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Moon Light Lover  作者: 巡
第3章 長月編

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第21話 殺神事件

 テレビの笑い声だけが、六畳の部屋に残っていた。


 明るいはずの音なのに、今のあかりにはただのノイズにしか聞こえない。膝の上で握った手の中がべっちょりと湿ってきた。


 月読命はテレビを正面に見据えたまま、ちゃぶ台の前に正座していた。

 

 人が記したことが、すべて本人の知る真実とは限らない。「目から生まれるわけなかろう」と月読命は言った。千晴が言うとおり、記録を残した側の都合があるのかもしれない。


 それは分かった。


 でも、だからといって、図書館で見たあの一文が消えたわけではない。


 ーー月読命が、保食神(うけもちのかみ)を殺した。


 この短い文章を、胸の中で繰り返すたびに、身体も心も固くなっていった。


 ーー怖い。


 けれど、知らないまま、怖がるだけでは終わりたくなかった。


 あかりは、千晴の「怖かったら怖いって言っていいからね」という声を思い出した。その言葉が、胸の奥で小さく灯る。


「......さっきの、目から生まれたって話もそうなんだけどーー」


 あかりは、膝の上で握っていた両手を開いて、そのまま膝頭を掴んだ。


「今日、図書館でツクのことを調べてたんだ」


 月読命は、しばらく黙った。


「……そうか」


「うん」


 あかりは視線を落としたまま、小さく頷いた。


「古事記とか、日本書紀とか。 あと、月の神様のこととか」


「そうか」


「月読命って、三貴神なんだよね」


「人は、そう呼ぶな」


「天照大神と、素戔嗚命と、月読命」


 六畳の部屋に、急に遠い神話の名前が入り込んできた。月読命は表情を変えずに、テレビを見据えたままだ。


「でも、......思ったより記録が少なかった」


「……そうか」


「うん。 天照大神の話とか、素戔嗚命の話はいっぱい出てくるのに、ツクの話は少ない」


 月読命は何も言わない。


「あのさっ......」


 あかりは息を吸った。そして、喉が渇いていることに気付いた。けれど、このタイミングで麦茶を飲む気にはなれなかった。


「聞いてもいい?」


 あかりは、意を決して月読命へ顔を向けた。


「答えられることならば」


 月読命は、相変わらず正面のテレビから視線を動かさない。「答えないこともある」と言っているように、あかりには見えた。


 膝頭を掴むあかりの指先に力が入る。


「ツクって......」


 あかりの言葉が止まったことで、ようやく月読命はテレビからあかりの方へ、視線だけを移した。


 月読命のその目は、急かさずに、ただ次の言葉を待っているように見えた。それが優しさなのか、覚悟なのか、あかりには分からなかった。


「……保食神を、殺したの?」


 やっとのことで絞り出した。


 けれど、この言葉は周囲から音を消してしまった。外では、たぶん車が通っているし、どこかの部屋では、誰かが水を流したかもしれない。あかりには自分の心臓の音だけしか聞こえなかった。


