第19話 神様と料理
畳の上に、スーパーの袋が四つ並んでいた。
あかりは、その前で正座していた。その四つのスーパーの袋を挟んで向かい側には、月読命も正座していた。あかりが正座を命じて、月読命は素直に従ったのだ。
公園で子供たちに囲まれ、月読命はラスボスになった。そして、なぜか鬼ごっこに巻き込まれ、めっちゃ走った。そのあと、スーパーという名の現代の食の迷宮で、月読命を見失わないように全神経を使った。
結果、袋が四つである。
「……なんで?」
あかりは、床に並ぶ戦利品を見下ろした。
袋の中には、野菜や肉、豆腐、卵、果物、きのこ類、使う予定のない調味料まで、色々と入っていた。これは、買い物リストに従った結果ではなく、月読命が「これは何だ」と聞き、あかりが説明し、ついでに「まあ、いつか使うか」と入れてしまった結果である。
途中からは、月読命の「見聞」が、買い物かごの重さに直結していた。そして、最後まで名残惜しそうに見ていたワイン売り場から、あかりは必死に引きはがした。
月読命は、どこか満ち足りた顔をしている。
「豊かな市であった」
「......そうですね」
「魚も、肉も、米も、野菜も、酒もあった」
「お酒は買わないからね。 高いんだから」
「見るだけであった」
「見るだけの目じゃなかった! っていうか、お酒じゃなくて、結局、こんなにも買っちゃったじゃん!」
説明するには、少しだけ時間を戻す必要がある。
◇
スーパーの入口に立った瞬間、月読命は黙ったまま店内を見ていた。
照明は明るく、棚には食材が整然と並び、入口近くでは野菜が山のように積まれている。買い物客の間から見える正面には鮮魚コーナーがあり、左手の奥には惣菜コーナーがあった。さらに冷凍食品がぎっしりと詰まったケースも並んでいた。
月読命は、腕を地面と水平になるまで上げ、同時に人差し指をぴんと伸ばした。
「……あかり」
「なに? どうしたの?」
「あれは赤いが、瓜ではないか」
「カットすいかね。 もう九月なのに置いてるんだ」
「隣にあるのは、梨か」
「秋っぽいでしょ」
「夏の名残と、秋の実りが、同じ棚にある」
「とりあえず、腕をおろして。 目立つから」
次に、月読命は鮮魚売り場で止まった。
「魚が、切られている」
「刺身だね」
「生の魚を食うことは珍しくない。 だが、食える形に整え、値をつけ、透明な箱に並べるのか」
「透明な箱って、パックのこと?」
「人の世は、食す前からここまで整えるのだな」
「刺身パックで文明の発展具合を測るのやめて」
惣菜売り場では、さらに止まった。
「これは」
「コロッケ」
「これは」
「唐揚げ」
「これは」
「焼き鳥」
「すでに調理されたものまで売るのか」
「コンビニ弁当も同じでしょ? それでここ数日、生きてたんだよ」
月読命は、深くうなずいた。
「人の世は、忙しいのだな」
「急に理解が深い」
冷凍食品売り場では、しばらく無言だった。
「......時を、止めたのか」
「保存ね」
「白き箱の中に、冬を閉じ込めている」
「冷凍庫ね」
そして、酒売り場では、あかりが予想していたとおりのことが起こった。
「あかり」
「だめ」
「まだ何も言っておらぬ」
「目がワインの棚に行ってる」
「見聞だ」
「買わないよ」
「見るだけだ」
「その『見るだけ』で十歩も近づいてるから! 吸い寄せられてるから!!」
あかりは、明らかに興奮した様子の神様の袖をつかんで引き戻した。
月読命は、あからさまに名残惜しそうな顔をした。
◇
そして、現在。
あかりは袋の中をもう一度見た。
「本当は、もっとちゃんとしたもの作るつもりだったんだけど……今日はもう焼きそばで許して」
「許すとは、何をだ」
「手抜き料理になること」
「手を抜くのか」
「そこだけ真面目な顔で切り取らないで」
——焼きそば。
具材を切る、肉を炒める、麺を入れる、ソースを絡める。
——これは料理だ。たぶん。......少なくとも、コンビニ弁当よりは料理のはず。
「焼きそばは、ちゃんとした料理です。 野菜も肉も入るし、火も使うし」
「なぜ言い訳のように言う」
「言い訳だからだよ!!」
