第20話 記録が少ない神様
九月も中旬に入ってなお、京都の暑さはしぶとかった。
日差しはまだ夏を主張をしていて、図書館へ続く道路も、校舎の白い壁も、昼の熱を手放しきれずにいた。ただし、夕方の風だけが少し遅れて秋のふりをしていた。
夏が終わったわけではないけれど、終わる準備だけはどこかで勝手に始まっているようだった。
あかりは図書館の閲覧席で、分厚い本を前にしていた。机の上には、古事記、日本書紀、日本神話の入門書、月神信仰についての本、そしてノートパソコンが広がっている。
隣には千晴がいて、頬杖をつきながら、あかりの机の上を見ていた。
「で」
「うん」
「本人がいるのに、文献調査するんだ」
「……いいじゃん、別に」
「いや、普通に意味分かんないんだけど」
千晴は、呆れたように言った。
「聞けばいいじゃん。月読命本人に」
「聞きづらいこともあるじゃん」
「トイレの使い方は教えたのに?」
「それは教えるでしょ!」
「神様に?」
「神様でも!」
あかりは思わず声を上げかけて、慌てて口を押さえた。ここは図書館だ。うるさくするのは厳禁である。
すぐ近くの席で、知らない学生がちらりとこちらを見たので、あかりは小さく頭を下げた。
千晴は声を殺して笑っている。
「ごめん。 そこ、しばらく擦れる」
「擦らないで。 心が削れる」
「神様にトイレを教えた女」
「まるで私が飼い主みたいじゃん」
「神をトイレへと導く女」
「称号にしないで」
あかりは本気で顔をしかめた。
あの夜から、数日が経っている。そして、この数日で、月読命は新しいものを覚えた。
テレビである。
あかりがバイトや大学で部屋を空ける時、月読命は六畳の部屋で留守番をする。最初は、何をして待たせればいいのか分からなかった。まさか神様のために、留守番中の暇つぶしを考える日が来るとは思っていなかった。
とりあえず、あかりがリモコンの電源ボタンだけを教えると、月読命はテレビを点けては消し、消しては点けを何度か繰り返した後、映し出される映像をじっと見ていた。
それ以来、彼は1日のほとんどの時間、テレビを見るようになった。ニュース、天気予報、通販番組、旅番組、料理番組、昼のドラマ。
そして、昨日の夜、月読命が突然、「高速道路とは、車のための川のようなものか」と言った時、あかりは本気で返答に困った。さらに今朝は、「低気圧は、人の身体にも影響するらしい」と言った。
「で、今日も月読さんは部屋?」
頬杖をついたままの千晴が、隣から聞いた。
「うん。 テレビ見てると思う」
「神様がテレビで留守番。 小学生か」
「接し方が低学年に対するやつなのは認める」
「リモコンの使い方は?」
「電源と音量だけ教えた」
「チャンネルは?」
「変えられる。 たぶん自分で試行錯誤して覚えたんだと思う。 でも、変えすぎると何を見てたか分からなくなるから、ほどほどにって言ってある」
「完全にお母さんじゃん」
「違う」
「おやつは?」
「……テーブルの上に、せんべいを二枚置いてきた」
「お母さんじゃん」
「違うって」
「飲み物は?」
「麦茶は飲んでいいけど、牛乳は勝手に飲まないでって言ってある」
「お母さん確定じゃん」
「違う! だって、勝手に飲まれたら困るでしょ!」
「神様に留守番させて、テレビ見せて、おやつ置いて、牛乳を勝手に飲まれたくない女」
「捻りのない称号を増やさないで! もう……この前までは千晴がお母さんキャラだったのに……なんで私に移ってきてるの」
「ていうか、近所の公園で噂になりかけてるんでしょ? 白いラスボス」
「誰から聞いたの!?」
「世間は狭いんだよ、あかりお姉ちゃん」
「もしかして、子供たちから広まってるの!?」
あかりは小さく息を吐いて、本へ視線を戻した。
「でも、今日はちょっと調べておきたくて」
「月読さんのこと?」
「うん」
言ってから、あかりは自分の声が少し小さくなったことに気づいた。
月読命と出会ってから、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、もう部屋には彼の存在がある。黒髪を束ねた姿、腹の音に納得していない姿、ラーメンを前に目を細めていた姿、あかりの部屋を「帰る場所」と言ったあの声。
それらを、あかりは知っている。でも、月読命という神様のことを、本当の意味ではほとんど知らない。
あかりが知っているのは、六畳に座る彼のことだけだった。エアコンを箱から風が出るものだと理解したこと、ペットボトルの水を封じられた水だと思ったこと、ラーメンを食べて「おいしい」と言ったこと。
焼きそばを作った時、月読命はキャベツを切りながら「食物は、軽く扱うものではない」と言った。あれは、何かを知っている声だったし、その時の表情は沈んで見えた。
あかりはそれが、ずっと気になっていた。
でも......その時の洗剤の匂い、自分の手が汗ばんでいないか気にしたこと、同じ菜箸で味見されたことも、同時に呼び起こされた。その度に、あかりの頭にはピンクのモヤがかかり、自分が何を調べたいのかが分からなくなりそうになった。
そんな、あかりの部屋で少しずつ人間の生活を覚えていく月読命のことなら、知っていた。
ーーでも、神話の中の月読命は?人間の記録に残されたことは真実なの?
