第21話 殺神事件
テレビの笑い声だけが、六畳の部屋に残っていた。
明るいはずの音なのに、今のあかりにはただのノイズにしか聞こえない。膝の上で握った手の中がべっちょりと湿ってきた。
月読命はテレビを正面に見据えたまま、ちゃぶ台の前に正座していた。
人が記したことが、すべて本人の知る真実とは限らない。「目から生まれるわけなかろう」と月読命は言った。千晴が言うとおり、記録を残した側の都合があるのかもしれない。
それは分かった。
でも、だからといって、図書館で見たあの一文が消えたわけではない。
ーー月読命が、保食神を殺した。
この短い文章を、胸の中で繰り返すたびに、身体も心も固くなっていった。
ーー怖い。
けれど、知らないまま、怖がるだけでは終わりたくなかった。
あかりは、千晴の「怖かったら怖いって言っていいからね」という声を思い出した。その言葉が、胸の奥で小さく灯る。
「......さっきの、目から生まれたって話もそうなんだけどーー」
あかりは、膝の上で握っていた両手を開いて、そのまま膝頭を掴んだ。
「今日、図書館でツクのことを調べてたんだ」
月読命は、しばらく黙った。
「……そうか」
「うん」
あかりは視線を落としたまま、小さく頷いた。
「古事記とか、日本書紀とか。 あと、月の神様のこととか」
「そうか」
「月読命って、三貴神なんだよね」
「人は、そう呼ぶな」
「天照大神と、素戔嗚命と、月読命」
六畳の部屋に、急に遠い神話の名前が入り込んできた。月読命は表情を変えずに、テレビを見据えたままだ。
「でも、......思ったより記録が少なかった」
「……そうか」
「うん。 天照大神の話とか、素戔嗚命の話はいっぱい出てくるのに、ツクの話は少ない」
月読命は何も言わない。
「あのさっ......」
あかりは息を吸った。そして、喉が渇いていることに気付いた。けれど、このタイミングで麦茶を飲む気にはなれなかった。
「聞いてもいい?」
あかりは、意を決して月読命へ顔を向けた。
「答えられることならば」
月読命は、相変わらず正面のテレビから視線を動かさない。「答えないこともある」と言っているように、あかりには見えた。
膝頭を掴むあかりの指先に力が入る。
「ツクって......」
あかりの言葉が止まったことで、ようやく月読命はテレビからあかりの方へ、視線だけを移した。
月読命のその目は、急かさずに、ただ次の言葉を待っているように見えた。それが優しさなのか、覚悟なのか、あかりには分からなかった。
「……保食神を、殺したの?」
やっとのことで絞り出した。
けれど、この言葉は周囲から音を消してしまった。外では、たぶん車が通っているし、どこかの部屋では、誰かが水を流したかもしれない。あかりには自分の心臓の音だけしか聞こえなかった。
月読命は動かなかった。せんべいの袋のそばに置いていた手も、そのままだった。
長い沈黙が落ちる。
ーーやめておけばよかった。
月読命は、ゆっくりと視線を下げて、テーブルの上の袋を見た。
それから、あかりを見る。
「殺した」
声は、静かだった。
言い訳も、怒りも、驚きもない。ただ、事実だけを置くような声だった。あまりにも静かで、あかりはすぐに意味を受け止められなかった。
「……そっか」
何を言っていいのか分からなかった。「そっか」で済む話ではない。でも、それ以外の言葉が出てこなかった。
月読命は、あかりに目を合わせて、そして尋ねた。
「怖いか」
その問いに、あかりの胸がぎゅっと縮んだ。そして、すぐに否定しようと唇を開いた。
ーー怖くないよ。
でも、言わなかった。それは、嘘だ。それに、千晴の言葉が脳裏をよぎった。
ーー神様にも、怖かったら怖いって言っていいからね。
「……怖い」
声は小さかったけれど、ちゃんと出た。
「ちょっと、怖い」