月読命は、袋に入った焼きそば麺を見つめた。
「これは、蕎麦ではない」
「そうなんだよね」
「では、なぜ蕎麦と呼ぶ」
「それは私にも分からない」
「人の世は、名にも揺らぎがあるのだな」
「焼きそばで哲学しないで」
あかりは小さな台所に立った。そこは六畳の部屋に付いた、必要最低限の台所である。二人で立つには、かなり狭い。
それなのに、月読命が当然のように隣へ来た。
「我もやる」
「え、ツクが?」
「見るだけでは足りぬ」
「いや、その熱意は認めるけど、神様に包丁持たせるの、絵面が物騒なんだよね」
「刃の扱いは心得ている」
「刃って言ってる時点で怖い」
それでも、あかりはキャベツをまな板に置いた。
「じゃあ、少しだけね。 まず、こっちの手は丸めて」
「丸める」
「そう。 猫の手」
「猫だと!?」
「比喩だから! あと、猫への食いつきは何なの!?」
月読命に包丁を持たせてみた。その持ち方が、やけに様になっていて、逆に怖い。
「待って、ツク。 指、危ない」
「この程度の刃で傷は負わぬ」
「そういう問題じゃない!」
あかりは、月読命の斜め後ろに回ったが、狭い台所では、それだけで距離が近くなった。
「こう。 左手は丸める。 指先を出さない」
あかりは月読命の五指に自分の指を重ね、食材を押さえる指の形を直した。
「で、右手は力を入れすぎない。 包丁は真下に落とす感じ」
包丁を持つ右手首に軽く手を添えたほんの一瞬、あかりは動きを止めた。
——ツクの手、......大っきい。
上から重ねたあかりの手では、その骨ばった甲を少し押さえるだけで精いっぱいだった。
そして、すぐ目の前には月読命の肩と背中がある。洗剤の匂いが、ほんの少しした。自分の部屋で洗った服の匂いのはずなのに、自分の服と同じ匂いのはずなのに、月読命の近さを感じると妙に意識してしまう。
あかりの顔が、じわりと熱くなる。
——手、汗ばんでないかな。
そう思った瞬間、重ねた自分の手のひらが急に気になった。触れているのは、手だけのはずだった。なのに、意識し出した途端、自分の体臭まで気になり出す。
——公園で汗かいたし。ていうか、ツクは本当にずるい。あれだけ走ったのに、汗かかないなんて。
「……分かった?」
「分かった」
「じゃ、じゃあ切って」
「どうかしたのか? 声が高くなった」
「高くなってない」
月読命は、言われた通りに包丁を下ろした。
ざく。
キャベツが切れる。
ざく、ざく、ざく。
切れたキャベツは、見事に幅が揃っていた。
「……う、うまい......」
「食するものを粗末には扱わぬ」
その言葉だけ、少し声音が違った。あかりは、思わず月読命の横顔を見る。
「急に真面目だね」
「食物は、軽く扱うものではない」
「……何か、あったの?」
月読命の手が、一瞬だけ止まった。
「古い話だ」
それだけだった。
あかりは、それ以上聞かなかった。ただ、月読命の知らない部分が、少しだけ知れた気がした。
「次、フライパン出すね」
あかりは気持ちを切り替えて、上の棚に手を伸ばした。
——届かない......けど、もう少し。
あかりは、つま先立ちになって腕をいっぱいに伸ばすと、指先が棚の取っ手にかかる。
「それか」
あかりのすぐ後ろから低い声がかかった瞬間、背中に月読命の気配が重なる。
あかりの背中に、月読命の身体がピッタリと触れていた。そして、逃げ場がない。
——えっ?うそ?うしろから......そんないきなり......。
月読命の腕が、あかりの視界の端をすっと横切り、その手が何でもないかのようにフライパンを下ろす。
「これでよいか」
「……ありがとう。......でも、近いっていうか......」
「近づかねば届かぬ」
「正論で殴らないで!」
「殴ってはおらぬ」
「そういうところ!!」
あかりはフライパンを受け取り、乱暴にコンロに置いた。
月読命は、少しだけあかりを見ていた。
「顔が赤い」
「暑いの!」
「先ほども暑いと言っていたな」
「そう! まだ昼間は暑いの!」
「そうか」
月読命は納得したようだったが、その目は、ほんの少しだけあかりの本質を見ているようでもあった。