あかりはそれが知りたかった。
あかりの視線が、ひとつの記述で止まった。
ーー伊邪那岐命が右目を洗った時、月読命が生まれた。
「……目から?」
思わず呟くと、千晴が隣から覗き込んだ。
「それ、割と有名な話じゃん。 何、そこ引っかかるの?」
「いや、だって本人が部屋にいるとさ、なんか遠慮しちゃうじゃん。 『ツクって本当に目から生まれてきたの』なんて......」
「聞けば?」
「聞きづらい……」
あかりは小さく息を吐いて、ページに視線を戻した。
「三貴神っていうくらいだから、もっといっぱい話があると思ってたんだけど」
あかりは本をめくりながら言った。
「天照大神は有名だし、素戔嗚命も、八岐大蛇とか、天岩戸に関わる話とか、いろいろ出てくるでしょ」
「うん。 名前だけなら私でも知ってる」
「でも、月読命って少ない」
「どれくらい?」
「びっくりするくらい」
ページをめくる音が、静かな閲覧席に小さく響いた。
天照大神、素戔嗚命、高天原、天岩戸、八岐大蛇、保食神、月読命。
名前は出てくる。でも、月読命だけが、すぐに遠ざかった。
三貴神......太陽の神、月の神、荒ぶる神。並べれば、等しく大きな存在に見えるけれど、物語の中では違った。天照大神は光の中心にいて、素戔嗚命は騒動の中心にいる。
月読命は、確かにいる。
でも、すぐに語られなくなる。まるで、夜になった途端、ページの端へ追いやられたみたいに。
「……ね、少ないでしょ?」
千晴は思わず呟いた。
「記録が少ない神様、か」
あかりは苦笑した。いや、笑い切れなかった。
背が高くて、やたら綺麗で、言うことが古くて、でも不意に妙なことを真顔で言う。そんな彼は、人間の記録にはほとんど残っていない神様だった。
それは不思議な感覚だった。そして、胸の奥が痛かった。
ーーツク、何があったの。
胸の中で思っただけのはずだった。けれど、気づけばその言葉は、小さく唇からこぼれていた。
「……ツク、何があったの」
千晴は本の上に視線を落とした。
「でもさ」
「うん」
「この記録って、誰が書いたんだろうね?」
あかりは顔を上げた。
「誰が?」
「うん。 昔の人でしょ。 神様本人が書いたわけじゃないんでしょ、たぶん」
「まあ、それはそうだろうけど」
「じゃあ、書いた側の都合とか、入ってるんじゃないの?」
千晴の言葉は、軽いようで鋭かった。言われてみれば当たり前のことだった。あかりはどこかで、神話を「過去の事実」として見ていた。
誰かが書いたもの。誰かが残したもの。誰かが選んだもの。
そういう感覚が薄かった。残っているものは残るべくして残ったのだと思っていたし、 書かれていることは起きたことだと思っていた。
ーーもし、書かれなかったこと、残らなかった言葉があったら?誰かに都合よく整えられていたらとしたら?