言ってから、泣きそうになって、胸の奥が熱くなった。怖いと言えたことで、何かが解けた。
「でもーー」
あかりは続けた。
「怖いだけじゃない」
月読命は、あかりの目をしっかりと捉えたまま、ただ黙っていた。
「私、ツクのこと、少し知ってるから」
「知っている?」
「うん。 せんべいの袋を真剣に見ることとか。 テレビの笑い声に引っかかることとか。 ラーメンを食べて、おいしいって言ったこととか。 子供たちに白いラスボスって呼ばれて、ちょっと偉そうにしていたこととか。 焼きそばのキャベツを、丁寧に切ったこととか。 ......ここを......帰る場所って言ったこととか......」
言葉にしていくほど、心のどこかが痛くなった。
「......だから、怖いけど、......それだけで終わりにしたくない」
月読命の呼吸が、ほんの一瞬わずかに乱れた。何かをこらえたかのように、あかりには見えた。
「なぜ殺したのか、聞きたい」
あかりは月読命の吸い込まれるような黒い瞳を見ながら、まっすぐに言った。
「でも、......全部聞くのが怖い」
けれど、すぐに視線を落としてしまったし、声も小さくなった。
「ならば、聞かぬ方がよい」
月読命が言ったその声は、優しいというより、硬かった。
「人の娘が、背負う話ではない」
「そういう言い方、ずるい!」
あかりは思わず言い返した。
月読命が、わずかに驚いたようにあかりを見た。
「ずるい?」
「うん。 私が聞きたいって言ってるのに、ツクが勝手に、私には背負えないって決めてる」
「背負えぬものはある」
「あるよ。 たぶんある。 でも、それを決めるのは私でしょ」
あかりは言ってから、強い言葉が出てしまったことに驚いた。でも、不思議と引っ込めたいとは思わなかった。
「私は神様じゃないし、昔のことも分からない。 保食神がどんな神様だったのかも、ツクがそこで何を見たのかも、ちゃんとは知らない」
あかりは膝頭を掴んだ手を見た。
「でも、知らないまま、ツクのことを勝手に怖がるのは嫌だ」
月読命が、何も言わなかったから、あかりはそのまま続ける。
「あと、記録に残ってることだけで、ツクの形を決めるのも嫌だ」
図書館で千晴が言った言葉が、胸の奥で重なる。
ーーその記録って、誰が書いたんだろうね?
「だって、記録って、誰かが書いたものでしょ? 誰かが残したものでしょ? だったら、残らなかったこともあるかもしれない」
「……あかり」
「でも、だからって、ツクが誰か殺した事実が消えるわけでもない」
月読命のまとう空気が、一瞬だけ硬くなったような気がした。表情を見ても、怒ったわけではないと分かった。むしろ、痛そうな顔だった。
「そうだ」
月読命はボソリと言った。
「消えぬ」
低い声だった。
「どのような理由があったとしても、我は保食神を殺した。 それは消えぬ」
「理由は、あったの?」
あかりが聞くと、月読命はまた黙った。
今度の沈黙は、さっきより長かった。
夕方の光が、カーテンの隙間から細く入っている。部屋の中の埃が、光の中でゆっくり浮いていた。月読命は、その光を見ているようでもあり、もっと遠いものを見ているようでもあった。
「……あった」
やがて、彼は言った。
「だが、それを口にすれば、己の罪が軽くなるように聞こえる」
「理由と、言い訳は違うでしょ」
「違わぬこともある。 ......少なくとも、我にとっては」
あかりは、ここまで聞いたからには引き下がれなかった。月読命が言い訳をしたがっていないことは分かったし、殺したという事実から逃げていないことも分かった。
けれど、だからこそ、何も語らないままでいいとは思えなかった。
あかりの頭の中に、いくつもの光景が浮かんできた。
ラーメンの器を前に、食材が役目を失っていないことに驚いていた月読命。焼きそばのキャベツを、びっくりするくらい丁寧に切っていた月読命。せんべいの袋を観察して、食べ物を守る仕組みにまで感心していた月読命。