*
フライパンに油を引いて、火をつける。しばらくして、豚肉を入れる。
じゅう、と音がした。
月読命が、真剣な顔でフライパンを見る。
「火が、器の下に封じられている」
「ガスコンロね」
「人は、火を従えたのか」
「原始人でも火は従えてたと思うけどね」
キャベツを入れる。そして、麺を入れて、ほぐす。
月読命は、いちいち真剣だった。豚肉が焼ける匂いにも、キャベツがしんなりしていく様子にも、麺が湯気をまとって広がっていく様子にも、全てあかりに質問を投げかけた。
「次、ソース」
あかりがソースのフタを開けて、フライパンの中に回しかけると、濃い香りが一気に立ち上った。
「……香が強い」
「ソースだからね」
「甘く、辛く、酸く、濃い」
「始まったね。 神の食レポ」
あかりは菜箸で麺を少しつまみ、味見した。
「うーん、ちょっと薄いかな」
そう言ってソースを足そうとした瞬間、月読命がその菜箸を手に取った。
「待って!」
あかりは思わず叫んだ。
「何だ」
「それ、私が使ったやつ!」
「味を見るためのものではないのか」
「そうだけど! そうなんだけど!」
「箸にも禁忌があるのか」
「禁忌っていうほどじゃないけど、ないわけでもない!」
あかりが説明に詰まっている間に、月読命はその菜箸で焼きそばを少し取った。
「あっ」
止める間もなく、月読命は口に入れてしまった。その瞬間、あかりの頭の中で、何かが派手に転がった。
——同じ菜箸。私が口つけたやつ。......それを、ツクが。
「……濃い」
「な、な、何が?......って、焼きそばの味ね!?」
「だが、悪くない」
「そ、そう……」
「なぜ顔をそらす」
「そらしてない」
「そらしている」
「見ないで!」
料理とは、こんなに心臓に悪いものだっただろうか。
あかりは、焼きそばを皿に盛りつけた。
*
六畳の部屋の小さなちゃぶ台に、焼きそばが二皿並んだ。
味噌汁は、作る気力がなかったから、豆腐と味噌は明日の自分に託すことにした。
「いただきます」
「いただく」
月読命は、焼きそばを一口食べた。
真顔である。
あかりは、緊張しながら見守った。
「どう?」
「人の世は」
「うん」
「味が濃い」
「でしょうね」
「だが、温かい」
月読命は、もう一度焼きそばを見た。
「手をかけた食物は、よいものだな」
それは、ただの焼きそばだった。疲れた大学生が、ちゃんとした料理をあきらめた末に選んだ、手間のかからない焼きそばだった。けれど、月読命はそれを、ひどく丁寧に食べていた。
コンビニ弁当も、惣菜パンも便利だった。でも、こうして二人で作って、同じテーブルで食べると、なんだか同棲生活が形になってきたような気がした。
あかりは、箸を持ったまま、少しの間だけ月読命を見ていた。
「……まあ、焼きそばだけどね」
「焼く蕎麦ではないのだろう」
「そこ覚えてたんだ」
「名の揺らぎは、気になる」
「ツク、たぶんスーパーって名前よりも、焼きそばって名前に強く引っかかってるよね」
月読命は、「確かに......」と言った後、少し考えるような表情を浮かべて黙った。
「......あかり、......明日も、すぅぱぁへ行かぬか」
「行かない」
「なぜだ」
「予算というものがあるからです」
「よさん」
「神様が覚えなきゃいけない、一番現実的な概念だよ」
月読命は、焼きそばを見下ろした。
「人の世は、食物も多く、決まりも多い」
「そうだよ。 箸にも境界があるしね」
「そんな境界があるとは、聴いた事がない」
「あるの!!」
月読命が、あかりを見ると、頬が赤くなっていることに気づいた。あかりの表情を目で追うことが、いつの間にか増えていたから気づけたが、それをどう扱えばいいのかまでは、月読命には分からなかった。だから、何も言わずに焼きそばをもう一口食べた。
ソースの香りが、六畳の部屋に充満している。
窓の外では、秋の虫が鳴きはじめていて、だんだんと日が落ちるのが早くなってきた。
九月の空は、鮮やかなグラデーションを描いていた。
小さなちゃぶ台に並んだ手抜きの焼きそばは、思っていたよりも、ちゃんと夕食の顔をしていた。