あかりは、ページの文字を見つめた。
「……あ」
指が止まった。
「どうしたの?」
千晴が隣から覗き込むと、あかりは画面に表示された短い説明を見ていた。
ーー月読命が、保食神を殺した。
その文字を読んだ瞬間、あかりの指先が震えた。
「……殺した、って」
声に出すと、次は身体が重くなった。
千晴が顔をしかめる。
「何、急に物騒なんだけど」
「月読命が、保食神を殺したって」
「保食神?」
「食べ物の神様、みたいな」
「え、食べ物の神様を?」
「うん」
あかりは、続きを読もうとしたけれど、目が文字を滑っていく。
保食神......食物......もてなし......穢い......怒り......殺す。
単語だけが、ばらばらと頭の中に入り込み、鈍い音を立てながらぶつかり合った。あかりはすぐに『そんなことするはずない』と、言葉を組み立て直して、口から出してしまいたかった。
けれど、喉が音を閉じ込めてしまった。
月読命は優しい。少なくとも、あかりにはそう見える。でも、あの人は人間ではない。
神様だ。
それも、ただ優しくて綺麗なだけの存在ではない。人間の常識では測れない力を持っているはずだ。怒れば、たぶん、怖い。
あかりは、ラーメン屋で器を見つめていた月読命の横顔を思い出した。
「水ではない」、「命の気配が、形を失って溶けている」、「すべてが崩れ、混ざり、ひとつの味になっている」、そんなふうに言ったあのときの声は、畏怖の念が感じられた。そして、「粗末にしていない」、「どれも、役目を失っておらぬ」と言った、あの時の月読命の目は鋭かった。
今思えば、その声も目も怖い。
ラーメンを神的に食レポしているだけだと思った。でも、たぶん、それだけではなかったのだ。食べ物を見る目が、あまりにも真剣だった。だから、もし本当に月読命が怒ったのだとしたら、その怒りには何か理由があったのかもしれない。
ーーでも。
『殺した』という文字は消えない。
「……あかり?」
千晴の声で、あかりは我に返った。
「顔、ちょっと白い」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してる」
「うん。 ちょっと、びっくりしただけ」
「そりゃ……びっくりするよね。 自分の部屋にいる人の名前が、そんな話に出てきたら。 人っていうか神様かもしれないけどさ」
千晴は、画面の文字をもう一度見た。
「でも、これだけじゃ分かんないよ」
「うん」
「……まあ、最終的には本人に聞く案件だと思う」
あかりは、すぐには答えなかった。
ーーツクは、きっと嘘をつかない。でも、全部は言ってくれないかも……。
月読命が、そこから先へは踏み込ませないような目をすることがあるのを、あかりは感じていた。「聞けば答えるが、聞いたそなたが困るのではないか」と、考えているような目だ。
それが優しさなのか、ただの拒絶なのか、あかりには分からなかった。
ーー怖い。……でも、聞きたい。
「聞く」
あかりは、ゆっくりと言った。
「でも、ちゃんと聞けるかどうか不安......」
「まあね。 殺神事件の真相を本人にインタビューするなんて、女子大生にはハードル高すぎる」
「まだツクが本当に殺したか分からないじゃん。ていうか……上手いこと言うな......」
あかりが睨むと、千晴はペロリと舌を出して片目を閉じた。
「ありがとう」
「褒めてない」
千晴は少しだけ真面目な声に戻した。
「聞くなら、一人で抱えないでね」
「うん」
「あと、怖かったら、聞かなくてもいいと思う」
千晴は本に視線を落としたままだ。あかりの方を見ていない。でも、あかりのために言っているのは伝わってきた。
「本人が目の前にいるからって、全部知る義務があるわけじゃないでしょ」
その言葉に、あかりは息を吐いた。
「うん。 でも......私、やっぱり知りたい」
月読命が何をしたのか、しなかったのか、人間の記録に何が残っていて、何が残っていないのか。それを知らないままでいるのは、何となく違う気がした。
あかりがノートパソコンを閉じる、ぱたん、という小さな音の後には、図書館の静寂だけが残った。窓の外では九月の光が傾いて、赤みを帯びていた。
あかりは鞄に本をしまい始めた。
「帰る?」
千晴が聞いた。
「うん」
「ついて行こうか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。 ちゃんと聞く」
千晴は、あかりのことを見ながら、少し長めに息を吐いて言った。