 月読命は動かなかった。せんべいの袋のそばに置いていた手も、そのままだった。


 長い沈黙が落ちる。


 ーーやめておけばよかった。


 月読命は、ゆっくりと視線を下げて、テーブルの上の袋を見た。


 それから、あかりを見る。


「殺した」


 声は、静かだった。


 言い訳も、怒りも、驚きもない。ただ、事実だけを置くような声だった。あまりにも静かで、あかりはすぐに意味を受け止められなかった。


「……そっか」


 何を言っていいのか分からなかった。「そっか」で済む話ではない。でも、それ以外の言葉が出てこなかった。


 月読命は、あかりに目を合わせて、そして尋ねた。


「怖いか」


 その問いに、あかりの胸がぎゅっと縮んだ。そして、すぐに否定しようと唇を開いた。


 ーー怖くないよ。


 でも、言わなかった。それは、嘘だ。それに、千晴の言葉が脳裏をよぎった。


 ーー神様にも、怖かったら怖いって言っていいからね。


「……怖い」


 声は小さかったけれど、ちゃんと出た。


「ちょっと、怖い」


 言ってから、泣きそうになって、胸の奥が熱くなった。怖いと言えたことで、何かが解けた。


「でもーー」


 あかりは続けた。


「怖いだけじゃない」


 月読命は、あかりの目をしっかりと捉えたまま、ただ黙っていた。


「私、ツクのこと、少し知ってるから」


「知っている?」


「うん。 せんべいの袋を真剣に見ることとか。 テレビの笑い声に引っかかることとか。 ラーメンを食べて、おいしいって言ったこととか。 子供たちに白いラスボスって呼ばれて、ちょっと偉そうにしていたこととか。 焼きそばのキャベツを、丁寧に切ったこととか。 ......ここを......帰る場所って言ったこととか......」


 言葉にしていくほど、心のどこかが痛くなった。


「......だから、怖いけど、......それだけで終わりにしたくない」


 月読命の呼吸が、ほんの一瞬わずかに乱れた。何かをこらえたかのように、あかりには見えた。 


「なぜ殺したのか、聞きたい」


 あかりは月読命の吸い込まれるような黒い瞳を見ながら、まっすぐに言った。


「でも、......全部聞くのが怖い」


 けれど、すぐに視線を落としてしまったし、声も小さくなった。


「ならば、聞かぬ方がよい」


 月読命が言ったその声は、優しいというより、硬かった。


「人の娘が、背負う話ではない」


「そういう言い方、ずるい!」


 あかりは思わず言い返した。


 月読命が、わずかに驚いたようにあかりを見た。


「ずるい?」


「うん。 私が聞きたいって言ってるのに、ツクが勝手に、私には背負えないって決めてる」


「背負えぬものはある」


「あるよ。 たぶんある。 でも、それを決めるのは私でしょ」


 あかりは言ってから、強い言葉が出てしまったことに驚いた。でも、不思議と引っ込めたいとは思わなかった。


「私は神様じゃないし、昔のことも分からない。 保食神がどんな神様だったのかも、ツクがそこで何を見たのかも、ちゃんとは知らない」


 あかりは膝頭を掴んだ手を見た。


「でも、知らないまま、ツクのことを勝手に怖がるのは嫌だ」


 月読命が、何も言わなかったから、あかりはそのまま続ける。


「あと、記録に残ってることだけで、ツクの形を決めるのも嫌だ」


 図書館で千晴が言った言葉が、胸の奥で重なる。


 ーーその記録って、誰が書いたんだろうね?


「だって、記録って、誰かが書いたものでしょ? 誰かが残したものでしょ? だったら、残らなかったこともあるかもしれない」


「……あかり」


「でも、だからって、ツクが誰か殺した事実が消えるわけでもない」


 月読命のまとう空気が、一瞬だけ硬くなったような気がした。表情を見ても、怒ったわけではないと分かった。むしろ、痛そうな顔だった。


「そうだ」


 月読命はボソリと言った。


「消えぬ」


 低い声だった。


「どのような理由があったとしても、我は保食神を殺した。 それは消えぬ」


「理由は、あったの?」


 あかりが聞くと、月読命はまた黙った。


 今度の沈黙は、さっきより長かった。


 夕方の光が、カーテンの隙間から細く入っている。部屋の中の埃が、光の中でゆっくり浮いていた。月読命は、その光を見ているようでもあり、もっと遠いものを見ているようでもあった。


「……あった」


 やがて、彼は言った。


「だが、それを口にすれば、己の罪が軽くなるように聞こえる」


「理由と、言い訳は違うでしょ」


「違わぬこともある。 ......少なくとも、我にとっては」


 あかりは、ここまで聞いたからには引き下がれなかった。月読命が言い訳をしたがっていないことは分かったし、殺したという事実から逃げていないことも分かった。


 けれど、だからこそ、何も語らないままでいいとは思えなかった。


 あかりの頭の中に、いくつもの光景が浮かんできた。


 ラーメンの器を前に、食材が役目を失っていないことに驚いていた月読命。焼きそばのキャベツを、びっくりするくらい丁寧に切っていた月読命。せんべいの袋を観察して、食べ物を守る仕組みにまで感心していた月読命。


