月の神。 夜を司るもの。 神話に残り、祭られ、畏れられ、時に忘れられたもの」
あかりは、静かに聞いていた。
「だが、ツクと呼ばれる時」
月読命は、ほんの少しだけ迷った。
「我は、ここにいたような気になる」
その言葉に、あかりは息を止めた。
「昔からあるような感じだ」
部屋の中が、急に狭く感じた。
六畳の部屋、ちゃぶ台、味噌汁、焼き魚、現代の服を着た月読命。
そのすべてが、名前の中へ閉じ込められたように思えた。
あかりは、少しだけ視線をそらした。
「……そっか」
「うむ」
「じゃあ、変じゃない?」
「何がだ」
「ツクって呼ぶの」
月読命は、相変わらず綺麗な聖座の姿勢を崩さず、あかりを見据えた。
「そなたは、なぜ我をそう呼ぶ」
「だから、長いからっていうのもあるけど」
「ああ」
「でも、それだけじゃないかも」
あかりは、箸の先で焼き魚の身を少しだけつついた。
「月読命って呼ぶとさ、神話とか、教科書とか、神社とか、そういうところにいる感じがする。 もちろん、それが本当の名前なんだろうけど」
あかりは、ゆっくり顔を上げた。
「でも、ツクって呼ぶと、私の部屋で味噌汁飲んでる人って感じ」
「神を、人と呼ぶか」
「だって今、人みたいな顔してるし」
「我は神だ」
「知ってる」
あかりは笑った。
「でも、神様ってだけじゃないでしょ」
月読命の目が、わずかに揺れた。
「ツクは、ラーメン食べて、おいしいって言った。トイレで困った。スーパーで目を輝かせた。 子供に白いラスボスって言われた。 私と一緒にお月見をした」
一つ一つ、思い出しながら言う。
「そういうの全部、月読命って呼ぶと遠くなる気がする。 ツクって呼ぶと、近くに置いておける気がする」
「置いておく」
「物みたいな意味じゃないよ」
「分かっている」
月読命は、静かに答えた。
「そなたの言葉は、時々乱暴だが、悪意はない」
「褒められてる気がしない」
「褒めている」
「本当に?」
「うむ」
月読命は真面目に頷いた。その真面目さがおかしくて、あかりは少し笑った。
「じゃあさ」
「うむ」
「ツクには、何が宿るの?」
言った瞬間、月読命の表情が変わった。ほんの少しだけ、虚を突かれたような顔に。
「月読命って名前には、祈りとか畏れとか、そういうのが届くんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、ツクには?」
あかりは、自分で聞いておきながら、少し恥ずかしくなった。
でも、聞いてしまったものは仕方がない。
「……分からぬ」
ようやく、月読命が言った。
「神様でも?」
「神であるからこそ、分からぬこともある」
「便利な言い訳っぽい」
「違う」
月読命は、少しだけ眉を寄せた。
「その名は、古き祝詞にも、社の記録にもない。 人が長く呼び続けた名ではない。 願いが積もった名でも、畏れが宿った名でもない」
「うん」
「そなたが、勝手に縮めた名だ」
「言い方」
「事実であろう」
「まあ、事実だけど」
月読命は、あかりを見つめた。
「だから、何が宿るのか分からぬ」
その声は、静かだったけれど、突き放すような響きではなかった。
「だが」
「だが?」
「その名で呼ばれると、我は神である前に、そなたの前にいるものになる」
あかりは、黙った。
「月読命という名は、多くのものへ開かれている。 祈る者、畏れる者、忘れた者、記す者。 そのすべてに向けられた名だ」
月読命の声が、少しだけ柔らかくなる。
「だが、ツクという名は、そなたしか呼ばぬ」
あかりの胸の奥が、きゅっと縮んだ。嬉しいのか、恥ずかしいのか分からない。
「……そっか」
あかりは、小さく言った。
「じゃあ、大事に呼ばなきゃね」
「大事に?」
「うん。 神名を削った責任があるので」
「それはある」
「あるんだ」
「当然であろう」
「じゃあ、責任持って呼びます」
あかりは、また少しだけ背筋を伸ばして、月読命をまっすぐに見た。
「ツク」
たった二音を短く呼んでみた。
けれど、声に出した瞬間、その二音は、ただの音ではなくなった気がした。
月読命の目が、静かに細められる。窓から入った朝の光が、彼の黒髪の上で淡く揺れた。
「……うむ」
その返事は、どこか深いところから返ってきたように聞こえた。
「今、何かあった?」
あかりが聞くと、月読命は目を閉じた。
「何か、とは」
「いや、なんか、空気が変わったような」
「そなたの声に、少し力が乗った」
「力?」
「神力と呼ぶほど強くはない。 だが、声には感情が乗る。 感情は、弱き力となる」
「……私にも?」
「人にもある」
月読命は、当然のように言った。
「神だけが力を持つわけではない。 人も、誰かを呼ぶその声に、わずかな力が宿る」
「私がツクって呼ぶのにも?」
「うむ」
月読命は、あかりを見た。
「そなたが我を呼ぶ時、その声は我に届く」
「そりゃ、同じ部屋にいるし」
「そういう意味ではない」
少しだけ、月読命の声が低くなった。
「耳に届くのではない。 もっと心の奥へ届く」
あかりは、今日起きてから何度顔を赤くしたか、もう分からなかった。
――私しかツクって呼ばないじゃん。……ってことは、ツクにとって私は特別な存在ってこと?