食べ物の前でだけ妙に真剣になるその姿と、図書館で読んだ短い一文が、どうしても重ならなかった。
「もしかして」
あかりは、恐る恐る口を開いた。
「食べ物を、粗末にされて腹が立ったの?」
月読命の表情が止まった。息をすることさえ忘れたように。
「――なぜ、それを……」
声が、かすかに揺れていた。
あかりは、その反応で分かってしまった。
ーー当たった。少なくとも、外れてはいない。
「だって、ツク、食べ物のことになると、いつもすごく真剣だから」
月読命とは視線が合わない。でも、それは真相に近づいているのだと感じさせた。
「ラーメン食べた時も、焼きそば作った時も、せんべいの袋を見てた時も。 食べ物がちゃんと食べ物として扱われてるか、すごく気にしてた」
あかりは外さないように、慎重に次の言葉を選んだ。
「保食神が、もし食べ物を馬鹿にしたなら。 食べ物を、汚いものみたいに扱ったなら。 ツクは、怒ったんじゃないかって、......そう思ったの」
月読命は、遠い時間をたどるように、しばらく何もない空間を見つめていた。やがて、低く、そして小さな声で語り出した。
「……食物を侮る神を、我は許せなかった。 命から生まれたものを、穢れとして笑うことを、許せなかった」
あかりは息を呑んだ。
「それが、理由?」
「一つではある」
月読命は答えた。
「だが、それだけではない。 ……それだけであったなら、我はここまで己を許せずにはいなかった」
あかりは、それ以上を聞けなかった。
ーーやっぱり怖い。
目の前の神様は、本当に誰かを殺した。しかも、理由の一つは見えたのに、その奥にあるものは語ろうとしない。それは、誠実なのかもしれない。
でも、腹立たしくもあった。
何も言わなければ、誰にも分からない。分からなければ、残るのは『月読命が、保食神を殺した』という、あかりが図書館で読んだ短くて重い一文だけだ。
「ツクは」
声が少し震えた。
「ずっと、それを一人で抱えてたの?」
その問いが、月読命の予想していないところへ届いた。
「天照大神には、話したの?」
月読命は、テーブルの端に揃えられたせんべいの袋へ視線を落とした。
「話さなかった」
「なんで?」
「言い訳になる」
あかりは眉を寄せた。
「でも、言わなかったら、誰にも分からないじゃん」
「分からぬままでよい」
「よくないよ!」
あかりは思わず強く言った。月読命は、目を見開いてあかりを見る。
「よくない! だって、それじゃあ、ツクが何に怒って、何を間違えたのか、誰にも分からない!」
あかりの中で、何かがつながっていく。
図書館で感じたこと、記録の少なさ、誰かが書いた神話、残らなかった言葉、そして、月読命の沈黙。
「ツクが何も言わなかったら、残るのは『月読命が保食神を殺した』ってことだけじゃん!」
溢れ出た自分の言葉に、胸が苦しくなった。
「それでいいの......?」
月読命は、なおも答えなかった。あかりにはそれが歯痒くて、苦しくなりながらも、溢れ出てくる言葉という名の感情を吐き出した。
「ツクが悪くなかったって言いたいんじゃない。 殺したことが消えないのも分かる。 でも、何があったのかまで消えたら、それは違うんじゃないの?」
外で、自転車のブレーキ音がした。それは、現代の音だった。
六畳の部屋のちゃぶ台の上には、せんべいの袋と麦茶の入ったグラスがあった。それは、紛れもなく現代の光景だった。
そんな中、神話の奥に沈んでいたものが、かすかに顔を出した。
「人は」
月読命が、ようやく口を開いた。
「残った言葉を、真実と呼ぶ。 だが、残された言葉がいつも真実であるとは限らぬ」
その声は、怒りでもなく、諦めでもなく、長い時間をかけて底に沈んでいたことを、事実として告げただけのように聞こえた。
「なら」