 食べ物の前でだけ妙に真剣になるその姿と、図書館で読んだ短い一文が、どうしても重ならなかった。


「もしかして」


 あかりは、恐る恐る口を開いた。


「食べ物を、粗末にされて腹が立ったの?」


 月読命の表情が止まった。息をすることさえ忘れたように。


「――なぜ、それを……」


 声が、かすかに揺れていた。


 あかりは、その反応で分かってしまった。


 ーー当たった。少なくとも、外れてはいない。


「だって、ツク、食べ物のことになると、いつもすごく真剣だから」


 月読命とは視線が合わない。でも、それは真相に近づいているのだと感じさせた。

 

「ラーメン食べた時も、焼きそば作った時も、せんべいの袋を見てた時も。 食べ物がちゃんと食べ物として扱われてるか、すごく気にしてた」


あかりは外さないように、慎重に次の言葉を選んだ。


「保食神が、もし食べ物を馬鹿にしたなら。 食べ物を、汚いものみたいに扱ったなら。 ツクは、怒ったんじゃないかって、......そう思ったの」


 月読命は、遠い時間をたどるように、しばらく何もない空間を見つめていた。やがて、低く、そして小さな声で語り出した。


「……食物を侮る神を、我は許せなかった。 命から生まれたものを、穢れとして笑うことを、許せなかった」


 あかりは息を呑んだ。


「それが、理由?」


「一つではある」


 月読命は答えた。


「だが、それだけではない。 ……それだけであったなら、我はここまで己を許せずにはいなかった」


 あかりは、それ以上を聞けなかった。


 ーーやっぱり怖い。


 目の前の神様は、本当に誰かを殺した。しかも、理由の一つは見えたのに、その奥にあるものは語ろうとしない。それは、誠実なのかもしれない。


 でも、腹立たしくもあった。


 何も言わなければ、誰にも分からない。分からなければ、残るのは『月読命が、保食神を殺した』という、あかりが図書館で読んだ短くて重い一文だけだ。


「ツクは」


 声が少し震えた。


「ずっと、それを一人で抱えてたの?」


 その問いが、月読命の予想していないところへ届いた。


「天照大神には、話したの?」


 月読命は、テーブルの端に揃えられたせんべいの袋へ視線を落とした。


「話さなかった」


「なんで?」


「言い訳になる」


 あかりは眉を寄せた。


「でも、言わなかったら、誰にも分からないじゃん」


「分からぬままでよい」


「よくないよ!」


 あかりは思わず強く言った。月読命は、目を見開いてあかりを見る。


「よくない! だって、それじゃあ、ツクが何に怒って、何を間違えたのか、誰にも分からない!」


 あかりの中で、何かがつながっていく。


 図書館で感じたこと、記録の少なさ、誰かが書いた神話、残らなかった言葉、そして、月読命の沈黙。


「ツクが何も言わなかったら、残るのは『月読命が保食神を殺した』ってことだけじゃん!」


 溢れ出た自分の言葉に、胸が苦しくなった。


「それでいいの......?」


 月読命は、なおも答えなかった。あかりにはそれが歯痒くて、苦しくなりながらも、溢れ出てくる言葉という名の感情を吐き出した。


「ツクが悪くなかったって言いたいんじゃない。 殺したことが消えないのも分かる。 でも、何があったのかまで消えたら、それは違うんじゃないの?」


 外で、自転車のブレーキ音がした。それは、現代の音だった。


 六畳の部屋のちゃぶ台の上には、せんべいの袋と麦茶の入ったグラスがあった。それは、紛れもなく現代の光景だった。


 そんな中、神話の奥に沈んでいたものが、かすかに顔を出した。


「人は」


 月読命が、ようやく口を開いた。


「残った言葉を、真実と呼ぶ。 だが、残された言葉がいつも真実であるとは限らぬ」


 その声は、怒りでもなく、諦めでもなく、長い時間をかけて底に沈んでいたことを、事実として告げただけのように聞こえた。


「なら」


 あかりも月読命に合わせるように、静かに言った。


「残ってない言葉は、聞いてもいい?」


 月読命が、あかりを見た。