この神様は、照れていない顔で、なんか照れることを言うから本当に困る。
しかも、本人は口説いているつもりが全くない。
「……朝から重い」
「重いのか」
「重い。 神様の名前の話、だいぶ重い」
「名付けることは重いことだ」
「そういう意味じゃなくて」
あかりは深く息をついた。そして、照れ隠しに味噌汁を飲んだら、少し冷めていた。
「あーもう。 ご飯食べよう。 話がどんどん神話になっていく」
「神であるからな」
「そうだけど、朝ご飯中だから」
「朝餉の席で神話を語ってはならぬのか」
「ならぬっていうか、焼き魚が冷める」
「それはよくない」
「でしょ」
月読命は、真剣な顔で焼き魚に箸を伸ばした。
「ねえ、ツク」
「うむ」
「今度からさ」
「ああ」
「私以外にツクって呼ばれたら、どうする?」
軽い冗談のつもりだった。けれど、月読命は箸を止めた。
「許さぬ」
即答だった。
「え、そんなに?」
「その名は、そなたが呼ぶ」
「うん」
「ならば、そなた以外が呼ぶものではない」
「いや、……千晴とか呼びそうだけど」
「千晴は呼ばぬ」
「なんで分かるの」
「あの娘は、踏み越えてはならぬところを知っている」
完全に同意だった。確かに千晴なら、面白がって一回くらい言いそうではあるけれど、本当に大事な線は踏まない。そういうところがある。
「じゃあ、子供たちは?」
「らすぼすと呼んでいた」
「あれはいいの?」
「神名ではない」
「でも白いラスボスだよ」
「意味はまだよく分からぬが、畏れの名ではあるらしい」
「違うけど、まあ違わないかも」
あかりは、月読命がラスボスを雰囲気で理解できていることにおかしくて、笑ってしまった。あかりが笑っているのにも関わらず、月読命は真面目な顔で続ける。
「だが、ツクは違う」
「どう違うの?」
「近すぎる」
そう言われると、自分がとんでもない場所まで近づいているような気がした。
「その名は、そなた以外には許さぬ」
月読命は、再び言った。そしてーー
「ツクと呼ぶことを、許す」
あかりは、数秒固まった。そして、吹き出した。
「許可制だったんだ」
「当然であろう。 神名を削ったのだ」
「いや、急に偉そう」
「我は神である」
「はいはい、そうでした」
「軽い」
「神様が六畳の部屋で焼き魚食べながら言っても、威厳が半分くらいになるんだよ」
「半分も残るなら十分ではないか」
「前向きだね」
あかりは笑いながら、醤油差しを手に取った。
「で、醤油いるんだったよね」
「うむ」
「はい、ツク」
そう言って、醤油差しを渡す。
朝食が終わる頃には、部屋の空気はいつもの日常に戻っていた。あかりは食器を流しへ運び、月読命はその後ろから何か手伝おうとついてくる。
狭い台所に二人で立つと、ただでさえ狭い空間がさらに狭くなった。
「ツク、狭い」
「そうか」
「そうです。 ここ六畳だから。 神様サイズで動かれると圧迫感がすごいの」
「神様さいずとは何だ」
「背が高くて存在感が強いってこと」
「ならば、どうすればよい」
「そこに座って待ってて」
「手伝わなくてよいのか」
「手伝いたい気持ちは受け取る。 でも今は座っててくれた方が助かる」
月読命は、少しだけ不服そうにした。
「我は、そなたの役に立たぬのか」
あかりは手を止めた。その声が、思ったよりも寂しそうだったからだ。
神様なのに流し台の前で、自分が役に立たないのではないかと気にしている。
あかりは、少しだけ表情を緩めた。
「役には立ってるよ」
「何の役に」
「えーっと……」
少し考えて、そして、恥ずかしくなりながら言った。
「いてくれる役……かな。 そこに座って、味噌汁飲んで、おいしいとか温かいとか言ってくれる役」
「それは、役なのか」
「私にとっては、役です」
「そうか」
「そうです」
あかりは、照れ隠しに声を強めた。
「だから、ツクはそこで待機」
「待機」
「そう。 神様待機」
「神に待機を命じるのか」
「命じます」
「そなたは、本当に無礼だな」
「今さら」
月読命が、少しだけ目を細めたその顔は笑った、……ように見えた。
まだはっきり笑うことは少ない。けれど、最近の月読命は、ほんの少しだけ表情が動く。あかりには、それが分かるようになってきた。
月読命は、言われた通りに部屋の中央へ戻り、静かに座った。
あかりが食器を洗い終えて、手を拭く。
「ツク」
あかりは、もう一度呼んだ。
今度は、確認するように。
月読命は、静かに顔を上げた。
「何だ」
「呼んだだけ」
「そうか」
「うん」
月読命とあかりは、目を合わせなかった。
それでも、向かい合う二人の表情は、どちらも穏やかだった。
「……そうだ」
月読命が何かを思い出したように言った。
「我のことを『ツク』と呼ぶ者は、そなただけではなかった」
あかりの顔から表情がなくなっていった。
「……………………」
――私だけの特別感を返してっ!!