あかりも月読命に合わせるように、静かに言った。
「残ってない言葉は、聞いてもいい?」
月読命が、あかりを見た。
「今すぐ全部じゃなくていい。 私も、たぶん受け止めきれない。 でも、少しずつなら聞きたい」
「なぜだ」
「ツクのことを、ちゃんと怖がりたいから」
あかりは自分の言葉に、笑いそうになった。
ーー変な言い方。
でも、それが一番近かった。
「知らないまま怖がるんじゃなくて、知ったうえで、怖いところは怖いって思いたい。 嫌なところは嫌だって思いたい。 でも、それだけじゃないところも見たい」
あかりは微笑みながら、月読命の黒い瞳の奥を見た。まるで、本当の月読命を探し出すように。
「だって、ツクはここにいるから」
月読命は、この六畳の部屋にいる。
せんべいの袋を綺麗に畳んで、テレビの笑い声を不思議がって、ラーメンを食べて、おいしいと言った月読命だ。
保食神を殺した月読命だけが、月読命ではない。でも、その罪を消した月読命も、たぶん月読命ではない。
どちらも抱えたまま、目の前にいる。それが、あかりの知る月読命となった。ただ、それだけだった。
月読命も、あかりの瞳を見つめ返していた。やがて、小さく息を吐く。
「そなたは、奇妙な人の娘だ」
「よく言われる」
「誰にだ」
「主に千晴」
「そうか」
月読命の表情が、ほんのわずかに和らいだ。笑ったのかもしれない。
でも、すぐにその表情は消えた。
「今は、すべては話せぬ」
「うん」
「我自身、言葉にできぬものがある」
「うん」
「だが」
月読命は、畳んだせんべいの袋をテーブルの端にずらして、きちんと揃える。
そういうところが、月読命らしかった。
「問われれば、逃げぬ」
あかりは相槌を打てなかった。月読命を追い詰めてしまった気がして、胸が痛んだからだ。それに、怖さが消えたわけでも、安心したわけでもなかった。
でも、月読命との関係が大きく前進した気がした。
「今日はここまでにする」
「よいのか」
「うん。 私も、ちょっと限界」
正直に言うと、月読命は困ったような顔をした。
「限界か」
「うん。 殺神事件、思ったより重い」
「……殺神事件というのはやめよ」
「あ、そこは嫌なんだ」
「軽すぎだ」
「千晴が言ってた」
「あの娘か」
月読命は、どこか遠くを見るよう言った。
「言いそうだ」
「分かってきたじゃん」
あかりは、ようやく笑えたことに気付いた。でも、罪悪感はなかった。重い話をした後でも、笑っていい。
たぶん、そうしないと続かない。
月読命は神様だけれど、あかりは人間だ。人間は、怖い話を聞いた後でも、お腹が空くし、喉が渇くし、明日の予定を考えなければならない。
「麦茶、飲む?」
あかりが聞くと、月読命は少し間を置いた。
「飲む」
「うん」
あかりは立ち上がって、台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、冷たい空気が顔に触れた。麦茶のボトルを取り出して、グラスに注ぐ。
体が覚えたいつもの動作だった。いつもの部屋に、いつもの夕方だった。
あかりはグラスを二つ持って戻り、ひとつを月読命の前に置く。
「はい」
「すまぬ」
月読命がグラスを手に取った。遠い昔に、保食神を殺したその手は綺麗だった。
あかりは、その手から目を逸らさなかった。
ーー怖い。でも、見ていたい。覚えていたい。
そう思った。
「ツク」
「何だ」
「また、聞くね」
月読命は麦茶を一口飲んでから、静かに頷いた。
「よい」
窓から差し込む夕方の光が薄くなるにつれて、虫の声が大きくなってきた。夜は少しずつ近づいてきていたのだ。
あかりは暗くなっていく部屋の中で、記録が少なくて、語られてこなかった神様を見ていた。その神様は今、自分の部屋で麦茶を飲んでいた
あかりは、この神様のことを知りたいと思った。
怖いまま。
それでも、知りたいと思った。