「今すぐ全部じゃなくていい。 私も、たぶん受け止めきれない。 でも、少しずつなら聞きたい」


「なぜだ」


「ツクのことを、ちゃんと怖がりたいから」


 あかりは自分の言葉に、笑いそうになった。


 ーー変な言い方。


 でも、それが一番近かった。


「知らないまま怖がるんじゃなくて、知ったうえで、怖いところは怖いって思いたい。 嫌なところは嫌だって思いたい。 でも、それだけじゃないところも見たい」


 あかりは微笑みながら、月読命の黒い瞳の奥を見た。まるで、本当の月読命を探し出すように。


「だって、ツクはここにいるから」


 月読命は、この六畳の部屋にいる。


 せんべいの袋を綺麗に畳んで、テレビの笑い声を不思議がって、ラーメンを食べて、おいしいと言った月読命だ。


 保食神を殺した月読命だけが、月読命ではない。でも、その罪を消した月読命も、たぶん月読命ではない。


 どちらも抱えたまま、目の前にいる。それが、あかりの知る月読命となった。ただ、それだけだった。


 月読命も、あかりの瞳を見つめ返していた。やがて、小さく息を吐く。


「そなたは、奇妙な人の娘だ」


「よく言われる」


「誰にだ」


「主に千晴」


「そうか」


 月読命の表情が、ほんのわずかに和らいだ。笑ったのかもしれない。


 でも、すぐにその表情は消えた。


「今は、すべては話せぬ」


「うん」


「我自身、言葉にできぬものがある」


「うん」


「だが」


 月読命は、畳んだせんべいの袋をテーブルの端にずらして、きちんと揃える。


 そういうところが、月読命らしかった。


「問われれば、逃げぬ」


 あかりは相槌を打てなかった。月読命を追い詰めてしまった気がして、胸が痛んだからだ。それに、怖さが消えたわけでも、安心したわけでもなかった。


 でも、月読命との関係が大きく前進した気がした。


「今日はここまでにする」


「よいのか」


「うん。 私も、ちょっと限界」


 正直に言うと、月読命は困ったような顔をした。


「限界か」


「うん。 殺神事件(さつじんじけん)、思ったより重い」


「……殺神事件(さつじんじけん)というのはやめよ」


「あ、そこは嫌なんだ」


「軽すぎだ」


「千晴が言ってた」


「あの娘か」


 月読命は、どこか遠くを見るよう言った。


「言いそうだ」


「分かってきたじゃん」


 あかりは、ようやく笑えたことに気付いた。でも、罪悪感はなかった。重い話をした後でも、笑っていい。


 たぶん、そうしないと続かない。


 月読命は神様だけれど、あかりは人間だ。人間は、怖い話を聞いた後でも、お腹が空くし、喉が渇くし、明日の予定を考えなければならない。


「麦茶、飲む?」


 あかりが聞くと、月読命は少し間を置いた。


「飲む」


「うん」


 あかりは立ち上がって、台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、冷たい空気が顔に触れた。麦茶のボトルを取り出して、グラスに注ぐ。


 体が覚えたいつもの動作だった。いつもの部屋に、いつもの夕方だった。


 あかりはグラスを二つ持って戻り、ひとつを月読命の前に置く。


「はい」


「すまぬ」


 月読命がグラスを手に取った。遠い昔に、保食神を殺したその手は綺麗だった。


 あかりは、その手から目を逸らさなかった。


 ーー怖い。でも、見ていたい。覚えていたい。


 そう思った。


「ツク」


「何だ」


「また、聞くね」


 月読命は麦茶を一口飲んでから、静かに頷いた。


「よい」


 窓から差し込む夕方の光が薄くなるにつれて、虫の声が大きくなってきた。夜は少しずつ近づいてきていたのだ。


 あかりは暗くなっていく部屋の中で、記録が少なくて、語られてこなかった神様を見ていた。その神様は今、自分の部屋で麦茶を飲んでいた


 あかりは、この神様のことを知りたいと思った。


 怖いまま。


 それでも、知りたいと思った。

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