「分かった。 でも、やばかったら連絡」
「うん」
「あと、神様だからって無理に納得もしなくていい」
あかりは小さく笑った。
「千晴って、そういうとこ本当に現実的だよね」
「神様が六畳にいても、現実は現実だから」
「強い」
「そっちが弱すぎるだけ」
あかりが鞄を肩にかけて閲覧席を立つと、椅子が小さく床を鳴らした。図書館の出口へ向かって歩き出したところに、背中から千晴の声が届く。
「あかり」
振り返ると、千晴は机に頬杖をついたまま、かすかに笑っていた。
「神様にも、怖かったら怖いって言っていいからね」
あかりは、少し驚いた。
「怖いって?」
「うん。 相手が神様だからって、全部ありがたく聞かなきゃいけないわけじゃないでしょ。 怖いものは怖いし、分からないものは分からない。 それでいいじゃん」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
月読命は神様だ。でも、あかりの部屋にいて、生活の中にいる。ちゃぶ台の前に座って、一緒に食事をして、テレビを見ている。
なら、怖がるだけでは違うのかもしれない。
あかりはうなずいた。
「ありがと、千晴!」
*
アパートに帰り着く頃には、空の色が濃くなっていた。西の端に残っていた昼の熱が、建物の影に押し込まれていく。
あかりは、一度だけ息を吸ってから、鍵を回した。
ドアを開けると、六畳の部屋からテレビの音が聞こえた。画面の中では、お笑い芸人が秋の味覚について明るく話している。
月読命は、いつものように正座していて、ちゃぶ台の上には、あかりが置いていった個包装のせんべいが二枚あった。ひとつは開封済みで、袋がきちんと畳まれて置かれていた。もうひとつは、未開封のまま、なぜか開封済みの袋と平行に並べられていて、月読命はその袋を見つめていた。
「おかえり」
「うん。 ただいま」
その言葉は、思ったより普通に出た。普通に出たからこそ、胸の奥が痛んだ。
「あれ?」
ちゃぶ台の上を見て、あかりは首を傾げた。
「……何してるの?」
あかりが聞くと、月読命は顔を上げた。
「この袋の作りを見ていた」
「袋?」
「人の世の包みは、よくできている。 湿りを防ぎ、手を汚さず、食べ物を守る」
「せんべいの袋にそこまで感心する?」
「初めて見たのだから、当然であろう」
言われてみればそうだ。でも、神様のくせに、せんべいの袋を真剣に観察している。
その光景に、肩の力が抜けた。
でも、すぐに胸の奥が重くなる。その重さに引っ張られるように、あかりもちゃぶ台の横に正座した。
ーー聞かなきゃ。
月読命がこちらを見る黒い瞳は静かだった。その静けさが、図書館で見た文字を思い出させる。
「ねえ、ツク」
「何だ」
「……ツクって、本当に目から生まれてきたの?」
月読命が、ほんのわずかに動きを止めた。
「……何を言っている」
「いや、古事記だとさ、伊邪那岐命が右目を洗った時に、月読命が生まれた......っていうじゃん」
あかりには部屋の空気が重く感じられた。月読命は動きを止めたままだ。
その時、テレビから「何でやねん!!」と、お笑い芸人の一際ハリのある声がして、沈黙した空気を動かした。
月読命は、当然のことを言うように口を開いた。
「我は、母より生まれた」
「……え」
「目より生まれるわけなかろう」
あかりは、呆気に取られた。図書館で読んだ一文が、頭の中で音を立ててずれる。
「じゃあ、古事記と日本書紀、間違ってるってこと?」
月読命は、どこか遠くを見るように、静かに息を吐いた。
「人が何を記したかは知らぬ。 我が神の島を出た後、父が何を言い散らしたかも知らぬ」
「……言い散らした」
「ほかに言いようがあるか」
あかりは、思わず返事に詰まった。
重い話のはずだった。なのに、父親についての月読命の言い方があまりにも冷静で、あまりにも容赦がなかった。
「ツク、お父さんの評価低くない?」
「高くする理由がない」
「即答!?」
少しだけ、気持ちが緩んだ。記録されていることと、本人が語ることが違ったからだ。
ーーそれなら。
あの、短い文字はどうなのだろう。月読命が、保食神を殺したという、あの件は......。
ーー聞きたい。
でも、あかりは膝の上で手を握り、息を整えるだけで精一杯だった。
テレビの中では、お笑い芸人がキノコをネタにしたギャグで周囲を笑わせていた。
六畳の部屋には、その笑い声と、月読命の静けさが並んでいた。
とあるお笑い芸人「夕方の生放送でキノコの下ネタはアカーン!」




